ダン、と扉が閉まる音がした。
新しい家だった。
前の家と大差のない、団地の一室。
けれど、カーテンは最初から閉じられていて、窓には施錠された補助錠がついていた。
それから、二人の荷物がほとんどない。
「今日からここが新しい家だから」
母の声が響く。
どこか優しいようでいて、命令に近い響きだった。
「今度はちゃんと言いつけ守りなさいよ」
ユウは、ただ黙って頷いた。
ユウの部屋と案内された壁には、小さな監視カメラのようなものがあった。
最初は気のせいかと思ったけれど、動くたびに、小さく赤いランプが点いた。
部屋にはスマホも、テレビもなかった。
ラジオすらなかった。
「ここなら安全でしょ、あんたは部屋入ってて」
(……安全?)
なら、“何もしなくてもいい”ってこと?
誰の役に立たなくても、叱られない?
……そんなわけ、ないか。
ユウは静かに壁に背を預けた。
あり得ない、そんなことはわかっている。
でも何かにすがらないと彼女の心はもう持たない。
部屋の隅の光が、午後の死角のように、彼女の姿を塗り潰していた。
***
その日、リビングにだけ異常なほどの光が入っていた。
カーテンが開かれていたのは、ユウがこの家に来てから、初めてのことだった。
「今日、お客さんが来るの。お医者さん。あなたのことを“心配してる”人よ」
母は、キッチンの奥で何かを準備しながら言った。
声のトーンは優しい。でも、言葉の端がぴしりと鋭い。
「でもね。あんたが話す必要はないから。」
「……」
「私がぜんぶ、答えるから。先生が訊いても、黙って。
それが、“いちばん良い形”なんだから」
ユウはうなずいた。
玄関のチャイムが鳴る。
母は少し高い声で「はーい」と応じた。
訪れたのは、保健師兼カウンセラーという肩書の女性だった。
年齢は母とそう変わらない。やわらかいベージュのスーツに、淡い香水の匂い。
「こんにちは、夕紬ちゃん。……おじゃましますね」
ユウは、声を返さない。
カウンセラーは、母の出したお茶をひと口飲みながら話を切り出した。
「先日はびっくりしました。
でも、今は落ち着いてきたそうで、よかったですね」
母は、少しだけ目尻を下げて笑った。
「ええ、おかげさまで。まだ、自分の“声”を怖がってるみたいなんです」
「そうですか……“自分の“個性”をコントロールできない”って、自責に繋がりやすい子も多いので……」
その言葉に、母がすかさずうなずく。
私のことなのに、知らない話が進んでいく。
「もう、まさにそれで。自分を責めちゃって。だから、家の中でも声を出せなくなっちゃって……
それに、この子のために環境を変えたくて、引っ越しもしてみたんですが……」
「ずっと、黙ってるんですか?」
母は、ふとユウの方を見る。
「……ね?夕紬。……ご挨拶、できる?」
ユウは、ゆっくりとカウンセラーの方を向いた。
そして口を開こうとして──
やめた。
何も言わなかった。
ただ、首を小さく横に振った。
その動作が、“全て”を語っていた。
カウンセラーは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに笑顔に戻る。
「……大丈夫。挨拶できない日もあるよね。ありがとう、顔を見せてくれて」
カウンセラーが帰ったあと、
母はドアの音が完全に消えたことを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。
ユウのほうは一瞥もせず、リビングの引き出しを開けて、小さなタブレットを取り出す。
「……ちょっとだけ、試してみましょ」
声色はやわらかかった。
でも、その言葉には、何の“遊び”もなかった。
母が画面に映したのは、宝石店の陳列棚の写真だった。
ガラスケースの中に並べられた、高価なアクセサリー。
リング、ネックレス、時計。
どれも、小さな白いタグがぶら下がっていた。
バーコードと店舗情報が印字されている、防犯タグ。
「ねえ、夕紬」
母はタブレットをこちらに傾けながら、目だけを細める。
「この真ん中の指輪、綺麗よね。……でも、タグがついてるから“普通”は盗れないの」
「でもさ。あんたの“声”なら、“本体だけ”呼べたりしない?」
淡々と。
まるで宿題でも出すように。
「タグ“なしで”、指輪“だけ”を、ちゃんと“イメージして”」
「前にバッグ呼んだときも、タグとか箱はついてこなかったでしょ?“あれと同じ感覚”でいけると思うのよ」
ユウは黙ったまま、画面を見つめる。
写真越しのリングは、確かに綺麗だった。
タグも写っているけれど、“自分が呼びたいのはどれか”を、選ぶ感覚はもう、わかっていた。
だから、ゆっくりと、息を吐いて──
「……プラチナリング」
空間が、ぴしりと割れる。
ほんのかすかに、空気がひるがえった。
音も無く床に、指輪が転がった。
──タグは、ついていなかった。
母はそれを拾い上げる。
手袋もしていない指で、ゆっくりと光を確認する。
「……すごい。ほんとに、本体だけ」
その声には、もはや“驚き”はなかった。
代わりにあったのは、確信。
「やっぱり、これは……使えるわ」
母はくすくすと笑う。
視線は指輪の輝きに注がれている。
その目に、ユウは映っていなかった。
ユウは、何も言わなかった。
ただ、自分の口が“もう引き返せないもの”をまた一つ呼び出したことを、確かに理解していた。
そして。
それでも呼べてしまう自分がいることに、静かに、怯えていた。
──ただの“出来事”ではない。
それは、自分が「できてしまう」という事実。
意志も願いもなくとも、求められれば応えてしまう。
それが「自分の体に組み込まれている」という感覚。
呼びたくなかった。
でも、呼べてしまった。
ドアが開く音がしたのは、その数分後だった。
父が帰ってきた。
「おかえりなさい」
形式的な挨拶。母は席を立ち、ユウの呼び出したリングを指で弾くように机に転がした。
「──見て。今日の成果」
父の動きが止まる。
指輪に目を留め、ゆっくりと眉を上げる。
「……本物か?」
「ええ。タグはついてなかったわ。あの子が“本体だけ”を呼んだの」
「……へぇ」
父は言葉にならない息を漏らしながら、指輪を手に取り、光にかざす。
その顔が、じわりとほころんだ。
「やるな……!あのガキ……!」
ユウは黙っていた。
顔を上げなかった。
机の影で、拳を握っていた。
──でも、わかっていた。
次の瞬間には、二人の視線がこちらを向くことを。
「なあ……まだ他に、試してないんだろ?」
父の声が、妙に抑えた調子で響く。
低く、濁った興奮を隠しきれない声。
「どのくらいの精度で、どれだけの距離で、どうやって出せるか。……まだ試せるよな?」
「ええ。まだまだ、“育つ”わ。あの子」
母が笑う。
指輪の光が、二人の顔を不気味に照らしていた。
二人の目が、ユウに向けられる。
まるで、金を掘り当てた鉱山を見つめるような眼差しだった。
「なぁ、夕紬──」
声がした。
でも、何を言われたかは覚えていない。
ただ。
その時に感じた、空気の色だけは、はっきりと記憶に残っている。
欲望の色だった。
なにかを“見つけた”ときの目。
それは、守りたいという光ではなく──
試して、使って、消費するだけの、輝きだった。
自分を“子ども”としてではなく、“機能”として見ている人間たちの目。
もう、逃げ道はなかった。
その夜から、ユウは「呼び出すこと」をやめられなくなった。
──誰も、ユウの“声”を、聞いてなどいなかったのに。
****
声を出さなくなってからもずっと、お便りだけは送り続けた。
ばれないように布団の中でそっと隠した端末とイヤホンで聞く。
あれはあくまで感想文。
ラジオを聞いてどう思ったかを書くだけで、何をしたいかは書かないで良いから、これは私の声ではない。
ただ、無意味な文章、でも、そんな便りが数十と積み重なった頃。
胸に巣食う思いに目を逸らせなくなった。
(やだなぁ…)
どんな“個性”でもヒーローを目指す子供を知った。
逆光に晒されても立ち向かう曲を知った。
それはゆっくりとだが着実にユウを蝕む。
──このままでいいのか?
ユウは迷う。
迷って、迷って、初めて“相談”した。
どうせ読まれない。
それでも文字にする事には意味があると信じて。
長くなってしまったが要約すれば簡単。
「いやって言ってみたいです」
言いたかったのはそれだけ。
それは、ユウにとって初めての“希望”だった。
メールを送った夜、ユウはラジオを聴きながら、布団の中で小さく丸まっていた。
放送の中で、その話題が出た。
自分のメールかどうかはわからなかった。
けれど、彼は言った。
『世の中には、我慢しなきゃいけないこともある。
けど、"いやだ"って思う心まで、殺しちゃいけないぜ。』
その声が、胸に染みた。
(言ってよかった、のかな)
始まりは、コンビニの商品だった。
スマホに写した画像。化粧品の瓶をなぞる指。
「これ呼べる?」って、母は笑って聞いてきた。
でもここに来てからは金品ばかり。
そのうち、量が増えていった。
「二つ」「五つ」「箱で呼べない?」
──“できたから”、次が来る。
“やれる”と思われるから、次はもっと遠く、もっと複雑なものが来る。
最近は、何かの設計図や、IDコードが印刷された紙の写真を見せられる。
「これ、サポートアイテム用の部品らしいわ。難しいけど、やってみて」
母の言い方は、いつも明るい。
「すごい」「ほんと助かるわ」
けど、その言葉の中に、“私”は入ってなかった。
父はもう、笑わない。
ただ、当たり前のように“次の指示”を出す。
「これも」「次も」「次はまだか」
数えないようにしてる。
でも、無意識に数えてしまう。
あと、何回。
私は、自分を嫌いになればいい?
それとも、「私なんて、もういない」って思えば、楽になれる?
──でも、それすら、臆病な私は、たぶんできない。
ぼんやりとした部屋の隅で、ユウは膝を抱えていた。
あの言葉を思い出していた、ラジオから、いつもより少しだけ、低くて、
でも確かにあたたかい声が響いてきた時。
──『世の中には、我慢しなきゃいけないこともある。
けど、"いやだ"って思う心まで、殺しちゃいけないぜ。』
胸の奥に、じん、と重く落ちた。
(……いいの、かな……)
小さく震える指先が首に触れる。
ずっと、黙って、耐えて、
それが"いい子"だと思ってた。
でも。
──『自分を大事にしたくて、"いやだ"って思ったなら──オレは、それをちゃんと認めたい。』
ラジオから流れる声が、
ユウだけに向かって、そっと手を伸ばしてくれた気がした。
涙が、滲んだ。
誰にも、言えなかった。
誰にも、気付いてもらえなかった。
ずっと、ずっと、独りだと思ってた。
でも、もしかしたら。
ほんの、ほんの少しだけど──
この"声"は、届いたのかもしれない。
***
それはユウの平穏を破壊する音。
どこからともなく頭の中で、彼の軽快な声が響いているのに、掻き消すような親の声が、命令が聞こえた。
ユウは静かに“個性”を使おうと口を開いた時──
『──どんなに暗い夜でも、顔を上げろ。星はいつだって、そこにある!』
プレゼント・マイクの声が鮮明に脳裏を駆けた。
やけに明るくて、まっすぐで、ユウの小さな胸に少しだけ火を灯した。
目が古ぼけた窓に向かう、いつの間にか柵も増えてしまったけど、
冷たい鉄の間からぼんやりと、でもあたたかな星が瞬いていた。
(──あそこに、行けたら)
どこかで聞いたようなヒーローの名前が、ふと脳裏をかすめた。
前の世界で、何度も憧れた、光の象徴。
怖かった。けれど、心のどこかが疼いていた。
「……いやだ」
ユウは小さな声でつぶやいた。
それでも、言葉にした。
それは、生まれて初めての反抗だった。
「……なんだと?」
父親の顔がぐにゃりと歪んだ。
ユウは一歩も引かなかった。
膝が震えても、喉が乾いても、目を逸らさずに言った。
「──いやだ」
それは、かすれた、でも確かな声だった。
父の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
ポケットから何かを取り出した。
次の瞬間、冷たい刃が、するりとユウの喉元に当てられた。
刃物──ナイフで薄い皮膚がちりりと切れ、血のにおいがふわりと漂う。
それでも、ユウは動かなかった。
怖かった。
死ぬかもしれなかった。
でも、ここで屈したら、何も変わらない。
何も、掴めない。
「歯向かうってのか……!」
それでもユウは目をそらさない。
父親がナイフをぎり、と押し付け──
「……んだ、その目は!」
口角だけを吊り上げ、父親はナイフをひいた。
目には恐怖があった。
でもそれ以上に、笑ってた。
あふれる血液は温かいのに皮膚を伝わり冷たくなる。
息が、苦しい。
先ほどとは違う、確かな、死の気配。
本当に、死ぬ……?
押さえるユウは咄嗟に二人を見上げた、でも両親はただ見つめる。
父が黒い鞄から取り出したのは、無機質な銀色の医療器具だった。
ホッチキスに似た形だが、見たこともないような高機能の医療用ツールだった。
「すげぇよな、すぐ直せるんだってよ」
「……わかるか?」
冷たく、乾いた声。
「どこを切っても、直せる。でも、痛みだけはちゃんと残る」
にやりと笑う父親の顔が、狂気に満ちていた。
「死にたくないなら、“個性”を使え」
選択肢は、なかった。
死ぬ勇気なんて、ないんだよ。
──まだ、生きたいと思ってしまった。
唇が震えた。
手が、かすかに伸びた。
そして、無理やり心をねじ伏せて、“個性”を使った。
ぽたり、と心の中で何かが崩れ落ちた気がした。
父親は満足げに笑った。
「……そう、それでいいんだ」
その言葉が、ナイフよりも鋭く心を裂いた。
ラジオの向こうの星も、ヒーローも、もう手が届かない場所にあるように思えた。
星に手を伸ばした翼は、その夜、音もなく折れた。
ユウは、深く深く、心を沈めた。
生きるためだけに。
泣きも、叫びも、笑いも、すべてを押し殺して。
ただ、次の命令に、静かに従う。
冷たい夜の中、かすかにラジオの音だけが、遠く遠く響いていた。
そこから、“個性”の使用を命令ではなく、“生命維持”のためのものへと変化した。
指示と共に首を切られる日常。ユウの心を砕くだけの作業。
そして、声を抑制するためのサポートアイテムを着けさせられた。
――意志を持つことには、意味なんてないんだ。
***
その日は父が妙に焦っていた、だから、加減を間違えたのだろう。
「さっさとしろ……!」
乾いた音とともに、ナイフが首筋をかすめた。
痛みに体が固まらなくなったのはいつからだろう。
ズルッと皮膚が裂ける感覚。
熱いものが、喉の奥から零れていく。
ユウは叫ばなかった。
血が喉を満たし、声を出せなかった。
「──あ、れ?」
母の声がかすれる。
垂れた血の量が、今までとは違っていた。
喉からこぼれた赤が、床に大きな水たまりを作る。
「おい……ねぇ、ちょっと、これまずくない?」
「え? え、え、こんなに?」
母の声が揺れる。
その奥で、父が舌打ちを響かせた。
「クソが……さっさと済ませりゃ終わる話だろ」
「ぐずぐずすんな、さっさとしろ」
返事の代わりに、ユウは手で首を押さえた。
圧迫しないと意識が飛びそうで、しゃがみ込む。
その瞬間──
腹を蹴られた。
空気が一気に抜ける。
肺が縮む。口が勝手に開く。
(──息が、できない)
ゲボゲボと血を吐き出す。
「──“金品”……」
漏れるように、言葉が落ちた。
それは命を乞う声ではなかった。
自分を守るための、反射だった。
その一言とともに──
空間が歪んだ。
バラバラと、金属と宝石の音が弾ける。
床に、机に、ソファの上に、ネックレス、指輪、金の延べ棒、小さな財布、現金束──
“金品”と呼ばれるものが、一気に降り注いだ。
「……な、にこれ……!」
母が言葉を失う。
「全部……これ、全部……!?」
目を見開き、震える手でネックレスに触れる。
父は、一歩だけ後ずさってから、
小さく笑った。
「……やりゃあ、できんじゃねぇか」
「ひとつずつじゃなくて、“まとめて”呼べるのかよ。こりゃすげぇや……」
目の前に広がった“価値”の山。
金、宝石、札束、ブランド──
一言で、世界の欲望が呼び出せた。
(……これが、私の“個性”?)
見てはいけないものを見てしまったようで、
それでも、もう視線を逸らせなかった。
両親の瞳が、確かに輝いているのが見えた。
“成功”を喜ぶような、それだけで生きていけそうな、そんな光だった。
ユウにとって、声は命を繋ぐ手段だった。
でも今は自分の喉が、ただの“蛇口”のように思えた。
何も残らなかった。
恐怖も、抵抗も、意味を失っていった。
(……“これでいいんだ”)
誰かの言葉のはずだったのに、
今では、自分がそう思い込まなきゃ、生きていけないだけだった。
(できた)
ただ、それだけだった。
嬉しくもない。
怖くもない。
(やっぱり……言葉は、 道具なんだね)
そう思って、口の中でつぶやく。
この体は、よく調整されてる。
求められた通りに、きちんと応えてくれる。
ただ、それだけ。
***
最後のお便りを送った。
父親に端末が見つかって、壊された。
だから、もう、2度と聞けない。
ありがとうと、さようならを書くことにした。
教えてくれた曲が、好きだった。
触れられない日常を知ることが、幸せだった。
ほんとはね、やだって言って、怒られちゃったの。
大好きなラジオを聴くことができなくなっちゃった。
あの日からお便りが変だった思います、ごめんなさい。
大好きだから聞きたいのに、聴くのが怖くなっちゃって、でもお便りは送らなきゃって思って。
なに書けばいいかわからなくなっちゃったんです。
いつも同じようなお便りで変だったかも。ごめんなさい。
それでもありがとうって言いたくて、今書いてみました。
最近、あまり起きてられなくて、文章変だったらごめんなさい。
もう聞けないから、ありがとうだけでも、書きたかったんです。ごめんなさい。
たぶん、私はお父さんに殺されると思う。
これは書いちゃダメだ、心配させちゃう。
でも、この選択は間違いじゃない。それでいいんだ。
私はやだって言うべきじゃなかったんだと思う。
あの時、やだって死ぬべきだったんだ。
良い子であるために悪い事して生きるくらいなら、悪い子として、みんなに迷惑かけずに消えたほうがいいもんね。
あまり書きすぎると長いし、
優しい声のお兄さんは良い人だから、たぶん私なんかのことでも、心配させちゃうから出来るだけありがとうを書いたつもりだけど、
でも、書いてたらよくわからなくなっちゃった。
最近はすぐ眠くなっちゃうから確認せずに書いてる。
久しぶりに、こんな長く書いちゃった。
でも良かった。
私が出会えた優しい人にちゃんとお別れ言えたよね。
これで私のことを心配してくれる人なんていない。
たぶん、本当はもっと居てくれた、でも私が断っちゃったから。
自分の意思で決めた、初めての良いことはお便りは書いたことかな。
私にとっての良いこと、誰にも褒められなくても良いからって選んだの。
だからね、ここだけにはきちんとお別れを言うって決めたんだ。
よかった、これで、もう誰も、私を心配なんてしないよね。
だから私はもう、どこに行ってもいいんだ。
***
時計の針が、規則正しく息を刻んでいた。
親の帰宅予定時刻は、まだ少し先。
けれど、ユウは知っていた。
“少し先”が、どれほど儚い猶予かを。
逃げるには軽装過ぎる。
でも持っていきたいものなんて──
無意識にいつもの…いや、壊れた端末へと視線が動いていた。
ユウは黙って拾い上げ、いくらかのお金をポケットに詰める。
ほかには何も持っていない。
だって、どこに行けばいいかもわからない。
ただ、ここから逃げるだけ。
靴を履いて玄関へ踏み出す。
足音を殺しながら、呼吸すら浅くして、ユウは玄関の方へと向かっていた。
──あと少し。
ドアノブに、手が届いた。
鍵はスペアを見つけておいた。
あの人たちは本当に詰めが甘い。
最近は私が逆らわない前提で動いている。
扉が、わずかに軋んだ。
空気が外と内とを入れ替える。
ほんの数センチの隙間。
そこに、“外”の匂いが滲んでくる。
夜の空気は澄んでいて、呼吸のしやすさがどこか居心地が悪い。
そのときだった。
「……夕紬?」
横から、声がした。
心臓が一拍、遅れて脈打った。
「なに、してんのよ」
母の声。すぐ近く。
振り返らなくても、突き刺さる視線でわかる。
(……帰ってきてたの?)
口が動かない。
何かを言えば、すべてが終わる気がして、ユウはただ黙った。
次の瞬間、床が震えるような音とともに、足音が迫ってくる。
ユウはそのまま、飛び出した。
「おい、待てッ!」
父の怒鳴り声。
もう駄目だ、間に合わない。
階段を数階分駆け下りて、柵から飛び降りる。
四肢に鈍い衝撃が駆ける。
着地の際に手がアスファルトに触れ、冷たさが骨を刺す。
それでも走る。
息が詰まりそうになる。
でも止まれない。
後ろから足音が追ってくる。
怒鳴り声が混ざる。
「戻れ! お前は──!」
──もう、あそこにはいたくない。
誰にも、名前を呼ばれない場所へ。
ユウがそらし続けていた本音を抱きかかえて彼女は走る。
夜の街へ、と。
その先に何があるかなんて、何もわからない。
それでも、あの家よりは、きっとマシだから。
叫びたかった。助けを求めたかった。
別に、私という個人を直接救ってくれる誰かなんていなくてもよかった。
ただ、成人男性に追われる子供に、無関心な世界ではないと――信じていた。
でも、首に残ったサポートアイテム――声を封じる機能がまだ作動している。
声にならない。喉が震えても、音は漏れない。
人々はユウを見る。
けれど、みんな目を逸らした。
――不審者だ。
――関わりたくない。
父親の怒鳴り声が、遠くから響く。
必死に、明かりのある場所を目指す。
駆け込んだのは、街角の小さなコンビニだった。
自動ドアが無機質な音を立てて開き、蛍光灯の白すぎる光が、夜の闇を押し返す。
まるで“ここには人間なんていない”とでも言いたげな、機械的な明るさ。
フロアのタイルは、足音すら吸い込むように冷たかった。
中に入るなり、ユウは棚を探し回った。
ペンと、ノート。
「盗っちゃダメ」そんな思考が一瞬よぎったけど――今は、違う。
ペンを取り、ノートを開き、震える手で、たどたどしく文字を書く。
『けいさつを呼んで』
差し出す。
でも店員は、怪訝そうに眉をひそめた。
「……え? これ……」
店員の手が、そっとスマホに伸びた。
けれど次の瞬間、ガラスの外に父の影が見えて──
店員の表情が固まる。
「……ちょっと、やっぱりダメだわ」
「親御さんと、話してきて。ウチも……巻き込まれるのは……」
戸惑い、距離を取る音。
――だめだ。
――間に合わない。
父親の姿が、ガラス越しに見えた。
店員が言葉を続ける前に、ユウはレジ奥に置いてあった小さなカッターに目を留める。
レジに飛び込んで、カッターを掴んだ。
店員が慌てて叫んだが、もう耳に届かない。
首元、首輪の留め具部分にカッターを押し当てる。
がり、がり、と必死に削る。
刃先が指に、首に当たり、血が滲んでもやめなかった。
「夕紬!!」
父親がコンビニに駆け込んできた。
最後の力を振り絞って、首輪の細いコードを引き裂いた。
カチン、と小さな音を立てて、首輪がずれた。
一瞬、喉を刺すような痛み。
でも、声は出る。
「……放っておいて」
かすれた、けれど確かな声で、そう言った。
父親が手を伸ばす。
すぐ後ろから、母親も追いつく。
「ねえ、夕紬。大丈夫よ、怖くないよ……ね、帰ろう?」
母親の声は一見、優しい。
けれどその瞳は、笑っていない。
「ほら、ママが悪かったから。ね? 怒ってるんでしょ?」
「ちゃんと帰ったら、好きなもの用意してあげるから。ね?」
ユウは一歩、後ずさった。
母親の指が震えた瞬間──視線が一変する。
「……は? なに、その顔」
声が、低くなった。
「そんな目で見るなら……最初から、素直に従っとけばよかったのに」
「ほんと、どうしてそんな育てにくいの……!」
急激に口調が崩れる。
感情のふたが、外れたようだった。
「こっちはあんたのためにやってんのよ?」
「お願いだから言うこと聞いてよ……そうすれば、痛くしないから」
母親が“個性”を使おうとする。
──いやだ、また声が奪われる。
ユウは反射的に母の視線の外に飛び退いた。
「……わかんない? じゃあ、もういらないってこと?」
父の声が追い打ちをかける。
「さっさと来い!」
「お前の意思なんて、最初から聞いてねぇんだよ!」
空気が歪む。
「誰のおかげで生まれたと思ってるの!?」
その言葉が、ユウの限界を引きちぎった。
声を、放った。
初めて、心の底から叫ぶように。
「誰のせいで!……っなら、なんで今の、私がいるの!?」
「私が、産んでくれなんて頼んだ?」
荒い息。
体の芯を、ぐつぐつと煮えたぎる熱が侵す。
「お前が産まれたのは、俺たちがそうしてやったからだ!」
「そうよ、私たちに感謝して“個性”だけ使ってなさい!」
──あぁ、だめだ。
これは、人じゃない。分かり合えない、生き物だ。
世界が、遠い。
音が、ない。
体が、凍えるように冷たい。
体の中で、何かが壊れる音がした。
たぶん、
でも、もういっか。
「──」
無意識に両手を伸ばし、口にした。
次の瞬間、父と母の胸から、そこに、あるはずの2つの「心臓」がユウの手のひらに現れた。
ぐにゃり、と倒れるふたり。
赤いものを吐き出して、床を染めていく。
ユウはただ、立ち尽くした。
自分の手が、自分の声が、ふたりを殺したのだと──理解した。
どくりどくりと哀れに脈うつ、2つの心臓が滑稽だった。
2人は、苦痛に顔を歪める。
化け物を見るような目で、私を見た。
気分が、良かった。
いまなら何にだって成れる。
なんでもできる。
そんな万能感。
脳内で何かが叫んでる気がした。
でも、もう、どーでもい。
ぐしゃり。
柔らかい肉片を、握りつぶす。
呻き声も、もうなかった。
まるで、世界が息を止めたような沈黙。
(こんなに……静かなの、初めて)
誰の声も、音も、ない。
「産んでくれて、ありがとう」
浮かんだ言葉に、浮かんだ感情を乗せて、伝えてみた。
誰に届くでもない、届けたいわけでもない。
ただ、私はようやく、何者でもなくなれた気がした。