紅雨-架橋戦記-   作:法月 杏

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百二話・惜春の長夜[4]

 

 真っ白な空間。そこに、見覚えのある男が一人。

 ほんの少し前まで見ていた景色とは全く違うその光景に、里冉は思わず目を瞬かせる。

 

「来たか」

 

 眩さの中、窓の向こうの夜のような静けさを湛えて佇む長身の男。暗い青の髪が揺れて、男が薄く口を開く。

 そうして里冉の耳に届くのは、覚えのある、静かで芯のある深い声。

 

「今のお前に必要なものだ」

 

 月のような黄金の瞳が里冉を真っ直ぐに捉えた、その刹那。

 

「約束は果たした。あとはお前が自分で選び取れ────」

 

 溢れ出す光の中、その声だけが聞こえて────────次に瞼を開けた時にはもう男の姿はなかった。

 

 代わりに眼前にあるのは、本来見ていた景色。狐面が印象的な青髪の子供が、黒髪の少年を後ろ手に拘束し、里冉がその手の刃で彼の首を落とすのを待つ光景。

 何もかもを理解する。黒髪の少年に視線が吸い込まれる。里冉は少しだけ安堵して、でもまだ何一つ終わっていないことを自身に言い聞かせて、それから。

 

「ごめんね、らっくん」

 

 刀を振り下ろした。

 

 

 

   * * *

 

 

 

 聞こえた響きに思わず目を見張った俺の首は、次の瞬間もなぜかまだ繋がっていて。

 そのことに気が付いて喉から漏れかける動揺の声。が、俺が声をあげるより先に、すぐ後ろから慌てふためく声が聞こえて、そちらに意識が吸い寄せられる。

 

「……っ、何するんですか……!」

 

 狐面の中から聞こえる声のくぐもり具合が、その一言の間に大きく変動している。それに加えて俺を拘束している手の片方が気が付けば離れていて、もしや、と思う。

 

「もう大丈夫だよ、らっくん。怖い思いさせてごめん」

 

 つい幻聴かと思うくらい強く待ち望んでいた、覚えのある声色とその柔らかい表情。驚きのせいか少し遅れて言葉の意味を理解して、張り詰めていた気持ちが一気に緩んで、また目が潤んだのがわかった。

 

「らっくんから手を離してくれるかな、哀。次は面じゃ済まないよ」

「…………ッ、」

 

 ついさっきまで俺に向けていた殺意が、今度は俺の背後へと向けて放たれていた。気が付けば外の雨が止んでいて、その刀身が月光を閃かせている。里冉の殺意に当てられて俺から手を離した哀さんの方へと少しだけ振り返ると、やはりその手は自身の狐面を押さえていて、面には途中で切れた紐が垂れ下がっていた。

 

「どうして記憶が……」

「こんなご都合展開ある? って感じだけど、あるんだよねぇ、俺だから」

 

 刀を鞘に納めながら、里冉はにっこりと笑う。少し胡散臭くて何となく腹が立つほどに綺麗ないつもの微笑みに、こんなに安心する日がくるなんて全く想像もしていなかった。

 

「戻って早々絶好調じゃん」

「あはは、ご迷惑おかけしました、弟様」

 

 本っ当にね。と心底迷惑そうに返す樹も、どこか安堵しているのが伝わってくる。

 すっかりいつもの調子の里冉や樹。そして見るからに嬉しさと安堵をその顔に滲ませた奈茅姉。一方で俺はというとまだ声も出せていないし拘束されていた場から動けてもいないのだが、いつの間にか里冉に抱き寄せられていて。驚きながらその顔を見上げると、眉を下げて優しく笑う里冉が「ごめんね」とまた謝ってくる。俺はやっぱりまだ言葉が出なくて、返事の代わりに手を回してその身体をそっと抱き締めた。

 

「……何故じゃ。何故……」

 

 不意に耳に届いたのは、怒りに震えているのが嫌でも伝わってくる十様の声。緩んでいた気が一気に引き締まるどころか、背筋が凍りそうになる。そうだ。こんな展開、十様が納得するわけがない。

 恐る恐る里冉から手を離す。里冉は名残惜しそうに一度俺の髪に触れたあと、小さく「樹の側で待ってて」と俺の肩に手を置いて、樹が立つ方へと向かせる。言われるがままにその場から動いて、樹の隣へと歩を進める。後ろから、十様と里冉の会話が聞こえてくる。

 

「取り戻されたのならまた奪えばいい。さあ里冉、こっちに」

「それはもう効きません」

「何じゃと?」

 

 里冉のはっきりとした口調の答えに、十様が声のトーンを落とした。

 

「お言葉ですが当主、」

 

 自身の胸に手を当てた里冉が、言葉を続ける。

 

「まさか俺の事を一度かかった術に再びかかるような忍びに育てた覚えがおありで?」

 

 十様が眉根を寄せる。

 

「生意気な口を」

「貴方の血を濃く継いでいるのですから、それも当然でしょう」

「おのれ……っ」

 

 挑発するような里冉の言葉に俺は一瞬肝を冷やす。しかしすぐに「当主」と十様に向き直る里冉の声は柔らかく、まるで幼子に言い聞かせるかのような響きを持っていた。

 

「こんなやり方をしても俺は縛れません」

 

 里冉はそう語りながら十様へと近づいて、その足元に跪く。

 

「それに当主は誤解しておられます。俺は貴方が縛らずとも、必ず貴方のお側へと生きて戻る。そう育てたのも他でもない十様、貴方です」

 

 柔らかく、しかし凛とした表情で、主人の目を見つめる里冉。

 

「心配せずとも俺は貴方の忍びです。誓ってお一人にすることなどありません。この身、全ては主君のために」

 

 右手を胸に当て、目を伏せた里冉。その姿は、息を呑むほど美しかった。

 この主従の間には誰も介入できない。見ている誰もがそう感じるであろう目の前の光景に、烏滸がましくも少し、嫉妬を覚える。

 

「嘘じゃな」

「嘘ではございません」

「ならその小僧のことなど忘れてしまっても良いじゃろう」

「それは違います」

「何故」

 

 跪いたまま、里冉は答える。

 

「彼は立花の後継です。優秀な忍びとして在るためには、忍界の状況把握は必須。伊賀にとって最重要とも言える存在をずっと見落としたままでは、俺は三流とすら呼べなくなってしまう。違いますか?」

 

 十様は何も言わず、じっと里冉へと視線を落としている。里冉はその視線に自身の視線を絡めて、どこか愛おしそうに微笑んだ。

 

「それに、彼がいてこその今の俺です。貴方の立花へ抱く感情がわかるなどと出過ぎたことは申しませんが、俺も法雨の忍びです。……ここまで言って、わからない貴方ではないでしょう」

 

 十様が目を伏せる。そして少しの沈黙の後、口を開く。

 

「……先の言葉、真じゃな?」

「貴方様の忍びを二度も二流扱いなさるおつもりで?」

 

 ふ、と微笑んだ里冉の表情には、確かな信頼が滲んでいる。その表情を見て少し悔しげに顔を歪めた十様は、数秒黙り込んだ後、俺へと視線を投げた。

 

「次はないぞ、小僧」

「……!」

 

 十様はまたすぐに視線を逸らし、大きくため息を吐いた。やれやれ、という感情を隠す気もない様子で「下がって良い。いや下がれ」と言いながら、鉄扇でしっしと追い払うような仕草を見せる。

 

「……此奴は明日の朝、自宅へ帰す」

 

 心底不服そうに視線を俺から真逆の方へと向けた十様は、辛うじて聞こえる程の小さな声でそう言った。

 

 

 

   * * *

 

 

 

 今夜はやけに客人が多かった龍の巣。皆を帰した後、そこはいつもの冷たさを取り戻していた。

 しかし再び灯した行燈に照らされた二人の人影は、互いの体温で凍えることはないようだった。

 

「本当じゃな、里冉……?」

 

 ひどく弱々しい声で里冉に聞くのは、幼い姿の十。

 

「本当に本当なんじゃな……?」

「もちろんです。十様を置いて先に死ぬなんてこと、俺がするわけないでしょう」

 

 里冉はそう答えながら、十を宥めるように優しくその背を撫でた。こんなに幼い姿は随分と久しぶりに見たな、と頭の片隅で考えて、10歳もいかないであろう小さな身体の主人に視線を落とす。自身の膝の上に乗るその姿は本当の子供のようで、気を抜くと本来の姿を忘れてしまいそうだな、などという感想を抱いた。そんな里冉が、少し拗ねたように口を開く。

 

「というか今回その程度の忠誠心だと思われていることがショックだったんですからね、俺」

「すまない……すまなかった……里冉……どこにも行かないでくれ……」

 

 十は里冉の胸に顔を埋め、縋るように小さな手で紫色の着物をぎゅうと握る。里冉は今にも泣き出しそうな目の前の子供に、仕方ないな、とばかりに目を細めた。

 

「心配なさらずとも貴方が求める限り、ここに」

 

 優しい声と腕で十の幼い体躯を抱き締めながら、里冉は笑う。

 その瞳に映る感情は、とても穏やかなどと形容できるものではなかった。

 

 

 

   * * *

 

 

 

 長い夜が明けた。

 すぐに寮へと帰されたおかげで里冉の記憶が戻った原因がなんだったかは結局のところまだよくわからないままだが、一先ず俺が目指していた一旦のハッピーエンドには辿り着けたようだった。哀さんに背後を取られた時は本当にどうなることかと思ったが、結局また里冉に助けられて、今こうして息ができている。

 やっぱり俺じゃまだアイツには敵わない。改めてそう強く思うと同時に、それでも今回ばかりは俺が、俺達が掴み取った結末だとちゃんと思えていた。樹が俺に異常を知らせてくれたところから始まったこの騒動。樹だけじゃなく、いろんな人の助けがあってこそ、ここまでこれた。その実感が、きちんと俺の中にある。それをこんなにも愛おしいと思えるのは、多分、里冉が絡んでいるからで。

 

 早くアイツとゆっくり話がしたい。その思いが強すぎてか、俺は朝日が昇る少し前には起きていつも通り支度をし、樹がまだ眠っているであろう殺尾邸の前で静かにその時を待っていた。

 伊賀に帰るのは明日の朝。鈴が急にいなくなるのも不自然だからと、十様に少しだけ猶予をもらった。だから俺がこうして堂々と法雨にいられるのは、あと一日だけ。この一日でできるだけ跡を濁さないように立ち去る準備をする。でも、その前に。

 

 雨に濡れた辺りが朝日を浴びてきらきらと光っている。なんだかいつもより綺麗に見える景色の中にふと増えたのは、見慣れたシルエット。俺の姿、といっても見目は鈴なのだが────を見て一瞬嬉しそうな顔をしたあと、少し後ろめたそうな様子でその足を止める。俺はそれを見た瞬間迷わず駆け出し、問答無用でその胸に飛び込んだ。

 

「おかえり……っ!」

 

 驚いた顔をしながらもしっかりと俺を抱きとめて、それから「……ただいま」と眉を下げるのは、俺が待ち侘びていたいつもの里冉。柔らかな空気と愛おしそうに俺を見つめるその表情で、記憶が戻ったことを再確認して、俺はまた目の縁が濡れるのを感じた。というか自覚した時にはもうぼろぼろと涙が溢れていて、ここ数日で涙腺ぶっ壊れたかなあ、なんて思う。

 

「な、泣かないでらっくん」

「うるせー、お前のせいだぁぁ」

 

 側から見ればただの使用人が次期当主に抱きついて泣いている図であることなどそっちのけで、鈴の声を作ることすら忘れ、俺は里冉の胸で泣きじゃくる。里冉は少し困ったように「う、うん……そうだね……」と言った後、ぎゅっと俺を抱き締めた。その温もりでもっといろんな感情が溢れてきて、上手く言葉にできず、それらはしばらく涙となって溢れ続けた。

 そうして一頻り泣いて少し落ち着いた頃、俺はやっとまともに話せるようになる。今更すぎるが情けない顔を見せたくないという意地と、里冉が俺に向ける俺だとちゃんと認識しているが故の眼差しをちゃんと見たいという欲の戦いがしばらく拮抗して、最終的にそもそも抱きついている絵面がまずいということをやっと思い出して少しだけ距離を取ることにした。誰かに目撃されてなきゃいいんだけど。

 

「記憶……本当に戻ったんだな」

「そう、みたい。や、ほんと、ご心配おかけしました……」

 

 気まずそうに言う里冉。

 

「何がきっかけで戻ったんだ……?」

「俺もちょっとよくわかんなくて……」

「あ、そうなんだ……」

 

 俺を殺そうとした瞬間なんだよな? と聞くと、そうだね。と返ってくる。

 

「だから多分それがトリガーだったんだと思うけど……なんにせよ、らっくんがここまで来てくれたおかげだよ。じゃなきゃ多分俺は今も、その先も、あの部屋でずっと空っぽなまま過ごしてたと思う」

 

 そう言って少し目を伏せる里冉の表情はあの宴会の夜に見た里冉の面影があり、それと同時に今はあの時とは違うのだという実感をこちらに与えてくる。

 

「諦めないで向き合ってくれて、君を知る俺に手を伸ばし続けてくれて、本当にありがとう、らっくん」

「うん」

 

 真正面から礼を言われると、照れる。でもやっぱりそれ以上に嬉しくて、噛み締めるようにもう一度「うん」と返すと、自分の声がまた震えていることに気がつく。やっぱ馬鹿になってんな涙腺、と少しだけ笑って、それから「俺の方こそ、ちゃんと戻ってきてくれて、ありがと」とやっと少しだけ言葉にすることができた。

 

「今日は引き上げ準備……だよね?」

「ああ、そうだな」

「らっくん今日が何日か覚えてる?」

「……? 四日……」

 

 答えてから気づく。というか思い出す。あ、と声をあげる俺に、里冉がにっこりと笑う。

 

「日付変わる前に、ていうか夜空いたら俺の部屋……こっそり来れる?」

「……!」

 

 人目を盗んで樹の部屋に向かい慣れた今なら、同じ殺尾邸にある里冉の部屋にもこっそり向かえる。最初から最後まで役に立ちまくりだな、とルートを教えてくれた先輩達に感謝して、俺はこくこくと頷く。

 

「あああと、できれば鈴ちゃんじゃなくてらっくんの姿で来て欲しいんだけど……だめ?」

「なんで」

「鈴ちゃんじゃなくてらっくんがいいから」

「全然答えになってねえけど……まあ、わかった」

 

 だってこうとしか言いようがなくて……と少し気まずそうに視線を泳がせる里冉。その鈴じゃだめな理由を聞いたんだけどな、と思いつつ、まいっか。と甘い俺。

 

「それじゃ、待ってるから」

「ん」

「約束」

「……信用できね~」

 

 わざと顔を顰めて見せると、里冉は申し訳なさそうな笑顔を浮かべて「反省してるから~……」と情けない声を出した。俺は「ごめんごめん、冗談」と笑って、小指を立てて里冉の方へと腕を伸ばす。

 

「約束な」

「うん」

 

 里冉は嬉しそうに微笑みながら、俺の小指に自分の小指を絡めた。

 

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