ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

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2話 境界を踏んだ日

 

 

 

 

 

 

小学校、入学式の日。

 

母の声がした。いつもより少しだけ、よそ行きの声だった。

隣を歩くその人は、背筋を伸ばしながら、何かを見ている。

 

手はつながなかった。

 

帰るまで一度も私の名前を呼ばなかったけど、拍手のときだけは誰よりも早かった。

 

「よかったね」と言ったあと、彼女はスマホを見ながら帰っていった。

その背中は、晴れ着のように派手で、でも、とても遠かった。

 

「あー」

 

母がそんな声を出して振り向く。

 

「ちゃんとやるのよ。変なことしないでね」

 

“個性”は使うな。

要約すればそれだけ言い残して、もう一度振り返ることなく歩いて行った。

 

 

教室に入ると、知らない子どもたちが机に座っていた。

にぎやかで、少しうるさくて、だけど誰もユウのことは気にしていなかった。

 

ユウは、そっと一番後ろの席に座った。

 

──そう、ここは「違う場所」だ。

 

「知らないふり」をしていても、誰にも叱られない。

「話さなくても」、お腹が空いたり、叩かれたりはしない。

 

でも、悪い子は怒られる場所。

へんな子は居ちゃいけない所。

これも全部記憶が教えてくれた。

 

だから、決めたんだ。

ここでも「いい子のふり」をしよう、と。

 

返事は「はい」と言う。

わからないときも、頷いておく。

手はまっすぐ挙げる。目は黒板だけを見つめる。

 

声は明るく、語尾は丁寧に。

表情は“愛想がいい”と呼ばれるものを、鏡の前で何度も練習した。

 

勉強も運動も、ずるいけど”答えを知ってる”から他の子よりもできちゃうと思う。

 

ふたり以外とは話すことがないからわからない。

でも、たぶんそう。

 

ずるいよね。

だって、私がそんなできる子なわけ、ないもの。

普通の子ってわからないけど、記憶が言うに私は枠の外。

 

だから、たまにほんの少しだけ、失敗しよう。

 

(問題にならなければ、それでいい)

(変な目で見られなければ、それでいい)

 

“いい子”になれば、誰も近づきすぎてこない。

“優等生”のままなら、誰も”私”を求めない。

 

──その方が、楽だと思った。

 

実際、そう生活していると楽だった。

学校での出来事はすべて、テレビの中の出来事みたい。

 

遠くて、ガラス越しに流れていく感じ。

 

 

それでも、たまに。

 

隣の子が消しゴムを落としたときに、拾っても「ありがとう」と言ってもらえないと、

ほんのすこし、胸の奥がきしんだ。

 

先生が、誰かの失敗に怒っているとき、

自分も怒られるような気がして、手が震えた。

 

「夕紬さんは、何でも一人でできてえらいね」

 

そう言われるたびに、何かが遠ざかっていくような気がした。

 

──でも、これでいい。

 

家庭の中では「使える子」、

学校の中では「優等生」。

 

どちらにも、必要なものになればいいだけ。

 

ただ、そういう風に見せればいい。

そういう風に、生きていればいい。

 

だから、今日も笑う。

 

 

本当は、誰とも目を合わせたくないくせに。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

昇降口の軒下。

鈍い空の色と、アスファルトを叩く雨音が、やけに大きく響いていた。

 

みんなが次々に傘を開いて帰っていく中で、

一人だけ、動かずに立っている女の子がいた。

 

濡れない場所で、傘も持たず、壁の端で、何かを待つようにじっとしている。

 

視線は落としたまま。

 

表情もわからない。

 

 

 

緑谷出久は、その姿に足を止めた。

心臓が跳ねる。

でも、目は逸らせなかった。

 

(……困ってる。たぶん、困ってる……よね?)

 

傘を差し出すべきだ、ってすぐに思った。

でも──声が、出なかった。

 

(……ぼ、ぼくが……?でも、……!)

 

 

 

何度も開きかけた口を、何度も閉じる。

でも、足は勝手に前に出ていた。

 

 

そして、ほんの一歩前へ出たその瞬間。

 

「っ、こ、こ、これッ!!よかったらッ!」

 

 

 

急に大きくなった自分の声に、自分でビクッとする。

女の子は、わずかにまつ毛を揺らした。

 

緑谷はオールマイトのイラストが入った傘をぎゅっとにぎりしめる。

 

「ぼくは、べ、別にっ、平気だよ!走って帰るから!!」

 

 

そのまま傘を差し出す。

けれど、うまく言えなくて、差し出すというより──押しつけるような形になった。

 

 

 

「そ、それじゃあ!!」

 

相手の反応も、返事も待たずに、くるっと背を向けて走り出す。

 

靴が濡れる。ズボンの裾に跳ねた水が冷たい。

でも、頭の中はそれどころじゃなかった。

 

(うわぁああああ!いまの!ぜったい変だった!)

 

耳まで真っ赤になったまま、彼はふわふわな髪もびしょ濡れにして走っていく。

 

それでも。

 

 

 

 

昇降口には──一本の傘と、その傘を見つめる無表情の少女が、静かに残っていた。

 

 

オールマイトが笑っているその傘を、

彼女は、しばらく黙ったまま見つめていた。

 

 

 

 

 

 

人がくれたものを、粗末にしてはいけない。

それは、“善い子”が守るべきルール。

 

ユウは傘を開き、歩き出す。

 

足元に跳ねる水は冷たいのに、

どこか、ほんのすこしだけ──“あたたかい”帰路だった。

 

 

 

帰宅後、傘を干し、どう彼に返すか考えていたら父が来た。

オールマイトの書かれた子供用の傘を一瞥すると蹴り飛ばす。

 

「んだこれ?邪魔なんだよ、こんなところに置くな」

 

 

 

 

──ボキッと折れた音がした。

見られなかった。たぶん、角度が悪かったのだろうか、そういうことにしよう。

 

ユウは、喉の奥がぎゅっと詰まるのを飲み込み、ただ静かに目を伏せた。

 

大丈夫、壊れても私の“個性”なら大丈夫。

 

呼び出せばいい。

 

 

でもそれは、誤魔化しでしかないと思った。

 

同じかたち。

同じ色。

きっと、同じ商品として売られているもの。

 

呼び出したものは、同じ商品でも違う物だ。

それに思いは付帯しない。

 

──この傘はあの男の子、思い出の品だったんじゃないのかな。

 

 

私は、誰かの思いを、踏みにじったのだろうか。

 

奥底に詰まった何か、名状しがたいものが呼吸を許してくれなかった。

 

 

 

記憶の中の誰かを真似て、自分に言い聞かせる。

うん……そうだね、今度からはちゃんと断ろう。

 

そう思えば、やっと息が吸えた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「夕紬ちゃんなら、できるよね?」

 

「はい」

 

そんなやりとりをたくさんしてきた。

やりすぎちゃいけないのに、

まだ、上手に調整できなくて、いい子過ぎちゃった。

 

本当は、もっと失敗しなきゃいけなかった。

でも、先生の失望の視線が怖くて──

いつの間にか、“できる子”になりすぎていた。

 

先生の期待が、私を突き刺す。

ほかの子に求めない、何かを求めてくるようになった。

それは日常の仕草だったり、勉強だったり。

 

きみならーー夕紬ちゃんならーー千響さんならーー

 

そんな言葉に押しつぶされそうな日々。

 

このままじゃ潰れると判断できたのは記憶のおかげ。

 

だから少しだけ、できない子になるように努力した。

もう少し間違えることを増やしてみたり、期待に沿えないフリをしたり。

調整しようと、がんばった。

 

 

でも、恐怖は消えてくれなかった。

だから、眠れない夜が──ずっと、続いていた。

 

 

誰にも言えない。

どこにも逃げられない。

 

そんな夜が、ずっと続いた。

 

だから、ある夜。

 

ユウは布団の中で埃をかぶったラジオに手を伸ばした。

 

 

かすれた音が流れる、父が適当に流していて知った声。

それは何処かで聞いたことのある声、だった。

 

たぶん、これも記憶が、”覚えていた”。

 

──夜は、誰のものでもない。

──でも、君のものでもある。

 

どこか軽やかで、けれど優しい、そんな声。

 

プレゼント・マイクの、深夜番組だった。

駆け出しヒーローの彼は、記憶の中よりずっと幼い。

それでも、まだ不慣れでも、リスナーの声に耳を澄ませていた。

 

その人は、世界のどこかで誰かの悩みに答えてくれる。

 

「学校でうまく話せない」

「“個性”が役に立たない気がする」

 

誰かにとっては胸の内に潜めた、静かな悩み。

それをひとつ、ひとつ、大切に解いてくれる。

 

 

誰もいない。

 

誰も見ていない。

 

ユウは、ポケットからこっそり隠していた小さな端末を取り出した。

 

“個性”で手に入れたものだった。

 

たくさん呼び出したものの中から一つだけ、こっそりしまった宝物。

間違いなく、怒られる。

 

でも──

 

『こんばんは。いつもラジオを聞いています。

 すごく、楽しいです。

 お兄さんの優しい声を聞くと、遠くに誰か優しい人がいるんだなって思えます。

 ありがとうございます。』

 

端末の画面に、震える指で文字を打ち込む。

宛先は、プレゼント・マイクの番組の投稿フォーム。

 

 

(送るだけ、誰かに見つかるわけじゃない)

 

 

そう自分に言い聞かせても、心臓の音はバクバクとうるさかった。

 

それでも──

送り先を間違えないように、何度も確認して、そっと送信ボタンを押した。

ぴ、と小さな音。

画面に「送信完了」の文字が浮かんだ。

 

 

 

ユウは、小さく息を吐く。

 

 

 

これで何かが変わるわけじゃない。

 

 

きっと、読まれることもないだろう。

 

返信が来るわけでもない。

 

 

 

でも──

 

 

 

「……なんでだろ」

 

 

 

誰かに、自分の声を、聴いてほしかった……のかな。

言葉にならない想いが、指先からこぼれていたような気がした。

 

 

 

ラジオから流れるマイクの明るいトークに、ユウはそっと目を閉じる。

 

 

 

この声だけが、ユウを外の世界へ繋げていた。

 

 

たとえ、届かなくても。

たとえ、独りでも。

 

 

独りぼっちじゃない気がした。

ただその感覚に救われた。

 

 

かすれた音が、闇を優しく満たしていく。

 

ユウはそっと抱きしめるようにして、ラジオに耳を傾け続けた。

 

 

 

──それが、最初の手紙だった。

 

以降、毎週、ユウは感想メールを送っていた。

 

内容は、ほんの他愛ないことばかりだった。

「今日の曲、素敵でした」とか、「猫の話が面白かったです」とか。

読まれる価値なんて、きっとない。

それでも、まるで日記のように──毎週、言葉を届け続けた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

春の終わりのグラウンド。

 

小学校のクラス対抗リレー。

ユウは自分のチームの最後の走者に割り当てられていた。

 

隣のクラスには、爆豪勝己という男子がいた。

 

成績はいつも上位。

質問にも迷わず手を挙げて、だいたい正解する。

走れば速いし、怒ると手が出そうになるから、ちょっと怖い。

 

ユウは、彼のことをよく知らない。

 

でも、なんとなく、彼には負けておいた方がいい気がした。

 

(……ここで勝っても、たぶん、雰囲気が悪くなる)

 

今日のチームはバトンの受け渡しも拙く、途中でこけた子もいた。

勝てる空気じゃなかった。

 

だから、ユウは判断する。

 

(一歩、遅れる)

 

ほんのわずか、出足をずらした。

 

爆豪は真っ直ぐ走ってくる。

眩しいくらい一直線で、思ったよりも速かった。

 

その姿に、心がざわついた。

 

(ああいうのを、“まっすぐ”って言うんだ)

 

自分のは違う。

知識と、経験と、空気の読み合いで取った「正解」だ。

ずるいと、わかってやっている。

 

──そんな自分を、ユウは少しだけ嫌っていた。

 

 

 

「なあ」

 

リレーのあと、爆豪に呼び止められた。

 

「お前、前もそーだったよな」

 

「え?」

 

「なんか走りが変。手抜いてる?」

 

「あはは、そんなことないよ?」

 

「……変なやつ」

 

それだけ言って、行ってしまった。

 

ユウは何も言い返さなかった。

 

(“変”って、わかるんだ)

 

たった一度のレース、数分のすれ違い。

それだけで、あの子は、自分を「変だ」と思った。

 

ユウは、口元だけを笑った。

 

気付かれないように、演じていたつもりだった。

けれど、まっすぐな目には、きっと、透けて見えてしまうのだ。

 

「ずるく生きてる子」だって。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

昼休み。

空は、静かに晴れていた。

 

校庭の隅、ユウはフェンスの影でしゃがんでいた。

誰にも見つからない場所を、無意識に選ぶ癖は、いつの間にか身についていた。

 

遠くで子どもたちの声がしていた。

笑い声、走る音、ボールの弾む音。

――そこに、自分の名前は混ざっていなかったけど、それでいい。

 

「混ざらない」のと「混ざれない」のは、似ているようで、違う。

 

砂が風に乗って、フェンスの隙間からわずかに舞った。

 

その時だった。

 

 

 

──空気が、変わった。

 

ユウだけが気づいた。

 

胸の奥がざらつく。

鼻の奥にひっかかる匂い。

その感覚は、記憶にこびり付いた感覚を呼び起こす。

 

(……似てる)

 

ユウは目を逸らさずにフェンスの向こうを見つめ、眉をひそめた。

この息の詰まるような感覚。どこかで嗅いだことのある、“親の気配”。

 

笑っていないのに、口元だけが歪んでいた、あの顔。

 

おい、と呼ばれる前に、殴られるのがわかってしまうような気配。

 

誰かを傷つける人の匂い。

 

 

呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。

 

 

 

通用門の鍵が、カチャリと鳴った。

でも、それに気づいたのはまだ、ユウだけだった。

職員でも、保護者でもない。

 

重い金属の音が、午前の空気をわずかに割った。

 

扉が開く。

スーツの男が入ってくる。

 

髪は整い、ネクタイも曲がっていない。

でも、口元だけが、笑っていた。目はまったく、笑っていなかった。

歩く足音がしない。地面を滑るような、音を嫌う歩き方。

 

「おじさん!どーしたの?」

 

無邪気な声が飛ぶ。

それを止める暇はなかった。

 

 

 

「……あれ……?」

 

男に駆け寄った子どもが、急に立ち止まり、喉に手をあて、ゆっくりと倒れた。

白い制服に、鼻血がひとすじ――つぅ、と伝う。

 

 

 

最初に反応したのは、空気だった。

何かが焦げるような匂い。風は吹いていないのに、喉がひりつく。ひどく熱い。

 

騒ぎが広がる前に、少年が一人、男の前に立ちはだかった。

 

 

 

金色の髪が、陽光を跳ね返す。爆豪勝己だった。

すぐ隣にいたのは、戸惑いの表情を浮かべる緑谷出久。

 

「……おい。お前、誰だよ」

 

爆豪の声が低く響く。

男が、ゆっくりと彼を見た。

歩き出した、そのとき。周囲の空気が音を立てて歪み出す。

 

 

「…せんせいっ!」「ヒーロー!」「だれか!」

 

子どもたちの悲鳴が重なる中で、

でも誰もがヒーローを、救いを求めていた。

 

声にならないほど小さく、でも確かに、それはユウの口から零れていた。

 

 

 

「……ヒーロー……?」

 

 

 

囁くような声だった。

でも、それだけで十分だった。

 

 

街で知られたヒーローが、風のように校庭に現れた。

 

 

ユウの声に“何か”が、呼ばれてしまった。

 

音も、歪みも、演出すらない。

ただ、“いつの間にかそこにいる”。

 

 

 

その瞬間。

ヒーローの視線が、一瞬だけユウを捉えた。

 

 

 

「……君が、俺を?」

 

そう聞こえた気がした。

実際に声が出ていたのかもわからない。けれど、その目が答えを探していた。

ユウは、思わず顔を伏せた。体から熱が引く。

私じゃない。そう思いたかった。

でも、声を出したのは自分だ。

 

現実が、音もなく、足元に落ちていた。

 

 

 

ユウの指先が震えた。

それでも敵を、そっと指差す。それが責任だと思ったから。

 

 

そのとき、影が落ちた。

 

目の前に、すっと伸びる腕。

 

ヒーローは何も言わなかった。

ただ、ぽん、とユウの頭に手を置いた。

 

途端、体の震えが止まった。

 

撫でるでもなく、包むでもなく──

でも、大丈夫と私を気遣い、安心させるような仕草だった。

 

──ああ、この人は、「私を見た」のかもしれない。

 

そんな確かな、でも願いみたいな実感が、ほんの一瞬だけ、胸を揺らした。

 

 

ユウは少しだけ目を見開く。

 

そして、次の瞬間。

風がひとつ吹いた。

 

顔を上げたときには、ヒーローはもう敵を抑えていた。

無言のまま、全てを終えていた。

音もなく。迷いもなく。

 

校庭に、ようやく音が戻る。

 

子どもたちの声。泣き声、安堵の声。

先生たちの呼びかけ。地面を蹴る音。

 

でも、ユウは動けなかった。

ここから立ち去ろうとも思ったけど、それは良くないことだ。

 

「……君の……“個性”?」

 

緑谷の小さな声が、遠くに落ちた。

 

先生が駆け寄ってくる。

 

「ユウちゃん、大丈夫!? 怪我は?」

 

ユウはゆっくりと、首を横に振る。

 

「……うん、大丈夫」

 

「ヒーローを、呼んだって聞いたけど、今の……君の“個性”?」

 

その問いに、ユウは答えなかった。

答えられなかった。

 

ただ、まぶたを伏せて、小さく息を吐いた。

 

──使ってしまった。

 

それが、すべてだった。

 

守りたかったわけじゃない。

助けたかったわけでもない。

ただ、漏れた声が、誰かを動かした。

 

それが“個性”だと、証明してしまった。

 

(……もう隠せない)

 

そう思った。

そう、悟った。

 

戸惑う教師に頭を下げてひとり、立ち尽くしていた。

 

これから、何かが変わっていく。

もう、今までのようには、いられない。

 

けれど。

 

(……届くんだ)

 

声って。

 

声を出す時って、自分を嫌いにならなくていいんだ。

 

私のじゃない。

借りもの思いを乗せた音だったけど、

それでも、ヒーローは――来た。

 

それだけは、確かな事実だった。

 

そしてその事実が、ユウの中に、暖かな光を指す。

同時に冷たく終わりの鐘を鳴らす。

 

 

誰にも見つからないように、ユウは教師のあとをそっと追う。

 

──ただ、2人の子供は、彼女を見ていた。

 

けれどその視線に、ユウは気づかない。

 

見つからないふりではない。

今だけは、本当にそうありたいと願って──

ただ、そこに立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

リビングの扉が閉まる音と同時に、空気が変わった。

 

ダンっと空き缶がユウの近くに投げられて壁を打つ音が、やけに大きく響く。

机を蹴る足がテーブルを揺らす。怒りだけではなく、呆れに近い静けさを纏って。

 

 

 

「ねぇ、何様のつもりなの?」

 

 

 

その声に、ユウは顔を上げる。

壁際に立ったまま、顔だけを母の方へ向ける。

 

 

 

「学校から連絡があったわ。“個性を使ってヒーローを呼んだ”って」

「“個性”持ちだったんだって。先生も驚いてた」

「そうよね、“無個性”で登録してたのに──」

 

 

 

母の口元が、ぐっと吊り上がる。

 

「バレたら終わりだって、言ってたよね?」

 

「せっかく隠してたのに。うち以外で使うなって言ったわよね?」

 

 

 

ユウは、静かに目を伏せる。

 

 

 

「──ごめんなさい」

 

 

 

小さく、息に紛れるような声だった。

何で使ったのか、自分でもわからなかった、ただ、助けを求める声をなくしちゃいけない気がした。

 

 

 

母の顔が一瞬、引きつる。

 

 

 

「……はぁ?」

「謝れば済むと思ったの? 最初からやらなきゃいいでしょ」

「そもそもね、そういうのは“誰かに求められてから”やるもんなの」

「それを勝手に使うって、何様なの?」

「あんたなんかが自分の意思で使っていいって、誰が言った?いつ許可したのよ、ねぇ」

 

 

 

テーブルに置かれたスマホを、母が握りしめる。

 

 

 

「せっかくここまで、波風立たせずに済んできたのに」

「何のために“個性なし”で登録したと思ってるの」

 

「私たちのためよ。あんたが“安全に使える”ようにするためよ」

「ちゃんと、家の中で、ルールを守って使ってれば──問題なかったのに」

 

 

 

 

ユウは、母の顔を見なかった。

 

ただ、少しだけ目を閉じて、呼吸を一つだけ吐いた。

 

 

「それとも──もう、出てきたい?」

 

 

──どこに?

頭に浮かんだのはそれだけ。私の行ける場所ってどこにあるのかな。

 

「だって、私の言うことも聞けないんじゃもう面倒なんて見れないでしょ?ねぇ夕紬」

 

母はどこか優しく笑いかけた。

答えは一つしか許されていないとユウは悟る。

 

「もう、言いつけは破りません」

 

「口だけなら何でも言えるわよ。そうだ、じゃ、これ呼び出してよ」

 

ぺらっと一万円札を床に落とした。

 

 

「だって……もうここにはいられないわよね?それって誰のせい?ねぇ誰のせいで引っ越さないといけないの?答えなさいよ」

 

「……わたしのせい」

 

「でしょ?なら、やるわよね?」 

 

母の動きが止まった。

空気が、ぴんと張り詰めた。

 

 

つばを飲み込もうとして、口が乾いていることに気づいた。

これは──明確な犯罪だ。

 

欲しいものを呼び出すということは、誰かのものを“奪っている”ということ。

わかっていたはずなのに、どこかで「自分は一線を越えていない」なんて、勝手に思っていた。

なんでそんなふうに思ってたのか、わからない。

でも、そう信じたかったのかもしれない。

 

今から──私は、その線を越える。

 

私のせいだ、それは間違いないと思う。

なんで“個性”を隠されていたのか、本当の理由はよくわからない。

けど、「使うな」と言われていたのに使ってしまった。

 

あのとき、本当は──みんなを見捨てるべきだったのかな。

 

わからない。わかるのは私の責任ってことだけ。

 

だからせめて、必要な分だけ。

引っ越しに必要な分だけ……って、いくらなんだろう。

 

 

「お金」

 

手の中に現れたのは一万円札が束になったもの。

テレビで見た、アタッシュケースにも入ってた”大金”の象徴。

 

「やっぱ金も呼べるのねあんた。」

 

煙草を灰皿に押し付けてユウのほうに向かってくる。

その手に乗る札束を取り上げ、パラパラとめくり、首を傾げた。

 

「でもこれだけ?まぁいいっか」

「じゃ、部屋入ってなさい。あんたもう外出るの禁止ね」

 

 

そう言って、母はユウに背を向け机の上のリモコンでテレビをつける。

椅子に座り、新しい缶を開ける。

もう話は終わった、という態度だった。

 

ユウは立ったまま、その横顔を見ていた。

テレビの音だけが、虚しく響いていた。

 

 

 

彼女の“個性”は、”声に応じて物を呼ぶ”。

 

でも、この日から──

ユウの声は、“出してはいけない”ものになった。

 

だから口を開くのを──やめた。

意志を持たない声はただの音と変わらないから。

 

 

 

 

 

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