ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

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4話 出会い

 

 

 

 

 

 

「ひっ…!」

 

聞こえた声に、ふと視線を向ける。

さっきの店員が、腰を抜かしていた。

 

あぁ、警察官呼ばないと。

ほっとけばヒーローでも来るかな?

 

…はっ。

笑える。今更?

 

「警察官」

 

この世界に、もう、なにも、期待していない。

数年ぶりに走り回った体は酷く気だるい。

声に乗り、“個性”が発動するのを、私はただ、ぼんやりと感じていた。

 

──パッ。

 

空気が震え、何もないところに、制服姿の男が現れた。

警察官だった。

 

彼は一瞬、立ちすくんだ。

 

腰を抜かした店員。

血の海に沈む大人たち。

床に立つ、子供。

 

 

あまりに異常な光景に、男の顔が、引きつった。

 

やがて、ユウを見る。

でも、真正面からは見なかった。

怯えるように、目を逸らす。

 

「……大丈夫か?」

 

低い声で、問いかけた。

でも、手は伸びなかった。

 

ただ声をかけるだけ。

 

 

一歩も、近寄ろうとはしなかった。

 

私は何も答えない。

 

警官の手が、無線に伸びる。

 

応援要請。

 

そんな言葉を口にした。

 

助けるためじゃない。

私を“隔離”するために。

 

その意味が、わかった。

 

──あぁ、やっぱり。

誰も、私を助けない。誰も救わない。

子供であっても、例外はない。

 

優しい声だけが、耳を撫でた。

でも、その手は絶対に伸びてこない。

 

私は、悟った。

この世界に、救いなんてない。

 

 

そのすべてを、ユウは笑って見ていた。

するべきことを悟ったかのように。

 

「輸送車、呼んでください。自分で乗ります。」

 

あぁ忘れてた。

 

「……“個性”、声に関係してるので。抑制用、あれば。」

 

 

 

誰も動けなかった。

 

数秒の沈黙の後、彼女の言葉の意味を理解した警官が小さく頷き、無線機に手を伸ばす。

 

サイレンが鳴り響き、何人かの警察がコンビニに入ってきたのを確認して、ユウは自分で首輪を外した。

カシャンと軽い金属音を立てて、首輪が足元に落ちる。

──あらわになる首の傷跡。

 

それを見てか、一人が一歩後ろに引いた。

大人たちは、どこかこの子を「人間ではないもの」として見始めていた。

 

ユウはそれを微笑みながら受け入れた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

事情聴取は、淡々と進んだ。

 

殺意も、怒りも、悲しみも、そこにはなかった。

ただ、事実だけを丁寧に積み上げるように語る彼女に、誰もそれ以上の言葉をぶつけられなかった。

 

「警察を呼んだ理由は?」

 

「…?事件が起きたら警察を呼ばないといけませんから、それに、手続きを踏まないと“裁けない”でしょう」

 

そう言って、にこりと微笑んだ彼女の顔に、子どもの影はなかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

ユウは望んだ。

人を殺した私に裁きを、と。

 

それは生まれも育ちも間違いでしかなかった私が、

綺麗に終われる方法だと思ったから。

 

警察に一時保護されたユウは、要観察対象となった。

カウンセラーとの面談はすべて意味をなさない。

 

施しを受け取るが、受け入れることはなく、

どんな説得にも笑って頷くだけだった。

 

「自分の意思で判断しました」

 

部屋には観察用のミラーが取り付けられ、時折、大人たちの目がそこから覗いていた。

どこまでも冷静な子供、その奥に何があるのかを、大人たちは測れなかった。

 

彼女はいつも静かに、笑っていた。

 

カウンセラーが「刺激を避けるべきだ」と判断したことで、外部との接触も制限された。

ラジオ番組を通して何かを届けたかった人物の声も、もう、彼女の元には届かない。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

結論だけ言えば、ユウは8歳の子供による行為と認定され、正当防衛とされ、また年齢ゆえに刑事責任は問われなかった。

 

その事実がユウの最後の縁、過去の記憶を打ち砕く。

鮮明に覚えてないそれは、誰かの顔を思い出すこともなく、でも記憶の優しさに、知識に、救われる日々は確かにあった。

ユウを支えたその記憶では、“悪事”をしたら裁かれるはずなのに。

 

裁かれなかった。

じゃ、あの記憶は嘘なの?

 

その日からユウは、静かに、少しずつ「人の形」を整えはじめた。

善くあろうとしたのではない。

ただ、その生き方しか知らないから。

 

それに、ずっと警察に保護されているわけにもいかない。

 

 

たまに向けられる同情が苦手だった。

でも今は、悪寒を覚えなくなった。

だってそういう世界だと思えばいいだけだから。

 

だから夕紬はどんな決定も受け入れることにした。

そうして、新しい家──保護施設への入居が決まった。

 

 

車の振動が、思考の縁を揺らす。

 

眠ってはいけないと思いながらも、夕紬のまぶたはゆっくりと落ちていく。

頬に触れるのは、日差しではない。

窓の外は、もう随分と前から、陽の届かない場所へと変わっていた。

 

車はついに、静かに止まった。

 

「……着いたよ」

 

無機質な声。

同行していた警官のひとりが後部座席のドアを開けたが、夕紬はすぐには動かなかった。

 

重たい体をゆっくりと起こす。

足を下ろすと、足元に触れたのは冷たいアスファルト。

 

そこに、風はなかった。

 

目の前には、少し古びた建物の入り口。

ここが「施設」なのだと、彼女は察した。

 

けれど、それ以上の感情は浮かばなかった。

 

導かれるままに、夕紬は歩く。

夕紬を連れてきた人が職員と話す。

でも、夕紬へは誰も話しかけない。

夕紬も、何も聞かない。

 

 

通されたのは、白く塗られた小さな部屋だった。

ベッドと、机と、窓のない壁。

無機質な明かり。

 

扉が閉まる。

 

夕紬はしばらく、動かなかった。

 

 

 

 

 

施設の廊下は、昼でも薄暗い。

 

蛍光灯の明かりは均等に配置されているはずなのに、決まってあの角だけは、いつも少し影が濃かった。

 

昼食を終えた帰り道。

人の流れに紛れるでもなく、ただ一人、ユウはその影の中を歩いていた。

 

──そこで、気づいた。

 

廊下の壁際、少しだけ膝を曲げてうずくまる、小さな子ども。

背中が揺れていた。

泣いているのか、眠っているのかもわからない。

 

けれど──誰も、見ていなかった。

 

すれ違っていく職員も、数人の子どもたちも、その存在を“見ていない”かのように通り過ぎていく。

 

(気づかないふり?)

 

それとも──最初から、“いない”ことになっているのだろうか。

 

足元には、白く薄汚れた、くたびれたぬいぐるみが落ちていた。

少しだけ腕が裂けていて、中の綿がのぞいていた。

 

ユウは、足を止める。

 

しゃがむでもなく、言葉をかけるでもなく。

ただ、立ったまま、しばらく見つめた。

 

──かがんでぬいぐるみを拾った。

 

ほんの、何の意味もない動作。

 

そっと、その子の膝のそばに、戻す。

 

子どもは顔を上げなかった。

ぬいぐるみにも触れなかった。

 

ユウは反応を期待していなかった。

言葉はなく、声もなかった。

 

ただ、風のように、その場を離れる。

また静かに、自分の居場所へと戻っていく。

 

振り返らなかった。

確認しなかった。

 

けれど、歩きながら思う。

 

(なぜ、足を止めたんだろう)

 

自分でも良くわからない。

ただ、放っておいてはいけない気がした。

強迫観念か、偽善か。この衝動につけるべき名前がわからない。

 

ただ、拾う“誰か”がいるべきだと。

 

──それだけだった。

 

照明の切れかけた廊下に、ほんのわずかに、影が揺れていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

朝、チャイムが鳴る。

規則正しく刻まれた音。

夕紬は既に目を開ける。眠っていたというより、目を閉じていた時間が終わっただけだった。

 

ベッドの上で、少しだけ体を起こす。

すぐ隣の小さな棚に置かれた水を一口飲んで、身支度を始める。

 

制服じゃない。

白に近いグレーの簡素なパーカーと、柔らかい生地のズボン。

動きやすく、誰とも差が出ないように作られた“共通の衣服”。

 

洗面所へ向かう。

鏡はある。でも、夕紬はそこを見ない。

顔を映さないように、視線を落としたまま手だけを動かす。

顔を洗い、髪を整える。いつも通り、何も考えず、ただ手順だけで済ませる。

 

朝食の時間になる。

食堂へ行く。無言のまま席に座る。

配膳されたパンとスープを前に、手を合わせるふりだけをして、口に運ぶ。

 

誰とも話さない。

隣に座った子がスプーンを落としても、拾わない。

前の席の子が笑っていても、夕紬はその音を「環境音」として処理する。

ただ、「ここにいる」だけ。

 

食べ終わると、使った食器を返却口へ持って行き、無言で退出する。

 

午前の時間は自由学習。

決まった時間に部屋を出て、学習室へ行く。

課題プリントが置かれている。数枚の問題を、ただ無表情に解く。

 

内容は難しくない。

けれど、早く終わらせすぎないよう、少し時間をかける。

「優等生」と「目立ちすぎない」を天秤にかけた、“調整された解答”。

 

職員の視線が自分の方へ向いているのを感じる。

でも、それに意味を持たせない。

感じても、気づかないふりをする。

夕紬の“日常”は、それで守られている。

 

昼食。

また食堂に行き、また無言で席に着き、また無言で食べる。

隣の子の笑い声が少しうるさい。

でも、夕紬は顔を上げない。

 

午後。

自由時間。

ほかの子たちは本を読んだり、ゲームをしたり、職員と話したりしている。

 

夕紬は廊下を歩く。

音を立てず、目立たず、誰にも話しかけられない速度で。

 

空いていた小さな談話室に入り、椅子に腰掛ける。

壁を見つめる。テレビはついていない。音もない。

それでも、ちょうどいい。

 

窓は曇っている。外の景色はぼやけている。

それもまた、ちょうどいい。

 

時間が過ぎる。

 

ふと、職員が部屋を覗く。

でも夕紬は微笑み返す。

「元気です、大丈夫です」と言葉にしないメッセージを、顔だけで返す。

 

何もない。それがいちばん安全だ。

 

夕方、軽い運動の時間。

敷地内の中庭を、他の子たちと歩く。

夕紬は後ろから数えて二番目を歩く。

誰かと並ばない。誰かを追い越さない。

ただ、間違えないように足を運ぶだけ。

 

夜。

夕食。

味は覚えていない。けれど、口にはする。

残さず、咀嚼して、飲み込む。

 

食後の歯磨きとシャワーを済ませる。

今日も鏡は見ない。

目を合わせない。感情を映さない。

 

そして、部屋に戻ればベッドに潜る。

部屋は冷たいが、夕紬は布団の温度に感謝しない。

それに意味を与えると、なくなったときに困るから。

 

目を閉じる。

けれど眠れない。

脳裏には、かつての声がよみがえる。

けれど、それを“思い出”と呼ぶことさえ、もうしない。

 

「今日も、ちゃんと生きてた。」

 

それだけ。

それ以外の感情は、今日も、必要なかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

その夜、ユウは目を覚ました。暗闇が部屋を支配していた。

静かすぎる夜、施設の中に満ちる無音の圧力。

誰の声も届かない世界で、ふと、耳の奥に砕けるような音が響いた。

現実の音じゃないかもしれない。でも、ユウは立ち上がった。

 

 

導かれるように歩いていた。

眠れず、ただ目を閉じるのも怖くて、誰にも見つからないように、靴下のまま。

 

着いたのは行き止まり。

でも、ユウは知っている。

観葉植物の付近に隠されたボタン。

 

隙間一つない平らな壁から音もなく扉が現れ、開かれた。

ひゅーと冷たい風が吹く。

 

手すりの冷たさを頼りに、階段を降りた。

空気は地下へ降りるたびに、冷たく、重くなる。

心の中はざわつくのに、怖くはなかった。

むしろ、何かに呼ばれているような気がした。

 

 

 

辿り着いたのは、人気のない廊下。

そこにあるひとつの鉄の扉が崩れて、かすかに開いていた。

覗いたその先――壊れた壁の隙間に、うずくまる少年がいた。

 

灰色の髪、ボロボロのシャツ、血の気のない指先。

私より大きな彼は壁に背を預け、顔を伏せ、動かない。

顔は見えない、でも、彼はまるで、生きていることさえ苦しんでいるように見えた。

けれどその奥底に、噛み殺したような怒りの熱の匂いがした。

 

ユウは声をかけなかった。

 

話しかけるのは、たぶん、間違いだとわかったから。

代わりに、壊れかけの壁に背を預けて、その場に座った。

ただ、それだけ。

 

時間が流れる。

 

静寂がまた、満ちていく。

少年の目が、かすかに動いた。

ユウを見た――けれど、何も言わなかった。

それでよかった。

 

言葉があったら、たぶん壊れてしまう気がした。

 

しばらくして、ユウはポケットの中の小さなチョコを出して、そっと床に置いた。

彼はチョコを見たかもしれない。

でも動かない。

 

拒絶か、戸惑いか――それでもユウは分かっていた。

 

あれは、きっと“受け取った”ということだ。

 

 

 

 

 

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