紅雨-架橋戦記-   作:法月 杏

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百四話・残響

 

 時間とは残酷なもので、気がつけば俺が法雨を去らなければならない朝が来ていた。

 俺を待つのは、雪也さんが運転席に座る送迎車。中にははる兄と里冉が既に乗っている。俺は見送りに来てくれた樹組の方へと向き直り、お世話になりました! と頭を下げた。

 

「こちらこそ~! 里冉様の記憶が戻って本っ当によかったっす!」

 

 冬倭兄がそう言って朗らかに笑う。その横で、櫻夜さんが冗談か本気かわからないトーンで「またおいでよ」などと言うので「余程のことがない限り多分無理ですけど、はい、またいつか!」と笑いながら返した。

 

「あ、そうだ樹」

 

 先程から全然喋らない樹に話を振ると、少し不機嫌そうに「何」と返ってきた。俺は構わず質問を投げる。

 

「結局樹が里冉が記憶奪われるとこ目撃したのってさあ、マジでたまたまだったのか?」

「さあ、どうだろ」

「え、何その含みのある返し」

「……言うなって言われてるからね」

「誰に!? 何を!?」

「秘密」

 

 ええ~、と残念がる俺だったが、樹は表情を少しも変えないまま念を押すようにもう一度「秘密」と言った。気になるじゃん。

 ……仕方ない、いい加減ツッコんで欲しそうだから触れてやるか。

 

「樹さん今日なんか不機嫌じゃないっすか?」

「別に」

 

 いやいや。別に、なわけないでしょうよ。それとも「別に、そうですけど」の「別に」か? などと思っていると、樹は俺をチラリと見て、また視線を外す。それからやっぱり少し不機嫌そうに、口を開いた。

 

「……兄貴から聞いたんだけど今日誕生日なんだって?」

「あ、そう。実はそうなんだよ」

「あのさあ、なんでもっと早く言わないわけ」

 

 え、誕生日なんすか? おめでとうございます! と護衛の二人が祝ってくれる中、俺は「え、もしかして不機嫌の理由それ?」と思う。だとしたらうちの相棒、ちょっと可愛すぎるんじゃないか? 潜入中あんなにずっとかっこよかったのに、ここにきて?

 思わずにやけそうになる顔を必死に制しながら、俺は「ごめんごめん」と一先ず謝る。

 

「てか誕生日どころじゃなかっただろ、俺ら! 里冉に言われるまで忘れてたんだよ俺自身!」

「ああそう」

 

 わかりやすく適当な返事に、拗ね具合を垣間見てつい笑ってしまう。ははは、ふふ、となかなか笑いが止まらない俺に「なにさ」と怪訝な顔が向けられる。いや、なんでも、と返してからもう一度「悪かったって相棒」と顔の前で手を合わせて謝った。

 

「……まあなんにせよおめでと」

「へへ、さんきゅ」

 

 あてか樹の誕生日いつ!? と聞くと「教えない」と冷たく返されてしまった。ったくこの兄弟は……! いいもん里冉から聞くもん! え、流石に知ってる……よな?

 思わず車内の里冉へと目をやると、眠そうにシートに凭れ掛かっている姿が窓から見えた。

 ……そろそろ行くか。

 

「そんじゃ、またな」

「ん、気をつけて」

 

 樹と護衛組に見送られながら俺は車の方へと駆け寄り、乗り込んだ。

 俺の席として空けられた、里冉の隣へと。

 

 

 

   * * *

 

 

 

 誰もがその部屋を見つけることはない。万が一見つけても、気に留めることはない。

 法雨の最奥にある、その場所へ。

 

「失礼致します、■■■様」

 

 やってきたのは、使用人の男。この男ただ一人しか、この部屋の存在を、そしてこの部屋の主人の存在を知ることはない。絶対にやってくることのない、あとの一人を除けば。

 

「彼は無事、帰すことに成功しました」

 

 普段の明るい様子とは一変した、静かな口調で彼は主人へと報告を行う。

 主人は少しだけ彼の方へと振り向きながら、独特の深い響きのある声で「そのようですね」と短く返した。それからまた机に向かい、独り言のようにぽつりと呟く。

 

「あの男は本当に、手間をかけさせてくれますね」

 

 全くだ。と使用人の男は頭の中でその言葉に同調する。彼の脳裏に浮かぶのは、当主、十の顔。

 

「……本当に、よろしかったのですか」

 

 この結末は。そう続くはずの言葉に、主人はまた少しだけ使用人の方を向く。

 

「忘れたまま生きる者の末路を、我々はよく知っているはずですよ」

 

 言葉を飲み込むのには十分すぎるその答え。

 使用人の男は静かに頷いて、また任に戻るのだった。

 

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