文化祭から数日後の放課後、教室。
皆が教室を後にし、日直の夕紬と彼以外誰もいなかった。
カーテンが風に揺れ、夕日が机の上に長い影を落としている。
日誌を挟んで2人、適当な椅子に腰を下ろしていた。
何を記載するか、雑談混じりに会話は進む。
椅子を引く音がして、夕紬は手を止めた。
「……俺、如月さんのこと好き、です」
高田くんの声だった。
よく通る声。けれど、今はどこか緊張で滲んでいた。
夕紬の体が硬直する。
……今、彼はなんて言った?
言葉の意味を、すぐに理解できなかった。
何に対しての“好き”なのか、彼女には数秒、理解が追いつかなかった。
その“好き”が、誰に向けられたものなのか。
何を見て、何を思って、どうして口にされたのか。
彼女にとっての予想外。
そういった枠組みに、夕紬は自分をカウントしなかった。
それは、彼女にとってまるで──
水に石が沈むように。
夏に蝉が鳴くように。
抗うことすら考えない必然であり、
同時に、ただ“そういう存在”という認識だった。
だから、顔を上げられなかった。
固まった体の奥で、息が詰まる。
頭のどこかが“止まってしまった”みたいに。
「如月さん?」
声に、ゆっくり思考が戻る。
そっと顔をあげれば意識せずとも微笑が生まれた。
「……ありがとう。でも、ごめんね」
断る言葉は、慣れていた。
でも、このときだけは、胸の奥が軋んだ。
少し息を吸ってから、夕紬は顔を上げる。
「…ひとつだけ教えて欲しいな。
どうして、私だったの?」
“私は何を間違っていたの?”
静かに、けれど彼の目を見て確かに問うた。
“答えを欲している”のではなく、“答えが欲しくない”からこその問いだった。
彼は恥ずかしそうに目線を逸らし、頬を指先でかきながら思いのたけを伝える。
「ずっときになっててさ…ほら、如月さんみんなの気付かないこと気づくし、優しい、じゃん。
でさ、文化祭でも頑張ってるの見て……自分を持ってて強いなって……」
言葉に詰まった彼は一瞬目を瞑ったが、顔を上げた。
あぁ、その目は、その目だけは、辞めてほしかった。
「──俺もそうなりたいって思ったんだ」
そう返された言葉は、まっすぐで、嘘がなかった。
あこがれ、尊敬、一生自分に向けられることがないと思っていたものたち。
私はそんな大層な人じゃないよ。
私は、
ただ、必要だったから。
そうしただけなんだ。
──あぁ、そうか。そうだよね。この人にとって、それが“私”だったんだ。
当然のこと。
理解しているつもりだった。
今になってやっとその事実を、本当の意味で理解した。
「俺も、理由……聞いていい?」
沈黙を恐れず返された問いに、夕紬は少しだけ目を伏せる。
「……あまりそういうこと、考えた事なくて。」
声はやわらかい。いつも通りの笑顔の声。
けれど、目の奥まで作りきれる気がしなくて目を細めた。
──誰かに、選ばれた、なんて。
そんなこと、あるはずがない。
この人の“好き”が本物ならば、
私はこの生き方で──それを汚した。
学校で、この場で──いや、ユウが生きていく上で何かを望むことはない。
“好き”なんて貰えない。受け取れない。
向けられちゃだめだろう。
私は何も返せない。
私は、誰かの好意が向けられるようなものじゃない。
だって、今まで一度も、そんなふうに──
そこで思考を止める。
まだ、相手が答えを待っている。
ちゃんと、答えなきゃ。
「……ごめんね。進学とか考えること多いし、今は難しいかなって思っちゃった」
その声に、悲しみは込められなかった。
けれど意図せずとも動揺はあったのかもしれない、それらしい薄さを乗せた声。
たぶんそれは、自分の輪郭をこれ以上削られないための、無意識の防波堤だった。
「……ううん。こっちこそ、なんか…ごめん。
でも、伝えられてよかった」
高田くんは、無理に笑おうとしていた。
その笑顔を見て、息が詰まりそうだった。
──私はいま、誰かを傷付けたのだろうか。
「……そんなことないよ、伝えてくれてありがとう」
なんとか笑顔を作る。
彼の中になにも残らないように、いつか消える記憶として滞らないように。
けれど微笑みに包まれたまなざしは、誰にも向けられていない。
日直の仕事を終え、2人で帰ることはなかった。
彼は気まずさに耐えきれなかったのか、先に帰っていた。
下駄箱を過ぎて、校舎の裏回る。
生徒が部活動に励む声が遠く、遠くから聞こえる。
限界だった。
これ以上は繕えない。
人気のない場所。
夕日の差さない影の中。
体が冷えて行くのを感じながら、
ユウは、しゃがみ込んだ。
落ち葉が一枚、風に流れていく。
ゆっくりと、膝を抱える。
けれど、泣かない。
涙は、生まれたからずっと出ないから。
うるさいぐらいに思考がこだまする。
──私はそういう存在じゃない。
それはかつて思い込みや、刷り込みだったのかも知れない。
でも、いまの彼女にとってはただの事実。
なのに、それが覆された。
……あり得ない。
だけど、この生き方を続けていれば、きっと、また起きてしまう。
だからこれは、再確認。
私がこう生きるならば、“周りにとって本当で、事実”になる。
そう理解して、それでも生きていかなければ。
しゃがみ込んだまま、指先がかすかに動いた。
「……感情だけ、浮かそう」
呟いた声は、自分にも聞こえないほど小さかった。
指は動かない。
気付けば、震えは体に伝播していた。
記憶も、対処も、あとまわしでいい。
だって──そうでもしないと、立ち上がることすら、できないから。
***
生きていく中で覚えた術。
それが、“記憶の管理”だった。
いるものと、いらないものをユウが自分で決める。
そうすれば、生活を続けられた。
いままで一度も破綻はなかった。
けれど──
でも一度切り替わってしまった思考はそう簡単に戻せなかった。
ふとした時に、言葉の意味を考えてしまうようになった。
理由も対策もまだ、ユウにはわからない。
その週の金曜日、放課後。
教室に残っていたのは、担任と手伝いを頼まれた夕紬の二人だけ。
窓の外はまだ明るい。夕焼けには少し早い時刻。
職員室へ戻ろうとした担任が、ふと夕紬を目に留めた。
「如月さん」
にこりとした顔で、教師が話しかける。
夕紬もすぐに完璧な笑顔で、それに応じた。
「はい、先生」
「……ああいや、なんてことないんだ。ただ、少し思っただけで」
教師は教室の扉の前に立ったまま、何気なく口にした。
「如月さんは、本当に“良いお家”に引き取られて……良かったね。
ヒーローに、だなんて……すごいよ。
君の努力が、実を結んだんだと思うよ」
その声は、どこか労わるような響きを帯びていた。
教師は──夕紬が施設からヒーローに引き取られたことだけは、知っている。
たぶん、善意だった。
だから──言わずにはいられなかったのだろう。
夕紬は、そんな気配を感じていた。
言葉の意味はすぐに理解できた。
けれど、何かが胸の奥をかすめた。
夕紬の顔は、変わらなかった。
変わらない、はずだった。
一瞬、何を返せばいいのかわからなくなった。
向けられた言葉は優しさでできているのに、夕紬の一番柔らかいところを撫でた。
それでも、言葉は口から自然に出た。
「……そうですね、ありがとうございます」
声は穏やかで、表情も乱れていない。
だけど、
胸の辺りがぎゅっと縮まり、息が詰まった。
教師は気づかない。
本当に、ただの励ましなのだろう。
教師は言葉を続ける。
「努力は報われるものだって、生徒には信じてほしいからね。
……先生は、君のような子を、なんていうか、応援したくなるよ。
お手伝いありがとう、気を付けて帰ってね」
そう言って、教師は笑って扉に手をかけ、教室を後にした。
夕紬はその後ろ姿にお辞儀をする。
──カツン、と靴音が遠ざかっていく。
教室に、ユウがひとり。
顔を上げても、その仮面は、まだ完璧だった。
笑顔のまま、誰にも気づかせないまま、
彼女はそっと窓の外を、空を見上げた。
(努力……?)
昼の終わりは、淡く美しかった。
でも、それを美しいと記憶する人は、ここにはいない。
胸の奥の、鈍い何かが軋んだ。
(わたしが、頑張ったから手にはいったもの?)
そういう考えもあるのかと飲み込みかけた時。
(努力すれば、報われる……?)
思考が琴線に触れた。
そこに触れちゃいけない。
思考の中に、小さな警報が鳴った。
でも──止められなかった。
(わたしが、ほんとうに、ほしかった、もの――?)
いつか見た、あたたかい記憶。
いつだか抱いた、憧れ。
すべてを塗り潰す、両手に広がる赤。
幻覚だ。
わかってる。
なのに、指先がかすかに震える。
後悔はない。過ちだとしてもあれを選んだのは私だから。
けれどそれは今の生活にあってはいけないもの。
だから、記憶の中に、それを押し込めた。
そうすればすぐに収まるから。
窓ガラスに映った笑顔の自分が、
──とても嘘くさくて、
──とても、完成された誰かだった。
***
部屋の中は、いつもと変わらないはずだった。
窓の隙間から忍び込む風の冷たさが肌をなでる。
暖房の効いた室内に、乾いた冬の匂いがゆっくりと混じる。
ゲームの中で繰り返される銃声と爆発音だけが、世界の輪郭をなぞっていた。
けれど──何かが、違っていた。
週に一度だった訪問が、週に二度になり、気づけば三度になった。
あのガキは、いつからそんな顔をするようになった?
あんなに無表情だったのに、
最近は少しだけ、目を細めることがある。
ページをめくる音が、妙に不規則だと気づいたのは、いつからだったか。
前はただの雑音だったのに。
今は──
死柄木は、ゲームの中でキャラクターが爆発に巻き込まれるのを見ながら、
無意識にコントローラーを強く握った。
「……お前、ヒマなのか」
ふいに、声が出た。
隣で本を読んでいたユウが、ゆっくりとページを閉じる。
そして、小さく頷いた。
「……そうかも」
それだけだった。
何の含みも、説明もない。
ただ、そう言って、何の言葉も続かない。
だからこそ、苛立った。
「……バカじゃねぇの」
呟くように言って、再びゲームに目を戻す。
けれど、指先の力加減がうまくいかず、銃を外した。
敵が画面の外へ逃げる。
「チッ……」
舌打ちをしたあと、何も言えなくなった彼は、ゲームのボリュームを無造作に大きくした。
画面から視界を離したとき、
机の端に、チョコの包み紙がひとつ置かれていたことに気付く。
今日もまた。
それが余計に、むかつく。
なんであんなこと、言ったんだ?
集中できなかっただけ。
でも、それは──
気づけば、ユウの姿がない。
いつものように、黒霧が彼女を連れ帰ったのだろう。
ドアの隙間を通って、微かに黒霧の声が死柄木の耳に届く。
続いて、ユウの声も。
言葉の意味は聞き取れなかった。
それから、しばらくして──音が消えた。
あのガキが何を思ってここに来るのか。
“最近見せる知らない顔”が、なに向けたものか。
それが気になる時点で──
自分の中に、“他人の声”が入り込んでる気がした。
まるで、あのページをめくる音みたいに。
どこまでも静かに、
でも確かに、侵食してくる。
死柄木は、もう一度ゲームを始めた。
何度も同じ敵を倒す。
でも、スコアは伸びなかった。
指先が、何かを探しているように、落ち着かない。
感情か、答えか、それが何か彼にはわからない。知ろうとしない。
「……意味なんてねぇだろ」
なんで、あいつの足音が耳に残る。
かすれるような声で、ひとりごと。
その声もまた、冬の空気に溶けていく。
***
なんで、私はあそこに行くんだっけ。
彼に問われた疑問が頭から消えない。
回数が増えたのは迎えが来るからだっけ。
自発的に要求した覚えは、ない。
でも、不要なら断れば良いだけ。
なのに……なんで、私はそうしない?
私が彼に会いに行く理由なんて、
──彼がどう生きて、終わるのか。見たいだけだ。
参考に、したいだけ。
なら、今の頻度は──いらないはずだ。
ゲートを開く黒霧にユウは声をかけた。
「最近よく、来てくれますね」
「そうでしょうか。ご迷惑でしたか?」
黒霧の言葉にユウはかぶりを振った。
「いいえ。でも、もう大丈夫です」
「かしこまりました」
言葉の響きが、まるで録音されたもののように無機質だった。
ユウは何も言わず、目の前の歪んだ靄へと、静かに足を運ぶ。
彼の意思か。誰かの命令か。
わからない──でも、わかる必要もない。
それは、自分に関係あることでも、意味のないことだったから。
***
目の前に開いた黒霧にユウは、黙って身をゆだねる。
慣れた動作。何も言わず、何も訊かず。
ただ、煙の縁を踏むようにして一歩、足を踏み出す。
視界が揺れ、空間を包む鈍い音だけが、耳の奥に残った。
──次の瞬間、
靴裏がコンクリートを踏む乾いた音がした。
風が吹いていた。空が近い。
それが、いつもとは違う場所だと教えてくる。
ユウは、目を細めて周囲を見渡す。
高層ビルの屋上。
人気はなく、フェンスの向こうには遠く街の灯りが瞬いていた。
照明はない。
夕暮れの残滓と、ビルの反射光だけが周囲を照らしている。
「……千響夕紬」
静かな声だった。
彼にそう呼ばれたのは初めてかもしれない。
どこか、普段よりも少し、感情が乗っているようにも思えた。
ユウは振り向かずに立ち止まる。
次に来る言葉を、なんとなく予想していたから。
「あなたに──“監視”をお願いしたいのです」
……思ったより大変そう。
でも、予想通りのお願い。
ユウは意味もなく、瞼を閉じた。
「あなたには、雄英高校、ヒーロー科に入学していただきたいのです。
現在のあなたは本来……表向きはヒーローの保護下に置かれ、敵と断絶した存在です。
だからこそ、あなたには、“監視”と“報告”を任せたい。」
「…………」
たぶん、それだけが理由ではないと、勘が告げている。
けれど、ユウには問う意味もない。
「あなたにはできます。
誰よりも他者を演じてきたあなたなら──適役です」
断ずるその言葉に、ユウはふっと笑った。
でもそれは、皮肉ではなく、どこかで安心したような表情だった。
張り詰めた空気に似合わず、まるで舞うように振り返る。
「最初から、そういう予定だったんでしょ」
「……はい。ですが、選ぶのはあなたです。
……そして、これは私の意思ではなく、──死柄木弔のものでもありません」
ユウの瞳が揺れる。
それは、黒霧の優しさ…ではないかもしれないが気遣いが乗っていた。
少しの、予想外。
「──そう。じゃあ、断る理由、ないね」
声は温度があった。故に微笑みもいつもより淡く。
どこか穏やかさすらある事に、彼女だけは気付かなかった。
それが承諾の返事だと理解した黒霧は、深く一礼した。
「必要になるものは、近日中にお渡しします。
また、指示は必要最低限。
行動の判断は、すべてあなたに任されます」
「わかった」
口にするか、一瞬の迷いを孕んだ。
「ありがとう、ね」
けれどユウは微笑みと共に、胸の内に浮かんだ言葉をなぞった。
「……」
黒霧は珍しく言葉を飲んだ。
ユウは反応をうかがうこともなく、踵を翻し、ビル外周──光の方へ歩き出す。
……でも、数歩で立ち止まった。
「……ねぇ」
「…? はい」
「どうやって、帰ればいいかな?」
振り向かずに問う声に、黒霧は一拍の沈黙のあと、
少しだけ申し訳なさそうに体のモヤを展開する。
そして、ふたたび黒い靄を開く。
「……失礼しました」
ユウは、肩の力を抜いて、ぽつりと返す。
「……だよね」
足音もなく、黒霧のもとへ戻っていく。
一歩踏み出すと、コツと固いコンクリートの感覚が足に帰る。
風でふわりと髪が躍る。
空を瞬く星は眩しい。
私の人生に、たまに顔を出す“誰か”。
私を便利なものにしたいのか、観察したいのか、奇妙な物好き。
ずっと、片鱗しか見えなかったその“影”が、ようやく輪郭を持った気がした。
生まれは間違いだった。
育ちも、たぶん間違っていた。
間違いだらけの人生。
だからこそ、どう終わるか正しく、きれいに終わるかを考えている──
でも、私の体も、環境も、少しずつ変えてきた“誰か”がいたのなら、
ほんの、少しくらい、
その人のせいにしても……いいのかもしれない。
私はあの日からどこか歯車から外れたのだと思う。
そんなものに興味を示す人は、きっと、彼の──
……まあ、いいっか。
体も意志も、今はその人が好きにしていい。
私をどう使うかは、そっちの勝手で構わない。
でも、
どう終わるかは、私が決める。
──なんてね。
生まれてから今まで、私の人生に、選択に“正解”なんてなかった。
誰かを言い訳にするのは、お門違いだ。
それでも足取りが、すこしだけ、軽くなる。
罪がひとつ、消えたような気がした。
***
ヒーローサイレンの個人事務所。
無機質な受付を抜けた先、ひとつだけ灯りのついた部屋があった。
ドアの前で立ち止まり、ノックはして──
「入れ」
夕紬は静かに扉を開けた。
先に中にいた如月漣が、ファイルから目を離さない。
部屋の中には、整理されたデスクと、黒を基調とした家具。
壁に掛けられた業績証明の盾が、光を吸ったまま沈黙している。
夕紬は制服のまま、応接用の椅子に腰かけた。
姿勢は崩さない。目線は程よく。呼吸のリズムも変えない。
「進路希望について、最終確認だ」
「はい。内容に変わりはありません」
漣はデスクに置かれた書類を一枚めくる。
ページの角が擦れる音だけが、室内に小さく響いた。
「“雄英高校・ヒーロー科”──第一志望、理由は“個性の正しい運用を学ぶため”」
「……妥当な記述だ」
夕紬は何も返さず彼の目を見る。
漣もすぐには続きを話さない。
沈黙は、この空間において“乱れではない”。
やがて──
「社会で生きるには、“個性”を“制度の下で許容されたもの”に変換する必要がある。
過去の記録がどうあれ、“修正された”という経緯が、他者を納得させる
──適切な判断だ」
夕紬が言葉を肯定するようにまぶたを、わずかに伏せる。
「“なるべきもの”としてその進路を選んだのなら──それは、構造的な自律とみなす。
自己裁定の形として、提出は受理しておく」
ペンが小さな音で署名欄をなぞる。
「ヒーロー科での生活には、表情、会話、行動──
あらゆる感情の管理が求められる。
だが君は、それを“求められるまま遂行できる側の人間”だ」
夕紬は小さく「はい」とだけ返した。
それが同意か否かかも、わからなくとも、漣はそれ以上の返答を求めなかった。
互いに何も踏み込まない。
でも、互いに“わかっていないわけではない”。
互いが互いに、求める形を。
それが──この二人の距離だった。
***
そうして夕紬の進路は決まっていた。
けれど、学校でも形式的な確認は取られる。
教室の窓から秋の光が射し込み、淡く埃を照らしている。
簡易な三人がけの机に、資料が数枚、綺麗にまとめて置かれていた。
「じゃあ……進路面談、始めますね」
担任の教師が少し緊張気味に微笑むと、
夕紬は制服のまま、背筋を伸ばして丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いします、先生」
その声には、よどみも曇りもない。
明るすぎず、静かすぎず──教える立場の者にとっては、理想的な応対だった。
教師は進路調査票に目を落とす。
「ええと、第一志望は“雄英高校・ヒーロー科”で、合ってますか?」
「はい。難しい、ですかね?」
「そんなことないよ、夕紬さんなら平気だと思う。
ただ、入ってからも大変だと聞くよ平気かい?」
「…覚悟の上です。
それに、私には、漣さんがいますから」
完璧な笑顔。
言葉遣いも申し分ないけれど、有無を言わさぬ気配をにじませる。
そして、どこか緊張しているような仕草すら、他人に安心感を与える“人懐こさ”に見えた。
教師は頷きながら、ちらりと隣の如月に目を向ける。
スーツの男は、無表情のまま書類に目を落とし──
「本人の選択に異議はありません。保護者として可能な限りサポートします」
それだけを、抑揚なく言った。
「なるほど……現役ヒーローのサポートは確かに頼もしいね。
うん、夕紬さんなら大丈夫だと思いますよ。
成績も安定してるし、生活態度も申し分ないし……正直、我が校で安心して送り出せる数少ない生徒の一人です」
「ありがとうございます。ご期待に添えるよう頑張ります」
夕紬はふわりと笑い、少しだけ首を傾ける。
“可愛げ”として評価されることを、彼女はよく知っていた。
「あ、でも……何か心配なこととか、不安なこととか、あったりしますか?」
声色は柔らかく、けれど“優等生には届きにくい質問”だった。
夕紬は、にこりと微笑んだまま首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。……あっでも何かあったら相談させてもらっていいですか?」
その返答も、ほんの一拍、遅れすらも、あまりにも自然で、整っていて──
“そう答えるように組み立てた何か”を隠しきっていた。
「ええ、もちろんです」
そう微笑む教師は“役目を果たした”という感覚を与えられていることにも、“綺麗に処理された”ような感触すら気付かない。
「ありがとうございます」
資料の確認も終わり、面談はほぼ形式通りに終わった。
「じゃあ、この内容で進めさせていただきます。もし、何か変更があったら連絡ください」
「はい。ありがとうございました」
「貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。今後も夕紬をお願いします」
漣の声には、抑揚がなかった。
それは“感謝”ではなく、“終了”を告げる音。
夕紬は再び、丁寧に頭を下げて教室を出た。
一礼の角度も、動作の速度も、すべてが“模範的な生徒”だった。
だから、その背中に、揺れのひとつもなかった。
廊下の先に彼女の背が消えてから──
担任はようやく、ため息をついた。
(……本当に“いい子”だな。
むしろいい子過ぎてちょっと……)
でも、言葉にはしなかった。
そういう子なのだろう。
だって、本当に“何も問題がなかった”のだから。
書類を閉じる音だけが、妙に静かだった。
***
バタンとロッカーの扉を閉める。
袖を通したジャージはまだ肌になじまない。
夕紬は周りに合わせて歩き出す。
……受かるために来た。
ヒーローに引き取られた、ヒーロー志望の少女として。
誰かに憧れてでも。
誰かに褒められるためでもなく。
ただ、“必要”だから。
人より記憶力が良い彼女が、筆記で落ちる理由はない。
きっと、実技もたやすいだろう。
それだけの知識が埋め込まれ、経験が刻まれている。
“個性”も演技も、そのすべてが──このためにあるのだとそんな気がした。
更衣室のドアをくぐる足取りは、静かだった。
透明なガラス壁に、普段通りの自分の顔が映った。
けれど目は──“通過点”を見るようだった。
一度瞬きをして、瞳に乗せる感情を意識する。
そうすれば、正しい顔になる。
今思えば、説明会でプレゼント・マイクを見た時の反応は褒められたものじゃない。
閉じてあった本が、風に煽られてページをめくられるように。
しまっていたはずのその一枚が、ふいに光に晒されたようで──
胸の奥が、ひどくざわついた。
それはもう、いらないもの。
少なくとも今は足枷でしかない。
だから夕紬はまた、記憶を浮かせておく。
「A会場はこちら」
案内されるままに、会場へ着くと──見覚えのある金髪を見つける。
(……あ)
夕紬のまつ毛がかすかに揺れる。
小学生以来だろうか、やる気に満ちた顔はあの頃から変わらない。
でも、話しかけることはない。必要もない。
「はい、スタート!!」
プレゼント・マイクの声が響いた瞬間、空気が一変する。
走り出したのは、ごく一部の生徒だけだった。
その中には、懐かしい彼の姿もあった。
「どうした! 実戦にカウントなんざねぇんだよ! 賽は投げられてんぞ!」
あわてて動き出す人々の波にまぎれながら、夕紬は焦らず歩みを進めた。
人混みの合間でふと横道に逸れる。
目の前の信号機に手をかざす。
「……3ポイント」
仮想敵が、信号機の支柱に串刺しになったまま、ぎこちなく痙攣して──それきり動かなくなる。
ある程度呼び出したら歩き出す。
敵の数が疎になる様に。ほかの誰かの邪魔をしないように。
呼び出すだけの、ただそれだけの作業を、淡々と繰り返す。
時たま、危ない生徒を見かければ、助ける。
また、歩き出す。
その足取りはきっと散歩と大差ない。
足を止めたのは眩しさからだった。
角を曲がると共に視界の奥で閃光と爆発音。
反射的に彼が目に入ってしまった。
そして、彼が壊そうとする仮想敵も。
「……“2ポイント”」
ミスと気づくと同時に声が飛んできた。
「テメェ、俺のポイント取ってんじゃねぇぞ!!」
鋭い怒声。
荒々しい反応に、夕紬は眉を下げて申し訳なさそうな顔を作る。
「ごめん、わざとじゃ無いんだ。
ほら、“3ポイント”、これあげるから許して」
一瞬、爆豪が目を見開く。
「施しなんか受けるかよ!!」
けれど文句を言いながらも、きちんとそれを破壊して去っていった。
軽く手を振って、夕紬も歩き出す。
別れたのは、10年も前。多分彼は気付いていない。
それで良い。
──歩き出したとき、ほんの一瞬、視線を感じた気がした。
誰もが、すぐに通り過ぎていくのに──その視線だけが、妙に長く残った。
「……なんだ、あれ」
誰かの声。
ふと目をやれば、紫の髪の少年が立ち尽くしていた。
記憶を探る。
“個性”を使った場面は──なかった気がする。
きっと、対人に有利な能力。あるいは──
「あぁ、そっか」
そう呟いて、夕紬は敵を突き刺した街灯に目をやる。
さっきの続きを演じるように笑顔をつくって、小さく手を振った。
「ごめんね。気味悪かった、よね」
けれど、その声は、演技ではなく反射だった。
「“2ポイント”」
「“脚部”」
目の前に現れた機械が二言目で崩れる。
驚いて目を丸くする彼は、けれど納得といった顔をしていた。
夕紬はもう一度だけ手を振って、歩き出す。
(彼も、ヒーローに憧れてるのかな)
多くの人間が、憧れや願いを抱いてヒーローを目指す。
それが下世話なものでも、高貴なものでも、
夕紬にとっては、どれも等しく、尊重されるべきものだった。
彼女の思考を遮るように、地面が震える。
巨大な機体が、どこからともなく現れ、空を覆い隠す。
一歩ごとに地面が揺れ、周囲の人々が押し合い、逃げ惑う。
夕紬は、それをただ見ていた。
そのとき──転ぶ少女の姿が、視界に入る。
これは試験だ。
あのゼロポイントは雄英の制御下に置かれている。
本当に誰かを踏み潰すことは、ないのだろう。
けれど、それを放置するのは──ヒーローではない。
「“君”」
自分だけが聞こえる声で、呟く。
それだけで転んだ女子は夕紬のそばに転送される。
そして、二次被害を生まないように巨大な機体を夕紬は見据えた。
視界に収まらない、大きい。
だからあの力に頼る。
一瞬、膨大な視界情報が脳裏をかける。
補強箇所、稼働軸、支柱──
じわっと脳が熱くなった気がした。
「“ネジ”」
呼ぶべき部品の名を、総じて呟いた。
次の瞬間。
無数のネジが音もなく目の前に出現し、足元に転がる。
数にして63。それをいま、ここで把握している者は、世界でひとり。
カラカラと床を転がるその微かな連なりは、地鳴りの前触れのようだった。
巨大な機体が、一拍遅れて、
音を立てて崩れ落ちる。
支えを失った鉄骨が、静かに──そして確実に膝を折る。
さっきまでの喧騒が嘘のような静寂。
夕紬が少女のそばに歩み寄る足音が妙に響いた。
「……怪我、ない?」
静かに問いかけた声に、
少女は声を出さなかった。
ただ目を見開いたまま、こくこくと頷くだけだった。
夕紬はそれを見て、頷き返す。
「……良かった」
そう言って、笑顔を深くした。
まるで感情の“正解”をなぞるように。
振り返ると、さっきまで逃げていた生徒たちが、
いつのまにか、彼女を見ていた。
表情は、まちまちだった。
──畏れか、憧れか、ただの驚きか。
けれど夕紬には、それがどれなのか、わからない。
というより、どうでもよかった。
(……こういう時、どう振る舞うのが“正解”だったっけ)
思考がわずかに曇る。
“個性”の負荷だ。一度に63個も呼び出したのは──、いつぶりだったか。
でも、“ヒーローらしく”振る舞うなら。
恐怖ではなく、歓喜に変えなきゃいけない。
だから──
“こういうときは、たぶんこうするものだ”と、夕紬は笑って、ピースサインを掲げた。
わずかな沈黙ののち、
「……やば」
「かっこよ……」
「あれ、何者……」
とつぶやく声が飛ぶ。
拍手が起きることはなかったが、
どこか場が収まり、誰もそれを否定しなかった。
「受験、終了!!」
マイクの声が空気を割いた。
だが、夕紬は足を止めなかった。
静かに、付近でうずくまる生徒へと歩み寄る。
小さく声をかけ、怪我の有無を確認し、
救急ロボを呼び出す。
試験の終わりは、彼女を止めない。
ユウにとって“ヒーローらしさ”とは、
評価でも、勝敗でもないからだ。