小学校、入学式の日。
母の声がした。いつもより少しだけ、よそ行きの声だった。
隣を歩くその人は、背筋を伸ばしながら、何かを見ている。
手はつながなかった。
帰るまで一度も私の名前を呼ばなかったけど、拍手のときだけは誰よりも早かった。
「よかったね」と言ったあと、彼女はスマホを見ながら帰っていった。
その背中は、晴れ着のように派手で、でも、とても遠かった。
「あー」
母がそんな声を出して振り向く。
「ちゃんとやるのよ。変なことしないでね」
“個性”は使うな。
要約すればそれだけ言い残して、もう一度振り返ることなく歩いて行った。
教室に入ると、知らない子どもたちが机に座っていた。
にぎやかで、少しうるさくて、だけど誰もユウのことは気にしていなかった。
ユウは、そっと一番後ろの席に座った。
──そう、ここは「違う場所」だ。
「知らないふり」をしていても、誰にも叱られない。
「話さなくても」、お腹が空いたり、叩かれたりはしない。
でも、悪い子は怒られる場所。
へんな子は居ちゃいけない所。
これも全部記憶が教えてくれた。
だから、決めたんだ。
ここでも「いい子のふり」をしよう、と。
返事は「はい」と言う。
わからないときも、頷いておく。
手はまっすぐ挙げる。目は黒板だけを見つめる。
声は明るく、語尾は丁寧に。
表情は“愛想がいい”と呼ばれるものを、鏡の前で何度も練習した。
勉強も運動も、ずるいけど”答えを知ってる”から他の子よりもできちゃうと思う。
ふたり以外とは話すことがないからわからない。
でも、たぶんそう。
ずるいよね。
だって、私がそんなできる子なわけ、ないもの。
普通の子ってわからないけど、記憶が言うに私は枠の外。
だから、たまにほんの少しだけ、失敗しよう。
(問題にならなければ、それでいい)
(変な目で見られなければ、それでいい)
“いい子”になれば、誰も近づきすぎてこない。
“優等生”のままなら、誰も”私”を求めない。
──その方が、楽だと思った。
実際、そう生活していると楽だった。
学校での出来事はすべて、テレビの中の出来事みたい。
遠くて、ガラス越しに流れていく感じ。
それでも、たまに。
隣の子が消しゴムを落としたときに、拾っても「ありがとう」と言ってもらえないと、
ほんのすこし、胸の奥がきしんだ。
先生が、誰かの失敗に怒っているとき、
自分も怒られるような気がして、手が震えた。
「夕紬さんは、何でも一人でできてえらいね」
そう言われるたびに、何かが遠ざかっていくような気がした。
──でも、これでいい。
家庭の中では「使える子」、
学校の中では「優等生」。
どちらにも、必要なものになればいいだけ。
ただ、そういう風に見せればいい。
そういう風に、生きていればいい。
だから、今日も笑う。
本当は、誰とも目を合わせたくないくせに。
***
昇降口の軒下。
鈍い空の色と、アスファルトを叩く雨音が、やけに大きく響いていた。
みんなが次々に傘を開いて帰っていく中で、
一人だけ、動かずに立っている女の子がいた。
濡れない場所で、傘も持たず、壁の端で、何かを待つようにじっとしている。
視線は落としたまま。
表情もわからない。
緑谷出久は、その姿に足を止めた。
心臓が跳ねる。
でも、目は逸らせなかった。
(……困ってる。たぶん、困ってる……よね?)
傘を差し出すべきだ、ってすぐに思った。
でも──声が、出なかった。
(……ぼ、ぼくが……?でも、……!)
何度も開きかけた口を、何度も閉じる。
でも、足は勝手に前に出ていた。
そして、ほんの一歩前へ出たその瞬間。
「っ、こ、こ、これッ!!よかったらッ!」
急に大きくなった自分の声に、自分でビクッとする。
女の子は、わずかにまつ毛を揺らした。
緑谷はオールマイトのイラストが入った傘をぎゅっとにぎりしめる。
「ぼくは、べ、別にっ、平気だよ!走って帰るから!!」
そのまま傘を差し出す。
けれど、うまく言えなくて、差し出すというより──押しつけるような形になった。
「そ、それじゃあ!!」
相手の反応も、返事も待たずに、くるっと背を向けて走り出す。
靴が濡れる。ズボンの裾に跳ねた水が冷たい。
でも、頭の中はそれどころじゃなかった。
(うわぁああああ!いまの!ぜったい変だった!)
耳まで真っ赤になったまま、彼はふわふわな髪もびしょ濡れにして走っていく。
それでも。
昇降口には──一本の傘と、その傘を見つめる無表情の少女が、静かに残っていた。
オールマイトが笑っているその傘を、
彼女は、しばらく黙ったまま見つめていた。
人がくれたものを、粗末にしてはいけない。
それは、“善い子”が守るべきルール。
ユウは傘を開き、歩き出す。
足元に跳ねる水は冷たいのに、
どこか、ほんのすこしだけ──“あたたかい”帰路だった。
帰宅後、傘を干し、どう彼に返すか考えていたら父が来た。
オールマイトの書かれた子供用の傘を一瞥すると蹴り飛ばす。
「んだこれ?邪魔なんだよ、こんなところに置くな」
──ボキッと折れた音がした。
見られなかった。たぶん、角度が悪かったのだろうか、そういうことにしよう。
ユウは、喉の奥がぎゅっと詰まるのを飲み込み、ただ静かに目を伏せた。
大丈夫、壊れても私の“個性”なら大丈夫。
呼び出せばいい。
でもそれは、誤魔化しでしかないと思った。
同じかたち。
同じ色。
きっと、同じ商品として売られているもの。
呼び出したものは、同じ商品でも違う物だ。
それに思いは付帯しない。
──この傘はあの男の子、思い出の品だったんじゃないのかな。
私は、誰かの思いを、踏みにじったのだろうか。
奥底に詰まった何か、名状しがたいものが呼吸を許してくれなかった。
記憶の中の誰かを真似て、自分に言い聞かせる。
うん……そうだね、今度からはちゃんと断ろう。
そう思えば、やっと息が吸えた。
***
「夕紬ちゃんなら、できるよね?」
「はい」
そんなやりとりをたくさんしてきた。
やりすぎちゃいけないのに、
まだ、上手に調整できなくて、いい子過ぎちゃった。
本当は、もっと失敗しなきゃいけなかった。
でも、先生の失望の視線が怖くて──
いつの間にか、“できる子”になりすぎていた。
先生の期待が、私を突き刺す。
ほかの子に求めない、何かを求めてくるようになった。
それは日常の仕草だったり、勉強だったり。
きみならーー夕紬ちゃんならーー千響さんならーー
そんな言葉に押しつぶされそうな日々。
このままじゃ潰れると判断できたのは記憶のおかげ。
だから少しだけ、できない子になるように努力した。
もう少し間違えることを増やしてみたり、期待に沿えないフリをしたり。
調整しようと、がんばった。
でも、恐怖は消えてくれなかった。
だから、眠れない夜が──ずっと、続いていた。
誰にも言えない。
どこにも逃げられない。
そんな夜が、ずっと続いた。
だから、ある夜。
ユウは布団の中で埃をかぶったラジオに手を伸ばした。
かすれた音が流れる、父が適当に流していて知った声。
それは何処かで聞いたことのある声、だった。
たぶん、これも記憶が、”覚えていた”。
──夜は、誰のものでもない。
──でも、君のものでもある。
どこか軽やかで、けれど優しい、そんな声。
プレゼント・マイクの、深夜番組だった。
駆け出しヒーローの彼は、記憶の中よりずっと幼い。
それでも、まだ不慣れでも、リスナーの声に耳を澄ませていた。
その人は、世界のどこかで誰かの悩みに答えてくれる。
「学校でうまく話せない」
「“個性”が役に立たない気がする」
誰かにとっては胸の内に潜めた、静かな悩み。
それをひとつ、ひとつ、大切に解いてくれる。
誰もいない。
誰も見ていない。
ユウは、ポケットからこっそり隠していた小さな端末を取り出した。
“個性”で手に入れたものだった。
たくさん呼び出したものの中から一つだけ、こっそりしまった宝物。
間違いなく、怒られる。
でも──
『こんばんは。いつもラジオを聞いています。
すごく、楽しいです。
お兄さんの優しい声を聞くと、遠くに誰か優しい人がいるんだなって思えます。
ありがとうございます。』
端末の画面に、震える指で文字を打ち込む。
宛先は、プレゼント・マイクの番組の投稿フォーム。
(送るだけ、誰かに見つかるわけじゃない)
そう自分に言い聞かせても、心臓の音はバクバクとうるさかった。
それでも──
送り先を間違えないように、何度も確認して、そっと送信ボタンを押した。
ぴ、と小さな音。
画面に「送信完了」の文字が浮かんだ。
ユウは、小さく息を吐く。
これで何かが変わるわけじゃない。
きっと、読まれることもないだろう。
返信が来るわけでもない。
でも──
「……なんでだろ」
誰かに、自分の声を、聴いてほしかった……のかな。
言葉にならない想いが、指先からこぼれていたような気がした。
ラジオから流れるマイクの明るいトークに、ユウはそっと目を閉じる。
この声だけが、ユウを外の世界へ繋げていた。
たとえ、届かなくても。
たとえ、独りでも。
独りぼっちじゃない気がした。
ただその感覚に救われた。
かすれた音が、闇を優しく満たしていく。
ユウはそっと抱きしめるようにして、ラジオに耳を傾け続けた。
──それが、最初の手紙だった。
以降、毎週、ユウは感想メールを送っていた。
内容は、ほんの他愛ないことばかりだった。
「今日の曲、素敵でした」とか、「猫の話が面白かったです」とか。
読まれる価値なんて、きっとない。
それでも、まるで日記のように──毎週、言葉を届け続けた。
***
春の終わりのグラウンド。
小学校のクラス対抗リレー。
ユウは自分のチームの最後の走者に割り当てられていた。
隣のクラスには、爆豪勝己という男子がいた。
成績はいつも上位。
質問にも迷わず手を挙げて、だいたい正解する。
走れば速いし、怒ると手が出そうになるから、ちょっと怖い。
ユウは、彼のことをよく知らない。
でも、なんとなく、彼には負けておいた方がいい気がした。
(……ここで勝っても、たぶん、雰囲気が悪くなる)
今日のチームはバトンの受け渡しも拙く、途中でこけた子もいた。
勝てる空気じゃなかった。
だから、ユウは判断する。
(一歩、遅れる)
ほんのわずか、出足をずらした。
爆豪は真っ直ぐ走ってくる。
眩しいくらい一直線で、思ったよりも速かった。
その姿に、心がざわついた。
(ああいうのを、“まっすぐ”って言うんだ)
自分のは違う。
知識と、経験と、空気の読み合いで取った「正解」だ。
ずるいと、わかってやっている。
──そんな自分を、ユウは少しだけ嫌っていた。
「なあ」
リレーのあと、爆豪に呼び止められた。
「お前、前もそーだったよな」
「え?」
「なんか走りが変。手抜いてる?」
「あはは、そんなことないよ?」
「……変なやつ」
それだけ言って、行ってしまった。
ユウは何も言い返さなかった。
(“変”って、わかるんだ)
たった一度のレース、数分のすれ違い。
それだけで、あの子は、自分を「変だ」と思った。
ユウは、口元だけを笑った。
気付かれないように、演じていたつもりだった。
けれど、まっすぐな目には、きっと、透けて見えてしまうのだ。
「ずるく生きてる子」だって。
***
昼休み。
空は、静かに晴れていた。
校庭の隅、ユウはフェンスの影でしゃがんでいた。
誰にも見つからない場所を、無意識に選ぶ癖は、いつの間にか身についていた。
遠くで子どもたちの声がしていた。
笑い声、走る音、ボールの弾む音。
――そこに、自分の名前は混ざっていなかったけど、それでいい。
「混ざらない」のと「混ざれない」のは、似ているようで、違う。
砂が風に乗って、フェンスの隙間からわずかに舞った。
その時だった。
──空気が、変わった。
ユウだけが気づいた。
胸の奥がざらつく。
鼻の奥にひっかかる匂い。
その感覚は、記憶にこびり付いた感覚を呼び起こす。
(……似てる)
ユウは目を逸らさずにフェンスの向こうを見つめ、眉をひそめた。
この息の詰まるような感覚。どこかで嗅いだことのある、“親の気配”。
笑っていないのに、口元だけが歪んでいた、あの顔。
おい、と呼ばれる前に、殴られるのがわかってしまうような気配。
誰かを傷つける人の匂い。
呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。
通用門の鍵が、カチャリと鳴った。
でも、それに気づいたのはまだ、ユウだけだった。
職員でも、保護者でもない。
重い金属の音が、午前の空気をわずかに割った。
扉が開く。
スーツの男が入ってくる。
髪は整い、ネクタイも曲がっていない。
でも、口元だけが、笑っていた。目はまったく、笑っていなかった。
歩く足音がしない。地面を滑るような、音を嫌う歩き方。
「おじさん!どーしたの?」
無邪気な声が飛ぶ。
それを止める暇はなかった。
「……あれ……?」
男に駆け寄った子どもが、急に立ち止まり、喉に手をあて、ゆっくりと倒れた。
白い制服に、鼻血がひとすじ――つぅ、と伝う。
最初に反応したのは、空気だった。
何かが焦げるような匂い。風は吹いていないのに、喉がひりつく。ひどく熱い。
騒ぎが広がる前に、少年が一人、男の前に立ちはだかった。
金色の髪が、陽光を跳ね返す。爆豪勝己だった。
すぐ隣にいたのは、戸惑いの表情を浮かべる緑谷出久。
「……おい。お前、誰だよ」
爆豪の声が低く響く。
男が、ゆっくりと彼を見た。
歩き出した、そのとき。周囲の空気が音を立てて歪み出す。
「…せんせいっ!」「ヒーロー!」「だれか!」
子どもたちの悲鳴が重なる中で、
でも誰もがヒーローを、救いを求めていた。
声にならないほど小さく、でも確かに、それはユウの口から零れていた。
「……ヒーロー……?」
囁くような声だった。
でも、それだけで十分だった。
街で知られたヒーローが、風のように校庭に現れた。
ユウの声に“何か”が、呼ばれてしまった。
音も、歪みも、演出すらない。
ただ、“いつの間にかそこにいる”。
その瞬間。
ヒーローの視線が、一瞬だけユウを捉えた。
「……君が、俺を?」
そう聞こえた気がした。
実際に声が出ていたのかもわからない。けれど、その目が答えを探していた。
ユウは、思わず顔を伏せた。体から熱が引く。
私じゃない。そう思いたかった。
でも、声を出したのは自分だ。
現実が、音もなく、足元に落ちていた。
ユウの指先が震えた。
それでも敵を、そっと指差す。それが責任だと思ったから。
そのとき、影が落ちた。
目の前に、すっと伸びる腕。
ヒーローは何も言わなかった。
ただ、ぽん、とユウの頭に手を置いた。
途端、体の震えが止まった。
撫でるでもなく、包むでもなく──
でも、大丈夫と私を気遣い、安心させるような仕草だった。
──ああ、この人は、「私を見た」のかもしれない。
そんな確かな、でも願いみたいな実感が、ほんの一瞬だけ、胸を揺らした。
ユウは少しだけ目を見開く。
そして、次の瞬間。
風がひとつ吹いた。
顔を上げたときには、ヒーローはもう敵を抑えていた。
無言のまま、全てを終えていた。
音もなく。迷いもなく。
校庭に、ようやく音が戻る。
子どもたちの声。泣き声、安堵の声。
先生たちの呼びかけ。地面を蹴る音。
でも、ユウは動けなかった。
ここから立ち去ろうとも思ったけど、それは良くないことだ。
「……君の……“個性”?」
緑谷の小さな声が、遠くに落ちた。
先生が駆け寄ってくる。
「ユウちゃん、大丈夫!? 怪我は?」
ユウはゆっくりと、首を横に振る。
「……うん、大丈夫」
「ヒーローを、呼んだって聞いたけど、今の……君の“個性”?」
その問いに、ユウは答えなかった。
答えられなかった。
ただ、まぶたを伏せて、小さく息を吐いた。
──使ってしまった。
それが、すべてだった。
守りたかったわけじゃない。
助けたかったわけでもない。
ただ、漏れた声が、誰かを動かした。
それが“個性”だと、証明してしまった。
(……もう隠せない)
そう思った。
そう、悟った。
戸惑う教師に頭を下げてひとり、立ち尽くしていた。
これから、何かが変わっていく。
もう、今までのようには、いられない。
けれど。
(……届くんだ)
声って。
声を出す時って、自分を嫌いにならなくていいんだ。
私のじゃない。
借りもの思いを乗せた音だったけど、
それでも、ヒーローは――来た。
それだけは、確かな事実だった。
そしてその事実が、ユウの中に、暖かな光を指す。
同時に冷たく終わりの鐘を鳴らす。
誰にも見つからないように、ユウは教師のあとをそっと追う。
──ただ、2人の子供は、彼女を見ていた。
けれどその視線に、ユウは気づかない。
見つからないふりではない。
今だけは、本当にそうありたいと願って──
ただ、そこに立ち尽くしていた。
***
リビングの扉が閉まる音と同時に、空気が変わった。
ダンっと空き缶がユウの近くに投げられて壁を打つ音が、やけに大きく響く。
机を蹴る足がテーブルを揺らす。怒りだけではなく、呆れに近い静けさを纏って。
「ねぇ、何様のつもりなの?」
その声に、ユウは顔を上げる。
壁際に立ったまま、顔だけを母の方へ向ける。
「学校から連絡があったわ。“個性を使ってヒーローを呼んだ”って」
「“個性”持ちだったんだって。先生も驚いてた」
「そうよね、“無個性”で登録してたのに──」
母の口元が、ぐっと吊り上がる。
「バレたら終わりだって、言ってたよね?」
「せっかく隠してたのに。うち以外で使うなって言ったわよね?」
ユウは、静かに目を伏せる。
「──ごめんなさい」
小さく、息に紛れるような声だった。
何で使ったのか、自分でもわからなかった、ただ、助けを求める声をなくしちゃいけない気がした。
母の顔が一瞬、引きつる。
「……はぁ?」
「謝れば済むと思ったの? 最初からやらなきゃいいでしょ」
「そもそもね、そういうのは“誰かに求められてから”やるもんなの」
「それを勝手に使うって、何様なの?」
「あんたなんかが自分の意思で使っていいって、誰が言った?いつ許可したのよ、ねぇ」
テーブルに置かれたスマホを、母が握りしめる。
「せっかくここまで、波風立たせずに済んできたのに」
「何のために“個性なし”で登録したと思ってるの」
「私たちのためよ。あんたが“安全に使える”ようにするためよ」
「ちゃんと、家の中で、ルールを守って使ってれば──問題なかったのに」
ユウは、母の顔を見なかった。
ただ、少しだけ目を閉じて、呼吸を一つだけ吐いた。
「それとも──もう、出てきたい?」
──どこに?
頭に浮かんだのはそれだけ。私の行ける場所ってどこにあるのかな。
「だって、私の言うことも聞けないんじゃもう面倒なんて見れないでしょ?ねぇ夕紬」
母はどこか優しく笑いかけた。
答えは一つしか許されていないとユウは悟る。
「もう、言いつけは破りません」
「口だけなら何でも言えるわよ。そうだ、じゃ、これ呼び出してよ」
ぺらっと一万円札を床に落とした。
「だって……もうここにはいられないわよね?それって誰のせい?ねぇ誰のせいで引っ越さないといけないの?答えなさいよ」
「……わたしのせい」
「でしょ?なら、やるわよね?」
母の動きが止まった。
空気が、ぴんと張り詰めた。
つばを飲み込もうとして、口が乾いていることに気づいた。
これは──明確な犯罪だ。
欲しいものを呼び出すということは、誰かのものを“奪っている”ということ。
わかっていたはずなのに、どこかで「自分は一線を越えていない」なんて、勝手に思っていた。
なんでそんなふうに思ってたのか、わからない。
でも、そう信じたかったのかもしれない。
今から──私は、その線を越える。
私のせいだ、それは間違いないと思う。
なんで“個性”を隠されていたのか、本当の理由はよくわからない。
けど、「使うな」と言われていたのに使ってしまった。
あのとき、本当は──みんなを見捨てるべきだったのかな。
わからない。わかるのは私の責任ってことだけ。
だからせめて、必要な分だけ。
引っ越しに必要な分だけ……って、いくらなんだろう。
「お金」
手の中に現れたのは一万円札が束になったもの。
テレビで見た、アタッシュケースにも入ってた”大金”の象徴。
「やっぱ金も呼べるのねあんた。」
煙草を灰皿に押し付けてユウのほうに向かってくる。
その手に乗る札束を取り上げ、パラパラとめくり、首を傾げた。
「でもこれだけ?まぁいいっか」
「じゃ、部屋入ってなさい。あんたもう外出るの禁止ね」
そう言って、母はユウに背を向け机の上のリモコンでテレビをつける。
椅子に座り、新しい缶を開ける。
もう話は終わった、という態度だった。
ユウは立ったまま、その横顔を見ていた。
テレビの音だけが、虚しく響いていた。
彼女の“個性”は、”声に応じて物を呼ぶ”。
でも、この日から──
ユウの声は、“出してはいけない”ものになった。
だから口を開くのを──やめた。
意志を持たない声はただの音と変わらないから。