ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

14 / 33
3話 オリジン

 

 

 

 

 

 

ダン、と扉が閉まる音がした。

 

新しい家だった。

前の家と大差のない、団地の一室。

けれど、カーテンは最初から閉じられていて、窓には施錠された補助錠がついていた。

それから、二人の荷物がほとんどない。

 

「今日からここが新しい家だから」

 

母の声が響く。

どこか優しいようでいて、命令に近い響きだった。

 

「今度はちゃんと言いつけ守りなさいよ」

 

ユウは、ただ黙って頷いた。

 

ユウの部屋と案内された壁には、小さな監視カメラのようなものがあった。

最初は気のせいかと思ったけれど、動くたびに、小さく赤いランプが点いた。

 

部屋にはスマホも、テレビもなかった。

ラジオすらなかった。

 

「ここなら安全でしょ、あんたは部屋入ってて」

 

 

(……安全?)

なら、“何もしなくてもいい”ってこと?

誰の役に立たなくても、叱られない?

……そんなわけ、ないか。

 

ユウは静かに壁に背を預けた。

あり得ない、そんなことはわかっている。

でも何かにすがらないと彼女の心はもう持たない。

 

部屋の隅の光が、午後の死角のように、彼女の姿を塗り潰していた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

その日、リビングにだけ異常なほどの光が入っていた。

カーテンが開かれていたのは、ユウがこの家に来てから、初めてのことだった。

 

 

 

「今日、お客さんが来るの。お医者さん。あなたのことを“心配してる”人よ」

 

 

 

母は、キッチンの奥で何かを準備しながら言った。

声のトーンは優しい。でも、言葉の端がぴしりと鋭い。

 

 

 

「でもね。あんたが話す必要はないから。」

「……」

 

 

 

「私がぜんぶ、答えるから。先生が訊いても、黙って。

 それが、“いちばん良い形”なんだから」

 

 

 

ユウはうなずいた。

 

玄関のチャイムが鳴る。

母は少し高い声で「はーい」と応じた。

 

 

 

訪れたのは、保健師兼カウンセラーという肩書の女性だった。

年齢は母とそう変わらない。やわらかいベージュのスーツに、淡い香水の匂い。

 

「こんにちは、夕紬ちゃん。……おじゃましますね」

 

 

 

ユウは、声を返さない。

 

カウンセラーは、母の出したお茶をひと口飲みながら話を切り出した。

 

「先日はびっくりしました。

 でも、今は落ち着いてきたそうで、よかったですね」

 

 

 

母は、少しだけ目尻を下げて笑った。

 

「ええ、おかげさまで。まだ、自分の“声”を怖がってるみたいなんです」

 

「そうですか……“自分の“個性”をコントロールできない”って、自責に繋がりやすい子も多いので……」

 

 

 

その言葉に、母がすかさずうなずく。

 

私のことなのに、知らない話が進んでいく。

 

 

「もう、まさにそれで。自分を責めちゃって。だから、家の中でも声を出せなくなっちゃって……

 それに、この子のために環境を変えたくて、引っ越しもしてみたんですが……」

 

「ずっと、黙ってるんですか?」

 

 

 

母は、ふとユウの方を見る。

 

「……ね?夕紬。……ご挨拶、できる?」

 

 

 

ユウは、ゆっくりとカウンセラーの方を向いた。

 

そして口を開こうとして──

 

 

 

やめた。

 

何も言わなかった。

 

ただ、首を小さく横に振った。

 

 

 

その動作が、“全て”を語っていた。

 

カウンセラーは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに笑顔に戻る。

 

「……大丈夫。挨拶できない日もあるよね。ありがとう、顔を見せてくれて」

 

 

 

カウンセラーが帰ったあと、

母はドアの音が完全に消えたことを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。

 

ユウのほうは一瞥もせず、リビングの引き出しを開けて、小さなタブレットを取り出す。

 

 

 

「……ちょっとだけ、試してみましょ」

 

声色はやわらかかった。

 

 

 

でも、その言葉には、何の“遊び”もなかった。

 

 

 

母が画面に映したのは、宝石店の陳列棚の写真だった。

 

ガラスケースの中に並べられた、高価なアクセサリー。

 

リング、ネックレス、時計。

 

どれも、小さな白いタグがぶら下がっていた。

 

バーコードと店舗情報が印字されている、防犯タグ。

 

 

 

「ねえ、夕紬」

 

母はタブレットをこちらに傾けながら、目だけを細める。

 

 

 

「この真ん中の指輪、綺麗よね。……でも、タグがついてるから“普通”は盗れないの」

「でもさ。あんたの“声”なら、“本体だけ”呼べたりしない?」

 

 

 

淡々と。

 

まるで宿題でも出すように。

 

 

 

「タグ“なしで”、指輪“だけ”を、ちゃんと“イメージして”」

「前にバッグ呼んだときも、タグとか箱はついてこなかったでしょ?“あれと同じ感覚”でいけると思うのよ」

 

 

 

ユウは黙ったまま、画面を見つめる。

 

写真越しのリングは、確かに綺麗だった。

 

タグも写っているけれど、“自分が呼びたいのはどれか”を、選ぶ感覚はもう、わかっていた。

 

 

 

だから、ゆっくりと、息を吐いて──

 

 

 

「……プラチナリング」

 

 

 

空間が、ぴしりと割れる。

 

ほんのかすかに、空気がひるがえった。

 

 

 

音も無く床に、指輪が転がった。

 

──タグは、ついていなかった。

 

 

 

母はそれを拾い上げる。

 

手袋もしていない指で、ゆっくりと光を確認する。

 

 

 

「……すごい。ほんとに、本体だけ」

 

 

 

その声には、もはや“驚き”はなかった。

 

代わりにあったのは、確信。

 

 

 

「やっぱり、これは……使えるわ」

 

母はくすくすと笑う。

 

視線は指輪の輝きに注がれている。

 

その目に、ユウは映っていなかった。

 

 

 

ユウは、何も言わなかった。

 

ただ、自分の口が“もう引き返せないもの”をまた一つ呼び出したことを、確かに理解していた。

 

 

 

そして。

 

それでも呼べてしまう自分がいることに、静かに、怯えていた。

 

 

 

──ただの“出来事”ではない。

 

それは、自分が「できてしまう」という事実。

意志も願いもなくとも、求められれば応えてしまう。

それが「自分の体に組み込まれている」という感覚。

 

呼びたくなかった。

 

でも、呼べてしまった。

 

 

 

ドアが開く音がしたのは、その数分後だった。

 

 

 

父が帰ってきた。

 

 

 

「おかえりなさい」

 

形式的な挨拶。母は席を立ち、ユウの呼び出したリングを指で弾くように机に転がした。

 

 

 

「──見て。今日の成果」

 

 

 

父の動きが止まる。

 

指輪に目を留め、ゆっくりと眉を上げる。

 

 

 

「……本物か?」

 

「ええ。タグはついてなかったわ。あの子が“本体だけ”を呼んだの」

 

「……へぇ」

 

 

 

父は言葉にならない息を漏らしながら、指輪を手に取り、光にかざす。

 

その顔が、じわりとほころんだ。

 

 

 

「やるな……!あのガキ……!」

 

 

 

ユウは黙っていた。

 

顔を上げなかった。

 

机の影で、拳を握っていた。

 

 

 

──でも、わかっていた。

 

次の瞬間には、二人の視線がこちらを向くことを。

 

 

 

「なあ……まだ他に、試してないんだろ?」

 

 

 

父の声が、妙に抑えた調子で響く。

 

低く、濁った興奮を隠しきれない声。

 

 

 

「どのくらいの精度で、どれだけの距離で、どうやって出せるか。……まだ試せるよな?」

 

「ええ。まだまだ、“育つ”わ。あの子」

 

 

 

母が笑う。

 

指輪の光が、二人の顔を不気味に照らしていた。

 

 

 

二人の目が、ユウに向けられる。

 

まるで、金を掘り当てた鉱山を見つめるような眼差しだった。

 

 

 

「なぁ、夕紬──」

 

 

 

声がした。

 

でも、何を言われたかは覚えていない。

 

 

 

ただ。

 

その時に感じた、空気の色だけは、はっきりと記憶に残っている。

 

 

 

欲望の色だった。

なにかを“見つけた”ときの目。

それは、守りたいという光ではなく──

試して、使って、消費するだけの、輝きだった。

 

自分を“子ども”としてではなく、“機能”として見ている人間たちの目。

 

 

 

もう、逃げ道はなかった。

 

その夜から、ユウは「呼び出すこと」をやめられなくなった。

 

──誰も、ユウの“声”を、聞いてなどいなかったのに。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

声を出さなくなってからもずっと、お便りだけは送り続けた。

ばれないように布団の中でそっと隠した端末とイヤホンで聞く。

 

あれはあくまで感想文。

ラジオを聞いてどう思ったかを書くだけで、何をしたいかは書かないで良いから、これは私の声ではない。

ただ、無意味な文章、でも、そんな便りが数十と積み重なった頃。

胸に巣食う思いに目を逸らせなくなった。

 

 

 

(やだなぁ…)

 

どんな“個性”でもヒーローを目指す子供を知った。

逆光に晒されても立ち向かう曲を知った。

 

それはゆっくりとだが着実にユウを蝕む。

 

──このままでいいのか?

 

 

ユウは迷う。

迷って、迷って、初めて“相談”した。

 

どうせ読まれない。

 

それでも文字にする事には意味があると信じて。

 

長くなってしまったが要約すれば簡単。

 

「いやって言ってみたいです」

 

言いたかったのはそれだけ。

 

 

 

それは、ユウにとって初めての“希望”だった。

 

メールを送った夜、ユウはラジオを聴きながら、布団の中で小さく丸まっていた。

 

放送の中で、その話題が出た。

自分のメールかどうかはわからなかった。

けれど、彼は言った。

 

『世の中には、我慢しなきゃいけないこともある。

けど、"いやだ"って思う心まで、殺しちゃいけないぜ。』

 

その声が、胸に染みた。

 

(言ってよかった、のかな)

 

 

 

 

 

始まりは、コンビニの商品だった。

スマホに写した画像。化粧品の瓶をなぞる指。

「これ呼べる?」って、母は笑って聞いてきた。

 

でもここに来てからは金品ばかり。

 

そのうち、量が増えていった。

「二つ」「五つ」「箱で呼べない?」

──“できたから”、次が来る。

“やれる”と思われるから、次はもっと遠く、もっと複雑なものが来る。

 

最近は、何かの設計図や、IDコードが印刷された紙の写真を見せられる。

 

「これ、サポートアイテム用の部品らしいわ。難しいけど、やってみて」

 

 

母の言い方は、いつも明るい。

「すごい」「ほんと助かるわ」

けど、その言葉の中に、“私”は入ってなかった。

 

父はもう、笑わない。

ただ、当たり前のように“次の指示”を出す。

「これも」「次も」「次はまだか」

 

 

 

 

数えないようにしてる。

でも、無意識に数えてしまう。

 

あと、何回。

 

私は、自分を嫌いになればいい?

 

それとも、「私なんて、もういない」って思えば、楽になれる?

 

 

 

──でも、それすら、臆病な私は、たぶんできない。

 

 

ぼんやりとした部屋の隅で、ユウは膝を抱えていた。

あの言葉を思い出していた、ラジオから、いつもより少しだけ、低くて、

でも確かにあたたかい声が響いてきた時。

 

──『世の中には、我慢しなきゃいけないこともある。

けど、"いやだ"って思う心まで、殺しちゃいけないぜ。』

 

胸の奥に、じん、と重く落ちた。

 

(……いいの、かな……)

 

小さく震える指先が首に触れる。

ずっと、黙って、耐えて、

それが"いい子"だと思ってた。

 

でも。

 

──『自分を大事にしたくて、"いやだ"って思ったなら──オレは、それをちゃんと認めたい。』

 

ラジオから流れる声が、

ユウだけに向かって、そっと手を伸ばしてくれた気がした。

 

涙が、滲んだ。

 

誰にも、言えなかった。

誰にも、気付いてもらえなかった。

ずっと、ずっと、独りだと思ってた。

 

でも、もしかしたら。

 

ほんの、ほんの少しだけど──

この"声"は、届いたのかもしれない。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

それはユウの平穏を破壊する音。

 

どこからともなく頭の中で、彼の軽快な声が響いているのに、掻き消すような親の声が、命令が聞こえた。

 

ユウは静かに“個性”を使おうと口を開いた時──

 

『──どんなに暗い夜でも、顔を上げろ。星はいつだって、そこにある!』

 

プレゼント・マイクの声が鮮明に脳裏を駆けた。

やけに明るくて、まっすぐで、ユウの小さな胸に少しだけ火を灯した。

 

目が古ぼけた窓に向かう、いつの間にか柵も増えてしまったけど、

冷たい鉄の間からぼんやりと、でもあたたかな星が瞬いていた。

 

(──あそこに、行けたら)

 

どこかで聞いたようなヒーローの名前が、ふと脳裏をかすめた。

前の世界で、何度も憧れた、光の象徴。

 

怖かった。けれど、心のどこかが疼いていた。

 

「……いやだ」

 

ユウは小さな声でつぶやいた。

それでも、言葉にした。

 

それは、生まれて初めての反抗だった。

 

「……なんだと?」

 

父親の顔がぐにゃりと歪んだ。

ユウは一歩も引かなかった。

膝が震えても、喉が乾いても、目を逸らさずに言った。

 

「──いやだ」

 

それは、かすれた、でも確かな声だった。

 

父の顔が、ぐにゃりと歪んだ。

 

ポケットから何かを取り出した。

次の瞬間、冷たい刃が、するりとユウの喉元に当てられた。

刃物──ナイフで薄い皮膚がちりりと切れ、血のにおいがふわりと漂う。

 

それでも、ユウは動かなかった。

 

怖かった。

死ぬかもしれなかった。

でも、ここで屈したら、何も変わらない。

何も、掴めない。

 

「歯向かうってのか……!」

 

それでもユウは目をそらさない。

父親がナイフをぎり、と押し付け──

 

「……んだ、その目は!」

 

口角だけを吊り上げ、父親はナイフをひいた。

目には恐怖があった。

でもそれ以上に、笑ってた。

 

あふれる血液は温かいのに皮膚を伝わり冷たくなる。

息が、苦しい。

先ほどとは違う、確かな、死の気配。

 

本当に、死ぬ……?

 

押さえるユウは咄嗟に二人を見上げた、でも両親はただ見つめる。

父が黒い鞄から取り出したのは、無機質な銀色の医療器具だった。

ホッチキスに似た形だが、見たこともないような高機能の医療用ツールだった。

 

「すげぇよな、すぐ直せるんだってよ」

「……わかるか?」

 

冷たく、乾いた声。

 

「どこを切っても、直せる。でも、痛みだけはちゃんと残る」

 

にやりと笑う父親の顔が、狂気に満ちていた。

 

「死にたくないなら、“個性”を使え」

 

 

選択肢は、なかった。

 

死ぬ勇気なんて、ないんだよ。

──まだ、生きたいと思ってしまった。

 

 

唇が震えた。

 

手が、かすかに伸びた。

 

そして、無理やり心をねじ伏せて、“個性”を使った。

 

ぽたり、と心の中で何かが崩れ落ちた気がした。

 

父親は満足げに笑った。

 

「……そう、それでいいんだ」

 

その言葉が、ナイフよりも鋭く心を裂いた。

 

ラジオの向こうの星も、ヒーローも、もう手が届かない場所にあるように思えた。

 

 

 

星に手を伸ばした翼は、その夜、音もなく折れた。

 

 

 

ユウは、深く深く、心を沈めた。

 

生きるためだけに。

 

泣きも、叫びも、笑いも、すべてを押し殺して。

 

ただ、次の命令に、静かに従う。

 

冷たい夜の中、かすかにラジオの音だけが、遠く遠く響いていた。

 

そこから、“個性”の使用を命令ではなく、“生命維持”のためのものへと変化した。

指示と共に首を切られる日常。ユウの心を砕くだけの作業。

そして、声を抑制するためのサポートアイテムを着けさせられた。

 

 

 

――意志を持つことには、意味なんてないんだ。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

その日は父が妙に焦っていた、だから、加減を間違えたのだろう。

 

「さっさとしろ……!」

 

乾いた音とともに、ナイフが首筋をかすめた。

痛みに体が固まらなくなったのはいつからだろう。

 

ズルッと皮膚が裂ける感覚。

熱いものが、喉の奥から零れていく。

 

ユウは叫ばなかった。

血が喉を満たし、声を出せなかった。

 

 

 

「──あ、れ?」

 

母の声がかすれる。

 

垂れた血の量が、今までとは違っていた。

 

喉からこぼれた赤が、床に大きな水たまりを作る。

 

「おい……ねぇ、ちょっと、これまずくない?」

「え? え、え、こんなに?」

 

母の声が揺れる。

その奥で、父が舌打ちを響かせた。

 

 

 

「クソが……さっさと済ませりゃ終わる話だろ」

「ぐずぐずすんな、さっさとしろ」

 

 

 

返事の代わりに、ユウは手で首を押さえた。

圧迫しないと意識が飛びそうで、しゃがみ込む。

 

その瞬間──

 

 

 

腹を蹴られた。

 

空気が一気に抜ける。

 

肺が縮む。口が勝手に開く。

 

(──息が、できない)

 

ゲボゲボと血を吐き出す。

 

「──“金品”……」

 

 

 

漏れるように、言葉が落ちた。

 

それは命を乞う声ではなかった。

 

自分を守るための、反射だった。

 

その一言とともに──

 

 

 

空間が歪んだ。

 

バラバラと、金属と宝石の音が弾ける。

 

 

 

床に、机に、ソファの上に、ネックレス、指輪、金の延べ棒、小さな財布、現金束──

 

“金品”と呼ばれるものが、一気に降り注いだ。

 

 

 

「……な、にこれ……!」

 

母が言葉を失う。

 

「全部……これ、全部……!?」

 

目を見開き、震える手でネックレスに触れる。

 

父は、一歩だけ後ずさってから、

小さく笑った。

 

「……やりゃあ、できんじゃねぇか」

 

「ひとつずつじゃなくて、“まとめて”呼べるのかよ。こりゃすげぇや……」

 

 

 

目の前に広がった“価値”の山。

金、宝石、札束、ブランド──

一言で、世界の欲望が呼び出せた。

 

(……これが、私の“個性”?)

 

見てはいけないものを見てしまったようで、

それでも、もう視線を逸らせなかった。

 

両親の瞳が、確かに輝いているのが見えた。

“成功”を喜ぶような、それだけで生きていけそうな、そんな光だった。

 

ユウにとって、声は命を繋ぐ手段だった。

 

でも今は自分の喉が、ただの“蛇口”のように思えた。

 

何も残らなかった。

恐怖も、抵抗も、意味を失っていった。

 

(……“これでいいんだ”)

 

誰かの言葉のはずだったのに、

今では、自分がそう思い込まなきゃ、生きていけないだけだった。

 

 

(できた)

 

ただ、それだけだった。

嬉しくもない。

怖くもない。

 

 

(やっぱり……言葉は、 道具なんだね)

 

そう思って、口の中でつぶやく。

この体は、よく調整されてる。

求められた通りに、きちんと応えてくれる。

 

ただ、それだけ。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

最後のお便りを送った。

 

父親に端末が見つかって、壊された。

 

だから、もう、2度と聞けない。

 

 

ありがとうと、さようならを書くことにした。

 

 

 

教えてくれた曲が、好きだった。

触れられない日常を知ることが、幸せだった。

ほんとはね、やだって言って、怒られちゃったの。

大好きなラジオを聴くことができなくなっちゃった。

 

あの日からお便りが変だった思います、ごめんなさい。

大好きだから聞きたいのに、聴くのが怖くなっちゃって、でもお便りは送らなきゃって思って。

なに書けばいいかわからなくなっちゃったんです。

いつも同じようなお便りで変だったかも。ごめんなさい。

 

それでもありがとうって言いたくて、今書いてみました。

 

最近、あまり起きてられなくて、文章変だったらごめんなさい。

 

もう聞けないから、ありがとうだけでも、書きたかったんです。ごめんなさい。

 

 

 

たぶん、私はお父さんに殺されると思う。

これは書いちゃダメだ、心配させちゃう。

 

 

でも、この選択は間違いじゃない。それでいいんだ。

 

私はやだって言うべきじゃなかったんだと思う。

あの時、やだって死ぬべきだったんだ。

 

良い子であるために悪い事して生きるくらいなら、悪い子として、みんなに迷惑かけずに消えたほうがいいもんね。

 

あまり書きすぎると長いし、

優しい声のお兄さんは良い人だから、たぶん私なんかのことでも、心配させちゃうから出来るだけありがとうを書いたつもりだけど、

でも、書いてたらよくわからなくなっちゃった。

 

最近はすぐ眠くなっちゃうから確認せずに書いてる。

久しぶりに、こんな長く書いちゃった。

 

でも良かった。

私が出会えた優しい人にちゃんとお別れ言えたよね。

 

これで私のことを心配してくれる人なんていない。

たぶん、本当はもっと居てくれた、でも私が断っちゃったから。

 

自分の意思で決めた、初めての良いことはお便りは書いたことかな。

私にとっての良いこと、誰にも褒められなくても良いからって選んだの。

 

だからね、ここだけにはきちんとお別れを言うって決めたんだ。

 

よかった、これで、もう誰も、私を心配なんてしないよね。

だから私はもう、どこに行ってもいいんだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

時計の針が、規則正しく息を刻んでいた。

 

親の帰宅予定時刻は、まだ少し先。

けれど、ユウは知っていた。

“少し先”が、どれほど儚い猶予かを。

 

逃げるには軽装過ぎる。

でも持っていきたいものなんて──

無意識にいつもの…いや、壊れた端末へと視線が動いていた。

 

ユウは黙って拾い上げ、いくらかのお金をポケットに詰める。

 

ほかには何も持っていない。

 

だって、どこに行けばいいかもわからない。

ただ、ここから逃げるだけ。

 

靴を履いて玄関へ踏み出す。

足音を殺しながら、呼吸すら浅くして、ユウは玄関の方へと向かっていた。

 

──あと少し。

 

ドアノブに、手が届いた。

鍵はスペアを見つけておいた。

 

あの人たちは本当に詰めが甘い。

最近は私が逆らわない前提で動いている。

 

 

扉が、わずかに軋んだ。

空気が外と内とを入れ替える。

ほんの数センチの隙間。

そこに、“外”の匂いが滲んでくる。

 

夜の空気は澄んでいて、呼吸のしやすさがどこか居心地が悪い。

 

 

そのときだった。

 

「……夕紬?」

横から、声がした。

 

心臓が一拍、遅れて脈打った。

 

「なに、してんのよ」

 

母の声。すぐ近く。

振り返らなくても、突き刺さる視線でわかる。

 

(……帰ってきてたの?)

 

口が動かない。

何かを言えば、すべてが終わる気がして、ユウはただ黙った。

 

次の瞬間、床が震えるような音とともに、足音が迫ってくる。

ユウはそのまま、飛び出した。

 

「おい、待てッ!」

 

父の怒鳴り声。

もう駄目だ、間に合わない。

階段を数階分駆け下りて、柵から飛び降りる。

四肢に鈍い衝撃が駆ける。

着地の際に手がアスファルトに触れ、冷たさが骨を刺す。

それでも走る。

 

息が詰まりそうになる。

でも止まれない。

 

後ろから足音が追ってくる。

怒鳴り声が混ざる。

 

「戻れ! お前は──!」

 

──もう、あそこにはいたくない。

 

誰にも、名前を呼ばれない場所へ。

ユウがそらし続けていた本音を抱きかかえて彼女は走る。

 

夜の街へ、と。

その先に何があるかなんて、何もわからない。

それでも、あの家よりは、きっとマシだから。 

 

 

 

 

叫びたかった。助けを求めたかった。

 

別に、私という個人を直接救ってくれる誰かなんていなくてもよかった。

ただ、成人男性に追われる子供に、無関心な世界ではないと――信じていた。

 

 

でも、首に残ったサポートアイテム――声を封じる機能がまだ作動している。

声にならない。喉が震えても、音は漏れない。

 

人々はユウを見る。

けれど、みんな目を逸らした。

――不審者だ。

――関わりたくない。

 

父親の怒鳴り声が、遠くから響く。

 

必死に、明かりのある場所を目指す。

駆け込んだのは、街角の小さなコンビニだった。

 

自動ドアが無機質な音を立てて開き、蛍光灯の白すぎる光が、夜の闇を押し返す。

 

まるで“ここには人間なんていない”とでも言いたげな、機械的な明るさ。

 

フロアのタイルは、足音すら吸い込むように冷たかった。

 

中に入るなり、ユウは棚を探し回った。

ペンと、ノート。

 

「盗っちゃダメ」そんな思考が一瞬よぎったけど――今は、違う。

 

ペンを取り、ノートを開き、震える手で、たどたどしく文字を書く。

 

『けいさつを呼んで』

 

差し出す。

でも店員は、怪訝そうに眉をひそめた。

 

「……え? これ……」

 

店員の手が、そっとスマホに伸びた。

けれど次の瞬間、ガラスの外に父の影が見えて──

店員の表情が固まる。

 

「……ちょっと、やっぱりダメだわ」

「親御さんと、話してきて。ウチも……巻き込まれるのは……」

 

戸惑い、距離を取る音。

 

 

――だめだ。

――間に合わない。

 

父親の姿が、ガラス越しに見えた。

店員が言葉を続ける前に、ユウはレジ奥に置いてあった小さなカッターに目を留める。

 

レジに飛び込んで、カッターを掴んだ。

店員が慌てて叫んだが、もう耳に届かない。

 

首元、首輪の留め具部分にカッターを押し当てる。

がり、がり、と必死に削る。

刃先が指に、首に当たり、血が滲んでもやめなかった。

 

「夕紬!!」

 

父親がコンビニに駆け込んできた。

最後の力を振り絞って、首輪の細いコードを引き裂いた。

カチン、と小さな音を立てて、首輪がずれた。

 

一瞬、喉を刺すような痛み。

でも、声は出る。

 

「……放っておいて」

 

かすれた、けれど確かな声で、そう言った。

 

父親が手を伸ばす。

すぐ後ろから、母親も追いつく。

 

「ねえ、夕紬。大丈夫よ、怖くないよ……ね、帰ろう?」

 

母親の声は一見、優しい。

けれどその瞳は、笑っていない。

 

「ほら、ママが悪かったから。ね? 怒ってるんでしょ?」

 

「ちゃんと帰ったら、好きなもの用意してあげるから。ね?」

 

 

 

ユウは一歩、後ずさった。

母親の指が震えた瞬間──視線が一変する。

 

 

 

「……は? なに、その顔」

 

声が、低くなった。

 

 

 

「そんな目で見るなら……最初から、素直に従っとけばよかったのに」

 

「ほんと、どうしてそんな育てにくいの……!」

 

 

 

急激に口調が崩れる。

感情のふたが、外れたようだった。

 

 

 

「こっちはあんたのためにやってんのよ?」

「お願いだから言うこと聞いてよ……そうすれば、痛くしないから」

 

母親が“個性”を使おうとする。

──いやだ、また声が奪われる。

ユウは反射的に母の視線の外に飛び退いた。

 

「……わかんない? じゃあ、もういらないってこと?」

 

 

 

父の声が追い打ちをかける。

 

「さっさと来い!」

「お前の意思なんて、最初から聞いてねぇんだよ!」

 

 

 

空気が歪む。

 

 

「誰のおかげで生まれたと思ってるの!?」

 

 

 

その言葉が、ユウの限界を引きちぎった。

 

声を、放った。

初めて、心の底から叫ぶように。

 

「誰のせいで!……っなら、なんで今の、私がいるの!?」

 

「私が、産んでくれなんて頼んだ?」

 

荒い息。

体の芯を、ぐつぐつと煮えたぎる熱が侵す。

 

「お前が産まれたのは、俺たちがそうしてやったからだ!」

「そうよ、私たちに感謝して“個性”だけ使ってなさい!」

 

 

 

 

 

 

 

──あぁ、だめだ。

これは、人じゃない。分かり合えない、生き物だ。

 

世界が、遠い。

 

音が、ない。

 

体が、凍えるように冷たい。

 

体の中で、何かが壊れる音がした。

たぶん、ずっと大切にした(守ってきた)何か。

 

でも、もういっか。

 

 

「──」

 

無意識に両手を伸ばし、口にした。

次の瞬間、父と母の胸から、そこに、あるはずの2つの「心臓」がユウの手のひらに現れた。

 

ぐにゃり、と倒れるふたり。

赤いものを吐き出して、床を染めていく。

 

ユウはただ、立ち尽くした。

自分の手が、自分の声が、ふたりを殺したのだと──理解した。

 

どくりどくりと哀れに脈うつ、2つの心臓が滑稽だった。

 

2人は、苦痛に顔を歪める。

化け物を見るような目で、私を見た。

 

気分が、良かった。

 

いまなら何にだって成れる。

なんでもできる。

そんな万能感。

 

脳内で何かが叫んでる気がした。

でも、もう、どーでもい。

 

ぐしゃり。

柔らかい肉片を、握りつぶす。

呻き声も、もうなかった。

まるで、世界が息を止めたような沈黙。

 

(こんなに……静かなの、初めて)

 

誰の声も、音も、ない。

 

 

「産んでくれて、ありがとう」

 

 

浮かんだ言葉に、浮かんだ感情を乗せて、伝えてみた。

 

誰に届くでもない、届けたいわけでもない。

 

ただ、私はようやく、何者でもなくなれた気がした。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。