ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

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7話 新しい形

 

 

 

手続きは問題なく進んだ。

けれど、サイレンの意向により、入学式の数日前に夕紬は施設を出ることになった。

 

別れは淡々と、施設のスタッフに礼を告げ、施設の子どもたちにいつかまた会おうと形式的な挨拶を済ませるだけにとどまった。

 

夕紬は施設からお祝いと称し渡されたバッグに最低限の荷物を詰めてサイレンと共に車に乗り込む。

黒い外装の車は車内も飾り気はない。

 

他の荷物は既に輸送済み。

引き取られた後は、サイレンが用意した建物で独り暮らしをするのだとスタッフから知らされていた。

無論、どこかから監視されることになるのだろうが、夕紬にとっては初めての誰もいない生活が始まる。

 

 

車のエンジン音だけが流れていく。車内には沈黙しかない。

 

「まずは買い出しを済ませよう」

 

夕紬は音も無く頷く。

サイレンは独り言のようにそう言葉を紡げば以降口を開かなかった。

 

 

車は少し走ったのち、地下駐車場の端、柱のそばに静かに止まった。

平日の昼間でも周囲には買い物客の気配があった。

 

 

夕紬は無音の車内でサイレンの動きを待つ。

 

唯一の合図はシートベルトを外す音だった。

同時に夕紬がシートから立ちあがろうと体を動かす寸前。

 

静かな動作でセンターコンソールを開く。

そこには、あらかじめ置かれていたかのように黒い財布があった。

サイレンはそれを夕紬に差し出す。

 

「これを使え」

 

夕紬は頷き受け取った。

何も聞き返さず、財布をなでる。

手に馴染まない新品の革はまだ硬く、手に冷たい。

 

財布の中身を確認すると、無機質なカードと数枚の現金。

普通の子どもなら、中身を覗き込み、金額を数えるのかもしれない。

けれど夕紬は、相手の求めている在り方を最初に想像する。

 

この人は記録を大切にする。制度に重きを置いている。

ならば使用用途が電子で登録されるカードを使うべきだと、そう、判断した。

 

 

「社会経験の一つになるだろう。

 必要なものを。制限は設けていない」

 

もう一度だけ頷く。

財布を閉じ、使い慣れないバッグに入れる。

 

 

「袋は一つにまとめろ。こちらで受け取る」

 

 

それだけ言って、彼は先にドアを開けた。

夕紬も追うように身じろぎひとつ乱さず、外に出た。

 

知らない土地の今まで数度しか来たことのないショッピングモールという建物。

入り口らしき自動ドアまでサイレンが先導する。

彼はドアの横に体を置き夕紬を一瞥する。

 

ここからは君の判断で歩け。

 

そんな意図を悟った夕紬は照明に照らされた室内に入り、マップを横目に歩き出す。

夕紬が歩き出せば、彼は数歩後ろをついてくる。

 

「買うものは、衣服だけで良いのでしょうか?」

「飲食類も購入を予定している」

「わかりました」

 

質問を投げかければ、答えが返ってくる。

 

もしかしたら“自由に選んでいい”と言われているのかも知れない。

そんな思考が過らないわけではない。

ただ、夕紬の知る自由は人とは違う。

 

誤った選択をした人間が、それでも社会で人として生きるならば──

正しさの中で生きるべきであり、自由とは常に限られたルールの中で許されるモノである。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

売り場は、平日の午後ということもあり混雑もなく、商品は整然と並んでいた。

 

顔を動かさずに横を見るが彼の姿は見えない。

店舗のショーケースに反射したサイレンは夕紬の二歩後ろを影のように歩いている。

 

目的の店舗に近づいたとき、サイレンは外で待つとだけ声をかけた。

夕紬は頷き、迷いなく最小限の衣類を選ぶ。

初めての買い物であっても、事前に調べた流行から逸脱しないものを既に想定している。

目立たないデザイン、肌触りの良いもの、そして手入れのしやすい素材。

 

 

色味は白、黒、灰──その中で、ほんの少しだけ青みがかったシャツがカゴに入る。

それは、「この色なら、視界に馴染んで音にならない」と思ったからだった。

 

必要なものをカゴに入れレジへ向かう。

レジでの受け答えは一切の無駄がなかった。

 

挨拶、金額の確認、支払い──

すべてが「社会に存在する一人の人間」として正確に行われる。

 

 

店舗を出てサイレンを探す間もなく彼と目が合った。壁際に立ったまま夕紬を見ていた。

 

近寄れば彼は何も言わずに手を差し伸ばす、

だから夕紬も静かに紙袋を差し出す。

 

 

「必要なものは揃いました」

 

 

サイレンは返事をするように袋を受け取った。

ただ、腕に下げる角度が自然になるよう調整する。

 

 

「あとは必要な飲食物を買います。調味料なども買うべきですか?」

 

「あぁ、君の味覚の嗜好を考慮し、揃えていない」

 

「わかりました」

 

 

食料品店に入り、カートを押して必要なものを考えようとすると、彼の言葉が上から降ってきた。

 

 

「マンションの付近にスーパーや薬局は徒歩圏内に完備されている。ここで何を買うかは君に一任する」

 

 

ならば調味料はここで購入し、食材は今日と夜と明日の朝分があれば良いと夕紬は判断する。

食事に強い興味はないが、きちんとした食事をとれるように食品を選ぶ。

手間より栄養バランス。そうやって事前に考えてきたリストをもとに動けば、思いの外すぐ買い物は終わった。

 

調味料や、食材もサイレンは引き取ろうとした。

夕紬が「手伝います」と伝えれば、軽い食料品が入った袋を差し出す。

 

そして、夕紬が歩き出すのを待っていた。

それはまるで正しい道を引き返せるかのテストのよう。

夕紬が歩き出せば、それなりの重さになるだろうに、彼は顔色ひとつ変えずに、足音すら立てずに歩く。

駐車場に止めた車付近に近づいた頃、やっとサイレンが夕紬の前に出た。

 

ピッピっと軽い音を立てて車のロックが外れた。

トランクを開け荷物を置く。

 

「部屋に行こう。荷物はこちらへ」

「はい」

 

それきり、会話は終わった。

 

 

 

荷物の音も、エンジン音も、まるで消されたように相変わらず車内は静かだった。

 

夕紬は助手席でまっすぐ座っている。

 

表情は変わらず、視線は正面。

 

 

でも──膝のカバンの上に重ねた両手の指先だけが、

 

ほんのわずかに、鞄の上から財布の形をなぞっていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

車が止まったのは真新しいマンションの近く。

エントランスは、埃や砂の一つもなく手入れが行き届いている。

そして、想像通り静かだった。

自動ドアの開閉音も、足音も、空調の気配すら──どこか不自然なほどに抑えられている。

 

(……私が知らないだけで、これが普通なのかもしれない)

 

 

「こちらへ」

 

サイレンが夕紬を呼んだ。

なにか必要なことがあるのだと察し夕紬はすぐに動き出す。

 

鍵の開け方のレクチャー。

荷物を付近の椅子に置いて、オートロックの認証を教えられる。

やり方は簡単、ただ締まるまで時間がかかるため、不審な人が入ってこないよう背後を気を付けるよう教えられた。そういう事件もあるらしい。

 

エレベーターのボタン操作も滞りはない。

“この人は、今日が初めてではない”──それだけは分かった。

 

 

 

5階、角部屋。

 

番号の書かれたプレートを見ても実感がわかない。

ここが“住む場所”だとは、まだどこか遠くでしか理解できていなかった。

 

鍵を開けたサイレンは無言で扉を開ける。

夕紬にここが住む場所だと教えるように、体を横にずらして、扉を開けた。

その手つきさえ、どこか“配慮”で構成されている気がした。

 

 

ドアを引けば、外気と室内の空気がすれ違う。

 

カーペット、スリッパ。

奥の扉の小さなガラス窓から見える室内は既に整いすぎているほど整っていた。

 

誰もいないはずなのに、すでに“誰かの生活”が成立しているような空間。

 

「入れ」

 

それだけ告げて、サイレンは夕紬を見る。

 

 

彼の目の奥は相変わらず静かで(さざなみ)すらない。

 

夕紬は部屋に視線を移し、一歩踏み入れる。

部屋の中には匂いがなかった。

新築の匂いでも、古い家具の匂いでもない。

何かの記憶に結びつくような痕跡は、一切排除されていた。

 

玄関にはスリッパが一足。

 

"置いておくべきもの"として、選ばれたであろう形と素材。

 

夕紬はそれを履いた。

 

 

リビングに通されることも、部屋を案内されることもなかった。

彼はそれらは夕紬に不要だと判断したのだろう。

 

 

ガチャリと玄関の扉が閉まる音に振り向く。

サイレンは玄関先に荷物を置いた。部屋へ上がる様子はない。

 

 

「荷物はここに置く」

 

その目線の中に、感情はなかった。

けれど──これが最後の確認であることは、言葉にされずともわかる。

 

 

「この生活において、私が取得する情報を明示しておく」

 

声音は低く、整っていて、この部屋の空気も相まって空間に溶けるようだった。

夕紬は頷く。視線はまっすぐ、そのまま。

サイレンはカウントするように指を立てた。

 

「玄関の開閉履歴──入退室の時刻は記録される。

 外出時間が通常と異なる場合、それも把握する」

 

「水道・電力・ガスの使用量──生活サイクルの異常検知のために」

 

「購入履歴──渡したカードの利用履歴は確認する。

 購入の理由について報告は不要。金額と時期だけで判断する」

 

 

夕紬は何も言わなかった。今まで通り頷くだけ。

サイレンは続ける。

 

「以上の情報は、すべて“維持”を目的としたものだ」

 

「私は──君の感情や行動を監視するつもりはない。

 だが、“生活構造が崩れたとき”には、介入する」

 

 

夕紬は頷いた。

それは返事というよりも、求められたままに示す「了解」の形式。

 

「……選択の理由は問わない。

 ただし、“選択したという事実”だけは記録する」

 

それは、彼なりのルールだった。

それでも誰かを守りたいと願い動くヒーロー、サイレンの在り方。

 

善し悪しでもなければ、信頼でもない。

“沈黙のまま見守るために必要な最低限の線引き”。

 

サイレンは一歩だけ下がる。

 

「不測の事態があれば端末で連絡を。

 何もなければ、沈黙を──了解と解釈する」

 

 

夕紬はもう一度、頷いた。

言葉は要らない。

この家の中では、それが“最も誤解のない応答”だった。

 

サイレンは、それ以上何も言わず、静かに背を向ける。

そこへ夕紬は言葉を置いた。

 

「ありがとうございます。これからよろしくお願いします。」

 

サイレンの足が一瞬止まる。

 

これは不要な言葉だと思う。

必要のないもの。彼が求めていないもの。

でも、それはユウなりのけじめとも言えない礼儀だった。

 

彼は無言のまま玄関の扉が開き、閉める。

静かに、ゆっくりと。

けれど、その密閉された音には、“安全”だけが残されていた。

 

わずかな風圧が玄関先のビニール袋を揺らし、

その揺れが止まる頃には、部屋に”生活”が静かに定着していた。

 

 

玄関先の買い物袋を手に、部屋の中へ進む。

そこは完璧に用意された箱だった。

声を出さなくても困らないように設計された“静けさの温室”。

 

生活に必要な家具は用意されている。

施設から送られた私物もすでに、分類された状態で所定の位置に収まっている。

 

棚に、引き出しに、冷蔵庫に。

ユウの手を煩わせる隙は、どこにも残っていなかった。

 

 

ユウは部屋の中心に立ち、ほんの少しだけ、息を吸う。

 

何も感じない。

でも、それでいいと思った。

 

 

 

部屋の中には、誰もいない。

ユウは、リビングの窓辺まで歩き、カーテンを開ける。

 

曇った街が、音もなく広がっていた。

 

(……ここは、静かだ)

 

それが、彼女の第一声、声のない「ただいま」だった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

シャワーを浴びたユウは壁際に並んでいた電気のスイッチ、一番上の、ひとつだけを押す。

部屋の光がふわりと落ちて、天井の白が少しだけ薄暗くなる。

 

リビングには家具が並んでいる。

机、椅子、テレビ、ソファ。

だが、そのどれにもユウは触れなかった。

 

玄関から、ベッドルームまでの導線を、ただ一度なぞるだけ。

冷蔵庫は冷えていた。

シャワーは温かかった。

ドライヤーの音は、壁の向こうに届かないほど静かだった。

 

 

“誰にも見られない生活”は、こんなにも整っている。

 

 

タオルを干し、パジャマに着替え、ベッドに入る。

 

枕は少し高かった。

でも、それすら──”不満を口にするほどのものではない”と判断できた。

 

時計の秒針も、空調の音も、選別する必要がないほど、ただ、穏やかにそこにあるだけだった。

ここには、”音”がないのではない。

“意味を持つ音”が、存在していないのだ。

 

ユウは、掛け布団を首元まで引き上げた。

目を閉じる。頭の中を白く、濁りのない透明にする。

誰のことも、何も想起しないように、思考を整える。

 

でも、ほんの一瞬だけ──

 

(……あの人は、今日、帰って何をしてるんだろう)

 

そう思った自分に、すぐ気づく。

 

そんな思考を、また消して、

そして、そのまま、静かに寝息を整えた。

 

 

 

目を閉じることも、沈黙の一部。

この部屋では、すべてが“静かに、壊れないように”できていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

目覚ましは鳴らなかった。

 

セットしても、鳴る前に目覚めるから。

この家に来る前から、ユウは目覚ましに頼る習慣がない。

 

日の光は遮光カーテンに遮られていたが、

朝はちゃんと来たと、身体の中が知っていた。

 

 

掛け布団を静かにめくり、ベッドから降りる。

床の冷たさに驚くことも、足音を気にすることもない。

ここでの足音は社会に届かない。

 

洗面台に立つ。

鏡の中の自分と、目は合わせない。

歯を磨き、顔を洗い、タオルを替え、服を着替える。

 

 

登校はまだ今日じゃない。

今日はこの街に、この部屋に慣れるための日。

 

それはサイレンの意向をユウなりにくみ取った結果。

多くの子どもは引き取られたとして、独り暮らしをしないし、入学前の数日に引っ越しをしないらしい。

ではなぜサイレンがそうしたのか。

 

それは、ユウにはそれで事足りると判断したのだろう。

彼は観察し推測の中で生きている人。

 

ユウはその推測に間違いはないと証明する。

 

朝食を取り、端末で付近の地図を確認し頭に入れる。

 

 

そうして、朝の街に向かう。

人は少なくない、けれどせわしないほどでもない。

 

意味もなく歩くのではなく、通学路を歩きながら付近の店を確認、あとは気を付けるべき場所がないか付近を見渡す。

事故が起こりそうな 死角 のある細道。街灯の少ない道、それから何かあった時に逃げ込める警察やこの街のヒーロー事務所。

 

 

一般市民は自分で敵と戦ってはいけないし、逃げるものだから。

 

 

歩いていれば昼間になっていた。

コンビニで軽食と飲み物を買い、公園に立ち寄る。

 

遊ぶ子どもたちを横目に、食事を済ませる。

一人が転び、仲間が手を差し伸べた。

その小さな連なりを、ユウは何も言わずに見ていた。

 

笑い声が、まるで誰にも届かない音のように、響いていた。

 

社会の喧騒に紛れるように、公園を離れて帰路に就く。

 

こうして、この街でのユウの生活が始まった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

数日後の登校日。

今まで通り朝の身支度を済ませる。

机の上には、前日に揃えておいた書類とカバン。

 

朝食の準備をしていると端末が振動した。

 

 

《REN:現在、通学経路に干渉要素なし》

 

《REN:不測の事態があれば端末で報告を》

 

 

既読をつけて、端末を閉じる。

 

パンを一口。牛乳を一杯。

「いただきます」は言わない。

誰もいない空間では、それは“発声”ではなく、”動作”で済まされる。

 

食べ終わったあとは、カップと皿を静かに洗い、布巾で拭いて棚へ戻す。

手の動きは、寸分の乱れもない。

 

 

 

出かける準備がすべて整って、玄関の前に立つ。

 

鍵は、ポケットに。

端末は、バッグの中。

 

ドアに手をかけた瞬間──ふと、思い出す。

 

(この扉を開けて、誰かが“おかえり”と言う日は、来ない)

 

 

そこに感傷はない。

ユウは扉を開け、何も言わずに──“社会”へと、踏み出した。

 

 

 

 

 

 

入学式の朝、空はどこまでも澄んでいた。

 

春の風はまだ少し冷たく、緊張の匂いを孕んで校門のあたりを漂っていた。

 

制服を着た生徒たちが、慣れないスカートの丈やネクタイを気にしながら、賑やかに昇降口へ向かう。

 

千響夕紬──つい先日から「如月夕紬」となる少女も、その一人として、その流れの中にいた。

 

 

 

周囲に紛れるように、けれど足取りは乱さず。

誰かと目を合わせることなく、しかし視線は自然な位置に。

廊下に掲示されたクラス分けの紙を確認し、「1年C組」の文字を見つけた周りの流れに身を任せるように歩き出す。

 

 

教室の入り口に立つと、一瞬だけ空気を読むように目線を巡らせる。

 

すでに十数人が着席していた。

どうやらいまはまだ自由席らしい。

窓際は人気で埋まりかけていたが、通路寄りの列にはまだ空きがあった。

 

夕紬は、一言も発さずその席に向かう。

 

背筋を伸ばして座る。

カバンの位置を机の横に、筆箱は左に寄せ、本を取り出す──動作に無駄はない。 

 

担任の自己紹介が終わり、入学式が行われる体育館へ案内される。

 

 

体育館には、新しい靴の音が反響していた。

無数の足音が床を打ち、式の始まりを告げる。

 

校長の声は、落ち着いていた。

「希望を胸に…」「仲間との…」といった言葉が並ぶ。

 

大衆に向けられた言葉。けれどその言葉に意味を見出す生徒はあまりいない。

彼女もその一人、ただ記憶にとどめるだけ。前を見て、拍手をし、立ち、座る。

 

他の生徒と同じように動いていれば瞬く間に式は終わる。

 

 

 

教室に戻れば、生徒一人ずつの簡単な自己紹介が始まる。

 

名前と、小学校のことと、好きなものを一つ。

 

 

 

「如月夕紬です。最近こちらに越して来ました。読書が好きです。よろしくお願いします」

 

 

挨拶は淡泊に。

声は小さくはなかったが、響かせるような抑揚はない。

 

けれど、文法的な不備もなく、間も完璧に整っていた。

そしてなにより緊張も戸惑いもない。

少しだけ首を下げて着席する。誰も気に留めない。教師も「静かな子だな」と内心で区切りをつけた。

 

 

学校についての説明。

明日についての連絡を済ませ、その日は解散となった。

恐らく同じ小学校から進学したのだろう。この地域で仲のいいグループはすでにできていた。

初めての印象や友人関係の構築は大切だが、焦ることはない。

 

──夕紬は、ここに“友達を作りに”来たのではないのだから。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

翌日の午前の授業はオリエンテーションと簡単なプリント。

決められたグループで問題を解く。

 

プリントの内容は易しく、正答を控えめな速度で埋めていく。

 

少し間違った子がいれば、さりげなくヒントを示唆する。

 

それでいて”教えたと”いう空気にはしない。

 

自分がわからと誰かに聞いたり、確認する。

 

──あくまで”自然に共有しただけ”。

 

 

 

そんな“気配を消す丁寧さ”が、彼女の居場所を無風にした。

 

 

 

昼休み。

 

教室は自然にざわつき、あちこちで「一緒に食べよ」が飛び交う。

女子グループがいくつかできかけていた。

 

生徒の一人が声をかけてきた。

輪を保つために、誰かを誘う。

夕紬は、それが“処世術”だと知っていた。

 

話しかけられた夕紬は、少し微笑んで答える。

 

「いいの?ありがとう」

 

そう夕紬が答えればこの子は、

困っていた孤独な子を助けてくれた少女になれるだろう。

 

3〜4人の輪の中に自然と加わった。

会話には、少し遅れて頷く。短く「へえ」と返す。

「落ち着いてるね」「大人っぽい!」

そんな言葉にも、軽く笑って「そんなことないよ」とだけ。

 

「話を回すタイプ」にはならない。

自分からは話題を出さず、相槌も共感も、空気の色に合わせるだけ。

 

 

──それが、彼女の知る生き方。

 

 

 

放課後、少しだけ荷物を整理して教室を出る。

下駄箱の前ですれ違った女子……同じグループになった生徒が、ふと話しかけた。

 

「ねぇ、如月さんってさ、話しやすいよね。前から友達だったみたい」

 

「そうかな?……みんなが声かけてくれるだけだよ」

 

そう笑った夕紬は声を喜びの色で染めた。

 

 

誰にも踏み込まず、誰にも拒まれない。

そうやって、壊さず、崩れずに”ここにいる”。

 

──それは彼女の望んだ生き方。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

入学後、数日後の自室。

 

帰宅して制服を脱ぎ、ベッドの端に腰かける。

 

ユウは、小さく息を吐いてから鏡の前に立つ。

 

目元の笑みを消す。

声の抑揚も、仕草の柔らかさも、静かに引き剥がす。

 

“優秀なヒーロー志望の少女”は、ここで一旦幕を下ろす。

 

 

 

ノートを閉じた瞬間、空間がわずかに揺れる。

 

「……来たんだ」

 

背後ににじむ黒い霧の穴。

それを見ても、ユウは何も思わない。

声が漏れたけれど、喜びも絶望も大した形を成してはいなかった。

 

 

あの人は──ヒーローサイレンはこのことを知っているのかな。

ヒーローでありながら、この社会と相容れない彼らとつながっているのだろうか。

 

……想像できない。

 

だから、あの人はこの事は知らないと思う。

 

──いや、知っているのかもしれない。

 

あの人は、必要悪ならば許容するだろう。

 

どれも推測の域を出ない。

 

何の証拠もない。

 

でも、どうでもいいとユウは思った。

 

 

彼女が関心を置くのは、“生きている今”じゃない。

 

 

だから、それらの思考を捨てて、カバンを手に取る。

 

その中で、お菓子の包装紙が──音を立てた気がした。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

黒霧が揺れた。

 

音もなく空間がねじれ、黒く滲んだ穴の中から、小さな影が一つ、抜け出す。

何の気配も、気負いもない。

それなのに、あたりの空気が一瞬だけ、わずかに緊張する。

 

死柄木は動かなかった。

手の中のコントローラーを見つめたまま、画面に表示された赤いスコアだけを追いかけている。

 

カツン、と、乾いた靴音。

ゆっくりと部屋の隅へ歩いていき、いつもの場所に座る。

ユウは何も言わない。

ただ、カバンから取り出した文庫本を開き、ページをめくる。

 

死柄木の視線が、一瞬だけゲームから外れた。

無意識だった。ただ、見た。

彼女が来たことを、確認するように。

 

でも次の瞬間には、また画面へと目を戻す。

 

秒単位で積み重なる沈黙。

空気の粒が音を失っていく。

手の中のボタンを押す指が、時々、ほんのわずかに強くなる。

 

彼女は、ただ本を読み続ける。

 

読み終わった本を静かに閉じてから、立ち上がる。

死柄木の顔は見ない。

彼もまた、何も言わない。

 

静寂を割るのは靴音。

死柄木のもとに近寄る。

 

チョコが机の上に置かれた。

それは、いつもと変わらないルーティン。

それを受け取った、とも言えない。

けれど、捨てられたことは一度もなかった。

 

そして黒霧の中に、音もなく戻っていく。

 

ただ、そこにいたことだけを残して。

 

扉が閉まったような、静かな終わり。

 

部屋に残されたのは、ゲームの効果音と、机の上のチョコレートだけ。

 

死柄木は、十数秒のあいだコントローラーを握ったまま動かなかった。

画面の中でキャラクターがやられて、コンティニューの表示が滲む。

 

ぽつり、と呟く。

 

「……まだ来んのかよ」

 

誰にも届かない、独り言。

自分にすら聞かせたくない声で。

 

あのとき、名前を呼ばれた。

ただそれだけの行動がユウの中で儀式じみたものなのだと、

死柄木はどこかで感じ取っていた。

 

「意味わかんねぇ……」

 

そんなことを考える自分も、変なガキも。

 

 

 

何もなかったように、またゲームを始める。

 

でも、

スティックを握る手が、

ほんのわずかに汗ばんでいたことだけは、彼も気づいていた。

 

 

 

 

 

 

 

ユウが帰ったあと。

 

ゲームを再開しようとした指先が、ふと止まる。

 

画面には、コンティニューの文字が浮かぶまま。

集中できなかった。

 

視線もむけずに、指先で包みをつまむ。

 

──カサ、と小さな音がした。

 

 

銀紙をめくる。

中身は、市販のごく普通のミルクチョコレート。

 

目を細めた。

「甘ったるいに決まってる」と思いながら、

 

──でも、口に運んだ。

 

 

溶けていく。

舌に残るのは、やっぱり甘ったるい後味。

だからか、喉を通るまでに時間がかかった。

 

 

机の上に置かれたゲームコントローラーの隣に──

薄く潰れた、銀色の包みを置いた。

 

いや、捨てそびれた。

それだけのことだ。

 

触れるつもりはなかったが、指が一度だけかすった。

そのざらついた感触に、なぜか目を伏せた。

 

「……バカか、俺は……」

 

口の中に残った甘さを吐き出すように、低く呟いた。

 

声にならない独り言は、空中で消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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