ホムンクルスとして目覚めた俺が、主人の策略により曇らせ包囲網を勝手に作られる話 作:あろみんと
フィーネとリュミエールは並んで廊下を歩いていた。発表会場の奥にある関係者用の控え室、そのさらに向こうにある部屋が、彼女の言う「マスター」の部屋らしい。
廊下にはまだ多少の人通りがあったが、リュミエールは気にする様子もなく、軽い足取りで進んでいく。
フィーネは、ふと気になったことを口にした。
「ねえ、リュミエールさんの言ってた“マスター”って、どんな人なんですか?」
問いかけに、リュミエールはぱっと顔を上げて、嬉しそうに微笑んだ。
「マスターは、私のお父さんです! すごく優しくて、いつも私のことを気にかけてくれて……とっても良い人なんですよ」
その言葉には、少しの迷いもなかった。まっすぐで、どこか盲目的とも言えるほどに信じ切っている様子だった。
フィーネはその表情に少し驚いたものの、特に違和感は抱かなかった。ああ、この子は本当に大切にされてきたんだな、と感じた。
「そっか……」
短く答えたあと、リュミエールは逆に問い返してきた。
「フィーネさんの“マスター”は、どんな方なんですか?」
その問いに、フィーネは一瞬言葉に詰まった。
(マスター、って……なんだ?)
あの老人、エトワール・カスティエルのことをそう呼んだことはない。助手として扱われてはいるが、家族という感じでもないし、かといって全く他人でもない。なんとも言い表しがたい関係だった。
「……うーん、私のほうは……いつも無責任で、知らないうちにどこか行っちゃって。でも、ちゃんと面倒は見てくれるし……なんというか、よくわからない人」
自分でもその言葉に苦笑が漏れた。説明しようとしても、しっくりくる表現が見つからない。
「へえ……フィーネさんのお父さん、ちょっと変わってるんですね」
リュミエールがにこにこと言った言葉に、フィーネは思わず吹き出しそうになった。
「いや、お父さんではないですけど……」
そう言って、苦笑いを浮かべた。
リュミエールは少しだけ目を丸くして、あまり理解できていない表情をする。
「え? マスターって、お父さんのことじゃないんですか?」
リュミエールの無邪気な問いに、フィーネは歩きながら少しだけ口を開いたまま固まった。
「……いえ、必ずしもそうってわけじゃないと思いますよ?」
少し戸惑いながら答える。リュミエールの反応があまりに当然のようだったので、逆にフィーネの方が不安になる。
「マスターって、たとえば……研究の師匠とか、職場の上司とか。そういう、指導してくれる人のことを言ったりもしますし。別に血縁って決まりはないはずですが」
「え、でも、マスターって、自分に一番近い人じゃないんですか? 育ててくれて、大事にしてくれて、教えてくれる人で……」
まっすぐな視線が向けられる。まるで「それ以外に何があるの?」とでも言いたげだった。
「……うーん、そういう場合もあるけど。全部が全部、そうってわけじゃないと思います」
「じゃあ、フィーネさんのマスターは何なんですか? お父さんじゃないなら……何?」
「え、だから、それは……」
言葉に詰まりながら、フィーネは思わず視線を逸らす。何と説明すればいいのか、本当にわからなかった。
「家族ではないですね。でも、お世話にはなってる……?」
「じゃあ、先生? 先生なの?」
「……それも、なんか違うような……」
「でも、師匠? それとも……ただの同居人?」
次々に飛んでくる質問に、フィーネはとうとう言葉をなくしてしまう。
なんなんだこの空気――。
奇妙な沈黙が、二人の間に漂い始めた。廊下を歩く音だけが響く中、フィーネはふと違和感に気づく。
(あれ……?)
さっきまでちらほらいたはずの人の姿が、急に見えなくなっていた。学会の関係者や警備兵たち――発表会場では多く見かけたその人影が、今は見当たらない。
それに、この廊下、なんとなく無駄に長い。静かすぎる。足音が、やけに響く。
「……あの」
フィーネは、少し声を潜めて言った。
「道、合ってますか……? 私たち、変なところに行ってませんか?」
すると、リュミエールは振り返り、迷いのない笑顔で答えた。
「合ってますよ! もうすぐですから、安心してくださいね」
その笑顔は純粋で、無邪気で――どこか、フィーネの胸に引っかかる何かを残す。
リュミエールはまた前を向いて歩き始めた。フィーネもつられるように足を動かすが、その笑顔がやけに無防備に見えて、どこか落ち着かない。
やがて、リュミエールがふと振り返って、軽く首を傾げた。
「……さっきの話なんですけど」
「え?」
「マスターのこと。なんだか、フィーネさんの説明って……少しだけ、さみしそうに聞こえました」
その言葉に、フィーネははっとする。
「そ、そんなことないですよ。……たぶん」
自分でも少し情けない言い方だと思ったが、それ以上強く否定する気にもなれなかった。
「でも、きっとフィーネさんのマスターも、ちゃんと見てくれてるんだと思います。私のマスターみたいに、全部を言葉にはしないだけで。……そういうのって、ありますよね?」
そう言って見せた微笑みに、フィーネはほんのわずかに安堵を覚えた。
……けれど、その安堵はすぐに、言いようのない違和感に塗り替えられる。
「それと、やっぱり私にはちょっとよく分からないです」
リュミエールはふわりとした口調のまま、さらりと続けた。
「自分のお父さんをマスターと呼ばないホムンクルスなんて、変な感じだなって」
――え?
瞬間、時間が凍ったような感覚に陥った。
全身の毛穴が開くような、冷たい衝撃。胸の奥を誰かに直に掴まれたような、不快で、重い感覚。フィーネの足が止まり、呼吸が浅くなる。
(今、なんて……?)
ホムンクルス――?
今の言葉は、聞き間違いなんかじゃない。はっきりと耳に届いた。それは、自分が最も隠さなければならない秘密のはずで、知られるはずのない情報。
なのに、目の前の少女は、まるで天気の話でもするように、何の感情も込めずに口にした。
フィーネの脳裏に警鐘が鳴る。咄嗟に笑おうとするが、顔の筋肉がこわばって動かない。
「えっ……それ……いま……?」
声にならない言葉が口から漏れ出す。
すると、リュミエールは歩みを止め、首を傾げて――不思議そうに、けれどどこか当然のように問いかけてきた。
「え? そうですよね? フィーネさんって、ホムンクルスじゃ……」
そこまで言いかけて、彼女はふっと言葉を切る。
「……あれ、違いました?」
まるで、“勘違いならごめんなさい”とでも言いたげな、その素っ頓狂な無垢さに、フィーネの喉が凍りつくような冷たさを覚えた。