ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

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5話 熾火

 

 

 

 

 

朝の支度が終わった頃、夕紬は職員に声をかけられた。

 

 

「夕紬ちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど……」

 

 

いつものように柔らかく、けれど慣れない“気遣い”の含まれた声だった。

 

夕紬はすぐに察した。相手にされていない子が、そこにいるのだと。

 

 

「ひどい怪我でね。医療棟にいるの、一人でいる時間が多いから、よかったら、少しだけでも」

 

 

頷けば、それだけ言って、職員は案内もせずに行ってしまった。

 

 

 

 

 

向かったのは、あまり訪れることのない病棟。

施設の本棟から少し離れた、真新しく、音のない平家の一室。

 

誰も使っていないように見えるその建物の扉は、重たく静かに開いた。

 

 

中に入ると、ひんやりとした空気がユウの頬を撫でた。

 

 

足音を立てないように進む。

 

消毒薬とうっすらと金属の匂いが鼻をつく。

 

でもその奥に、微かに――焦げた匂いが混じっていた。

 

 

(……似てる)

 

 

それは、数日前に会ったばかりの「彼」の気配に似ていた。

 

崩れた壁の奥にいた。

壊れそうなのに、そのまま生きていた少年。

 

 

初めて名前を知りたいと思った人。

だから、きっと、また会うのだろう。

 

そのときにまた、ただ隣に座れたらいいと――

そう思えるほどに、彼は“不思議な存在"だった。

 

 

そして、自分が向かう部屋の扉の前でも、ユウはまた同じ匂いを感じていた。

 

 

 

 

 

部屋の中には一つのベッドと、機械の音だけがあった。

 

 

点滴、心電図。

 

機械の規則的な音で、

生命の証が辛うじて表現されていた。

 

 

白いシーツに包まれた身体は動かない。

 

包帯で巻かれた手足。

皮膚のほとんどが包帯で隠されていた。

 

顔に火傷の後はないが代わりに皮膚に繋ぎ目が見えた。

そしてそれを隠すように口元に彼の髪と同じ、白い布が被せられていた。

 

 

それでも――その人は、確かに生きていた。

 

 

(あ……)

 

 

ユウは、一歩だけ中に入って、すぐに立ち止まった。

 

強く、胸がざわついた。

 

 

匂いがした。

 

焦げた灰、焼け跡。

 

だけどそれは、過去の出来事じゃない。

 

いまも、燻っているものの匂いだった。

 

 

彼は、まだ燃えている。

 

この体の奥で、ずっと、ずっと。

 

彼の身を焦がす激情をユウは確かに感じ取った。

 

 

 

ベッドの傍まで行くことはできなかった。

 

 

ユウは近寄ることもなく、部屋の椅子に腰を下ろした。

 

その眠りをそっと見守るように。

 

 

名前も知らない。

声もかけられない。

 

ただ、そこにいるだけ。

 

 

その“存在”に、彼が気づくかどうかもわからない。

 

でもユウは、黙ってそこにいた。

 

 

視線を逸らすことなく。

 

彼の”燃えかす”のような身体に、目を逸らすことなく。

 

 

 

それから数日、ユウは時間があるたびに、この部屋を訪れるようになった。

 

職員は、”ありがとうね”と言うけれど、感謝されるようなことはしていない。

 

ユウはただ、自分のために来ていた。

 

あの匂いが、あの気配が、何かを呼び起こすような気がしていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

ワープに慣れる子どもなんて、いるはずがない。

 

 

けれど、音も無く部屋に満ちた黒い霧から、男が現れたとき、ユウは眉一つ動かさなかった。

 

音を立てず、白の中から身を起こす。

 

小柄な少女は、ただ淡々と視線を合わせた。

 

清潔な白衣のような服を身にまとい、感情の色はなかった。

 

 

黒霧――名を名乗っていない彼は、一拍置いてから静かに言った。

 

 

「死柄木弔、“彼”のもとへ」

 

 

ユウは頷いた。

 

 

声も、表情もなかった。

 

何のためらいもなく、ただそこに道があるかのように歩き始めた。

 

彼女の小さな体が霧に包まれ、空間の裂け目へと消えていく。

 

黒霧はその背に、一瞬だけためらいのようなものを覚えたが、口には出さなかった。

 

 

 

 

一瞬、重力がほどける。

 

夜の温度のような、沈黙の風。

 

嗅ぎ慣れたアルコールの香りはなく。

 

ユウが現れたのは、古びたアジトの一室だった。

 

 

空間の奥。

 

そこに彼はいた。

 

 

壁に背を預け、フードを目深に被った灰色の髪の少年――

 

死柄木弔。

 

 

酷く荒れた肌に、深く落ちた眼差し。

 

模型のような手が彼の体を包んでいる。

 

身に余るほどの憎悪と怒りを内に宿しながらも、静かな佇まいで、彼はただ、そこにいた。

 

 

ユウの姿に気づいた彼は、目だけを動かした。

 

そして。

 

 

「……なんだよ、お前」

 

 

かすれた声で、そう言った。

 

 

ユウは、ただ歩いた。

 

言葉も音もなく、

 

 

距離の向こう、彼だけを見つめて。

 

 

そして、

 

 

「……弔くん」

 

 

名前が、夜の水面に落ちた。

 

 

その瞬間。

 

 

ビリ、と空気の底で、拒絶の音が弾けた。

 

 

死柄木の眼が見開かれた。

 

ただ、その場で、にじむような拒絶の気配を発した。

 

 

 

 

「──呼ぶな」

 

 

鋭い言葉だった。

 

感情を押し殺しているのに、なお強く滲む拒絶。

 

 

けれど、ユウの顔は動かなかった。

 

まるで最初からそれが予想していたかのように、瞳の奥すらも揺れなかった。

 

 

ユウはそっと目をつぶる。

 

再び開いた瞼に変わらず熱はない。

目は合わせずに、けれど視線を逸らさないまま、彼のそばに近寄る。

 

でも、彼に触れることはしない。

 

ただ、薄く目を細めしゃがみ込む。

 

 

壁の隙間から差し込む冷たい光の中、

 

静けさが二人の間に満ちていく。

 

 

 

 

黒霧は部屋の外に立っていた。

 

扉は開いたまま、けれど彼は入ってこない。

 

 

「……あの子は、話さないんですね」

 

 

呟くような独白に、答える者はいない。

 

 

それでも彼は、内心で確信していた。

 

あの少女は、彼に何かを“言う”ために来たのではない。

 

“見る”ために来たのだ。

 

 

 

 

どれくらい経っただろうか。

 

死柄木は言葉を吐かなかった。

 

 

ユウもまた、それ以上名前を呼ぶことはなかった。

 

沈黙が積もり、やがて空気が変わる。

 

 

彼の手が、わずかに動いた。

 

服の袖を握るその仕草に、微かな苛立ちと、戸惑いがにじむ。

 

 

「……なんなんだ、お前。気持ち悪い」

 

 

呟きにも似た声。

 

だが、それでも彼は、ユウに背を向けなかった。

 

 

──それでも彼は、私を“壊さなかった”。

 

 

 

 

ユウは立ち上がった。

 

ポケットから、小さな包みを取り出す。

 

 

チョコレート。

 

いつかの、最初の出会いでも置いたもの。

 

 

死柄木はそれを見なかった。

 

それでもユウは構わず、足元にそっと置いた。

何も言わず、部屋を出て黒霧を見つめた。

 

体をかすかに動かし黒霧が振り返る。

 

 

「お帰りですか」

「……はい」

 

黒霧の前で、ユウは少し間を置いて口を開いた。

 

 

「名前、呼ばない方がよかったですか?」

 

 

ユウは一瞬だけ考え、黒霧の返事を待たずに再び口を開いた。

──きっと、答えを誰かに貰うのは違う。

 

 

「……いいえ、忘れてください。それでも、知れてよかった」

 

黒霧は目を細める。

 

霧が再び彼女を包み込む直前、死柄木の眼差しがわずかに動いた。

 

 

彼女を、見ていた。

 

 

 

 

再び瞬きの浮遊感、そしてユウは気が付けば自室にいた。

 

ベッドに戻ったユウはそっと布団に潜り込んだ。

 

 

チョコは食べられなかったかもしれない。

 

名前も拒絶された。

 

それでも。

 

 

彼女の目には、ほんの少しだけ、

 

人のような“生”を帯びた死柄木の顔が焼きついていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

彼の病室は随分と騒がしくなった。

 

体を覆った包帯が少しずつ外されていき、

夕紬の後を追うように何人かの子供が病室に訪れるようになった。

 

それでも誰もが長く居座ることはない。

 

ただ子供たちは思い思いに見舞いの品を持ち込んだ。

そうして、色のない部屋に色彩が増えた。

 

 

夕紬もそんな病室への本の持ち込みを許可され、静かに読書に耽っていた。

 

彼は本を読むのだろうか。

 

 

自身が読む、子供らしくないその本を、少しだけ眺めて閉じた。

 

日が傾く角度が、少しずつ変わっていく。

はじめは寒かった床が、次第に温もりを持ち始めた。

 

季節がひとつ、またひとつ過ぎていく間。

それでも彼は、目を覚まさなかった。

 

ある日。

 

ほんの一瞬だけ――彼が、目を開けた。

 

 

包帯の隙間から覗く、乾いた目。

 

焦点は合っていなかった。

 

意識も朧で、呼吸も浅く、ただ反射のように瞼が開いただけかもしれない。

 

 

でも、その目は確かに、ユウを見た。

 

――瞳が触れた。

 

 

数秒。

まばたきもせず、見つめるように。

 

 

(……見てる)

 

 

言葉はなかった。感情もわからなかった。

 

それでもユウは、その目を忘れない。

 

 

あの人に似ていた。

 

けれど、もっと脆くて、もっと切実な――生きていることが痛いような、そんな目だった。

 

 

 

長い、長い沈黙の後、その目が閉じられた。

 

 

彼は、まだ深い眠りの中にいる。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

その日も夕紬はいつも通り食堂の隅にいた。

 

普段のように、向けられた言葉や行動に反応を返すだけ。

食器を持つ音、誰かの笑い声──全部、空気と一緒に流していた。

 

 

 

けれど。

 

ふと、背筋を撫でるものがあった。

 

視線。

 

それも、「私」を見るためのものじゃない。

 

“私の中の何かを探している”目。

 

 

 

ユウはそっと顔を上げた。

食堂の外、職員の案内で歩く数人の大人が見えた。

 

その中に──いた。

 

青白い肌。

片目を隠す髪。

表情は笑っているのに、目が笑っていない。

 

彼女はこちらを見ている。

目の奥が、こっちを切り取ろうとしていた。

 

 

 

 

嫌だ、と、思った。

 

それは怒りでも恐怖でもなく、

もっと深く、皮膚の下に差し込まれるような嫌悪だった。

 

その人は、すぐこっちへ歩いてくる。

まだ視線は合ってない、でも、来る。

 

 

 

ユウは、静かに立ち上がった。

音を立てないように、食器を持ったまま、反対側の出口に向かった。

 

誰にも不審がられないように。

何でもないように。

 

でも心の中では、

ずっとその人の“目”が追ってくる気がしていた。

 

 

 

廊下に出て、建物の裏に逃げ込む。物置の横の影に入る。

大丈夫、誰の視線も感じない。

 

そこは人の気配が届かない、ほんの小さな死角。

 

 

 

壁に背を預けて、ゆっくりと呼吸を整えた。

 

鼓動が速いわけじゃない。

でも、胸の奥がひどくざらついていた。

 

息が、詰まる。

 

 

 

──あの目は、“知っている目”だった。

 

私の”どうして”を探していた。

私の生き方や過去の選択に理由を欲しがっていた。

 

私という存在の価値を、どこかに持ち帰ろうとしてた。

 

 

 

目を合わせていたら、たぶん、奪われていた──いや与えられていたと思う。

名前も、記憶も、私の一部も。

 

すべてを一括りにする言葉を、ぶら下げて生きなければならなくなると思った。

 

 

 

だから、見つからなかったことに安堵する。

 

それでも──

その視線の感触だけは、今でも消えていない。

 

深いところを刃物で引き裂かれるような。

烙印を押し付けられるような。

 

 

 

あれが、初めてだった。

 

「在り方を決められる」ことが、

いつからから、何よりの苦痛になっていたのだと気付いた。

 

 

 

 

 

ユウは大人達の気配が消えたのを感じとりやっと動き出す。

 

それは病院棟だった。

そして、いつものように席に座る。

 

そこでやっと息が吸えた。

 

 

ふと立ち上がりベッドシーツの端が捲れていることに気付いた。

考えるより先に体が動いた。

 

それが偽善なのか、感謝なのか、善意なのか。

 

わからないけれど、ユウは静かに直した。

その時に、彼の袖が目についた。

 

 

当然だが、ユウのいない間にも彼は生きている。

 

反射的にシーツを直したが、彼に触れることしていけないとユウは感じていた。

 

 

 

触れれば、壊れてしまいそうで。

 

──私はただ、見るだけだ。

 

 

 

ユウには、やはりわからない。

それが自分のためなのか、彼のためなのか。

あるいは、意識のない彼とのあいだに芽生えた、名もない何かのせいなのか。

 

「わからないことは悪いこと」――そう生きてきた。

けれど、もう、自分の言動に名前をつける意味を見出せない。

 

だから、自分の感覚に従うだけ。

 

 

なのに──胸の奥で、ひどく大きな間違いを犯している気がした。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

昼下がりの空気が、施設の壁越しにゆっくりと染み込んでくる頃。

自室の机で本を読んでいると足音が聞こえた。

 

パタンと本を閉じる頃には夕紬のもとに、ノックの音が響いた。

 

「……入るね」

 

扉が開き、ひとりの職員が顔をのぞかせた。

年配の女性だった。いつも笑っているが、笑っていないときの目が鋭い。

今は、そのどちらでもない、曖昧な気配で部屋に入ってくる。

 

「夕紬ちゃん……ちょっとだけ、話せるかな」

 

夕紬は椅子に座ったまま、小さく頷いた。

 

職員は、手に持っていた書類をそっと棚に置き、ベッドの端に腰掛けた。

夕紬は少し背筋を正す。

 

職員は笑顔はつくらず、かといって深刻な口ぶりにもならず、どこか“準備されたような声”で話し始める。

 

「少し前から、話が進んでたの。

 夕紬ちゃん、来週──来月になる前には、新しい施設に移ることになるわ」

 

膝の上に置かれた夕紬の指が、ほんのわずか動いた。

 

「……何かあったわけじゃないの。むしろ、今の暮らし方が“良すぎる”くらいって話してた。

 でも、あなたが過ごすには、もう少し整ったところがいいって判断でね。

 勉強も進んでるし、……何より、“環境”ってやつかしら」

 

“環境”。

その言葉は、どこか、自分の意志とは関係のない場所から降ってくる。

 

夕紬は目を伏せ頷いた。

 

職員もまた、少し驚いたように、

でも、どこか、それを予測していたように、

少しだけ言い淀んでから続けた。

 

「……何か、気になること、ある?」

 

 

 

夕紬は、ほんの少し間を置いてから、ぽつりと問う。

 

「……あの子は?」

 

声は小さいが、はっきりしていた。

 

それは確認だった。

あの子は誰かが見ていないといけないと、

夕紬の中の何か──直感じみたものが叫ぶから。

 

誰のことか、職員はすぐに察した。

 

病棟の白い部屋にいる、名も知らぬ少年のこと。

 

職員は少しだけ口を引き結んでから、答えた。

 

「……あの子のことはちゃんと考えてるから、心配はいらないわ」

 

“心配”という言葉がどこか宙を泳ぐ。

 

けれど、優しさの乗る声。

夕紬が目を上げれば、職員の目は笑っていなかった。

 

──噓つき。

彼の病室に行く子は居るだろう。

でも、たぶん彼の本質を理解できる子はおそらくあまりいない。

必要なのは彼を理解し、行動できる”大人”なんだ。

 

 

 

「引越しは来週の半ば。

 だから、残り数日……時間、あるからね。

 荷物は少しずつまとめてもらえればいいし、何かあれば、いつでも言って」

 

職員はそう言い残すと、立ち上がり、扉の方へ歩く。

夕紬に何か声をかける素振りも見せたが、やめた。

そして静かに、部屋を出ていった。

 

 

 

夕紬は、しばらく動かなかった。

 

誰もいない部屋の中で、閉じたままの本に指を戻す。

けれど、ページはもう開かれない。

 

静かに引き出しを開き、白紙の紙を取り出す。

 

 

 

やがて、立ち上がる。

 

 

 

あの部屋に、あの少年に、果たすべき義務がある。

 

 

 

──そして彼女は、静かに部屋を出た。

 

 

 

日の沈む窓を見て、静かに腰を上げる。

 

 

 

 

 

白紙の紙を折らないように手で持ちユウは部屋を出た。

 

まっすぐ、病棟へ向かうつもりだった。

 

けれど、廊下を曲がる途中、ふと耳が引っかかった。

 

 

 

──職員室の扉の隙間から、声が漏れていた。

 

 

 

「……夕紬ちゃん、移動の件、本人には伝えたけど、あの反応でいいのかな?」

 

「よくも悪くも、感情を見せない子だからね。

 何を考えてるか、わからないっていうか……ちょっと怖い」

 

「でも問題は起こさないし、むしろ“優等生”って感じよね。

 言われたことも完璧にこなすし、トラブルもない」

 

「……それが逆に不気味なのよ。

 “あの事件”のあとで、こんなに何も感じてないように見えるのが」

 

少しだけ、沈黙が挟まる。

 

「──8歳で、あれだけのことを経験してるのは同情するけど、

 裁かれなかったってだけで、“普通の子”として扱うのは、やっぱり……」

 

「でも、“かわいそうな子”でもあるのよ。

 誰も止めてあげられなかった、って」

 

「止められなかったのか、止めても意味がなかったのか……わからないけど」

 

 

声色は柔らかいのに、言葉の輪郭は探るようだった。

 

ユウは歩き出す。

でも、足音をほんの少しだけ、ゆっくりになる。

そうしなければ、指先が紙にシワを作ってしまいそうだから。 

 

「……最近は、医療棟の子と接触してるでしょ?

 眠ってる子の隣に座ってるだけみたいだけど……」

 

「うん。でも、本人からは何も言わない。

 “何を思ってそこにいるのか”を、教えてくれないのよ。

 見てるだけで、何も起こさない。ほんとよくわからない子」

 

 

 

扉は閉じたまま。

気配も、扉の向こうにだけ向けられている。

 

だからユウはただ通り過ぎる。

何も反応せず、何も聞こえなかったふりで。

 

そうだろうな、とは思ってた。

 

けど、こうして耳で聞くと――骨に残る。

 

心の奥のどこかに、「私は“怖がられている”」という実感だけが、静かに刻まれた。

 

社会の反応として認識してはいたが、

目の前で、知っている人に向けられるのは初めてだった。

 

 

 

それでもユウは歩を緩めない。

 

あの名前を知らない、まだ目覚めない“誰か”の元へ向かうため。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

ユウは、いつものよりきれいになった机の上へ、小さな手紙を置いた。

 

 

『おねむりくんへ

 

おはよう。

 

あなたが起きたとき、私はもういないので、これだけ残します。

 

誰かの言葉が、あなたを焼き尽くしませんように。』

 

 

 

離した手が、止まる。

 

…ほんの少しだけ、指先が迷った。

 

ポケットから鉛筆を取り出して、一言だけ書き足す。

 

 

名前も、署名も書かなかった。

 

自分という個を残さないのが、ユウなりの“けじめ”だった。

 

その日、ユウは初めて、病室の扉の前で立ち止まり、振り返った。

 

 

何も言わず。

 

ただ一度、彼を見つめる。

 

 

そして、また静かに扉を閉じた。

 

 

 

 

燻ぶる記憶のにおいはまだ残っていた。

 

でも、ほんの少しだけ、熱は静かになっていた。

 

 

彼女が去ったあとも、部屋には誰も来なかった。

ただ、窓の隙間から吹き込んだ風が、一度だけベッドの端を揺らした。

 

――まるで、何かがそこにいたことを、なぞるように。

 

 

 

 

 

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