ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

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記憶の縁をなぞる ―過去編―
1話 はじまり


 

 

 

 

 

 私は願う。

 

 何も残さずに、ただ消えたいと。

 

 

 全ての人の記憶から消えて。

 

 誰にも想われず。

 

 そっと、ひとりで、ただ静かに終われたならって。

 

 超常現象か、はたまた誰かの“個性”か。

 

 なんだって、構わない。

 

 この名前も。

 今までの言動も。

 私が世の中に与えてしまった全て。

 

 影響と呼べるものを世界から消してほしい。

 いつか、誰かが書いた帳簿の一行すら残さずに。

 

 

 存在しなかったものになりたい。

 

 

 最初からなかったものに、なれれば──

 

 わかってる。

 言われなくても、わかってる。

 

 ありえない。無理な話だ。

 

 

 

 ……でも、できることなら──って。

 

 私は、生まれてからずっと願っている。

 

 こびりついた思考はずっと、消えない。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生まれたときから、この世界には音があった。

 

けれど、それは声ではなかった。

 

最初に覚えているのは、空腹でも痛みでもなく、

どこかの壁の向こうで鳴る、無関係な生活音だった。

 

食器のぶつかる音。

 

何かを擦る音。

 

笑うような、怒鳴るような、関係のない他人の声。

 

ユウのそばには、“言葉”がなかった。

 

ユウは生まれてからすぐに、

音と、言葉の違いと意味を理解していた。

 

 

”前世”と呼ぶには曖昧だけれど、夢のように暖かな記憶。

 

寒い夜に毛布をかけて、寄り添ってくれる誰かがいた。

孤独を感じたときにそばにいる誰かや、悲しみに暮れる私の代わりに怒ってくれる誰か。

 

それは記憶の中で確かに存在した。

 

だけど、ユウの母はユウを見ない。

声をかけることも、思いを寄せることもなかった。

そして、父も同じだった。

 

二人はユウを見なかったし、抱かなかった。

 

生きるために与えられるものも、なかった。

 

空腹を泣いても、誰も来なかった。

 

 

だから、泣くことをやめた。

喉にこびりついた声の出し方は、次第にわからなくなっていった。

 

ある日、息が詰まりそうな空腹のなか。

ユウはただ、呻くように何かを呟いた。

 

意味なんてなかった。

ただ、生理的に喉から漏れた音、空気を揺らす振動。

 

 

 

その瞬間、ユウの口の中になにか現れた。

 

それは白く濁った液体だった。

母乳のような、ミルクのような。

それが何かはわからなかったけれど、

ユウは本能的に、それを舐め取った。

 

生まれて初めての食事は、うまく呑み込めなかった。

口の中に溢れるそれは口の端からこぼれてしまった。

呼吸を忘れ、息が苦しくても、嚥下を止められなかった。

 

お腹が──ほんのすこし、温かくなった。

 

そのあと、すぐに吐いたけど、確かに“満たされた”。

 

ユウは、この出来事をずっと覚える。

声にならない音でも、なにかが呼べるのだと。

ただそれだけを知った夜だった。

 

 

 

***

 

 

 

ユウの存在が親に認識されたのは、排泄の臭いだった。

 

「……は?」

 

台所のほうから、低い女の声が落ちた。

スリッパを引きずる足音が近づき、ユウの横で止まる。

 

息を飲む音が聞こえた。

 

近づいてきたのは、おそらく母。

ぼやけた視界の隅で、人影が立ち止まるのが見えた。

 

 

「……あんた、なんで……?」

 

その声には、疑問と、苛立ちと、嫌悪と、

ほんのわずかな“驚き”が混ざっていた。

 

彼女の視線の先には、

口の周りの汚れ、

布を巻いた小さな体と、

その中に広がった異質な匂いがあった。

 

 

与えていない。

ミルクも、食べ物も、水も。

 

それなのに、

この子は“排泄している”。

 

それは、世界にとっての異常だった。

 

彼女は、一歩引いた。

 

鼻をすする。

もう一度近づき、しゃがみ込む。

 

「……は?」

 

もう一度、同じ声。

 

 

彼女はユウの顔を見た。

 

ユウを、見ている。

それもまた、初めてのことだった。

 

 

「食ってるじゃん……なに、勝手に……」

 

驚いている。

でも、それは“生きていたこと”への驚きではなかった。

 

 

 

 

空気が変わった。

 

異様な沈黙が流れた。

まるで世界が、一度だけユウの存在を確かに認めたような——

 

「……“個性”、よね」

 

それは、感動でも恐怖でもなかった。

ただ、価値の有無を測るような声だった。

 

ようやく言葉になったその一言が、存在を定義した。

泣き声でも、笑い声でもなく、汚れた布団と、染みついた臭気。

 

 

その日から、ユウの存在は“使えるかもしれないもの”になった。

 

相変わらず食べ物を与えることはないけれど、

排泄は処理する。

 

ユウは自らの力で、何かを呼んだ。

 

空腹のときは食べ物を。

寒いときは毛布を。

排泄のときは、布や水を。

 

足りないときに、必要なものが来た。

 

“望んだものを呼べる”。

 

だから、ユウは言葉を“願い”として使うようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

けれど時が経つにつれ、それは、“命令”に変わった。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

ユウが己で立ち上がるまで死なないように世話された。

親の口からは良く愚痴が漏れる。

放置されることも少なくはなかった。

 

それでもユウは、一度も外に出ることなく3歳まで生き延びた。

 

誰かに教わった事など一度もないけれど、

人より、歩くのも、言葉の理解も平均よりもずっと早かった。

 

親はそれを才能とも呼ばない。

不気味がることもなかった。

興味がないのだから、当然だった。

 

ただ、もう言葉をわかるならばと、

“個性”を把握するために様々な指示を出すようになった。

 

 

 

2人はいつものように台所のテーブルで酒を飲んでいた。

 

「昨日、また勝手に何か出してたんでしょ?」

 

ユウがリビングの床に座っていると母の声がした。

視線を向ければ、スマホを操作しながら笑っていた。

けれど、その笑みには探るような薄い光があった。

父はかぶりを振るだけ。

 

母はクイっと缶を煽り、席を立つ。

そして、ユウの元にしゃがみ込んだ。

 

「ねぇ、これ出してみなさいよ」

 

ユウの前に突き出されたのは、コンビニのスイーツ特集。

その中のひとつ、丸いプリンの写真。

 

「……ぷりん」

 

喉をふるわせるように呟いた。

目の前、床に写真と瓜二つの小さな容器が現れる。

 

「ほんとに出た……」

 

母の目がわずかに見開かれる。

だが次の瞬間、父の声がかぶった。

 

「おい、これ冷蔵庫にあったやつじゃないだろうな」

 

母はプリンを片手で持ち上げて父に見せる。

 

「違うでしょ。見たことないパッケージだし」

 

容器を左右に意味もなく振る。

透明な容器の中の柔らかな黄色がちゃぷちゃぶと音を立てて崩れていく。

 

二人の視線が、ユウの方へ向けられた。

 

──それは、“興味”だった。

でも、“関心”ではなかった。

 

そのまま母はユウのそばに座り、再び端末を向けた。

 

「さ、試してみましょっか」

 

母が言い、父は見てる。

 

「プリンが出たなら、他にも出せるか確かめるべきよねー」

 

「ちょっと、スプーンちょうだいよ」

「“個性”使わせればいいだろ」

 

父が机の上の使い捨てスプーンを母に投げる。

 

「ん」

 

母はプリンを開き、ユウにスマホを差し出した。

持て、と言葉はなかったがユウは理解した。

 

画面を見ればさまざまな食べ物が映っていた。

ケーキ、アイス、ジュース、果物──。

 

「言ってみて。全部よ、ちゃんとやってね」

 

命令ではなかった。

でも、母はもうプリンを食べ始めていた。

会話はここで、終わり。

 

拒否できる雰囲気ではなかった。

 

「……アイスクリーム」

 

現れたのは、懐かしい形の棒付きアイス。

 

「おー。次は?」

「……メロンソーダ」

 

出てきたのは、緑色の液体入りペットボトルだった。

画像のものは、正しくはクリームソーダ。

誰もが想像するコップに満ちたメロンソーダにアイスの乗る、喫茶店などでよくみられる飲み物だ。

 

 

でも、ユウは正しく区別できなかった。

 

 

「なんか違う」

 

母の眉がわずかに動く。

 

「じゃあ、“冷たくてあまい緑の飲み物”は?」

 

「“冷たくて甘い、緑の飲み物”」

 

──出てきたのは、エナジードリンクだった。

 

「あんた飲んだことないじゃん」

 

母が笑い、エナジードリンクを開けた。

父が眉間にしわを寄せる。

 

「なんか惜しいなー」

「“感覚”で呼んでるんだろ」

 

横から母が画面をスライドする。

それは食べ物ではなく、服だった。

 

「これは?」

 

「……この洋服、知らない」

 

「あーめんどくさいわね」

 

ユウから端末を奪い取るように取り上げ、スマホを数度操作した後に再び画面を見せる。

 

それは大手チェーンのwebサイト。

 

 

あっ呼べちゃう。

それは、直感じみたモノだった。

誰に知らされずとも歩き方や呼吸が自然とできるような感覚。

 

「…………」

 

喉が詰まる。

2人の視線が刺さる。

 

だから、口を開いた。

 

「……スカート」

 

刹那、無地のプリーツスカートが現れる。

けれど、母の表情は変わらなかった。

 

「見たことあるものをイメージしてテレポートさせてるのかなあ……作り出す系の“個性”って難しいわよね?こんなガキにできるわけないし──あんたの“個性”が元なのかな?」

 

「俺の“個性”はそんな便利じゃねぇよ。

完全に俺の上位互換だろ。その前に距離とか、なにをどこまで呼べるかとか、そーいうのを試すべきじゃねぇの?」

 

「えーならあんたがやればいいじゃん」

 

まるで新しいおもちゃの使い方を探るような会話。

 

ユウは、ただ座っていた。

自分の力を試されている。

 

だけど、それは「あなたは何ができるの?」ではなかった。

「どこまで使えるのか」だった。

 

夜が更けて、母は立ち上がる。

ため息まじりに言った。

 

「……ふうん。まあ、便利かもしれないけど──

今のままだと、思ったより使えないわね」

 

その一言が、今日の“結論”だった。

 

ユウは、座ったまま、じっとしていた。

喉は乾いていたけれど、何も言わなかった。

 

褒められた手触りは、どこにもなかった。

 

 

 

だから瞼を閉じる。

閉じれば、記憶が見れるから。

 

寒い夜だったけど──

あれは風邪を引いていたのかな。

それとも冬なのかな。

 

わからないけど、ふかふかの毛布をかけて寄り添ってくれる誰かは…たぶん、家族。

 

 

悩んで苦しい時に隣に座ってくれた人は、一緒に泣いて、笑ってくれる誰かは…ともだち、かな。

 

いまの、私にはいない誰か。

 

でも、きっと──

 

そういう人が存在しているなら。

いつか、きっと、会える。

もしかしら、この人たちも、いつか──

 

 

空想じみた根拠のない祈りが、彼女の心の支えだった。

 

それは遅延性の毒と何も変わらない。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

ちゃぷんと水道から水滴が垂れた。

ユウは1人で湯船に浸かる。

 

そう、3歳の子供が1人で入っている。

溺れても助けてくれる人はいない。

 

だから、いつもシャワーで済ませていた。

でも、その日は、なんとなく、浸かってみたかった。

 

あまり湯が張られることがない湯船に、気をつけながら入った。

自分の体温より暖かいものがふわっと自分を包んで、じんわりと体を温めてくれる。

 

なぜだかわからないけど、ぎゅっと体を抱きしめた。

 

 

暖かくて、心地いい。

このまま眠ってしまいたいとすら思ったその時。

 

ガチャっと浴室の扉が開いた。

 

 

「ねー聞いてよ!」

 

体を流すこともなく母親が湯船に浸かった。

石けんの匂いじゃなくて、香水と煙草のにおいがした。

水位が上がる。知らない暖かさが肌に触れた。

少し体が強張るが、ユウはそんな素振りも見せずに口を開く。

 

「どうしたの?」

 

「あいつだよ、あいつさーまた仕事辞めてきたって!」

「……ったく、あんたの父親、ほんっと使えないんだから」

「仕事もしないし、帰ってくれば酒くさいし」

「あんたも大変よねぇ、こんな家に生まれて」

 

少し笑いながら、でも目の奥には疲れと苛立ちだけがある。

“共感を求める”ものじゃない。

“吐き出すために垂れ流す”言葉だった。

 

そして、

 

「あんたはああならないでね?

あんたの世話とかしてる余裕ないからさ」

 

なんて言葉を平気で投げる。

それは“冗談”のフリをしてるけど、紛れも無い本心。

 

「……うん」

「あっそうだ!近所のスーパーでさ──」

 

ユウは母のお話を一生懸命聴いた。

 

お母さんは困ってる。

それに、一緒にお風呂入ってくれてる。

必要と、されてる?

わからないけれど──

 

ふやけた指を握って、ちょっとだけ願った。

 

一緒に、寝てくれるかも。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

ひとりの布団に温かさを求めなくなった頃。

部屋の隅で、ただ流れるテレビを見ていた。

特別なにが見たかった訳じゃない。

 

ただ、ヒーローとか、敵とか。

そんな漫画みたいなモノがこの世界にはあるんだって知ってから、不思議と目に付くようになった。

 

ただ、静かに見てた。

声を出してはいけないと教えられていたわけじゃない。

ただ、“声を出す必要”がなかった。

 

泣くのは、赤子の頃に止めた。

 

笑うのは、声がなくてもできる。

 

でも、その日は違った。

 

 

 

「──なぁ、ゆう!」

 

声が聞こえたのは、台所のほうだった。

台所の近く、玄関から声がした。

父親が手元の袋をぶらさげながら呼んでいる。

 

この人に名前を呼ばれたのはいつぶりだろう、と思った。

 

 

 

「これ、ちょっと持っててくれ」

 

父親が渡してきた買い物袋を、小さな手でぎこちなく受け取る。

中身は重い、見てみれば食べ物や飲み物がたくさん入ってる。

ふらついたが直ぐにバランスをとる。

やったことなくてもなんとなく、持ち方はわかる。

 

でも、重くて腕が震えた。

すぐに落としてしまいそうだった。

 

父は既にユウへ背を向けていた。

靴を履いたまま、外に出ようとしていた時──

 

「あっ!っと…あの箱、こっちに持ってこれるか?」

 

思い出したかのようにユウへお願いをしてきた。

 

指差されたのは部屋の奥に積まれた段ボール。

大人には重いようなものでもないのかもしれない。

ただ、両手が塞がり、直ぐには取れない。

 

荷物を置けば良い?

でも多分、今すぐに取ってこないとダメ。

 

 

ユウは段ボールを見つめた。

使い方はよくわかる。たくさん使ってきたから。

 

 

 

「──箱」

 

小さくつぶやくように、言った。

蚊の鳴くような声だった。

 

 

 

すると、段ボールがパッと消え──父親の足元に現れた。

 

 

 

それを見た父親は、ほんの一瞬、動きを止めた。

そして、ゆっくりと口元に笑みを浮かべた。

 

 

 

「……やるじゃねえか、ゆう」

 

 

 

その言葉とともに、

大きな手が、ユウの頭をくしゃっと撫でた。

 

 

 

──あ。

 

 

 

たった、それだけの行為。

でも、ユウは動けなくなった。

そんなユウを置いて、父は家を出て行った。

 

大きな手が、頭に一瞬だけ触れてた。

笑ってた。怒ってなかった。

声を出して、言われた通りにしただけで。

 

 

 

触れてもらえた。

笑ってくれた。

あと、名前も呼んでくれた。

 

 

 

“こうすればいいんだ”と思った。

ユウはひとり、袋を持って冷蔵庫に向かった。

 

 

 

ユウはその日から、親のために動いた。

困ってたら代わりに動く。

言われたら頑張って“個性”を使う。

 

 

でも──

褒められることは、あまりなかった。

母親はユウの変化を気に留めなかった。

父はそのちょこまかと動く様を目障りだと怒鳴った日もあった。

 

 

 

けれど──

“笑顔が向けられた記憶”は、

“頭を撫でられた記憶”は、消えなかった。

 

 

 

ユウは今でも覚えている。

あの時の父親の声のトーン、指の重さ、そして──自分のどこかに宿った温かさを。

 

 

 

 

あれは、ほんとうに“私”を見ていたのか──今でも、わからないけど。

 

でも、“良いこと”のはずだから。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

ひとりでに家事をこなし、家の為に尽くすようになったユウへ。

2人はよく命じるようになった。

 

「これ、昨日テレビでやってたケーキ。

あんた、呼べるでしょ?」

 

母のお願いは、いつも甘さを帯びていた。

けれど、その甘さは“飴”ではなかった。

“毒”を包む砂糖衣のようなものだった。

 

衣が無ければ、中身が溢れるだけ。

 

ユウは、画面の中のケーキを知らなかった。

名前も、形も、素材も。

ただ「甘そう」「きれいそう」だと、断片的な情報だけが記憶に残っていた。

 

「はやく、呼んで」

 

目の前にスマホの画像が突き出された。

声のトーンが落ちた。

指先には力がこもっていて、断れないのがわかった。

 

ユウは、喉をふるわせる。

 

「ケーキ」

 

言葉の輪郭を、記憶を頼りに作る。

けれど──目の前に現れたのは、どこかのコンビニのショートケーキだった。

 

「違うじゃん」

 

母の声が、一音、落ちる。

 

「それじゃない。昨日テレビに出てたやつだってば」

 

もう一度、名前を言い直す。

だめ。語尾を変える。それも違う。トーンを変える。

でも、出てくるのはスポンジケーキ、モンブラン、チーズケーキ。

 

違うものしか、呼べない。

 

ユウは焦る。

「あのケーキ」の名前を知らない。

どんな中身かも、わからない。

どこにあるのかも、理解してない。

 

だから、“呼べない”。

ほかと区別できない。

 

これは“個性”の仕組みだとユウには理解できていた。

けれど、母には通じなかった。

 

「ふざけないで。いつもはできるでしょ、やりなさいよ」

 

声の調子が変わる。

さっきまでの“甘さ”が、すうっと消えた。

 

「それともなに、使えないの?」

 

その一言に、ユウの心が凍る。

 

ユウは、喉を振り絞るように、もう一度言葉を発した。

けれど──またしても、別のものが出た。

 

その瞬間、平手打ちが飛んできた。

 

「ちゃんとやって、なんでそれができないの?」

 

何度も、何度も。

ダムが決壊したかのように母の怒声は止まらない。

 

ケーキは呼び出せなかった。

そして、ユウの心から、何かが一つ剥がれ落ちていった。

 

 

……わたしは、ケーキより価値がないんだ。

 

“知らない”と伝えること。

 

“できない”と認めること。

 

それらすべてが、罰に繋がる。

だから──ユウは“世界を知る”努力をした。

そのためにテレビを見て、本を読むようになった。

文字など教えていないのに本を読む子供を、気味悪がる親はここにはいなかった。

 

 

 

***

 

 

 

次の日の昼間、窓の外で猫の鳴き声がした。

少しだけ窓の向こうから聞こえた。

 

甘えるように、にゃぁ、と声が響いたんだ。

 

 

 

誰かに向かって、鳴いているんだとわかった。

 

受け取り手のいる意味のある声、だった。

 

だから、やっぱり、その声に、誰かが応える音がした。

小さな笑い声と、皿が置かれる音。

 

──“誰かに何かを求める”って、ああいう声を出すんだ。

 

そう思った。

けれど、それを“うらやましい”とは思えなかった。

 

だって、自分にそんな選択肢など、最初からありはしないから。

 

だから、静かに、呼び出した本を開いた。

またバレると怒られるから、読んだら燃やさないと。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

テレビから、バースデーソングが流れていた。

 

アイドルか何かの特集らしい。

鮮やかな飾りつけ。

ろうそくの灯るケーキ。

 

画面の中で、子どもたちが笑っていた。

 

ユウは意味もなくぼーっと見つめてた。

 

「……そういえば、今日じゃなかったっけ。

あんたの誕生日」

 

ふいに、背後から母の声が降ってきた。

 

ユウは、動けなくなった。

現実味がなくて、でもその事実だけで、口元がわずかに緩みそうになった。

 

呼吸するだけで胸の奥で“期待”を生んでしまいそうになる。

 

(……覚えてたんだ)

 

鼓動が、すこしだけ早くなる。

思わず声を出しそうになった。

 

呼ばれるはずのない、自分の名前を期待した。

 

そう思った次の瞬間。

 

「……あれ?違ったっけ? ま、どうでもいいか。

ゆうちゃーん、ケーキ呼んでね。チョコのやつ」

 

その言葉に、何かが音を立てて崩れた。

 

ユウは、軋む何かから目を逸らし、ただ黙って頷いた。

呼び出したケーキは、スーパーでよく見る安価なチョコケーキ。

それでも、チョコであるという条件は満たしていた。

 

母はそれを受け取り、ナイフで切り分けてから、冷蔵庫の奥へしまう。

ユウが視線で追っていると気づけばニヘラと笑う。

 

「大人が食べるやつだから」

 

その言葉でおしまいと切り捨てられた。

 

誕生日じゃなかったかもしれない。

でも、誕生日だったかもしれない。

ただ、“そうだったかも”知れない日。

 

プレゼントも、名前も、歌もなかった。

 

いつものように“個性で出せるか”だけが、確認された1日だった.

 

ユウは冷蔵庫の扉が閉まる音を、ずっと聞いていた。

 

どっちかなんて、どうでもよかった。

 

 

それでも、どこかで、“祝われる日がある”と思っていた自分が、いちばん情けなかった。

 

それでも、なにも言わなかった。

 

心臓がひとつ、余計に脈打った気がしただけの日だった。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

初めて外に出たのはショッピングモールへの買い物だった。

 

帰り道はまだ夢のような心地が抜けきらなかった。

外に出れたこと、そしてなにより、手を繋いで歩いた記憶が、手のひらにうっすら残っていた。

 

ユウは嬉しかった。

人混みの中で、父親が“離れないように”って言ってくれた。

一緒にたこ焼きを食べて、ぬいぐるみ売り場も見て、

自分のことを“ちゃんと見てくれてる”って、そう思えた。

 

 

 

父親はいつも不機嫌だった。

でも、今日は違っていた。

少しだけだったけど、声がやわらかくて、笑う瞬間もあった。

 

──楽しかった。

 

何でかはわからないけど、その気持ちだけはユウの中にちゃんとあった。

 

 

 

玄関を開けて、家の空気に足を踏み入れた瞬間。

 

空気が変わった気がした。

誰も何も言ってないのに、そう思った。

そんな自分に違和感を抱いて周りをキョロキョロと見渡していると、目の前で父親が靴を脱ぐ音がして──無造作に言われた。

 

 

 

「……じゃ、ゆう、呼び出せるよな。

あのガチャの箱。部屋に置いてあったやつ。

どこにあるか覚えてるよな?」

 

 

 

言葉が、ユウの胸に刺さった。

 

 

 

「……え、でも……」と声を出しそうになったけど、

その先が言えなかった。

 

“楽しかった”は、“そのためだったのか”と理解してしまったから。

 

 

 

「あぁ?」

 

父親の声が一段低くなる。

 

ユウは小さくかぶりを振った。

 

「……ううん。呼ぶね」

 

 

 

指先が震えた。

声を出すのが、少しだけ遅れた。

 

 

 

「──ガチャガチャの景品」

 

 

 

部屋の空気が、かすかに揺れる。

瞬きの間もなくユウの前へ、指定されたガチャの景品が“パッ”と現れる。

 

 

 

父親はそれを手に取り、軽く笑った。

 

「やればできるじゃねぇか。

……おまえ、ほんと便利だな」

 

 

 

“便利”

その言葉の意味を、ユウは知っている。

人に向かわれない言葉。もし、それを使うのは──

胸の奥がぎゅっと小さく縮んだ。

 

「悪いことだよ」

って、頭の中で小さく思った。

 

でも、それを口に出したら?

──全部が終わる気がして、やめた。

 

 

 

父親はもう部屋の奥へ行っていた。

ユウはまだ、靴を脱いでいなかった。

 

玄関に立ち尽くしたまま動かなかった。

ただ、さっき繋いでいた手のあたたかさを、静かに忘れようとしていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「ゆうちゃ〜ん、今日は特別な日だから

──これ、呼び出してみようか」

 

差し出されたのは、雑誌の切り抜き。

洋風のフルコース。

 

名前は読める。

住所も近い。

でも、食べたことのない料理だった。

 

ユウはその写真をじっと見つめる。

皿の上のものは、ツヤツヤしていて、色とりどりで──でも、どれも知らなかった。

 

「これ……知らない」

 

知らないものは、呼べない。

それは、今まで何度も学んだことだった。

 

「大丈夫。お母さんが“食べたい”って思ってみるから」

「……うん」

 

頷いたのは、納得したからじゃない。

 

“拒めない”と知っていたからだ。

 

でも、怖かった。

呼ばなければ、また怒られる。

拒めば、また叱られる。

“できなければ”、きっと価値がなくなる。

 

喉が、震える。

“これは自分の欲じゃない”と、身体が警鐘を鳴らす。

 

けれど、

それでも──言った。

 

「……お母さんが、食べたいもの」

 

 

 

テーブルの上に、皿が現れる。

言葉を紡ぐたびに、一枚、また一枚。

料理は写真とそっくりだった。

湯気も、おそらく香りも、質感も、完璧だった。

 

まるで──本当に“そこにあったもの”みたいに。

 

 

 

母はそれを見て、きれいな笑顔を浮かべた。

心から喜んでいるように見えた。

 

「ほら、やればできるじゃない」

「…………うん」

 

ユウは頷く。

──その時、自分の中に“何か”が崩れたのがわかった。

 

(知らなかったものなのに。

私は、それを“正確に”呼び出せた)

 

(──誰かの欲を、“通した”)

 

(私の意図なんて、いらなかったんだ)

 

 

 

食卓の端っこに、自分の分も置かれていた。

でも、手が伸びなかった。

 

喉を、通らなかった。

 

(味を知らない。匂いも、よく分からない)

(でも、“誰かが欲しがれば”呼び出せるなら──)

 

(私じゃなくても、よかった)

(私じゃなくても、きっとこの料理は出てきた、よね)

 

 

 

その瞬間、ユウの中で何かが静かに“死んだ”。

 

自分の欲。

自分の意志。

“これは私の声だ”と呼べる何か。

 

それを差し出すことで──得られる微笑みがあった。

 

 

 

母はにこにこと笑っていた。

 

「夕紬ちゃん、ほんとにいい子ね」

 

その声が、耳の奥でふわっと揺れた。

 

言葉の意味は、ちゃんとわかっていた。

けれど、それが“褒められている”のか“笑われている”のか、判断がつかなかった。

 

──でも、たぶん笑われてるんだと思った。

 

だから、これはきっと“正解”なんだ。

 

(……うん、私は、“便利な個性”だよ)

 

(そうやって、“使ってもらう”ことが、私の価値だから)

 

それが“私の願い”かどうか──気にするのは、間違いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




明日も投稿予定です。
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