ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

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書く予定のなかった話が生えてきました。
そのため過去編が予定より一話多くなります。
まだ数話続きますが、お付き合いください。



8話 揺らぐ均衡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

校門前では、友人同士で連れ立つ声が飛び交っていた。

誰かに挨拶をすれば、挨拶は返ってくる。

夕紬はそれにまぎれる、よく通る声でも、弾む語調でもない。

 

「おはよう」

 

必要な時に、必要な相手に合わせた速度と高さで返す。

言語化するならば大人びた沈黙。

 

それが彼女の周囲にうっすらとまとっていた。

 

 

 

 

席に座る姿勢は、正しい。

指先の動き、目線、頷きの頻度──それらすべてが「模範的な生徒」を構成している。

 

授業中、教師が質問する。

 

「この文の主語は?」

 

教室に一瞬、静けさが生まれる。

教師が誰かを名指ししようと黒板の日付に目を向ける。

同時に夕紬はその出席番号の生徒に視線を向けた。

 

船を漕いでいる。

 

夕紬は、ほんの半拍置いてから手を挙げる。

 

「じゃ、如月さん」

 

「『彼女』です」

 

声は小さくない。けれど感情を含まず、トーンは一定。

 

教師は頷く。

周囲の生徒は、それに特別な反応を示さない。

日常の風景の1ページ。

 

夕紬は手を下ろす。

その動きに満足も、期待も、何も乗っていない。

 

彼女は、そうやってずっと、必要な言動をなぞっていた。

 

 

 

昼休み、教室の後ろ。

開いた窓から、春の匂いが流れ込んでくる。

賑やかな笑い声の中で、夕紬は弁当を持ち、席を立とうとした。

 

「うっす、如月!」

 

明るい声が頭上から降ってきて、反射的に顔を上げる。

大きな子。声のボリュームも体格も。

砂藤くんはクラスのムードメーカー枠だった。

 

よく喋る。よく笑う。よく食べる。

 

そんな子だ。

 

「これ、昨日作ったやつ。ちょっと失敗しちまってよー。思ったより甘さ足んなかったけど、イケると思うんだ。

よかったら食ってくんね?」

 

差し出されたのは、タッパーに入った小さなクッキー。

ものによって、少し焦げてる。

 

でも、香ばしい匂いがした。

 

少し、戸惑った。

気遣いではなく、純粋な善意で、誰かが何かを差し出されるのは久しい。

 

……誰かの手で作られたものにあまり慣れていない。

それに、彼と話したことはあまりない。

 

話すような関係でもなかった。

 

「……あ、すまん!手作り苦手なタイプだったか?」

「ううん、ちょっとびっくりしちゃっただけ。

 ……よかったら、一つもらってもいいかな?」

「おう!」

 

笑いながら、元気な返事をくれた。

夕紬はクッキーへ手を伸ばす。

それを口に含む前に、彼は「んじゃ、またあとでな!」とだけ言って去ろうとするから。

 

 

「──ありがとう」

 

 

ほんの少しだけ、口角を動かして感謝を口にする。

 

廊下の方から、誰かの笑い声が聞こえた。

 

彼は振り向いて、気持ちのいい笑顔を向けてくる。

 

 

「おう!」

 

数分にも満たないやり取り。

強引ではなく、重たくなかった。

 

──なんだろう、この感じ。

 

残されたクッキーを見つめる。

一口、かじった。

 

甘すぎなくて、ちょうどよかった。

……味は、ちゃんと、した。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

下校時間。

いつもの道を少し逸れて、買い物を済ませる。

 

歩道を歩いていると、木々の隙間から人影が見えた。

 

ブランコに座った女の子が居る。足が止まった。

 

違う制服をきた子供。俯いたまま、顔をあげない。

 

視線を逸らして歩き出せば良いのに、できない。

 

地面に散らばった教科書や筆記用具。

 

気配──その香りから、目を逸らせない。

 

 

“またこれか”と考える前に足は公園に向かっていた。

 

足音を殺す。

驚かせないよう、怖がらせないよう。

 

静かに素早く。

そしてなにより丁寧に、散らばった荷物を拾って、鞄に戻していく。

 

ひとつひとつ、砂を飛ばして丁寧に。

 

 

まだ、少女は顔をあげない。

 

でも、それで良い。

 

 

ユウは鞄をブランコの柱付近に立てかけた。

 

そして、声をかけることなくその場を去る。

 

 

 

大丈夫?と声をかけるべきだったのかも知れない。

 

もっと相応しい人がいたかも知れない。

 

私がしなくてよかったのかも知れない。

 

それでも。

ユウは、見なかったことにはできなかった。

 

 

そう──これは、誰がやるかは重要じゃない。

 

誰かがいることに意味がある。

 

だから、それが私でも別に構わないだろう。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

それは中学生になってから──一人暮らしを始めてから数ヶ月後の事。

 

 

始まりは体の違和感だった。

 

とある朝。

箸を握ろうとした指が、宙で迷った。

言いようのない違和感に一瞬体の動きを止める。

 

今度は意識して箸を持つ。

 

指で箸を支える。

 

それだけのはずなのに──

 

(あれ、どの指で持てばいいんだっけ?)

 

正しい持ち方も、使い方も記憶の中からポロリとかけていた。

 

 

なぜ?という疑問も浮かんだが、

使えないなら、使わなければいい。

 

ユウはそう判断し、フォークを使うことにした。

椅子を立ち上がり、キッチンに向かって一歩踏み出す。

 

けれど、上げたつもりの足が出ずに、上半身が倒れこむ。

いつもなら反射的に受け身が取れる。

けれど、感じたのは冷たい予感と体の硬直。

 

咄嗟に片腕を突き出すよう、意識的に体に指示を出した。

 

手のひらでは間に合わず、腕で体を支える。

 

 

 

──なにか、おかしい。

 

でも、ユウはそれが何かわからなかった。

 

 

わからないから現実を見る。

思考放棄は許されず、原因特定は自分で行うものだから。

 

このまま外には出れない。

まずは、学校と保護者である如月連絡へ、体調不良を理由に欠席の連絡をした。

 

電話もチャットも使える。

 

 

(……言葉はまだ出てくる。)

 

 

床に腰を下ろし、思考を巡らせる。

 

 

なら、体のどこにガタが来たのだろうか。

壊れた──いや壊れかけているのはどこだ。

 

 

そう、言語化するならば──

私は、体の動かし方を……忘れた?

 

 

 

 

(──記憶、か。)

 

 

ユウの脳裏へ、後天的に誰かから与えられた“個性のような物”が浮かんだ。

 

記憶を固定される脳になったのは、施設にいた時に与えられてから。

記憶とは無意識の底で積層する本であり、この“なにか”は収納する棚。

 

その棚は意識を向ければいつでも覗ける。

 

 

ユウは目を閉じた。

 

棚は隙間なく埋め尽くされていた。

取り出す余地がないほどに。

 

それらすべて──

覚えていなきゃと思ったもの。

考えようと残していたもの。

 

でも、いつもの間に?

 

 

 

 

(捨てなきゃ。)

 

 

それは本能的な判断だった。

脳が勝手に捨ててくれるはずのもの。

 

けれど私は、自分の手で選んで、消さなきゃいけない。

 

──そんな気がした。

 

 

 

 

ただ、捨て方がわからなかった。

 

ずっと無意識に任せていたことを、

いきなり自分で操作しろと言われても、やり方なんてわからない。

 

 

だからユウはまず、直感的に試すことにした。

 

──記憶を取り出す。

 

新しく入れるには、まず邪魔なものを退かす必要がある。

 

実際の本棚で力は尽くで一個を取れば付近の本が決壊する。

これも、引き抜けば周囲も崩れるのだろうか。

 

 

 

それでも、やるしかない。

 

 

ひとつの記憶を取り、引っ張り出せば案の定、溢れた。

 

途端、記憶が脳内で、瞳の奥で走り出す。

 

 

 

学校で誰かを怒鳴る教師の声に体が勝手に一瞬だけびくついた時のこと。

クラスメイトの悩みを聞いていたらその子が泣き出して困った時のこと。

夜の公園に座り込む少女に声をかけた時のこと。

どこか知っている目の人と視線が交わった時のこと。

 

 

走馬灯と呼ぶには鮮明過ぎる。

けれど、記憶と呼ぶにはあまりにもリアルな映像。

 

記憶が劣化してない。

 

いま、この瞬間が、過去に飲み込まれていく。

 

 

「…ぅ……っ!!」

 

いつの間にか噛み締めた、歯が口の中でギリと不愉快な音を立てた。

 

舌先まで溢れかけた胃酸を飲み込む。

 

息をしていないことに気づき、体全体で息を吸う。

 

 

パチパチと頭の中で火花が散るような錯覚。

 

 

喉が焼けるようにざらつく。

歯がどくどくと脈打ち痛む。

口の中に酸っぱさが広がる。

 

 

 

私はなぜこの記憶を残していたのだろう。

 

わからない、無意識的に浮かせた記憶たち。

 

……忘れたくないと思ったのではなく、忘れてはいけないと思った気がする。

 

 

ただ、それは脳を圧迫するらしい。

 

 

なら、どれを残すか私が決めなければ。

 

 

 

 

そして、一度キレイにしないと。

 

 

 

ユウは、少しだけ動くようになった体を引きずるように歩いた。

フラフラとした足取りで洗面台に向かう。

ハンドタオルを一枚取り、そのままトイレに入る。

 

「ふー……」

 

息を吐き、タオルを口に入れ、瞼を閉じる。

 

今から行うのは、記憶の削除。

 

予測された痛み。

 

必要なこと。

 

 

だから、やらなきゃ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ゴホッ」

 

咳で目を覚ます。

 

いつの間にか、気を失っていたらしい。

 

一度に処理するのは良くないようだ。

今度からは、少しずつやろう。

 

頭は軽くなっていたが、今度は体が鉛のように重い。

 

壁に手を添えて立ち上がり、一歩踏み出す。

 

大丈夫、歩けてる。

 

キッチンでうがいをして、喉の違和感をぬぐう。

 

確かめるために箸を持つ。

 

(これで、へいき)

 

明日から問題なく生活できると判断してユウは時計を見る。

まだ寝るには早過ぎるが、疲労がひどい。

 

肌がべたついている気がしたが、シャワーを浴びる気力はなかった。

 

 

ユウはベッドに身をゆだる。

明日は早く起きようとアラームをつけて、そのまま泥のように眠った。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

翌朝。アラームの音で目が覚めた。

昨日とは違う種類のだるさが体に残っている。

起き上がった瞬間、部屋の空気が妙に冷たく感じられた。

あまり体感したことのない感覚。

 

「あ"ー」

 

確認のように声を出せば、ひどくざらついた声が返ってきた。

 

ここまで典型的な症状が揃えば、答えはひとつ。

 

風邪を引いたらしい。

 

 

 

ユウはこれまで一度も開けなかった医療用品の引き出しを開けた。

風邪薬や解熱剤、常備薬がきれいに整っている。

その中から体温計、薬、マスク。必要なものを順に手に取った。

 

体温計を脇に挟み、マスクをつける。

ぴぴぴと完了を知らせる音を聞き、体温計を取り出す。

 

38.5℃、思ったよりも高い。

 

 

ユウは熱を出すのは初めて──ではない。

けれど、あまり経験がなかった。

 

幼少期は熱を出せば生死に関わると気を張っていたし、

施設では薬の副作用で体調を崩すことがあっても、それも管理された結果。

 

言ってしまえば、体が丈夫な方だった。

──いや、この場合は生きるために丈夫になったが正しい。

 

 

ユウは食パンを焼きもせずそのまま食べて、水で薬を飲んだ。

ついでにもう一杯、水をコップに汲んで、ベッドへ戻る。

 

昨日同様、保護者への連絡と、学校への電話は欠かさない。

酷い声だがまだ電話はできる。

 

《REN:了解した。休養を優先するように》

 

連絡を送って1分もしないうちに返信が来た。

 

既読をつけて布団に潜る。

無意識のうちに寒さを誤魔化すように、布団を喉元に引き上げる。

目を瞑れば意識は溶けるようにすっと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

次に意識を取り戻したのは、数時間後だった。

 

 

喉の渇きで目が覚める。

コップの水を口に含み、嚥下した瞬間──

 

喉に焼けるような痛みが走った。

 

 

試しに唾を飲み込むと再び、刺すような痛みが走る。

 

喉が腫れたのだろうか。

けれど、熱が出ているのだから水は飲まないといけない。

 

 

もう一度水を含み、天井を仰ぎながら一気に飲み干す。

 

これで喉の通りが多少良くなるはずだが、まだ痛みを伴う。

 

さっき見たスマホの時間を思い出す。

薬を飲むにはまだ早い。

空腹は感じない。

 

ならば寝ようと、ユウは再び寝具に横たわる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再び、数時間後。

 

今度は息が詰まる暑さで目が覚めた。

部屋は暗い。いつの間にか日が沈んでいたらしい。

 

明かりのない部屋の中、記憶を頼りにサイドテーブルに手を伸ばす。

体温を測れば39℃を超えていた。

経験したことのない領域。

 

ユウは過去の知識を覗き込む。

 

 

(──こういう時は、どうすれば良いんだっけ。)

 

食事、消化のいいものを。

水分補給、水だけでなく塩分と糖分も。

睡眠、体を起こさず横になること。

薬、解熱剤のタイミング。

太い血管を冷やす。

ユウの知る対策はその程度。

 

だからキッチンに向かべきと判断した。

 

 

ベッドで上半身を起こした瞬間──世界が回った。

 

力が込められず、動かした体がベッドに沈む。

めまいで視点が定まらない。

心臓の音が爆ぜるように響く。

 

 

知らない。

 

ユウはここまでの体調不良を経験したことがなかった。

 

 

1人では、どうしようもないと、動かない体のまま冷静に判断する。

 

 

──でも、どうする?

 

例えば、助けを呼ぶ。

 

──でも、誰に?

 

ふとサイレンの姿が浮かぶ。

 

──でも、迷惑だろう。

 

 

(大丈夫、寝てれば、いつか治る。)

 

 

ユウはもう一度、眠る姿勢をとる。

胸のどこか、穴に吹き込むような風が気持ち悪い気がした。

 

だから目をつぶって、空いた本棚に押し込んだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

勤務を終えた如月漣は、車内でスマホを取り出した。

確認するのは千響夕紬の安否。

 

朝の連絡以降、報告はなく、

サイレンが送ったメッセージは未読のまま、返信がない。

 

 

 

……杞憂かもしれない。

けれど、彼は保護者としての責任を果たすために車を走らせた。

 

 

マンションに着いたのは夜間と言える時間。

ロビーで部屋番号を入力し、チャイムを鳴らす。

 

出なければ再度出直すか、合鍵を使うか。

それはサイレン──ではなく如月漣が判断することだ。

 

 

…応答がない。

彼は考える。

これは限界を迎えているのか、それとも睡眠をとっているのか。

 

そう思考を巡らせた時。

応答を知らせるランプが光った。

 

けれど、音はない。

 

 

「確認に来た、それだけだ。」

 

 

返答もない。

 

 

「判断を迷った時は、それが限界の兆候だ。忘れるな」

 

 

音はかえってこない。

 

漣はその言葉を置いた後、一度瞬きをした。

 

そして何か言葉を紡ぐことなくマンションから出ていった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

声が、出ない。

それはユウにとって、忘れたはずの悪夢だった。

もう、自分のためには使わないと決めていた。

 

それでも──どこかで命綱だと思っていたものを失う恐怖は、

喉の奥に焼き付いて離れてくれなかった。

 

けれど、もう恐怖に怯える子供ではない。

 

彼の訪問は予想外だった。

 

うまく動けなかった。

 

でも。

それでも──

だからこそ、ちゃんと連絡を──

 

持ち上がらない足で、足裏を引きずるようにベッドへ向かう。

サイドテーブルのスマホに触れる前に、膝をついた。

 

「……っ……」

 

心臓が、ひどく痛む。

息が、吸えない。

 

鼓動が絶え間なく鳴り続ける。

 

インターホンで目を覚まして、無理やり動いたツケが来たらしい。

それでも腕伸ばす。

指先が端末に触れて──

サイドテーブルから、ずるりと落ちた。

 

ユウも、そのまま床に倒れ込む。

 

 

頭の中で何かが暴れているように、がんがんと響く。

 

意識が、薄れていく。

 

 

涙が出るなら、きっと出ていた。

 

けれどユウは──無意識よりもずっと深いところで自分を律していた。

 

だから、泣きはしなかった。

 

泣かないようにしていたのではない。

 

最初から、その選択肢を持っていなかった。

 

もう、あの日からずっと。

 

 

 

「──」

 

 

やっぱり声は出なかった。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

サイレンは買い物を終え、マンションに戻っていた。

 

合鍵で部屋に入る。

部屋は静かで灯りもなかった。

 

照明をつけると、床に崩れる少女の姿があった。

その手は、端末に届きそうで、届いていない。

 

倒れた拍子に落ちたのではない。

──触れようとした確かな意志と痕跡。

 

ほんの一瞬だけ、

呼吸の乱れよりも、体温よりも先に、

“誰に繋ごうとしたか”を確認した。

 

端末を立ち上げる。

ロック画面には、通知と自分の名前。

つまり端末は一度も開かれていない。

 

漣は、静かに夕紬に触れた。

 

脈を取る。微弱、頻脈。

皮膚に触れる。ハリがなく、乾いている。

呼気に湿度がない。

口腔の粘膜を目視で確認する。こちらも乾燥している。

 

声を出せていない理由が、喉か、それとも脳か。

それすらまだわからない。

 

 

彼女の自己申告によれば高熱を出していた。

けれど発汗はほとんどない。

喉の腫れも恐らく軽度ではない。

 

先ほど視界に捉えたサイドテーブルのコップに再度視線を移す。

水はなく、水滴すら残っていない。

 

──水分が、足りていない。

 

気づかれないまま、少しずつ限界が積み重なっていたのだろうか。

気付いていて、本人は“無視してよいこと”として処理していたのか。

 

漣にはわからない。

 

 

ただ、彼女から限界は告げられなかった。

それだけが事実。

 

 

その間、彼は一言も発しない。

 

声をかけたところで、彼女が反応できる状態ではないと判断してる。

 

(……間に合わなかったのではない。

 “頼ること”そのものがこの子にとっては異常なのだろう)

 

無論、“頼る”という選択を時には取る。

だがそれは、必要だから取るに過ぎない。

選んだのではなく、必要であるから模倣し、演じた結果だ。

 

自己の意思では選ばない。

選べないのではなく──選ばない。

 

 

ならば、“選ばせないために”、先に手を打っておく。

 

それが、この子を守る唯一の手段なのだ。

 

 

問題はただの風邪ではない。

“自分を主に置けない、彼女が自分で判断してしまうこと”が、命を遠ざける。

 

連絡が必要であると判断した原因は恐らく私の訪問を経て。

いま自分の置かれた状況を考えたのだろう。

 

いつもの彼女なら下せるであろう判断ができていなかった。

 

 

その事実だけで、彼女を病院に運ぶには十分だった。

 

漣は静かに立ち上がり、夕紬の通学カバンから保険証を取り出す。

肩を貸して立たせることはできない。

 

時計を確認する。

この時間の周囲の交通状態、付近の医療機関を考慮し判断を下す。

 

夕紬を抱き上げると呼吸音が、微かにひゅう、と揺れた。

 

 

「聞こえているか、返事は不要だ。今から病院に向かう。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

診察室の灯りが静かに夕紬の顔を照らす。

点滴の針が刺されたままの腕が細く、白い。

 

喉の炎症からくる発熱と脱水による意識混濁。

感染症は陰性だったが、無理をすれば即座に悪化するギリギリの状態。

体調そのものよりも、そこに至るまでの経緯が──如月漣にとっては問題だった。

 

医師は言った。

 

「よく気づかれましたね。

このまま誰にも気づかれず、朝まで放置されていたら危なかったですよ」

 

よく、などと言われることではない。

彼女が、“限界を知らせられない子”だと把握している。

 

ただ、それだけだ。

 

 

ベッドに寝かされた夕紬のまぶたはまだ重く閉じられている。

 

肩は細かく上下しているが、規則正しい。

 

(これは構造的な問題だ。再発の可能性は高い)

 

彼女は、“演じてしまう”。

それがこの子にとっては日常であり、他者から見れば“普通の優等生”でしかない。

 

無論、彼は把握して引き取った、守ると決めた。

けれど、その構造は漣の想定よりもずっとつめたく、強固なものだった。

 

 

その仮面がほんの僅かに軋んだとき、ようやく気づける。

今回はたまたま、そのタイミングが訪れたに過ぎない。

 

もしも、あと少し判断が遅れていたら──

椅子に腰かけたまま、漣はほんのわずか目を伏せた。

 

「……判断を誤るな」

 

感情を寄せるのは不要だ。

必要なのは再発させないための節度。

 

ただ、それだけだ。

 

 

 

 

夕紬は人の気配に目を覚ます。

知らない天井。息がしやすい。体も軽い。

 

そして嗅ぎ慣れた清潔感すら覚える病院の香り。

 

 

「目覚めたか」

 

「如月、さん…?」

 

声が出た。

 

「解熱剤と水分補給の点滴中だ」

 

「ごめい、わくを…すみません」

 

「謝罪は不要だ。

 書類上でも私は君の保護者だ、果たすべき義務がある」

 

サイレンの言葉に温度はないけれど、

夕紬には今までにないものを──どこか、声に微弱だが温度があることに気付き、少しだけ首を傾げる。

 

 

 

 

 

熱は引き、喉の腫れも和らいだ。

多少の痛みは残るが、水分は摂れる。

 

入院の必要がないと判断され、夕紬は漣の車で家に送られた。

 

ドアの前で、漣は一つの細い箱を差し出した。

 

「これを」

 

夕紬が開けると、中には細く黒いバンドが入っていた。

何の装飾もない、ただの輪。

 

「体温と心拍、それといくつかの身体的指標をモニタリングできる。

位置情報や音声は取得しない。」

 

「わかりました」

 

 

彼は、判断を夕紬に委ねることが多かった。

しかし、今回は有無を言わせない。そんな言葉尻。

 

だから夕紬はその空気を悟り、その場でつける。

無機質な冷たさ。

 

でもそれを体は拒絶しなかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

ユウが体調を戻して、数か月。

 

死柄木の元に訪問する頻度は、月に一度。

たまに二度。

それが崩れたのは、静かな季節の変わり目だった。

 

その日はユウが珍しく2日続けて来た。

 

ふと、机の上に置いてあったチョコレートがなくなっていることに気づく。

 

けれどユウは気にしないふりをして、文庫本を読み始める。

今日もただ、そばに座るだけ。

 

死柄木はいつものようにゲームをしていたが、

ほんの一瞬、目線だけが机の上をかすめた。

 

そして、やけにゆっくりと口を開いた。

 

「……なあ」

 

声がしたのは、ユウがページをめくったタイミングだった。

 

「甘すぎんだよ、あれ」

 

ユウは手は止めない。顔を上げず、目も合わせない。

本の中の文字を眺めたまま、何も返さない。

 

「……もっと、ビターなやつとかにしろよ。……いや、持ってくんなってわけじゃ――」

 

ごく小さく、ページをめくる音だけが返ってくる。

 

死柄木は何か言いかけて、やめた。

 

ユウは顔を上げないのではない。

上げたくないでも、上げられないでもなく、ただ、あげない。

故にユウは何も返さず、ただ指先でページをめくる。

 

その音を聞きながら、死柄木は小さく息を吐いた。

 

意味もなく。

 

でも、なぜか肩の力が、少しだけ抜けていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

その日、ユウは目的があって歩いていたわけじゃない。

 

ただ、気の向くままに足を進めていて──ひとりの少女を見つけた。

 

少女――渡我被身子。

彼女は人通りのない寂れた路地のベンチに座り、自分の指を噛んでいた。

 

爪ではなく、皮膚のほう。

血の気をなくしたその場所だけが、白く浮いていた。

 

ただの癖には見えなかった。

痛みで感情を引き算しようとしている。

そんなふうに、自分を削っていた。

 

 

 

笑うのが好きだった。

血も、大好きだった。

 

でも、“普通”はそんなこと──“しちゃいけない”。

 

──だから。

 

 

 

「……え?」

 

人の気配に顔を上げる。

一瞬だけ反応が遅れた。

 

視界の端から手が差し出されていた。

 

その手には、パックのぶどうジュース。

コンビニにあるような、ごく普通のやつ。

 

声に反応するように、手は空中で止まる。

予想外とでも言うように。

 

唐突で、脈絡のない行動。

けれどその手つきには、奇妙な整然すらあった。

 

 

 

そこにいたのは、一人の女の子だった。

 

薄い色素の髪は整っていて、服はシンプル。

目立つ装飾もないのに、輪郭だけが妙に印象に残る。

 

……誰です、この子。

 

警戒と好奇心のあいだで、渡我は首をかしげた。

けれど、ジュースは変わらず目の前にある。

 

「……なんですか?」

 

探るように言葉を投げてみる。

 

すると、少しだけ間を置いて──

その子はジュースにストローを刺しながら、静かに答えた。

 

 

 

「こっちなら、ちゅーって、できるよ」

 

 

 

それだけ言って、ベンチに置いた。

いらなかったらそのままでいいとでも言うように。

 

笑いも浮かべず、名乗りもせず。

言い捨てるでもなく、呟くでもなく。

ただ、“そこにある事実”を渡すように。

 

そしてそのまま、

振り返ることもなく立ち去っていった。

 

歩き方に乱れはない。

だけど、あの背中にどこか痛みを感じるのは、私だけでしょうか。

 

ぽかんと背を見送って、

ベンチのジュースを見下ろした。

 

 

 

「……ちゅー、ですかぁ」

 

 

 

手に取って、口をつける。

淡い甘さ。少しだけ残る渋み。

舌に広がる、血じゃない味。

 

 

 

──ぜんぜん違う。

 

でも。

 

ほんの少しだけ、心が静まった。

 

痛みも衝動も、ちょっとだけ、薄まった気がした。

 

だから、笑った。

 

いつもみたいに、作った顔の形だけじゃない。

ふっと息をこぼすような、そんな笑い。

 

“ありがとう”って言わなくても。

誰かを“好き”だと叫ばなくても。

 

それでも、なんだか落ち着く味だった。

 

 

 

「……へんな子、です。

でも、なんか……ちょっとだけ──」

 

 

 

それは、トガにとって“贈り物”だった。

 

誰かの名前を知らなくても。

 

それでも心に沈んでいくような。

 

やわらかな記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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