「ひっ…!」
聞こえた声に、ふと視線を向ける。
さっきの店員が、腰を抜かしていた。
あぁ、警察官呼ばないと。
ほっとけばヒーローでも来るかな?
…はっ。
笑える。今更?
「警察官」
この世界に、もう、なにも、期待していない。
数年ぶりに走り回った体は酷く気だるい。
声に乗り、“個性”が発動するのを、私はただ、ぼんやりと感じていた。
──パッ。
空気が震え、何もないところに、制服姿の男が現れた。
警察官だった。
彼は一瞬、立ちすくんだ。
腰を抜かした店員。
血の海に沈む大人たち。
床に立つ、子供。
あまりに異常な光景に、男の顔が、引きつった。
やがて、ユウを見る。
でも、真正面からは見なかった。
怯えるように、目を逸らす。
「……大丈夫か?」
低い声で、問いかけた。
でも、手は伸びなかった。
ただ声をかけるだけ。
一歩も、近寄ろうとはしなかった。
私は何も答えない。
警官の手が、無線に伸びる。
応援要請。
そんな言葉を口にした。
助けるためじゃない。
私を“隔離”するために。
その意味が、わかった。
──あぁ、やっぱり。
誰も、私を助けない。誰も救わない。
子供であっても、例外はない。
優しい声だけが、耳を撫でた。
でも、その手は絶対に伸びてこない。
私は、悟った。
この世界に、救いなんてない。
そのすべてを、ユウは笑って見ていた。
するべきことを悟ったかのように。
「輸送車、呼んでください。自分で乗ります。」
あぁ忘れてた。
「……“個性”、声に関係してるので。抑制用、あれば。」
誰も動けなかった。
数秒の沈黙の後、彼女の言葉の意味を理解した警官が小さく頷き、無線機に手を伸ばす。
サイレンが鳴り響き、何人かの警察がコンビニに入ってきたのを確認して、ユウは自分で首輪を外した。
カシャンと軽い金属音を立てて、首輪が足元に落ちる。
──あらわになる首の傷跡。
それを見てか、一人が一歩後ろに引いた。
大人たちは、どこかこの子を「人間ではないもの」として見始めていた。
ユウはそれを微笑みながら受け入れた。
***
事情聴取は、淡々と進んだ。
殺意も、怒りも、悲しみも、そこにはなかった。
ただ、事実だけを丁寧に積み上げるように語る彼女に、誰もそれ以上の言葉をぶつけられなかった。
「警察を呼んだ理由は?」
「…?事件が起きたら警察を呼ばないといけませんから、それに、手続きを踏まないと“裁けない”でしょう」
そう言って、にこりと微笑んだ彼女の顔に、子どもの影はなかった。
***
ユウは望んだ。
人を殺した私に裁きを、と。
それは生まれも育ちも間違いでしかなかった私が、
綺麗に終われる方法だと思ったから。
警察に一時保護されたユウは、要観察対象となった。
カウンセラーとの面談はすべて意味をなさない。
施しを受け取るが、受け入れることはなく、
どんな説得にも笑って頷くだけだった。
「自分の意思で判断しました」
部屋には観察用のミラーが取り付けられ、時折、大人たちの目がそこから覗いていた。
どこまでも冷静な子供、その奥に何があるのかを、大人たちは測れなかった。
彼女はいつも静かに、笑っていた。
カウンセラーが「刺激を避けるべきだ」と判断したことで、外部との接触も制限された。
ラジオ番組を通して何かを届けたかった人物の声も、もう、彼女の元には届かない。
***
結論だけ言えば、ユウは8歳の子供による行為と認定され、正当防衛とされ、また年齢ゆえに刑事責任は問われなかった。
その事実がユウの最後の縁、過去の記憶を打ち砕く。
鮮明に覚えてないそれは、誰かの顔を思い出すこともなく、でも記憶の優しさに、知識に、救われる日々は確かにあった。
ユウを支えたその記憶では、“悪事”をしたら裁かれるはずなのに。
裁かれなかった。
じゃ、あの記憶は嘘なの?
その日からユウは、静かに、少しずつ「人の形」を整えはじめた。
善くあろうとしたのではない。
ただ、その生き方しか知らないから。
それに、ずっと警察に保護されているわけにもいかない。
たまに向けられる同情が苦手だった。
でも今は、悪寒を覚えなくなった。
だってそういう世界だと思えばいいだけだから。
だから夕紬はどんな決定も受け入れることにした。
そうして、新しい家──保護施設への入居が決まった。
車の振動が、思考の縁を揺らす。
眠ってはいけないと思いながらも、夕紬のまぶたはゆっくりと落ちていく。
頬に触れるのは、日差しではない。
窓の外は、もう随分と前から、陽の届かない場所へと変わっていた。
車はついに、静かに止まった。
「……着いたよ」
無機質な声。
同行していた警官のひとりが後部座席のドアを開けたが、夕紬はすぐには動かなかった。
重たい体をゆっくりと起こす。
足を下ろすと、足元に触れたのは冷たいアスファルト。
そこに、風はなかった。
目の前には、少し古びた建物の入り口。
ここが「施設」なのだと、彼女は察した。
けれど、それ以上の感情は浮かばなかった。
導かれるままに、夕紬は歩く。
夕紬を連れてきた人が職員と話す。
でも、夕紬へは誰も話しかけない。
夕紬も、何も聞かない。
通されたのは、白く塗られた小さな部屋だった。
ベッドと、机と、窓のない壁。
無機質な明かり。
扉が閉まる。
夕紬はしばらく、動かなかった。
施設の廊下は、昼でも薄暗い。
蛍光灯の明かりは均等に配置されているはずなのに、決まってあの角だけは、いつも少し影が濃かった。
昼食を終えた帰り道。
人の流れに紛れるでもなく、ただ一人、ユウはその影の中を歩いていた。
──そこで、気づいた。
廊下の壁際、少しだけ膝を曲げてうずくまる、小さな子ども。
背中が揺れていた。
泣いているのか、眠っているのかもわからない。
けれど──誰も、見ていなかった。
すれ違っていく職員も、数人の子どもたちも、その存在を“見ていない”かのように通り過ぎていく。
(気づかないふり?)
それとも──最初から、“いない”ことになっているのだろうか。
足元には、白く薄汚れた、くたびれたぬいぐるみが落ちていた。
少しだけ腕が裂けていて、中の綿がのぞいていた。
ユウは、足を止める。
しゃがむでもなく、言葉をかけるでもなく。
ただ、立ったまま、しばらく見つめた。
──かがんでぬいぐるみを拾った。
ほんの、何の意味もない動作。
そっと、その子の膝のそばに、戻す。
子どもは顔を上げなかった。
ぬいぐるみにも触れなかった。
ユウは反応を期待していなかった。
言葉はなく、声もなかった。
ただ、風のように、その場を離れる。
また静かに、自分の居場所へと戻っていく。
振り返らなかった。
確認しなかった。
けれど、歩きながら思う。
(なぜ、足を止めたんだろう)
自分でも良くわからない。
ただ、放っておいてはいけない気がした。
強迫観念か、偽善か。この衝動につけるべき名前がわからない。
ただ、拾う“誰か”がいるべきだと。
──それだけだった。
照明の切れかけた廊下に、ほんのわずかに、影が揺れていた。
***
朝、チャイムが鳴る。
規則正しく刻まれた音。
夕紬は既に目を開ける。眠っていたというより、目を閉じていた時間が終わっただけだった。
ベッドの上で、少しだけ体を起こす。
すぐ隣の小さな棚に置かれた水を一口飲んで、身支度を始める。
制服じゃない。
白に近いグレーの簡素なパーカーと、柔らかい生地のズボン。
動きやすく、誰とも差が出ないように作られた“共通の衣服”。
洗面所へ向かう。
鏡はある。でも、夕紬はそこを見ない。
顔を映さないように、視線を落としたまま手だけを動かす。
顔を洗い、髪を整える。いつも通り、何も考えず、ただ手順だけで済ませる。
朝食の時間になる。
食堂へ行く。無言のまま席に座る。
配膳されたパンとスープを前に、手を合わせるふりだけをして、口に運ぶ。
誰とも話さない。
隣に座った子がスプーンを落としても、拾わない。
前の席の子が笑っていても、夕紬はその音を「環境音」として処理する。
ただ、「ここにいる」だけ。
食べ終わると、使った食器を返却口へ持って行き、無言で退出する。
午前の時間は自由学習。
決まった時間に部屋を出て、学習室へ行く。
課題プリントが置かれている。数枚の問題を、ただ無表情に解く。
内容は難しくない。
けれど、早く終わらせすぎないよう、少し時間をかける。
「優等生」と「目立ちすぎない」を天秤にかけた、“調整された解答”。
職員の視線が自分の方へ向いているのを感じる。
でも、それに意味を持たせない。
感じても、気づかないふりをする。
夕紬の“日常”は、それで守られている。
昼食。
また食堂に行き、また無言で席に着き、また無言で食べる。
隣の子の笑い声が少しうるさい。
でも、夕紬は顔を上げない。
午後。
自由時間。
ほかの子たちは本を読んだり、ゲームをしたり、職員と話したりしている。
夕紬は廊下を歩く。
音を立てず、目立たず、誰にも話しかけられない速度で。
空いていた小さな談話室に入り、椅子に腰掛ける。
壁を見つめる。テレビはついていない。音もない。
それでも、ちょうどいい。
窓は曇っている。外の景色はぼやけている。
それもまた、ちょうどいい。
時間が過ぎる。
ふと、職員が部屋を覗く。
でも夕紬は微笑み返す。
「元気です、大丈夫です」と言葉にしないメッセージを、顔だけで返す。
何もない。それがいちばん安全だ。
夕方、軽い運動の時間。
敷地内の中庭を、他の子たちと歩く。
夕紬は後ろから数えて二番目を歩く。
誰かと並ばない。誰かを追い越さない。
ただ、間違えないように足を運ぶだけ。
夜。
夕食。
味は覚えていない。けれど、口にはする。
残さず、咀嚼して、飲み込む。
食後の歯磨きとシャワーを済ませる。
今日も鏡は見ない。
目を合わせない。感情を映さない。
そして、部屋に戻ればベッドに潜る。
部屋は冷たいが、夕紬は布団の温度に感謝しない。
それに意味を与えると、なくなったときに困るから。
目を閉じる。
けれど眠れない。
脳裏には、かつての声がよみがえる。
けれど、それを“思い出”と呼ぶことさえ、もうしない。
「今日も、ちゃんと生きてた。」
それだけ。
それ以外の感情は、今日も、必要なかった。
***
その夜、ユウは目を覚ました。暗闇が部屋を支配していた。
静かすぎる夜、施設の中に満ちる無音の圧力。
誰の声も届かない世界で、ふと、耳の奥に砕けるような音が響いた。
現実の音じゃないかもしれない。でも、ユウは立ち上がった。
導かれるように歩いていた。
眠れず、ただ目を閉じるのも怖くて、誰にも見つからないように、靴下のまま。
着いたのは行き止まり。
でも、ユウは知っている。
観葉植物の付近に隠されたボタン。
隙間一つない平らな壁から音もなく扉が現れ、開かれた。
ひゅーと冷たい風が吹く。
手すりの冷たさを頼りに、階段を降りた。
空気は地下へ降りるたびに、冷たく、重くなる。
心の中はざわつくのに、怖くはなかった。
むしろ、何かに呼ばれているような気がした。
辿り着いたのは、人気のない廊下。
そこにあるひとつの鉄の扉が崩れて、かすかに開いていた。
覗いたその先――壊れた壁の隙間に、うずくまる少年がいた。
灰色の髪、ボロボロのシャツ、血の気のない指先。
私より大きな彼は壁に背を預け、顔を伏せ、動かない。
顔は見えない、でも、彼はまるで、生きていることさえ苦しんでいるように見えた。
けれどその奥底に、噛み殺したような怒りの熱の匂いがした。
ユウは声をかけなかった。
話しかけるのは、たぶん、間違いだとわかったから。
代わりに、壊れかけの壁に背を預けて、その場に座った。
ただ、それだけ。
時間が流れる。
静寂がまた、満ちていく。
少年の目が、かすかに動いた。
ユウを見た――けれど、何も言わなかった。
それでよかった。
言葉があったら、たぶん壊れてしまう気がした。
しばらくして、ユウはポケットの中の小さなチョコを出して、そっと床に置いた。
彼はチョコを見たかもしれない。
でも動かない。
拒絶か、戸惑いか――それでもユウは分かっていた。
あれは、きっと“受け取った”ということだ。