とある授業で、グループを組む指示があった。
夕紬はいつものように、周囲の動きを見てから歩き出す。
──1歩、遅い。
けれど、そこに意味を見出す人は多くない。
同じ振る舞いの子もそう少なくはないのだから。
けれど、彼は気付き、そして自ら動く人だった。
「よぉ如月、まだ決まってないなら一緒にやろうぜ」
砂藤力道。
以前、昼休みにクッキーをくれたクラスメイト。
そう、例えるなら“少し仲のいい子”。
その程度のはず。
けれど彼は声をかけてきた。
夕紬は瞬きにも満たない間に彼の周囲にいる生徒を確認する。
夕紬に否定的な表情はない。
記憶をたどっても、彼らとの関係性に綻びは見当たらない。
断る理由はなかった。
それに──断る意味も、なかった。
「いいの?ありがと。
ちなみに、砂藤くんたちのグループは何する予定?」
「俺たちは──」
──そうやって、会話は自然に続いていった。
ありふれた日常の一幕。
彼らからの勧誘は、何度も続いた。
行事の準備、放課後の買い出し、昼休みの他愛もない話。
いつも、笑顔と人の気配がそこにあった。
少しずつ、その輪の端に夕紬の姿が混ざりはじめる。
それは、他人から見れば些細な変化かもしれない。
けれど──夕紬にとっては、望まないものだった。
誰かと親しくなるというのは、心と心のあいだに橋を架けることだと、何かで読んだ気がする。
一歩ずつ相手へ渡っていくその仕草は、たぶんあたたかくて、優しさに包まれた、尊いもの。
だから──彼女は最初から持たないようにしていた。
ゆえに彼らと親しくする理由はない。
彼らは、良い人すぎる。
彼は、まっすぐすぎる。
優しさという波が、静かに築いた境界線を越える前に──夕紬は、そっと距離を戻す。
そのために、どこかのグループに属することにした。
ふと、立ち上がった前の席の女子──あかねのカバンにつけられたアイドルのぬいぐるみが落ちたとき、夕紬は後を追うように立ち上がりそれを拾い──言葉を紡ぐ。
「ねぇ落としたよ。──好きなんだ。曲、いいよね」
「え、意外!如月さんってそういうの聴くんだ?」
ありがとう、よりも先に返ってきたのはその言葉。
夕紬は、それを一瞬だけ観察してから、笑った。
「この前テレビで聞いてさ、ハマっちゃった」
──嘘ではない。
けれど真実のみでもない。
それから少しして、夕紬は彼女らのグループの中にいた。
共通の趣味を持つ、少し目立つ明るい子たち。
夕紬の知識と記憶によれば、こういう子たちは、人の触れられたくない場所があって、隠してる。
だから他人の事情にも深入りしない。
無害で、“ちょうどいい”距離感の会話。
「ねー夕紬!新曲マジでよかったよね!!」
「ちょっと、いまあたしがテストの相談してんだけど!」
「えーなに、こはる赤点やばいんっだっけ?」
「あかねだって、英語やばいでしょ」
冗談まじりの応酬。
誰かが誰かを弄って、笑って、続いていく。
夕紬もその輪の中にいた。
笑いを返し、温度を合わせ、自身の輪郭を静かに溶かしていく。
それを見て、砂藤はもう誘ってこなくなった。
最後に彼が視線を向けたとき、笑顔を乗せていた。
まるで、“何かを喜ぶ”ように。
(──なにを?)
その意味を考える前に、別の声が飛んできた。
「ねえ、夕紬ちゃん、ここさ──」
思考は、呼びかけられたことで自然と切り替わってしまった。
あの笑顔の意味は、また今度にしよう。
***
学校生活は本当にあっという間だ。
気づけば終わりが見えている。
夕紬は、カレンダーを見てようやく思い出した。
──もう、中学生活も残り一年とないんだ、と。
文化祭まで、あと数日。
放課後の教室は、色とりどりの紙と布に埋もれていた。
カーテンは外され、机は壁際に寄せられ、床には段ボールや画材が散乱している。
夕紬は、壁面装飾の担当だった。
いつものメンツとは違う仕事。
口を尖らせた彼女らから、「なんで?」という声が上がる。
口角をわずかに下げ、ひとつ、ため息を落として見せた。
そうやって嫌がる素振りを“らしく”見せた。
「頼まれたなら仕方ないよね」と誰かが言うまでの空気を、そっと、手繰り寄せるように。
故に今はここで1人。
割り当てられた段ボールに下描きをして、
白い絵の具で、ベースを塗っていく。
夕紬が段ボールを持って部屋に入ると、一瞬だけ視線が集まった。
誰も声をかけてはこない。
それでも空気がわずかに引き締まったことに、彼女は気づいていたが1人の生徒に話しかける。
「作業中ごめんね?実は──」
担当の仕事に加えて、最低限の伝達や調整もこなすこと。
装飾班には、比較的静かな子が集まっていた。
話しかければ応じるが、自分から他人に声をかけるタイプではない。
だから、教師は彼女に任せた。
“ちょっとしたコミュニケーション” を、無理なくこなせるとわかっていたから。
──それが、彼女が装飾担当を任された理由だった。
連絡事項と、自分が担当する仕事の進捗共有、最低限の会話を済ませ、空気を読んだていで部屋を出る。
準備室に入り、再開する。
ひんやりとした空気に、居心地の悪さはない。
静かで、単調で、誰とも話さなくていい作業。
彼女は、それを選んだ。
筆に水を含ませ、刷毛で線を引く。
音楽もない。
誰かの笑い声が遠くで響いている。
──ドンッ。
勢いよくドアが開く音。
続いて、ずるっと重たい何かが滑る音。
「おっと! すまん、ちょっと潰れたかも!」
振り向かなくても、声でわかる。砂藤くん。
両腕に大きな段ボールを抱えて、入口で片足を踏ん張っていた。
渡された箱の端は少しだけ折れて、角が凹んでいる。
「大丈夫。ちょっとくらい形が歪んでても、描けるよ」
夕紬は、それだけ言って、元の姿勢に戻った。
潰れた面を下にして立て直し、再び筆をとる。
「マジ? ごめんな。次から気ぃつける」
「そんな気にしないで、平気平気」
会話はそれきりだった。
けれど、数秒後、砂藤は潰れていない箱を整えながら、ふと独り言のように言った。
「お前、こーいうの、得意そうだよな。几帳面?って言うか丁寧だし」
夕紬は、一瞬だけ手を止める。
「そうだね、嫌いじゃないかも」
筆を走らせる音だけが、また二人の間に戻ってきた。
それ以上、言葉は続かず、
彼もすぐに自分の仕事へ戻っていく。
それでも、ただ静かで。
何も考えずにいられる時間が、ほんのわずかだけど、確かにそこにあった。
***
それは、ある日の昼休みだった。
教室の空気が、少しだけ浮いていた。
時計をちらちらと見ては笑い合う女子たち。
お弁当を食べる手つきも、どこかそわそわと急いている。
(……なにするんだろ)
夕紬は、机に弁当を広げながら様子を見ていた。
そして、こはるがそっと教えてくれた。
「ね、今日、川原さんの誕生日なんだよ。サプライズでお祝いするんだって」
「川原さん、めっちゃリーダー頑張ってくれてるもんねぇ」
あかねの同意に、夕紬も声に納得の色を乗せる。
「確かに、頼もしいよね」
机の下、誰かが隠し持っていた小さなプレゼント袋がカサッと音を立てた。
黒板の裏には、メッセージボード。色紙。みんなの寄せ書き。
昼休みが終わる直前に、それらを一斉に渡すらしい。
「ろうそく立てられないから、チョコパイにバースデープレート刺すんだって。ウケるよね」
「それ刺さるかな?」
夕紬は、笑った。
いつも通りの笑顔の“奥”はいつもより冷たいものがあった。
でも、それを悟らせることはない。
その輪の中に自然と加わって、寄せ書きにも一言添えた。
「おめでとう。素敵な一年になりますように」
筆跡は整い、言葉も丁寧だった。
けれど、“整えて書いた”だけで──気持ちがどれだけ込もっていたか、自分でもわからなかった。
──やがて、見計らったように1人の生徒が彼女を連れてくる。
「川原さーん、ちょっと来てー!」
教室のドアが開くその瞬間、教室の照明が消える。
「……え?」
「誕生日、おめでとう~~!!」
クラッカーの音が弾けて、拍手と笑い声が混ざった。
川原さんは目を丸くして、それから顔を覆うようにして笑った。
「うそ、なにこれ……ありがとう……!」
手作りのメッセージボード。
コンビニで買ったチョコパイの上に立つ、プラスチックのピック。
みんなが選んだ、小さな文房具の詰め合わせ。
──それらすべてが、きらきらとした“祝福”だった。
夕紬も、その列に並んでいた。
笑いながら拍手をしていた──他の子と同じように。
「おめでとう」
口にした言葉に、嘘はない。
けれど──その光景の中に“自分がいる”ことに、ふと違和感を覚えた。
誰かを祝うことに、迷いはなかった。
ただ、心が追いつかないまま、言葉だけが先に出ていった。
(どうして、みんなこんなふうに、嬉しそうにできるんだろう)
(どうして、“生まれた日”が、こんなにも祝われるべきなんだろう)
そういうものなんだ。と記憶してる。
でも理由はずっとわからない。
チョコパイを割る笑い声を聞きながら、
夕紬は、そっと視線を窓の外に向けた。
カーテンのすきまから入った光が、床にやわらかく差していた。
その光の中で、夕紬は静かに目を細めた。
(たとえ“そういう日”が来ても、私は──)
その先を、考えることはやめた。
だって。
──誰かのためなら、いくらでも「おめでとう」は言えるから。
***
いつもと同じ時間。
いつもと同じ空気。
黒霧がにじみ、空間が一度だけ静かに歪んだ。
ユウは音もなく現れて、何も言わずに部屋に入る。
鞄を壁際に置いて、ただ座ろうとした時。
派手な爆発音がして、音の方へ目を向けた。
テレビの画面には、いつもと違うゲーム。
死柄木はその前に座っていて、
スティックを回す指は、一定のリズムで動いていた。
誰かとの会話で耳にした記憶があっただろうか。
そう思いながら、ユウは画面を見つめた。
じっと。
言葉にしない。
問いもしない。
“何か”を見ている気配だけは、確かにそこにあった。
死柄木は、それに気づいていた。
でも、顔を上げない。
一面の爆発。派手なエフェクト。
敵が飛び散る中で、指だけが止まる。
そして、無言のまま――
手元のコントローラーを、背後に向かって投げた。
「……チッ、うぜーな。やりてーなら勝手にやれよ」
ユウは、地面に落ちかけたそれを寸前で拾い──顔を上げる。
立ちあがろうとした死柄木に声を向けた。
「そういうわけじゃ──」
「はぁ?」
「それに、やり方わからない」
だからなんだよと死柄木が腰を上げた時、ユウは部屋の棚に置かれたもう一つのコントローラーを取った。
そして、彼の机の前に置く。
死柄木は、不可解なものを見るような目を向けた。
でも、ユウはなにも返さない。
死柄木はため息をついて、なにも言わず、拾う。
そして音を立てて体勢を戻した。
ユウも黙って、彼の隣の椅子に座った。
死柄木は一瞥し、眉間に皺を寄せた。
少しのあいだ、画面を見ていた。
だが結局、何も言わなかった。
ボタンを押せばゲームのモードが自動で切り替わる。
2Pのアイコンが浮かぶ。
画面には、ふたり分のキャラクターが並んだ。
開始のカウントダウンが始まる。
画面には派手な色と音が溢れる。
けれど、ふたりの間には、それとは別の沈黙が流れていた。
3。
2。
1。
静かに、操作が始まる。
ユウの動きはぎこちない。
タイミングもずれるし、立ち回りも下手だ。
死柄木は少しだけ指を止めて、
舌打ちとも、ため息ともつかない、曖昧な音を喉に転がした
「……マジかよ。下手くそ」
それきり、また静かに操作音だけが戻った。
ユウはその言葉に反応しない。
気にしてないわけじゃない。
でも、“それくらいなら平気”と思った。
操作ミス。キャラが落ちかける。
死柄木のキャラが滑り込むように跳ね、間一髪で防ぐ。
無言のまま。
繰り返される攻撃と回避。
その繰り返しに、つい言葉が漏れた。
「……ったく。来るだけ来て、足引っ張んのかよ」
それでもユウは反応しない。
けれど、次のラウンドでは少しだけ動きがよくなっていた。
立ち位置がほんの少し修正されてる。
そして、ほんの一瞬、ふたりのキャラが背中合わせになって敵を倒した。
そのときだけ、画面が綺麗に光った。
──見て、覚えた。
死柄木は一瞬だけ視線を横に向けて、
「……覚えんの早ぇのか遅ぇのか、どっちだよ」
と、小さく呟いた。
まるで、
“次の”ラウンドがあることを当然のように思ってる声で。
ゲームが一区切りついた頃、ユウがそっとコントローラーを置く。
「……」
何も言わず、立ち上がる。
本を読まずに過ごしたのは、今日が初めてだった。
死柄木はまだ画面を見ている。
ユウはドアの方へ向かいかけて、
でも、一瞬だけ立ち止まった。
そしてまた、そっとチョコを置く。
彼はなんの反応も返さなかった。
でも。
机の上にはユウが使ったコントローラーがそのまま残っていた。
ユウがここにきて、初めて触れたもの。
その体温を、まだわずかに残したまま──
いつもと少し違う邂逅。
ふたりが無意識のまま、言葉を交わさないままに、何かを共有し始めた最初の夜。
──きっと、続くようなものじゃない。
けれど、それでも──
***
文化祭当日。
朝の教室は、そわそわとした喧騒と、少し浮いた笑い声に満ちていた。
装飾の最終確認、クラスTシャツに身を包み、空気はどこか浮いていて、全員が少しずつ、落ち着きなく笑っていた。
そのときだった。
──バサッ。ガタン。
教室の奥、掲示パネルの一部が崩れた。
壁に立てかけられていた装飾が倒れ、画材や貼り紙が床に散らばる。
「なにこれ!? 誰か当たった?」
「昨日の片付けのやつじゃね?ちゃんと固定しなかったんだろ」
「てか、もう時間ないのにマジかよ……!」
一瞬で、声が荒れた。
視線が交差する。まるで“誰のせいか”を手探りするように。
クラス全体の温度がにわかに冷える。
「いや、犯人特定とかしてる場合じゃなくない?」
友人の1人、あかねが話し出すのと同時に、その中で、ひとり。夕紬が音もなく腰をあげる。
そこへ対面に椅子を持ってきて座るこはるが小声で呼びかけた。
「手伝おーか?」
「へーき」
夕紬はそれきり黙って歩き出す。
倒れたパネルの側に膝をつき、画鋲を拾い、テープを探す。
手元だけを見て、黙々と。
夕紬は責任を背負ったわけではない。
目立つ行動ではあるかもしれない、でも彼女は動く事を選んだ。
その姿はただ、“今やるべきこと”を決めた者の動きだった。
「……如月?」
誰かの声が周りに混ざり消えていく。
テープの端を指先で探りながら、再びパネルを起こす。
──そこに、もうひとつの手が伸びた。
「そっち、俺が押さえる。……テープ、こっちにも頼む」
砂藤だった。
いつもの調子より少し低く、落ち着いた声で。
夕紬は一言だけ返す。
「ありがとう」
パネルはすぐに立ち上がり、貼り直しも手際よく進んだ。
教室の喧騒がいつの間にか収まっていた。
言い争いも止まり、数人がそっと、手伝い始めていた。
背中に突き刺さる視線を夕紬は認識したが、しょうがないものとして受け入れた。
作業が終わったあと、砂藤がぽつりと呟いた。
「お前、すげーな」
「ああいう時に黙って動けるって、なかなかできねぇよ」
夕紬は少しだけ間を置いて、いつもと変わらない声と笑顔で返す。
「……そんなことないよ、担当だし。
手、空いてたから」
それっきり、会話は終わった。
夕紬は席に戻る。
夕紬にとって、それは謙遜ではない。
──気づいた人がやるべきだと、誰かが言った。
みんなの両手は、大事なものでぎゅうぎゅうに詰まって重そうだった。
けれど、私の両手には、いつも何もなかった。
だから、動くのは私の役目だと、そう覚えた。
一番先に気づくように。
一番先に動くように。
それは、“生き残るための適応”だったのかもしれない。
ユウの、深い深いところに沈んでいる記憶。
湯気の中、母の声がした。
誰が悪い、あの人がどうだ、世間がどうだ──
湯船が冷たくなるまで続くその声は、
母にとってただの“ゴミ捨て”と同じものなのだと、
幼いユウは、どこかで理解した。
──私って、ゴミ箱みたい。
そう呟いた記憶も、もう忘れてしまったのかもしれない。
けれど、行動だけが残った。
習い性のように。
火が燃えたあとに、灰だけが残るみたいに。
どれが理由なのか、ユウは覚えていないし、興味もない。
だから、求めないし、定めない。
誰に言われたわけでもない。
それでも私は、いつからか──
「そういうものだ」と自分で決めていた。
理由はずっと曖昧だ。
けれど、言語化する必要もない。
そういう存在は、そう生きる。
それだけ。
***
席に戻ればあかねとこはるが2人、バッグから取り出したお菓子を摘んでいた。
「あっ戻ってきたー」
「相変わらずきーつかいだねーおつ」
「そんなんじゃないよ、担当だからやったほうがいいかなって」
「そんなもん?」
「そんなもんだよ」
「あっ!夕紬ちゃんってさ、今日も私らと一緒じゃないんだよね?」
「そー先生に頼まれちゃって」
「あいつ夕紬に頼みすぎじゃ無い?」
「そ?まぁ他にやりたがる人いなかったみたいだからね」
「ちゃんと断りなー?」
「えー私的にはむしろ自由に動けて楽かなって思ったんだけど…」
「それはある、まぁでも全体回ってみんな撮るのは大変じゃない?」
「仕事という名目で各クラス回れるって考えればお得でしょ」
「夕紬ちゃんって、なんというかーポジティブだよね」
「わかる!何事も楽しまなきゃ損!って感じ?」
「それはあるかも」
ふたりの会話に混ざると、部屋の温度が少しずつ元に戻っていくように感じた。
「あ!!夕紬ちゃん!休憩貰ったら一緒にまわろ!」
「いいね、私2年生の出し物行きたいんだけど2人は興味ある?」
「小説モチーフの脱出ゲーム的なのだっけ?」
「私、わかるかなぁ…」
「なんとかなるって、ご飯食べて行けたら行こーよ」
「私はおっけー」
「まぁわかんなくても夕紬ちゃんいればなんとかなるか」
「ねねーご飯なに行く?」
「気早くね?」
「いーじゃん、私は1年の出してるカレーが良い!」
「あっ、それ私も行きたかったやつ、あの日向先生がタキシード来てるらしいじゃん、見るしかないって」
「わかる、日向せんせ、ビジュいいよね」
「って、2人とも担当個所行かなくていいの?
そろそろ時間やばくない?」
「あっ!本当だ」
「じゃ、時間と集合場所はチャットするわ」
「りょーかい、またね」
「ん」
2人に手を振って夕紬はカメラを持ち、教室を出た。
顔から感情がストンと落としかけた時、足音を耳にする。
この足音はクラス外の子だろう。
2人の生徒が話し合いながら駆け足でどこかへ向かっている。
道を開けて歩く夕紬に2人が気付く。
「あっ!如月さん!!」
「いま忙しい?」
呼びかけは唐突で、でも、どこか切羽詰まっていた。
問いに夕紬は優しく答える。
「いまはむしろ暇してるかな?私、写真担当だから」
カメラを見せながらそう返すと、2人は良かったと顔を輝かせる。
「まじ!?」
「違うクラスなのにこんなこと頼むのもあれなんだけど…」
「そんなこと言ってる時間ないって!如月さん、装飾担当してたよね?」
「うん」
「あのさ!うちの装飾、トラブっちゃって…
当日担当熱出ちゃったし、準備担当してた子は今日、呼び込み担当で見つかんなくてやばいの、手伝ってくれないかな?」
「マジで、お願い!うちら絵心なくて……」
夕紬は、作り慣れた笑顔を崩さないまま、二つ返事で頷く。
どこにも引っかかりのない声と表情──そのまま、ふたりの後を追った。
その刹那──夕紬のクラスから、誰かが出てきた。
視線が合ったのは、同じ装飾班の子。
「あれ?如月さん、どうしたの?」
「あー隣のクラスのお手伝い」
ふたりは、一瞬だけ目を合わせる。
けれどその“一瞬”の中で、何かを図るような静かな空気が流れた。
すぐに視線が泳ぎ、口ごもりながら声が重なる。
「あ、あの……私たちも……」
「手伝ってくれるの?」
夕紬が言葉を引き取る。
「うん……同じ班、だし……」
「ありがと」
夕紬は、柔らかな笑顔で2人に感謝を紡ぐ。
そして、ほんの一瞬だけ口元を吊り上げるようにして、ニヒルに続けた。
「じゃ、うちら装飾班、三人レンタルってことで──ジュースでも奢らせなきゃね」
そのひと言は、さりげなく場の緊張をほぐす“仕掛け”だった。
ふたりはぽかんとした顔が、少しだけほどける。
冗談だと気づいたのか、どちらからともなく笑いがこぼれた。
「ふふっ」
「確かに」
「私、オレンジがいいな〜」
2人は笑顔を浮かべながら夕紬の後を追う。そこには緊張も、距離もなくなっていた。
誰も、それを不自然だとは思わなかった。
夕紬の擬態は今日も寸分のズレなく、空気に溶けていた。