ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

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6話 さよならの代わりに

 

 

 

引越しの日は、曇りだった。

 

灰色の空に風はなく、光はどこにも差し込まなかった。

けれど雨も降らず、ただ、音だけが静かに流れていた。

 

 

「荷物は、もう大丈夫?」

 

職員の声に、夕紬は一度だけ頷いた。

 

 

自室にあったものは少ない。

数冊の本と、着替え、筆記用具。

どれも変えが効くから持っていく必要もない。

 

それでも私物は残せば迷惑だから持っていく。

本好きの子どもとして振る舞うためにお気に入りがあるフリをする。

 

両手で段ボールを持ち上げる。

そう重くはない。

 

 

「今度のところは、“もう少し賑やか”だと思うよ」

 

玄関先で靴を履きながら、職員がそんなことを言った。

声の調子は軽く、安堵が含まれていた。

 

「勉強も、ここよりいろいろできるし。

 お友達がたくさんいるから、夕紬ちゃんならすぐ慣れると思う」

 

夕紬は静かに頷いた。

 

返事を求められていないのだと、わかっていたけれど。

 

それが必要だと思ったから。

 

 

靴のかかとを踏まないように玄関を出る。

 

車の中は静かだった。

エンジン音と、ときおり窓に当たる砂埃の音だけ。

職員が何かを言いかけるたび、言葉は最後まで形にならなかった。

 

窓の外の景色はすぐにぼやけ、門が遠ざかっていく。

空は相変わらずの灰色で、季節の匂いもなかった。

 

車窓に映る自分の顔が、景色よりもはっきりと見えた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

着いた場所は、白くて、無機質な建物だった。

 

門に掲げられた名前を見上げ、すぐに視線を落とす。

 

中に入ると、足音が吸い込まれるように響かなくなる。

磨かれた床、並んだ標語。

 

 

「可能性を育てる場所」

 

「未来を選び取る力を」

 

 

 

──何を選んでも、正しさに届かないことがある。

でもここは、正しい形に整える場所らしい。

 

夕紬はいつものように靴音を殺して歩いた。

 

 

応対に出たのは若い女性。

白衣を着ていて、ヒーローではないが、どこか医者を思わせる。

 

「ようこそ。千響夕紬さん、ですね」

 

優しい声で名前を呼ばれる。

けれど、その奥に“測る”ような響きがあった。

 

 

「まずは健康状態の確認をしますね。

 それが終わったら、お部屋を案内します」

 

夕紬は頷いた。

 

白衣の女性に手を引かれることもなく、診察室へ向かう。

 

なにも違和感はなかった。疑問もない。

必要なことは最初から決められている。

だから、自分の中で感情や動機探す必要もなかった。

 

 

 

 

背後から、小さく職員の声が落ちた。

 

 

 

「──元気でね」

 

 

 

夕紬は振り返り、お辞儀をする。

顔を上げると、職員は笑顔を返してきた。

けれど、その笑みの端には、薄い影が差していた。

 

夕紬はそのまま背を向け、歩き出す。

伸ばされた手を、今度は自分から取った。

 

その動きの意味は、口にしない。

ただ、これがあの人には必要なんだと思った。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

検査は簡易的なものだった。

その後案内されたのは小さなベッドと机がある、真新しい個室。

まだ日は沈んでないのに部屋は暗い。

夕日が差し込む大きな窓には、遮光カーテンがついていた。

 

パチンと職員が電気を付けて、部屋に入るように催促する。

 

 

棚には子ども向けの本がいくつか並んでいる。

でも、開かれた気配はなかった。

 

「夕紬ちゃん、少し待っててね」

「はい」

 

「好きな本を読んでていいから」と言葉を残し、職員は部屋を出ていった。

夕紬はベッドに腰を下ろして、静かに深呼吸を一つ。

 

 

 

この空気を知っている。

 

これは──“観察されている”空気だ。

 

どこかに目がある。

 

 

それでも、ユウはそれを自然に受け入れる。

ここはそういうところで。

私はそういう存在なのだろう。

 

ここにあるのは善意か悪意かなんてどうでも良い。

私はそうされるだけの過去があり、今がある。

 

だから。

 

ただ、この空間に“整合性”を合わせる。

 

それだけ。

 

 

 

ユウは、小さく微笑んだ。

 

それは安堵でも肯定でもない。

 

ただ、“拒絶しないこと”を意味する振る舞いだった。

 

 

 

 

そうして──千響ユウの新しい日々が静かに始まった。

 

その瞳がどこにあるのかを、彼女はまだ知らない。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

新しい施設の空気は、以前より整っていた。

 

廊下の明るさ、部屋の配置、食事の栄養バランス。

それらすべてが“正しく育てるため”に設計された場所だった。

 

初日、ユウは何も問われなかった。

職員も、前の施設より多く話しかけてはこなかった。

 

ただ――「記録」が多かった。

移動、食事、睡眠。ユウが何をしたかではなく、どう反応するか。

目線の動き、食べる速度、眠る姿勢。

 

自意識過剰かもしれないが、すべてが誰かが見ている気がした。

 

 

ユウは次第に体の違和感に気づいた。

でも、何も言わなかった。

 

見られていることも、試されていることも。

 

ただ、食後のサプリが少し喉に引っかかった気がした。

 

 

 

ここではユウと同年代、あるいは少し年下の子どもたちが多くいた。

皆、社交的で直ぐにユウを気にかけた。

そして、ユウは“いい子”として受け入れられていった。

 

困っている子がいれば声をかけ、落ち着かない子には一緒に絵本を選んだ。

ケンカがあれば静かに間に入り、職員が忙しければ代わりに見守った。

 

 

それは“染み付いた良い子のフリ”。

そうして初めて、誰にも咎められず、ここに居ることが許されると彼女は知っている。

価値のない人間に居場所はないのだから、ここに居るためには適切な振る舞いをする。

 

 

ただ、たまに無意識に取ってしまう行動があった。

 

例えば、泣いていた子のそばに立っていたことがある。

ユウは壁に背を預け、声もかけず、視線も合わせず、ただそこにいた。

 

正しく振る舞うなら声をかけるべきだ。頭を撫でるべきだ。

そう思いながらも、そのどれもが間違いな気がして動けなかった。

 

数分後、その子は泣きやんだ。

 

それを“誰かのための行動”として数えるべきか、ユウには判断できなかった。

 

 

 

「夕紬ちゃん、ありがとう」

「やっぱ頼りになるよね」

 

そんな声が届いても、夕紬は笑顔で頷くだけだった。

心からの応答ではなかったが、拒絶ではない“ぬるさ”が、ここでは必要だった。

 

 

 

──だから誰も、夕紬の“フリ”には気づかなかった。

気づいたとしても、それを必要なものだと自然に受け入れていた。

 

“いい子”は、壊さない。

“頼れる子”は、壊れない。

 

誰もがそう思っていた。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

ある日を境に、ユウの体に“明確な異物”が加わりはじめる。

 

薬か、注射か、はっきりとした記憶はない。

気づいたときには、喉の奥に渇きが残る日が続いていた。

 

呼吸は浅く、鼓動は時おり一拍遅れる。

四肢の動きは水の中を通すように重く、

思考は薄い膜を一枚かぶせられたように鈍った。

 

夜になると、逆に感覚が研ぎ澄まされて眠れない日もあった。

でも、痛みはなかった。

 

だから報告の必要もないと判断した。

何か問題なら、きっと誰かが止めるはずだ。

でも、誰も止めなかった。

 

──なら、それは“問題ではない”。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

それは、ある午後のことだった。

 

散歩の時間。敷地内を一周する、日課のような運動。

 

舗装された中庭の道を、ユウは決められたペースで歩いていた。

その日も、特に変わったことはなかった。

 

──ただ、足裏の感触だけが、いつもと違っていた。

 

歩いているのに、“地面に触れている”感覚が薄い。

それは痛みの減少ではなく、もっと広い感覚の──衝撃の鈍化だった。

 

ユウは一度だけ走ってみた。

 

全速力ではない。軽く駆け出す程度。

でも、その瞬間に確信する。

 

(……変わってる)

 

息が切れにくいわけでもない。

筋肉の使い方も、以前と同じ。

 

ただ、“足が疲れない”のだ。

 

走る。止まる。呼吸を整える。

でも、脈が乱れない。汗が滲まない。

 

足先から伝わるはずの硬さも熱も、どこかで削がれている。

まるで、自分の身体と地面のあいだに、薄い膜が挟まっているようだった。

 

 

それが何かを意味していることは、ユウにも分かった。

今までの一時的なものと違う。

たぶん、これは人為的で意図的な、不可逆的な変化。

 

でも──

 

「……ふうん」

 

そう、小さく息を吐いて、ユウは歩き出した。

 

誰にも報告しない。

検査のときにも何も言わない。

 

痛みも、苦しみも、快適さも。

誰かに伝えて変わるものではない。

 

それに、変化は受け入れるものではなく、ただ“ある”だけだ。

 

ユウは、ただ歩いた。

四季の移り変わり以外にここの風景は変わらない。

 

でも体だけが少しずつ変わっていく。

 

それが正しいことなのか。

それとも、壊されているということなのか。

 

わからない。

でも、どうでもいい。

なぜ?とも、やめて、とも思わない。

 

だって“終わるために生きている”のだから。

 

どんな身体になっても、

“正しく終わる”ための、ただの過程。

 

だからユウはその感覚のすべてを、無表情のまま受け入れていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

そんな変わらない日々を数ヶ月間送っていた、ある日。

夜、眠りに着こうとベッドへ腰を下ろした時、部屋に黒い霧が現れた。

 

あぁ、ここにも来るんだ。

 

正体はわからないけど、ヒーローとは相容れないであろう彼らが、

ヒーローになるための子どもを育てると謳う施設に現れる。

 

つまり、ここも彼らのお膝元なのだろうか。

 

まぁ私には関係のないことか。

 

ユウは静かに黒い霧にその身を委ねた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

部屋の空気は、薄く乾いていた。

遠くから機械音が響いてくる──けれど、それも今は背景だ。

 

死柄木は壁にもたれながら、膝を立てて座っていた。

誰も来ない、そういう時間だった。

来る理由のある奴は、もうずっと前からいない。

 

だから、扉の音がしたとき──

彼はほんのわずかに、視線だけをそちらに向けた。

 

 

 

そこにいたのは、ユウだった。

 

 

 

前と同じような、軽やかな足取り。

誰かに促された様子もない。

それなのに、まるで当然のように現れた。

 

死柄木は、反射のように言葉を吐いた。

 

 

 

「……来るなっつっただろ、前に」

 

 

 

感情はあった。

怒りの形をしていたが、それが何なのかはわからない。

ただ、この苛立ちだけは本物だった。

 

2年ぶりに見た子どもは、記憶の中よりずっと成長していた気がした。

 

 

 

「……いまさら、何だよ。忘れたんじゃなかったのかよ」

「先生の命令か?……くだらねぇこと、やらされてんな」

 

 

 

“先生”と呼ぶ声には、棘があった。

でもそれは、ユウに向けられたものじゃない。

 

ユウは、ただ静かに──首を横に振った。

 

「ちがう」

 

他にはなにもない。ただ、彼にそれだけ伝わるように小さくかぶりをふった。

 

そして、歩き続ける。

ゆっくりと、でも迷わず。

 

まるで何もなかったように、

彼のそばに、腰を下ろす。

 

その距離が近すぎもせず、遠すぎもせず、

手を伸ばせば届くかどうか。

 

けれど、確かにそこに“在る”。

 

死柄木は、何も言わなくなった。

ただ、一度だけ、視線を向ければ、返事をするようにユウは顔をあげる。

 

視線が重なった。

 

言葉ではない。

けど、言葉よりも重い何かが、

その間に、ひとつ通った。

 

ユウは、懐から何かを取り出す。

 

──包み。

 

シンプルな、ラッピングもないチョコ。

色も形も、前と同じ。

 

 

 

彼女は、ほんの少しだけ体を浮かせて、

死柄木の足元に、それを“置いた”。

 

理由なんて、いらなかった。

 

願いも、謝罪も、説明も。

 

ただ「来た」という事実。

それだけを、残すように。

 

 

 

死柄木は、それを見ないふりをした。

けれど──目は逸らしていなかった。

 

 

 

沈黙が、ふたりを包んだ。

誰にも気づかれないまま、

誰にも壊されないまま、

 

“何も言わない”という選択だけが、

ふたりの間に、確かなものを築いていく。

 

 

 

彼は、たぶんこう思っていた。

 

(……また、来たんだな)

 

理由や動機も考えた。

でも、ただの事実が胸を撫でた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

──それは梅雨の湿度がまだ抜けきらない日。

如月漣は施設に訪れていた。その施設はヒーローを志望する孤児を引き取りサポートする、著名な医師が運営している場所だ。

 

 

「如月さん、こちらになります」

 

案内の職員が一歩引き、扉を静かに開ける。

漣は軽く会釈し、部屋に足を踏み入れた。

 

音が吸い込まれるように消える。

 

職員はそのまま一言だけ残しドアを閉める。

部屋に残されたのは、二人だけ。

 

ひとりは、落ち着いたスーツ姿の如月漣。

黒髪に黒のネクタイ、姿勢まで整った静謐な男。

もう一人は、膝の上で手を揃え、薄く笑みを浮かべた少女。

 

千響 夕紬。十一歳。

親を手にかけた後、施設に引き取られ、そして来年中学進学を控える子ども。

 

如月漣は夕紬の正面に腰を下ろす。

 

 

「はじめまして。私は如月漣。君の今後について、話をしたい」

 

「初めまして、如月さん。千響夕紬です。よろしくお願いします。何からお話しすれば?」

 

彼女は目の前の一見高圧的に見える男であっても脅えることなく、自然に言葉を紡ぐ。

 

整った声、揺らがない表情。

 

 

如月漣は一度、目を閉じ、口を開いた。

 

挨拶、自己紹介、進路希望、最近の生活。

 

どの問いにもすべて模範的に応える。

無駄な言葉はない、こちらが口を開くタイミング──空気の流れさえ読んでいた。

 

「生活に不満は?」

 

「ありません。とても恵まれていると思っています」

 

「友人関係は?」

 

「はい。年齢の近い方をはじめ、幅広い子と仲良くしてもらってます。職員の方とも良好です」

 

「“個性”について不安は?」

 

「ここで正しい使い方を学びました。

 必要がなければ使いません。」

 

 

 

──欠けたところが、一切ない。

 

だがそれが異常だった。

 

笑顔には揺らぎがなく、声に高低がきちんとある。

だが──瞳の奥に怒りも、不満も、怯えも、懐きも──すべてが消えていた。

 

それは“隠している”のではない。

すでに存在しないかのように、完璧に“間引かれている”。

 

(……感情の波が、まるでない)

 

如月は、机の上の資料に目を落とす。

 

「誰の目から見ても問題のない子ども、だな」

 

「ありがとうございます、職員の皆さんのおかげです」

 

微笑は自然だった。

謙遜の中に痛みも、誇張もなかった。

 

漣は、一拍だけ間を置いて言う。

 

 

「君のような子どもは、滅多にいない。

──怒らない。泣かない。抗わない。

そして、うまく生きていくための処世術をよく熟知している」

 

彼女は少し目を開き、驚きながら、次の瞬間には困惑を少し織り交ぜた表情で微笑んだまま言葉を続ける。

 

「ありがとうございます」

 

まるで反応に困る子どものように振る舞った。

その返答に、彼は目を細める。

この言葉を称賛と捉え、振る舞いを崩れることすらないのなら──

 

 

──この子なら、まだ。

 

 

 

 

漣の脳裏にかつての“声”がよみがえった。

 

夜だった。

 

泣きながら走る少女。

 

あの子はずっと、助けを求めていた。

制御できない“個性”に振り回されながらずっと──

 

その姿を、私は止めた。

いや──“沈黙”で包んだ。

 

“落ち着け”

“感情に任せるな”

“安全が最優先だ”

 

すべて正しかった。

……正しい、はずだった。

 

けれど、結果は変わらない。

少女はもう2度と声を発さず、瞼を上げることもない。

 

 

──そして、いま。

 

目の前には、“仮面を完璧に纏った子ども”がいる。

 

表情の抑揚、敬語、仕草のすべてに“欠落”はない。

そして、そこには“音”がなかった。

いや──“感情が伴っていない”のだと、彼は理解する。

 

怒りも、恐怖も、願いも、この子はなにひとつ表に出さず、初めから“閉まって”存在している。

 

 

 

この子は──感情を持たず、感情を語らない。

それは最初から0なわけではない。

ただ、誰にも届かないことを知っているだけだろう。

 

この仮面は、壊すべきものではない。

剥がすべきものでもない。

この子は、自分を守るために“音を消した”。

 

ならば今度こそ──

 

 

沈黙こそが安全であり、救いなのだから。

 

 

それこそが制度的に最も安定した対応であると、思考は告げている。

 

だが、心の奥底では──もう少しだけ違う言葉がうずく。

 

 

 

……この子なら、まだ間に合うかもしれない。

 

 

 

 

 

「私は、施設に申請を出すつもりだ。君を、私の保護下に置く」

 

「……本当ですか?」

 

喜びと驚きが混じった声色、緊張に強張る体。

おおよそ、求められている言動を彼女は取り続ける。

 

それは、人間が無意識で行う動作を、すべて計算して繰り返すというものだった。

……常人なら、とても続けられない。

狂気じみたものだ。

 

 

「君のように“完成された子ども”には、崩されない環境が必要だ」

 

漣は立ち上がり、再度背筋を伸ばす。

 

「私はその在り方を許容する。

 そしてそれを維持するため環境を整える。……必要なのは、“沈黙”で守る構造だ」

 

──管理された平穏。

──言葉の要らない日常。

──“演じることを演じさせたままに”しておける空間。

 

それが、如月漣という男が提供できる“唯一の保護(償い)”だった。

 

「その在り方を持って、そうして初めて、君は社会に溶け込めるのだろう。

 ならば、もし君の声が漏れることがあれば──俺が消そう」

 

 

夕紬は笑顔を向けた。

目を細めて、口角を上げる。

 

 

 

でも──目の奥で今日初めて、やっと自分らしい反応を見せた。

 

その視線を、静かに受け止めていた。

 

夕紬は気配で分かったしまった。

 

彼が少しだけ過去を見ていたことも。

この決意の先で誰か別の存在を重ねたことも。

 

(……私を通して、誰かを思い出せているのなら、

それは、きっと──少なくともこの人には良いことだと思う)

 

 

たとえそれが、過去の傷のやり直しでも。

 

その誰かが望んでいるかはわからない。

でも、今を生きるこの人には必要な事なんだろう。

 

空っぽな私でも、この振る舞いを通して誰かが“記憶の中の人”に出会えるなら。

それはきっと、素敵なことだ。

 

たぶん、そうなんだろう。

 

 

心の中でひとつだけ、小さな言葉が浮かぶ。

 

(私の望む終わりはこれじゃない)

 

人は忘れられたら、本当の意味でやっと死ねる。

だからこれは死者への冒涜も何も変わらないかもしれない。

 

でも、きっとそんなのはどうでもいいんだ。

この人には必要な事なんだもの。

 

 

 

だから夕紬は──何も言わない。

 

表情を変えず、にこりと笑ったまま。

 

何も言わず表情一つ変えない夕紬に、漣は確信する。

 

 

「手続きは、私から進める。

 私は君に変化を求めない、そうだな……生活上で必要な最低限の連絡があればいい。

 ……君は、そのままでいい」

 

(この子は沈黙で生きられる子だ。

壊さず、触れず、干渉せず。

 ──この子は、最も静かに“存在している”)

 

「わかりました」

 

彼はそれを“壊れている”とは捉えない。

ただ、それを尊重すべき構造として受け入れる。

 

コンコンとノックが部屋の静寂を断ち切る。

夕紬は如月の反応を待たずに口を開いた。

 

「すみません、検査の時間みたいです。」

 

頭を下げて申し訳なさそうに席を立ち上がる。

静かに歩き出し、ドアに手をかける前に如月漣に頭を下げた。

 

「今日はありがとうございます。

如月さんにあんな提案をしていただけて、光栄でした」

 

完璧な礼儀と、完璧な声。

その在り方は最後まで一度も揺れなかった。

 

だから──彼も会釈をするに留めた。

 

夕紬とすれ違うように職員が部屋に入る。

扉越しに少し会話が聞こえる。“今後について”話しているのだろう。夕紬は表情を変えずに廊下を歩き出す。

 

(……あの人の中で、誰かの代わりになれたのなら──それは、少しだけ、意味のある生なのかもしれない)

 

でもそれすら、仮面の外には出さなかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

以降、定期的に黒霧の迎えが来るようになり、ユウは死柄木のもとを訪れた。

 

 

死柄木は彼女を見て、あからさまに不機嫌そうに舌打ちをした。

 

「……また来たのか。うっとうしい」

 

ユウは何も言わず、ただ歩み、彼の隣に座った。

 

彼は手元のゲームを続けた。

 

無言のまま、指だけが淡々と動いている。

 

 

ユウは本を取り出し、ページを開く。

 

 

小さな紙の音が、しばらくのあいだ、空間を満たしていく。

 

 

彼は、目もくれない。

 

 

 

そんな日々が続いたある日、ふと彼は気付く。

 

以前と変わらない行動。

だけど――少しだけ違う。

 

 

紙の音が、やけに軽かった。

 

うるさくない。

 

 

それがどうにも引っかかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

あの人にあって、正式に引き取られることになったと知ったのは数日後。

 

その話は瞬く間に施設に広がり子どもたちは自分のことのように喜んだ。

けれど時間が経てば興奮は落ち着くもの。

最近は、あまり声をかけられなくなった。

 

 

代わりに、観察の頻度と“処置”の回数だけが、少しずつ増えていた。

 

その日も、体に何かが加えられた感覚があった。

でも大きな変化はなかった。

 

それは、ある日ふと気づいたことだった。

 

前日に読んだページの内容が、そのまま頭の中に浮かんできた。

段落の並び、言葉の位置、数ページ前の挿絵の向きまで、まるでページごと貼りついているように鮮明だった。

 

「……なんで覚えてるの?」

 

そう自分に問いかけてみても、答えはない。

ただ、覚えてしまっただけ。

思い出そうとした記憶を映像でも見るみたいに思い出す。

不思議ではなかった。むしろ当然のように、“そこにある”という感じだった。

 

 

 

記憶が濁らない。

曖昧にならず、削れず、色あせない。

 

一度見たものは定着し、一度聞いた音はそのまま再生される。

まるで脳の中が、細かく仕切られた棚に変わったみたいだった。

 

 

ただ、それは「便利」なものではなかった。

 

他の子どもたちが「あれ何だっけ」と首をかしげる場面で、夕紬は答えを言えた。

 

それでも口を開くことはない。

答えてしまうと、また「すごいね」と言われる。

褒め言葉のはずなのに、それはただ、ひとつの枠に押し込められる音だった。

 

 

 

日常は変わらない。

 

ただ、時間の重さが少し変わった。

 

聞いた言葉、見た目線、手に触れた感覚。

すべてが、脳の内側に沈んでいき、何ひとつ流れていかなかった。

 

普通の子がこぼしていく記憶を、夕紬はすべて抱えたまま歩いていた。

 

 

 

 

ある夜。

 

誰もいない廊下で、ひとり足音を数えていた。

二歩でタイル一枚。六枚で角。十六枚で廊下の端まで。

その数を、頭の中で正確に記録しながら、静かに、靴音を響かせた。

 

 

 

「夕紬ちゃんって、ほんと良く覚えてるわね」

 

それは褒め言葉ではなかった。

 

ただの“観察”であり、“評価”であり、そして、“区別”だった。

 

 

 

夕紬は微笑んだ。

 

それは仮面ではない。けれど、本心でもなかった。

 

 

 

──忘却は人間の救いである。

 

そんな、本で読んだ言葉を思い出した。

 

確かにそうかもしれない。

あの日から静寂が消えた。

 

 

何度も何度も、頭の中で誰かの声が繰り返される。

怒鳴り声。叱責。乾いた笑い。

過去は通り過ぎるものではなく、静かにそこに“居続ける”。

 

でも、消す方法はわからず、それを「嫌だ」と思うことは、夕紬には許されなかった。

 

 

誰も傷つけず、誰にも期待される“優等生”。

 

記憶が正確であれば、間違わない。

間違わなければ、咎められない。

咎められなければ、生きていられる。

 

終わるための人生に意味などないのだから。

せめて、正しく。

 

──あの日からずっと、誰かの悪意を感じていた。

それでも拒絶しない。

忘れられない脳と、流れない時間を、ただ抱えたまま。

 

……それが、ユウの知る正しい子どもの在り方だった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

それは──

雨の気配が残る、曇り空の朝だった。

 

 

施設内の掲示板には、朝からさりげなく「外部面談」の予定が貼り出されていた。

けれど、子どもたちは特に気に留めなかった。

そんな予定は日常の一部で、特別視するようなものではない。

 

夕紬もまた、他の子と同じように朝食をとり、静かに教室に入っていく──

はずだった。

 

 

 

「夕紬ちゃん、ちょっと」

 

廊下の角で職員に呼び止められる。

 

「如月さんがいらしたの、大切な話よ」

 

 

 

職員の声は、どこか含みのある優しさだった。

 

それが「さようなら」という響きを持つことに、夕紬はすぐに気づいた。

 

選ばれた。

つまり、今とは違う“場所”に行くということ。

 

──それが「正しい変化」であるかは、最初から問題ではない。

 

夕紬は頷いた。

 

「……わかりました」

 

 

 

 

 

 

面談室のドアをノックすると、音は返ってこなかった。

 

ノックの音さえ吸い込まれるような静寂。

そう、まるで世界そのものが「音を捨てていた」。

 

 

 

開いたドアの向こうには、すでに彼がいた。

 

如月漣。プロヒーロー・サイレン。

 

黒のスーツに以前と変わらない、静かな表情。

佇むだけで、空気の揺れすらなくなるような男。

 

 

 

「──どうぞ」

 

促されて中に入る。

椅子に腰をかけた夕紬は、手を膝にそろえた。

整った所作。曇りのない笑顔。何も乱さない言葉。

 

以前の面談と、何ひとつ変わらない“いい子”としての姿だった。

 

 

 

けれど──漣の目は、わずかに長く夕紬を見た。

 

仮面の完成度に驚くでもなく、崩そうとするでもなく、ただ“確かめる”ように。

 

 

 

「環境の整備に関して、申請が通った」

「今日の面談を経て、正式に君の引き取りが決まるだろう」

 

淡々とした口調。

説明というより、告知に近い言葉。

 

 

 

夕紬は、それを聞いても何も言わなかった。

予定調和のように頷くだけ。

それが彼女にとって最も「自然」な応答だった。

 

 

 

「場所は君の進学校の近くのアパート、独り暮らしをしてもらう。

 私の事務所もそう遠くはない、困ったことがあれば連絡を」

 

 

 

それは、救済でも理解でもなかった。

ただ、“支配ではない保護”の提示だった。

 

 

 

夕紬は、微笑み頷く。

それは拒絶でも感謝でもない。

ただ、静かに“納得”を表す所作。

 

 

「明日には、正式に書類が出るだろう」

 

「……はい」

 

一瞬、呼吸を整える。空気の重さは変わらない。 

 

 

 

音のないまま、面談は終わった。

 

扉を閉める直前、漣は一度だけ夕紬に視線を向けた。

そこにあったのは、過去の“誰か”の影ではない。

今ここにいる“子ども”を、制度の中で守る者としての目だった。

 

 

 

夕紬は何も言わない。

ただ、最後に一度だけ、軽く頭を下げた。

 

 

 

部屋に戻ると、他の子どもたちは「どうだった?」と問いかける。

「どこかに行くの?」と、小さな声で尋ねる子もいた。

 

夕紬は笑って答えた。

 

「うん、新しい家族ができるみたい」

 

 

 

それは、とても自然な言い方だった。

誰の目にも、「羨ましい」と思えるような、明るい声だった。

 

 

 

──けれど。

 

心の奥底は変わらず冷え切っていた。

 

それでも、「仮面ごと守られる」こととやらを選んだのは──

たぶん、あの沈黙の中に、少しだけ“責任”の匂いがあったから。

 

 

 

この生き方を続けること。

それが、次の場所で生きるための条件。

 

なら、ここと変わらない。

 

ユウは空を見上げなかった。

その朝、曇った空はいつの間にか、晴れ間を見せ始めていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

その日もまた、黒い霧に包まれて、彼のもとを訪れた。

相変わらず2人の間に言葉はない。

 

ふと、ユウがページを捲る手が止まる。

 

 

 

──今日が最後かもしれない。

 

彼のことはよく知らない。

けれど、たぶん彼も、彼と私を合わせたがる誰かも、ヒーローとは相容れない人だろう。

 

だから、あの人に引き取られてから、もう会うことはもうないだろう。

あるとしたらそれは──あの人も誰かの彼の後ろにいる人の手先とかになるのかな。

 

……たぶん、それはない。

如月漣は、自分の正しさを持っている。

 

 

 

ユウはそれでも“別れ”とは捉えていなかった。

 

 

ただ、明日には違う部屋にいる。

違う声を聞く。

違う空気を吸う。

この時間は、もう終わる。

 

それは予定であって、感傷ではない。

だから帰る前に一度だけ──

 

彼の顔を見た。

 

いつものようにソファでうつむき、ゲームの光を顔に浴びている。

ボタンを押す指は止まらない。

来たことには気づいているはずだけど、いつも通り見ない。何も言わない。

 

ユウも何も言わなかった。

でも、今日は黙って帰るのは違う気がした。

 

 

ほんの、思考の断片のように、声がこぼれた。

 

 

 

「……死柄木くん」

 

 

もれたのはそれだけ。

語尾を上げもせず、感情もこもらず、ただ、口にした。

 

 

彼は反応しなかった。

でも、耳だけがわずかにそちらを向く感覚があった。

その仕草を、自分で制御できていなかった。

 

数秒の沈黙と共に、この声は部屋の空気に溶けたんだと、ユウは本に視線を戻そうとする。

 

 

でも。

……違った。

 

いつの間にか、ゲームの音が止まっていた。

ボタンを押す手が、止まっている。

 

だけど彼の視線は変わらない、ユウの方を見なかった。

 

 

それでも、わかった。耳ではないところで聞こえていた。

それで十分だった。

 

だから立ち上がった。

何も残さず、何も取らず、何も待たずにドアの方へ歩き出した。

 

ドアノブが冷たかった。

最近は陽が落ちるのも随分は早くなった。

 

指が冷たさに反応しただけで、意味はなかった。

 

 

 

後ろからは、何の声も追ってこない。

 

寂しさはない。彼が手を止めた──それだけで十分だった。

 

……へんなの、まるで誰かの記憶に残りたがってるみたい。

 

 

そんなはず、ない。

……でも、なぜか後悔はなかった。

変なのに、それがとても自然のようで……まるで最初からそうだったみたい。

 

自分がよくわからない。

でも、少しだけ息が吸いやすかった。

 

ユウは扉を開けて歩き出そうとした。

 

 

 

 

──ほんのわずかに遅れて、かすれた声が落ちた。

 

 

「……その、言い方……なんだよ」

 

「……なんか、変だったろ」

 

 

「……べつに……どうでも、いいけど」

 

 

何が変なのか、死柄木自身にもわかっていなかった。

 

言わなければよかった、とすぐに思った。

でも、それすらも、口にできなかった。

 

何事もなかったように再びゲームのボタンを押す。

けれど、その間に挟まった沈黙だけは、確かにそこに残った。

 

なにかが引っかかって、

どこかが残ってしまっていて、

それが声になって、

言葉にならないまま、形になっただけだった。

 

 

 

 

 

死柄木と呼んだその日。

千響夕紬は、ただのユウとして誰かと初めて向き合った気がした。

 

それは、フリではない。

感傷でもない。

 

けれど──たしかに、そこになにかはあった。

 

ただ呼ぶべきだと思った。

理由はあとからでいい。いや、なくてもいい。

 

これが、ユウにとってのさようならだった。

 

 

 

 

 

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