ホムンクルスとして目覚めた俺が、主人の策略により曇らせ包囲網を勝手に作られる話 作:あろみんと
黒衣の男は、すでに戦う構えを解いていた。だがその瞳には、決して油断の色などなかった。ただ、静かに――冷たく状況を見つめている。
やがて、ぽつりと、誰に向けるでもなく言葉を落とした。
「……二人になったか。面倒だな」
それは、心底厄介事に巻き込まれたとでも言いたげな独り言だった。
「このままここで取り返されたら、元も子もない。この収穫を無駄にするつもりはないからな……」
その視線が、床にうずくまるフィーネへと落ちる。
「リュミエール」
呼ばれた少女は、わずかに体を起こし、苦しげな息を吐きながら応じた。
「……はい、マスター」
「フィーネを運べ、腕の回収も忘れるな。できるだけ静かに離脱しろ。ここは任せろ」
リュミエールは一瞬、ちらとアイリとレオフォルトを見やった。視線は揺れていたが、すぐに従順な返事が返る。
「……わかりました」
ふらつきながら立ち上がると、彼女はフィーネの傍らに膝をつき、そっとその体を抱き起こす。まだフィーネはぐったりとしていて、その顔には気力があまりない。
その様子を見て、アイリがレオフォルトの腕を強く握った。
「……どうするの? あんなふうに連れて行かれたら……!」
怒りと焦りが混ざった声が、喉の奥から漏れる。
レオフォルトは眉をひそめながら、男とリュミエールの動きを注視していた。
「……ああされたら、強行突破は難しい。あの男の実力は未知数だ。君もさっき見た通り――あれだけの魔力を使った直後の君じゃ、先程のような動きは期待できない」
「でも!」
「わかってる」
レオフォルトの声は、あくまで落ち着いていた。だがその瞳には鋭い光が宿っている。
「――どうにかしてリュミエールに辿り着くんだ。やつの狙いはフィーネの回収だ。なら、あの子を連れ去られる前に、こっちが動くしかない」
レオフォルトの声音には、明確な決意が込められていた。
アイリは息を呑み、すぐに頷いた。
「……そうだよね。あのまま連れて行かれたら、きっと次はもう会えない」
拳を握る。悔しさと焦りが胸を焼いていた。でも、今のアイリはただ感情で動いているわけではなかった。
「魔法はもうあんまりだけど……動くことはできる。剣も握れる。だから、やるべきことは一つだけ」
レオフォルトがちらりと彼女を見やる。その顔に浮かんだのは、わずかな微笑と、戦士としての理解だった。
「……君がいるなら、やれるかもしれない」
「じゃあ、作戦は?」
「僕が正面から牽制する。その間に、君が回り込んでフィーネを奪い返す。あの黒衣の男がリュミエールを信用してるなら、守りは薄いはずだ。数秒だけでいい、隙を作れればそれで勝てる」
アイリは頷く。歯を食いしばり、言葉を絞り出した。
「もう二度と、あの子にあんな顔させないために……やるよ、レオフォルト」
ふたりの影が、再び戦場の中心へと向かって進んでいく。
空気が、張り詰める。
レオフォルトが一歩前へ出た瞬間、腰元の魔導器に軽く手を添える。詠唱はない。ただ、指先に宿った魔力が周囲の空気を震わせた。
「――光よ」
短く呟いた刹那、宙に浮かぶ無数の光球が、周囲を白く染めた。淡く脈打つ光が何層にも広がり、影の輪郭を削ぎ落とす。
「君の術は、影を操るものだろう。だったら、こういうのは苦手なんじゃないかな?」
レオフォルトの声音は穏やかだったが、内には鋭さを帯びていた。
対する男は無言のまま、眉をわずかにひそめる。
光が伸びる。床、壁、天井――すべてが淡い光に包まれ、闇は逃げ場をなくす。影が生まれにくくなるたびに、男の纏っていた気配が僅かに揺らいだ。
アイリはその一瞬を見逃さなかった。
(今だ!)
足に力を込める。蹴り出すと同時に、風が彼女の背を押すように吹き抜ける。
レオフォルトも同時に動いた。抜き放たれた剣が、男との間に火花を散らす。
「っ……!」
金属の音とともに、衝撃が走る。男が影を巻き上げるように防御を試みるが、光が差し込んだ今、その質は明らかに鈍っていた。
レオフォルトが刃を滑らせながら言う。
「見たところ、かなり魔力を使っているようだな。おまけに今は光の中だ。全力は出せない……違うか?」
男は何も答えなかった。ただ、その瞳の奥にわずかな焦りがにじむ。
アイリは、今度こそ全力で走っていた。視界の端で影が蠢く。男が放った迎撃の術式――黒い帯のような影が、地を這うようにして迫ってくる。
(来る……!)
すかさず足を交差させて飛び、身を低くしてかわす。直後、左腕をかすめて鈍い痛みが走ったが、構っている暇はない。
再び影が追ってくる。しかし、それは先ほどの鋭さに欠けていた。
(やっぱり、弱ってる)
アイリは確信する。この一瞬を逃せば、もう次はない。
床を蹴る。光の粒が舞い、影を押し返していく。
やがて――見えた。
リュミエールの背中。ぐったりと抱えられている少女。揺れる銀髪。白い頬。
フィーネだ。
「――!」
喉が震える。足に、さらに力がこもった。
あともう少しで、届く。あと数歩で、リュミエールに届く――そう思った瞬間だった。
彼女の腕の中から、何かがふっと滑り落ちた。
――フィーネの右腕。
白い包帯の巻かれたそれは、リュミエールの懐からこぼれ落ちるようにして、床に落ち、さらに転がってアイリの進行方向とは逆――少し後方へと弾かれていった。
アイリは立ち止まりはしなかった。そのまま走り続けた。けれど、胸の奥がきつく締め付けられる。
あの腕が、フィーネの一部が――地面の上に転がっている。
喉の奥で、謝罪の言葉が震える。悲しみが込み上げる。フィーネが失ったものが、確かに目の前にあって、それなのに、自分には拾ってやることすらできない。
その刹那、リュミエールの動きが変わった。
抱えていたフィーネをぐっと左腕に寄せ、足を止める。
(なに……?)
リュミエールは反転するように身体を翻し、アイリを一瞥した。そして――すぐ後ろへ視線を戻す。
「……腕、拾わないと」
息を整えながら、どこか焦りを滲ませた声だった。
「マスターに、言われてました……回収も忘れるなって。全部連れて帰らなきゃ、意味がないんです」
それはまるで、自分に言い聞かせるようだった。戦闘中であることも、目の前に敵がいることすら頭から飛んでいるかのような、奇妙な執着。
アイリの目が細まった。
「……なら、簡単には行かせない」
足を止め、腰を落とす。そのまま剣を振るうように、低く構えを取る。距離は近い。ここからなら――十分、阻める。
リュミエールもまた、フィーネを左腕で抱えたまま、右手に魔力の刃を発生させた。迎え撃つ姿勢を崩さない。
そして――リュミエールの視線が、アイリの背後を見据える。
そこにあるのは、地面を転がったフィーネの右腕。
アイリは瞬時に理解した。今、男が欲しているのはフィーネ本人だけじゃない。すべて――フィーネという人間の完全な回収。
アイリは一歩も退かず、そのまま迎え撃つ姿勢を強めた。
リュミエールは、焦りと義務感を混ぜたような表情で睨み返す。
二人の少女が、言葉なく対峙する。その間に、白い布に包まれた小さな右腕が、じっと黙って転がっていた。