ホムンクルスとして目覚めた俺が、主人の策略により曇らせ包囲網を勝手に作られる話 作:あろみんと
影の幕がゆっくりと閉じていく。
黒衣の男はリュミエールとフィーネを影の中へと引き込みながら、通路の奥へと凄まじい勢いで後退していた。リュミエールは振り返ることなく、ただフィーネをしっかりと抱きしめたまま、男の術に身を任せていく。
アイリは叫んだ。剣を構えて一歩踏み出そうとした。けれど、影の壁が行く手を阻むように渦巻き、視界の中で二人の姿を飲み込んでいく。
「待って、まだ……!」
アイリの声がかすれる。呼吸が乱れ、喉が焼けつく。視界の先、影の中へ消えていくリュミエールとフィーネ――その姿を追いかけて、ひたすら走る。
「返してって言ってるのに……!」
胸が苦しい。足はもつれそうで、それでも止まれない。何かが千切れそうなほど、心が張り詰めていた。
その背後から、風に乗って声が届いた。
「待て、アイリ!」
レオフォルトの声だった。荒んだ空気を切り裂いて、はっきりと届く。
「よすんだ! 君一人でどうにかできる相手じゃない!」
けれど、振り返る余裕なんてなかった。ただ前を、影に呑まれたフィーネを見失わないように――それだけを支えに走っていた。
その声はさらに続く。
「アイリ、君が無茶するのは今に始まったことではないが……!」
レオフォルトは歯噛みしながら、崩れた石畳を蹴った。だが、距離が遠すぎる。彼女に追いつけない。
そこで、レオフォルトの視線の先――空気を切り裂くような魔力の奔流とともに、灰色の外套が宙を裂いて落ちてくる。跳ねた瓦礫を吹き飛ばし、風圧で空気が重くなる。
アイリのすぐ目の前に、重々しく降り立ったのは――
エトワール・カスティエル。
その存在だけで空気が変わった。気配が、重みが、すべてが別次元だった。
足を止めたアイリは、ただ呆然とその背を見上げた。
まるで壁だった。けれど、絶対に崩れない壁だ。恐怖ではなく、信頼と畏怖。あの影を、あの術を、断ち切ってくれると信じられる――そんな確信だけが、胸に広がっていく。
あの人なら、きっと届く。
アイリは、胸の奥に差し込んだその希望にすがるようにして、足を踏み出した。瓦礫を踏み越え、息を切らしながら、それでも転ばないように、よろめく体を抑えて進む。
カスティエルの背中が、だんだんと近づいていく。風を巻き上げるその魔力は、ただそこに立つだけで周囲をねじ伏せていた。けれど、アイリは怯まなかった。
「……おねがい、します……!」
掠れた声で、それでもなんとか言葉を紡ぐ。カスティエルの背に向かって、もう一歩、近づく。
「フィーネが……フィーネが、連れていかれたんです……!」
その肩に縋るように手を伸ばし、涙混じりの声で懇願する。
「お願いします……! あの子を……取り戻して……!」
だが――返事はなかった。
カスティエルは微動だにせず、沈黙のまま立っていた。風に舞う外套の音だけが、虚しく空気を裂く。
「……っ、聞こえてないんですか……!?」
それでも、返事はなかった。まるで、そこに立つのはただの影法師のようだった。
アイリは不安と焦りに駆られながら、その顔を見上げた。
そして、見た。
その唇の端に――一瞬わずかな笑みが浮かんでいた。
「……え?」
瞬間、心が凍った。胸の奥に火がついたような衝動が走る。
「……なんで……笑ってるんですか……?」
思わず、問いが口をついて出た。怒りが、悲しみが、混ざり合い、声が震える。
「フィーネは……あなたの家族なんでしょう? 大事な、あなたの――!」
その言葉は、感情のままに溢れた。
「どうして……どうして、そんな顔ができるの……! 笑えるのっ!?」
握りしめた拳が震える。涙が頬を伝い落ち、足元の石に吸い込まれていく。
だが、カスティエルは眉ひとつ動かさず、ゆるく首を横に振った。
「……すまぬ、笑っておったわけではない」
口調はいつも通り――飄々としていて、どこか他人事のような響きだった。
「ただ……そう見えたなら、私の顔がたるんどるだけじゃろ」
アイリの怒気も、涙も、すべて受け流すような言いぶりだった。
だが、確かに――彼は笑っていた。たしかに一瞬、唇の端が持ち上がっていた。まるで、アイリの必死の訴えを見て、楽しんでいるかのように。
それでも本人は肯定しない。むしろ、涼しい顔で続けた。
「……あやつに逃げに徹されたらの、さすがに私でも追いつけんよ。なにせこの場の手札が少なすぎる」
カスティエルの声には、ほんのわずかに、だが確かに悔しさが滲んでいた。だが、それ以上に諦めが先に立っていた。
「それに、あやつとて、そう易々とフィーネに悪さはせんじゃろ。ああ見えて、案外律儀なとこがある」
その言葉に、アイリは思わず顔を上げ、通路の奥を見た。
だが――そこには、もう誰の姿もなかった。
ただ影だけが揺れている。リュミエールも、フィーネも、影の術師の気配さえも、すでにどこか遠くへと消え去っていた。
指先に力が入らない。呼吸が乱れる。
アイリの胸に残ったのは、どうしようもない悔しさと、押し寄せるような喪失感だった。
「……っ……ぁ……」
こぼれた声は言葉にならなかった。
ぽた、ぽたと落ちる涙が、石畳に暗い染みを作る。
膝が震え、もう立っていられなかった。
――フィーネを守れなかった。
その事実が、アイリの全身から力を奪った。
そのまま、崩れ落ちるようにして、床に膝をついた。
「ごめん……フィーネ……」
涙が止まらなかった。
その隣で、カスティエルは何も言わず、ただ静かに彼女を見下ろしていた。まるでその感情すらも、またひとつの観察の対象であるかのように。
嗚咽の中、アイリはぼんやりと顔を上げた。
瓦礫の隙間――そこに、転がっていた。
フィーネの右腕。
血が滲んだままのそれは、まるでまだ温もりを宿しているかのように見えた。切断面は布に覆われていて見えない。だが、それがフィーネだと思うと生々しく、逆に目を背けられなかった。
(せめて……せめてこれだけでも)
アイリは震える指を伸ばした。立ち上がることもできない。這うようにして、石の上を膝で擦りながら、その断たれた腕に手を伸ばす。
フィーネが傷ついた証。今も生きていると信じられる、唯一の形。
だが――その指先が届く寸前。
すっと、灰色の外套が割り込んできた。
「……っ!?」
思わず顔を上げると、そこにはもうカスティエルの背中があった。
彼の手には、すでにフィーネの右腕があった。まるで、最初から自分のものだったかのように、自然な所作でそれを抱えていた。
「すまんな。これは、私が預かっておく」
淡々とした声だった。ひどく無感情で、まるで失われた『部品』を回収するような口ぶりだった。
「どうして……」
アイリの声は震えていた。
「私じゃ……だめなんですか……?」
その問いに、カスティエルはただ一つだけ、緩く首を傾けて返す。
「理由? ああ、そうじゃの。お前が持っていたら、きっとその場にうずくまって泣くことしかせんじゃろ。私は、次を考えねばならんのじゃよ」
その背中に怒鳴りつけたい衝動が湧いた。
だが、声は出なかった。いや、出せなかった。
あまりにも正しく、あまりにも無慈悲な現実が、目の前で突きつけられていたから。
「……私……」
喉が痛い。涙で顔が濡れているのも、もうどうでもよかった。
「……なにもできなかった……何も守れなかったのに……っ」
声が小さく、弱くなっていく。背筋が丸まり、両腕が床を叩くように崩れ落ちる。
「……どうして……あのとき……!」
言葉が、痛みに変わる。心が裂けそうだった。
カスティエルはもう何も言わない。ただその手に抱えた右腕を、無言で外套の内に収めた。
その動作すらも、アイリの心を削るには十分だった。まるで“人の腕”ではなく、“素材”を扱うようなその仕草が――
どうしようもなく、哀しかった。
ここで一章は完結となります!
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