朝の支度が終わった頃、夕紬は職員に声をかけられた。
「夕紬ちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど……」
いつものように柔らかく、けれど慣れない“気遣い”の含まれた声だった。
夕紬はすぐに察した。相手にされていない子が、そこにいるのだと。
「ひどい怪我でね。医療棟にいるの、一人でいる時間が多いから、よかったら、少しだけでも」
頷けば、それだけ言って、職員は案内もせずに行ってしまった。
向かったのは、あまり訪れることのない病棟。
施設の本棟から少し離れた、真新しく、音のない平家の一室。
誰も使っていないように見えるその建物の扉は、重たく静かに開いた。
中に入ると、ひんやりとした空気がユウの頬を撫でた。
足音を立てないように進む。
消毒薬とうっすらと金属の匂いが鼻をつく。
でもその奥に、微かに――焦げた匂いが混じっていた。
(……似てる)
それは、数日前に会ったばかりの「彼」の気配に似ていた。
崩れた壁の奥にいた。
壊れそうなのに、そのまま生きていた少年。
初めて名前を知りたいと思った人。
だから、きっと、また会うのだろう。
そのときにまた、ただ隣に座れたらいいと――
そう思えるほどに、彼は“不思議な存在"だった。
そして、自分が向かう部屋の扉の前でも、ユウはまた同じ匂いを感じていた。
部屋の中には一つのベッドと、機械の音だけがあった。
点滴、心電図。
機械の規則的な音で、
生命の証が辛うじて表現されていた。
白いシーツに包まれた身体は動かない。
包帯で巻かれた手足。
皮膚のほとんどが包帯で隠されていた。
顔に火傷の後はないが代わりに皮膚に繋ぎ目が見えた。
そしてそれを隠すように口元に彼の髪と同じ、白い布が被せられていた。
それでも――その人は、確かに生きていた。
(あ……)
ユウは、一歩だけ中に入って、すぐに立ち止まった。
強く、胸がざわついた。
匂いがした。
焦げた灰、焼け跡。
だけどそれは、過去の出来事じゃない。
いまも、燻っているものの匂いだった。
彼は、まだ燃えている。
この体の奥で、ずっと、ずっと。
彼の身を焦がす激情をユウは確かに感じ取った。
ベッドの傍まで行くことはできなかった。
ユウは近寄ることもなく、部屋の椅子に腰を下ろした。
その眠りをそっと見守るように。
名前も知らない。
声もかけられない。
ただ、そこにいるだけ。
その“存在”に、彼が気づくかどうかもわからない。
でもユウは、黙ってそこにいた。
視線を逸らすことなく。
彼の”燃えかす”のような身体に、目を逸らすことなく。
それから数日、ユウは時間があるたびに、この部屋を訪れるようになった。
職員は、”ありがとうね”と言うけれど、感謝されるようなことはしていない。
ユウはただ、自分のために来ていた。
あの匂いが、あの気配が、何かを呼び起こすような気がしていた。
***
ワープに慣れる子どもなんて、いるはずがない。
けれど、音も無く部屋に満ちた黒い霧から、男が現れたとき、ユウは眉一つ動かさなかった。
音を立てず、白の中から身を起こす。
小柄な少女は、ただ淡々と視線を合わせた。
清潔な白衣のような服を身にまとい、感情の色はなかった。
黒霧――名を名乗っていない彼は、一拍置いてから静かに言った。
「死柄木弔、“彼”のもとへ」
ユウは頷いた。
声も、表情もなかった。
何のためらいもなく、ただそこに道があるかのように歩き始めた。
彼女の小さな体が霧に包まれ、空間の裂け目へと消えていく。
黒霧はその背に、一瞬だけためらいのようなものを覚えたが、口には出さなかった。
一瞬、重力がほどける。
夜の温度のような、沈黙の風。
嗅ぎ慣れたアルコールの香りはなく。
ユウが現れたのは、古びたアジトの一室だった。
空間の奥。
そこに彼はいた。
壁に背を預け、フードを目深に被った灰色の髪の少年――
死柄木弔。
酷く荒れた肌に、深く落ちた眼差し。
模型のような手が彼の体を包んでいる。
身に余るほどの憎悪と怒りを内に宿しながらも、静かな佇まいで、彼はただ、そこにいた。
ユウの姿に気づいた彼は、目だけを動かした。
そして。
「……なんだよ、お前」
かすれた声で、そう言った。
ユウは、ただ歩いた。
言葉も音もなく、
距離の向こう、彼だけを見つめて。
そして、
「……弔くん」
名前が、夜の水面に落ちた。
その瞬間。
ビリ、と空気の底で、拒絶の音が弾けた。
死柄木の眼が見開かれた。
ただ、その場で、にじむような拒絶の気配を発した。
「──呼ぶな」
鋭い言葉だった。
感情を押し殺しているのに、なお強く滲む拒絶。
けれど、ユウの顔は動かなかった。
まるで最初からそれが予想していたかのように、瞳の奥すらも揺れなかった。
ユウはそっと目をつぶる。
再び開いた瞼に変わらず熱はない。
目は合わせずに、けれど視線を逸らさないまま、彼のそばに近寄る。
でも、彼に触れることはしない。
ただ、薄く目を細めしゃがみ込む。
壁の隙間から差し込む冷たい光の中、
静けさが二人の間に満ちていく。
黒霧は部屋の外に立っていた。
扉は開いたまま、けれど彼は入ってこない。
「……あの子は、話さないんですね」
呟くような独白に、答える者はいない。
それでも彼は、内心で確信していた。
あの少女は、彼に何かを“言う”ために来たのではない。
“見る”ために来たのだ。
どれくらい経っただろうか。
死柄木は言葉を吐かなかった。
ユウもまた、それ以上名前を呼ぶことはなかった。
沈黙が積もり、やがて空気が変わる。
彼の手が、わずかに動いた。
服の袖を握るその仕草に、微かな苛立ちと、戸惑いがにじむ。
「……なんなんだ、お前。気持ち悪い」
呟きにも似た声。
だが、それでも彼は、ユウに背を向けなかった。
──それでも彼は、私を“壊さなかった”。
ユウは立ち上がった。
ポケットから、小さな包みを取り出す。
チョコレート。
いつかの、最初の出会いでも置いたもの。
死柄木はそれを見なかった。
それでもユウは構わず、足元にそっと置いた。
何も言わず、部屋を出て黒霧を見つめた。
体をかすかに動かし黒霧が振り返る。
「お帰りですか」
「……はい」
黒霧の前で、ユウは少し間を置いて口を開いた。
「名前、呼ばない方がよかったですか?」
ユウは一瞬だけ考え、黒霧の返事を待たずに再び口を開いた。
──きっと、答えを誰かに貰うのは違う。
「……いいえ、忘れてください。それでも、知れてよかった」
黒霧は目を細める。
霧が再び彼女を包み込む直前、死柄木の眼差しがわずかに動いた。
彼女を、見ていた。
再び瞬きの浮遊感、そしてユウは気が付けば自室にいた。
ベッドに戻ったユウはそっと布団に潜り込んだ。
チョコは食べられなかったかもしれない。
名前も拒絶された。
それでも。
彼女の目には、ほんの少しだけ、
人のような“生”を帯びた死柄木の顔が焼きついていた。
***
彼の病室は随分と騒がしくなった。
体を覆った包帯が少しずつ外されていき、
夕紬の後を追うように何人かの子供が病室に訪れるようになった。
それでも誰もが長く居座ることはない。
ただ子供たちは思い思いに見舞いの品を持ち込んだ。
そうして、色のない部屋に色彩が増えた。
夕紬もそんな病室への本の持ち込みを許可され、静かに読書に耽っていた。
彼は本を読むのだろうか。
自身が読む、子供らしくないその本を、少しだけ眺めて閉じた。
日が傾く角度が、少しずつ変わっていく。
はじめは寒かった床が、次第に温もりを持ち始めた。
季節がひとつ、またひとつ過ぎていく間。
それでも彼は、目を覚まさなかった。
ある日。
ほんの一瞬だけ――彼が、目を開けた。
包帯の隙間から覗く、乾いた目。
焦点は合っていなかった。
意識も朧で、呼吸も浅く、ただ反射のように瞼が開いただけかもしれない。
でも、その目は確かに、ユウを見た。
――瞳が触れた。
数秒。
まばたきもせず、見つめるように。
(……見てる)
言葉はなかった。感情もわからなかった。
それでもユウは、その目を忘れない。
あの人に似ていた。
けれど、もっと脆くて、もっと切実な――生きていることが痛いような、そんな目だった。
長い、長い沈黙の後、その目が閉じられた。
彼は、まだ深い眠りの中にいる。
***
その日も夕紬はいつも通り食堂の隅にいた。
普段のように、向けられた言葉や行動に反応を返すだけ。
食器を持つ音、誰かの笑い声──全部、空気と一緒に流していた。
けれど。
ふと、背筋を撫でるものがあった。
視線。
それも、「私」を見るためのものじゃない。
“私の中の何かを探している”目。
ユウはそっと顔を上げた。
食堂の外、職員の案内で歩く数人の大人が見えた。
その中に──いた。
青白い肌。
片目を隠す髪。
表情は笑っているのに、目が笑っていない。
彼女はこちらを見ている。
目の奥が、こっちを切り取ろうとしていた。
嫌だ、と、思った。
それは怒りでも恐怖でもなく、
もっと深く、皮膚の下に差し込まれるような嫌悪だった。
その人は、すぐこっちへ歩いてくる。
まだ視線は合ってない、でも、来る。
ユウは、静かに立ち上がった。
音を立てないように、食器を持ったまま、反対側の出口に向かった。
誰にも不審がられないように。
何でもないように。
でも心の中では、
ずっとその人の“目”が追ってくる気がしていた。
廊下に出て、建物の裏に逃げ込む。物置の横の影に入る。
大丈夫、誰の視線も感じない。
そこは人の気配が届かない、ほんの小さな死角。
壁に背を預けて、ゆっくりと呼吸を整えた。
鼓動が速いわけじゃない。
でも、胸の奥がひどくざらついていた。
息が、詰まる。
──あの目は、“知っている目”だった。
私の”どうして”を探していた。
私の生き方や過去の選択に理由を欲しがっていた。
私という存在の価値を、どこかに持ち帰ろうとしてた。
目を合わせていたら、たぶん、奪われていた──いや与えられていたと思う。
名前も、記憶も、私の一部も。
すべてを一括りにする言葉を、ぶら下げて生きなければならなくなると思った。
だから、見つからなかったことに安堵する。
それでも──
その視線の感触だけは、今でも消えていない。
深いところを刃物で引き裂かれるような。
烙印を押し付けられるような。
あれが、初めてだった。
「在り方を決められる」ことが、
いつからから、何よりの苦痛になっていたのだと気付いた。
ユウは大人達の気配が消えたのを感じとりやっと動き出す。
それは病院棟だった。
そして、いつものように席に座る。
そこでやっと息が吸えた。
ふと立ち上がりベッドシーツの端が捲れていることに気付いた。
考えるより先に体が動いた。
それが偽善なのか、感謝なのか、善意なのか。
わからないけれど、ユウは静かに直した。
その時に、彼の袖が目についた。
当然だが、ユウのいない間にも彼は生きている。
反射的にシーツを直したが、彼に触れることしていけないとユウは感じていた。
触れれば、壊れてしまいそうで。
──私はただ、見るだけだ。
ユウには、やはりわからない。
それが自分のためなのか、彼のためなのか。
あるいは、意識のない彼とのあいだに芽生えた、名もない何かのせいなのか。
「わからないことは悪いこと」――そう生きてきた。
けれど、もう、自分の言動に名前をつける意味を見出せない。
だから、自分の感覚に従うだけ。
なのに──胸の奥で、ひどく大きな間違いを犯している気がした。
***
昼下がりの空気が、施設の壁越しにゆっくりと染み込んでくる頃。
自室の机で本を読んでいると足音が聞こえた。
パタンと本を閉じる頃には夕紬のもとに、ノックの音が響いた。
「……入るね」
扉が開き、ひとりの職員が顔をのぞかせた。
年配の女性だった。いつも笑っているが、笑っていないときの目が鋭い。
今は、そのどちらでもない、曖昧な気配で部屋に入ってくる。
「夕紬ちゃん……ちょっとだけ、話せるかな」
夕紬は椅子に座ったまま、小さく頷いた。
職員は、手に持っていた書類をそっと棚に置き、ベッドの端に腰掛けた。
夕紬は少し背筋を正す。
職員は笑顔はつくらず、かといって深刻な口ぶりにもならず、どこか“準備されたような声”で話し始める。
「少し前から、話が進んでたの。
夕紬ちゃん、来週──来月になる前には、新しい施設に移ることになるわ」
膝の上に置かれた夕紬の指が、ほんのわずか動いた。
「……何かあったわけじゃないの。むしろ、今の暮らし方が“良すぎる”くらいって話してた。
でも、あなたが過ごすには、もう少し整ったところがいいって判断でね。
勉強も進んでるし、……何より、“環境”ってやつかしら」
“環境”。
その言葉は、どこか、自分の意志とは関係のない場所から降ってくる。
夕紬は目を伏せ頷いた。
職員もまた、少し驚いたように、
でも、どこか、それを予測していたように、
少しだけ言い淀んでから続けた。
「……何か、気になること、ある?」
夕紬は、ほんの少し間を置いてから、ぽつりと問う。
「……あの子は?」
声は小さいが、はっきりしていた。
それは確認だった。
あの子は誰かが見ていないといけないと、
夕紬の中の何か──直感じみたものが叫ぶから。
誰のことか、職員はすぐに察した。
病棟の白い部屋にいる、名も知らぬ少年のこと。
職員は少しだけ口を引き結んでから、答えた。
「……あの子のことはちゃんと考えてるから、心配はいらないわ」
“心配”という言葉がどこか宙を泳ぐ。
けれど、優しさの乗る声。
夕紬が目を上げれば、職員の目は笑っていなかった。
──噓つき。
彼の病室に行く子は居るだろう。
でも、たぶん彼の本質を理解できる子はおそらくあまりいない。
必要なのは彼を理解し、行動できる”大人”なんだ。
「引越しは来週の半ば。
だから、残り数日……時間、あるからね。
荷物は少しずつまとめてもらえればいいし、何かあれば、いつでも言って」
職員はそう言い残すと、立ち上がり、扉の方へ歩く。
夕紬に何か声をかける素振りも見せたが、やめた。
そして静かに、部屋を出ていった。
夕紬は、しばらく動かなかった。
誰もいない部屋の中で、閉じたままの本に指を戻す。
けれど、ページはもう開かれない。
静かに引き出しを開き、白紙の紙を取り出す。
やがて、立ち上がる。
あの部屋に、あの少年に、果たすべき義務がある。
──そして彼女は、静かに部屋を出た。
日の沈む窓を見て、静かに腰を上げる。
白紙の紙を折らないように手で持ちユウは部屋を出た。
まっすぐ、病棟へ向かうつもりだった。
けれど、廊下を曲がる途中、ふと耳が引っかかった。
──職員室の扉の隙間から、声が漏れていた。
「……夕紬ちゃん、移動の件、本人には伝えたけど、あの反応でいいのかな?」
「よくも悪くも、感情を見せない子だからね。
何を考えてるか、わからないっていうか……ちょっと怖い」
「でも問題は起こさないし、むしろ“優等生”って感じよね。
言われたことも完璧にこなすし、トラブルもない」
「……それが逆に不気味なのよ。
“あの事件”のあとで、こんなに何も感じてないように見えるのが」
少しだけ、沈黙が挟まる。
「──8歳で、あれだけのことを経験してるのは同情するけど、
裁かれなかったってだけで、“普通の子”として扱うのは、やっぱり……」
「でも、“かわいそうな子”でもあるのよ。
誰も止めてあげられなかった、って」
「止められなかったのか、止めても意味がなかったのか……わからないけど」
声色は柔らかいのに、言葉の輪郭は探るようだった。
ユウは歩き出す。
でも、足音をほんの少しだけ、ゆっくりになる。
そうしなければ、指先が紙にシワを作ってしまいそうだから。
「……最近は、医療棟の子と接触してるでしょ?
眠ってる子の隣に座ってるだけみたいだけど……」
「うん。でも、本人からは何も言わない。
“何を思ってそこにいるのか”を、教えてくれないのよ。
見てるだけで、何も起こさない。ほんとよくわからない子」
扉は閉じたまま。
気配も、扉の向こうにだけ向けられている。
だからユウはただ通り過ぎる。
何も反応せず、何も聞こえなかったふりで。
そうだろうな、とは思ってた。
けど、こうして耳で聞くと――骨に残る。
心の奥のどこかに、「私は“怖がられている”」という実感だけが、静かに刻まれた。
社会の反応として認識してはいたが、
目の前で、知っている人に向けられるのは初めてだった。
それでもユウは歩を緩めない。
あの名前を知らない、まだ目覚めない“誰か”の元へ向かうため。
***
ユウは、いつものよりきれいになった机の上へ、小さな手紙を置いた。
『おねむりくんへ
おはよう。
あなたが起きたとき、私はもういないので、これだけ残します。
誰かの言葉が、あなたを焼き尽くしませんように。』
離した手が、止まる。
…ほんの少しだけ、指先が迷った。
ポケットから鉛筆を取り出して、一言だけ書き足す。
名前も、署名も書かなかった。
自分という個を残さないのが、ユウなりの“けじめ”だった。
その日、ユウは初めて、病室の扉の前で立ち止まり、振り返った。
何も言わず。
ただ一度、彼を見つめる。
そして、また静かに扉を閉じた。
燻ぶる記憶のにおいはまだ残っていた。
でも、ほんの少しだけ、熱は静かになっていた。
彼女が去ったあとも、部屋には誰も来なかった。
ただ、窓の隙間から吹き込んだ風が、一度だけベッドの端を揺らした。
――まるで、何かがそこにいたことを、なぞるように。