ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

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過去編最終話です。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。







11話 落とし物

 

 

 

 

 

それは少し時間を遡った、秋の終わりの昼休み。

進路を考えるクラスメイトたちの、落ち着かない気配が教室に漂っている。

 

その喧騒から少し離れた、教室の隅。

 

窓際の二列目。

 

夕紬はいつも通り、こはるとあかねのふたりと共に、弁当を広げ、会話を交わしていた。

 

 

“いつも通り”──そのはずだった。

 

 

けれど、近くにいた砂藤は、なんとなく、そんな気配を感じていた。

表情も、声も、仕草も、変えぬまま。

でも目の奥に、ほんのわずかだけ、疲れが見えた気がした。

 

理由は聞かない。聞いたところで、たぶん教えてはくれない。

だから彼は、彼なりのやり方で、気遣うように一歩だけ近づいた。

 

「なぁ如月」

 

声をかけたとき、彼女はゆっくり顔を上げた。

 

「……どうしたの?砂藤くん」

 

「よかったらこれ食ってみてくれねぇ?

 甘さ控えめのチーズクッキー。

 三人で食べて、感想くれねぇか?」

 

そう言って、小さめのタッパーを開いて差し出す。

食欲を誘う香りのそれへ、こはるとあかねの二人は既に手を伸ばしていた。

 

「いただきー!」

「サンキュー、砂藤ってほんと、女子力高いよね」

 

夕紬は、ほんの一瞬、迷ったように瞬きをしてから受け取る。

 

 

「……ありがとう。私もいただくね」

 

 

何気なく。

ひとつ摘まむ。

 

そして。

 

ぽとり、と一口。

 

 

彼女はふと笑った。

 

言葉より先に、笑った。

その笑みは、ごく小さく、短く、でも──いつもより穏やかだった。

 

「……これ、好きかも」

 

言ったあとで、彼女自身が気づいた。

自分の声が、いつもより素に近すぎたことに。

 

夕紬はすぐに笑顔を“整え直して”続けた。

 

「美味しいね。」

 

そして、砂藤が自分を見つめていたことに気付く。

 

 

「……どうしたの?なんか、変だったかな?」

 

 

その声には、少しだけ戸惑いが混じっていた。

 

でも、砂藤はただ、笑った。

まるで、誰にも見せない秘密をもらったような顔で。

 

 

「いや、めっちゃいい笑顔だった。

うん、俺の勝ちだな!」

 

「なにそれ、夕紬なんか賭けでもしてたの?」 

 

 

勝負なんて、してたっけ…?

夕紬の手は少しだけ止まった。

 

そんな疑問も湧いたが彼があまりに良い顔で笑うから、なにも聞けなかった。

……聞かないほうがいい気がした。

 

代わりにもう一度クッキーを齧る。

 

ふたりが砂藤に詰め寄るが、彼は何も答えなかった。

代わりに困ったように笑いながら、そっとその場を離れていった。

 

 

「前からおもってたけど、夕紬と砂藤くん仲良くない?」

「それ、私も思ってた」

 

ふたりは獲物を変えたように夕紬を見据える。

 

「そんなんじゃないよ。

 それに砂藤くんはいつも、みんなにお菓子配ってるじゃん」

 

「夕紬って、自分のことになると鈍いよねぇ」

 

「わかる!マシになってきただけど、この前も駅前のカフェ行った時もさ──」

 

 

ふたりとの会話を困り顔で夕紬は相槌をうつ。

三人でチーズクッキーを摘まみながら昼休みは過ぎ、教室の喧騒に溶けていく。

 

 

 

けれど──

 

「ヒーローになるより、ああいう笑顔を見るほうが、俺には合ってんのかもな」

「あいつが今、ちょっとでも軽くなったなら、それでいいんじゃねーか」

「ヒーローって、戦うことだけじゃ、ねーよな」

 

 

そう思った少年の決意は、誰にも話されることはなかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

ある日、黒霧がユウの部屋に“直接”現れた。

いつもはただゲートが開かれるだけ──でも、その日は違っていた。

 

エアコンの暖房だけが低く鳴る、冬の部屋に訪れた突然の来訪者。

 

 

けれど、彼女は動揺も見せずに静かにソファに腰を下ろしたまま、本を閉じるだけ。

 

 

「お渡ししておきます。これを」

 

 

そう言って、彼は光沢のない硬質な黒いケースを

ユウの目の前、手元へとゲートを通し、差し出した。

 

黒霧を一瞥することなくユウは箱を手に取る。

 

中身を開くと異なる形のピアスが一つずつ。

リングピアスと、スタッドピアス。

 

 

「リングのピアスは起動すれば私が迎えに伺います。

 もう片方は予備だそうです」

 

ユウはそれを受け取ると、少しだけまばたきをして、うなずいた。

 

「了解」

 

ピアスの穴を開けることも、使い方も、位置情報の発信なのか。

それとも、何か他の機能が含まれているのかも──彼女は何も尋ねなかった。

 

「それと、端末をお貸しいただけますか?」

 

ユウは顔を上げ、返事の代わりに端末を彼のゲートへ差し出す。

黒霧は端末の充電口に何かを差して、数十秒後、ユウに差し出した。

 

「端末の連絡ツールに、我々への連絡先を追加いたしました。

必要に応じ、お使いください」

 

こくりと頷き端末を開く。

 

画面には変化がないように見えたが、よく使うチャットツールを開くと、見慣れぬ連絡先が2つ追加されていた。

 

名前は空欄。

 

音を立てて、チャットに新規メッセージ。

 

 

黒霧は確認を終えたとでも言うように、自分の背後に大きなワープゲートを開いた。

 

ユウが端末から顔を挙げる。

見送る言葉すらないが、黒霧は問うた。

 

「……迷いは、ないのですか?」

 

ユウは黙って、ただ質問の主を見た。

黒霧の瞳は人と違った形をしてる。

だからだろうか、その内心を読み取るのをユウは苦手としていた。

 

その感情は何だろう。

嫌悪?心配?理解できないものを見る目?どれも違う気がする。

 

…たぶん、彼を気にかけているのだろうか。

それか、私が裏切らないか。

期待通りの動きをするか気にしてる。

 

 

わからない。

けれど、やっぱり──私の行動に意味を見出す必要も、この人が責任を負うべき理由も、たぶんない。

 

 

だからユウは少しだけ笑った。

 

 

「これは私の意思じゃない。

 けど──あの人のものでも、ないよ」

 

 

黒霧は少しだけ考えるように動きを止めて、ユウに深々と頭を下げて見せた。

 

見慣れたゲートがゆっくり閉じられる。

ユウは靄が消えるまで、静かに彼の背中を見つめた。

 

そして、彼の痕跡が空気に溶けると黒い箱を机に置き、ソファから立つ。

 

財布と端末だけを持ち、夜の街に向かう。

必要なものを、ひとつだけ買うために。

 

足音だけが、静かに床を打っていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

死柄木は持ち運び型のゲーム機を手にソファに寝そべっていた。

そして、黒霧の帰宅に気づく。

 

あいつの足音は──ない。

 

 

(……来ねぇのが普通だろ)

 

 

そう内心で呟いて、指先でスティックを回す。

でも、なぜかタイミングがずれてた。

敵が画面の外へ逃げる。

 

 

舌打ちが漏れる。

 

 

机の隅に視線がいく。

当然なにもない。

 

 

それが普通だ。

 

 

……また来るとか、思ってねぇ

 

 

けれど、ゲームの効果音以外ない静寂がどこか気に障る。

 

 

 

死柄木は口の中で何かを言葉を探りかけて、

 

やめた。

 

 

言葉にすればもっと苛立ちが募る。

 

そんな気がした。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

冬の夕方。冷たい空気に街灯の光が滲んでいた。

マンション前の来客用スペースへ、一台の車が静かに滑り込む。

 

 

少しして──助手席のドアが開く。

制服の上にコートを羽織った夕紬が、静かに乗り込んだ。

すぐに姿勢よく座り、フロントガラスを見つめるだけ。

挨拶はない。けれど、それは形式的な無言だった。

 

 

運転席の男もまた、何も言わず、窓の外に目をやっている。

 

 

「……合格通知は、確認済みだ」

 

 

漣の声は、変わらず低い。

 

 

「条件に合致する適切な物件を三件用意した。全て、通学圏内」

「生活インフラ、治安、移動経路。基準は最低限を満たしている」

 

 

引っ越すことが決まっていたらしい。

 

こちらを見ずに差し出された数枚の資料を受け取り、夕紬は頷いた。

それは返事というよりも、“了解”という仕草。

すべての資料を一瞥して、指をさす。

 

 

「こちらでお願いします」

 

 

選んだのは、一番通学時間が短いが他に比べて少し古いアパート。

その資料を一番上に置き、漣に返す。

 

 

「承知した」

「入居は三月末。生活に必要な設備は手配しおく」

 

 

夕紬はほんのわずかに視線を落として、体を漣の方へ向ける。

それから、言葉を探すように口を開いた。

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

夕紬は言葉と共に頭を下げる。

その耳元がきらりと光った。

 

如月漣は視界の端で光ったそれを視線で追った。

 

夕紬は一拍、視線の意味を理解して、ゆっくりと耳に髪をかける。

 

そして、報告の意味を込めて口を開く。

 

 

「友人に、勧められました」

 

 

漣は何も答えない。

必要であると彼女が判断したのならそれは彼の管轄ではない。

ただの報告として、彼女の決断を思考に記録した。

 

 

「そうか。

 礼は不要だ。これは、“管理の一部”だ」

「住居のことで、何かあれば、

 端末から連絡を。沈黙は、了解と解釈する」

 

「はい」

 

 

それ以上、会話はなかった。

夕紬がドアに手をかける。

外の冷気が暖かな車内に流れ込む。

 

ドアを閉めながら、夕紬はほんの少しだけ漣の横顔を見た。

でも、彼の目は、もうこちらを見ていない。

 

 

ドアが閉まる。

夕紬は静かにマンションの中へ戻っていった。

車はエンジンをかけることなく、しばらくそこに留まっていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

午後の風は重たく、窓を閉めたはずの部屋に、少し湿った空気が入り込んでいた。

 

死柄木はいつも通り、ボックス席のソファに座っていた。

電源の入ったままのゲーム機を握りながら、

画面はもうとうに動いていなかった。

 

今日が何日かなど、考える気もない。

けれど、彼女が来る日だけは、なぜか身体が知っていた。

 

ユウは相変わらずノックをせず、部屋に入ってきた。

足音もなく、気配もなく。

 

だけどそれがもう日常のように感じられて、

死柄木は顔を上げもしない。

 

そして、ユウはいつもより少しだけ近くに座った。

目を合わせる事はない。

ただ、本を開き読み始めて数分、不意に言葉を紡ぐ。

 

「……そろそろ卒業だよ、私」

 

その声に、彼の手がわずかに動く。

ボタンを一つだけ押し間違える音がして、画面が一瞬乱れる。

 

「だから……雄英のヒーロー科に行くことになった」

 

 

 

反応はない。

 

ユウは、彼がどう思うかはわからないし、知る必要もないと思っていた。

 

これはただの“報告”。

 

これから“来なくなる理由”として、

言葉を差し出しただけだ。

 

だから、すぐに本を閉じ、立ち上がろうとした。

 

……それだけのはずだった。

 

 

 

けれど、視界の端で死柄木の手が止まったことに、ユウは気付いてしまった。

気付いてしまったがゆえに、ページから指を離すことすらできなかった。

少しして、彼の背中が僅かに揺れる。

 

「……そうか」

 

ぽつりと、呟くように。

 

「そりゃすげぇ、よかったな!」

 

顔をあげ、本を読むユウに向かって、笑って見せた。

初めて聞く、彼の明るい声色。

でも、ひどく嘘くさい。

 

 

「……とでも言って欲しいのかよ」

 

 

低い声でそう言って言葉を切った。

 

首を一度だけかいた。

 

 

やがて、

 

「……行けよ」

「2度とそのツラ見せんな」

 

ぽつりと吐き捨てて、

彼は立ち上がる。

 

そのまま背を向け、部屋の奥に消えていく。

 

扉が、音を立てて閉まる。

 

強くも、優しくもない。

ただ、何かを断ち切るような──乾いた音だった。

 

それは怒りではあるのだろう。

けれど、ユウの知る拒絶ではなく、諦めとも違う気がした。

 

 

だけど、それがどうしようもなく胸に残った。

 

 

ユウはゆっくりと顔を上げ、何も言わず彼が消えた扉を見る。

 

ふと、浮かんだ言葉。

 

それはたぶん──

自分のためでも、彼のためでもない。

 

ただ、区切りをつけるような、

儀式じみた言葉だった。

 

「……じゃあね」

 

沈黙が落ちる。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

それから数日後、部屋の隅。

黒霧のゲートがふわりと揺れて、ユウが現れる。

 

 

 

死柄木は、ソファに座っていた。

 

そしてその指先には、銀色の包み。

 

握りしめていたわけじゃない。

けれど、確かに“開いたあと”。

 

 

 

「……」

 

ユウの足音が、止まる。

 

 

死柄木は舌打ちもせず、

ただ、チョコの包みをくしゃ、と指の中で潰す。

 

そして──どこを見ずとも言い捨てる。

 

 

 

「なに見てんだよ。

 ……捨てようと思ってた。だけだ」

 

 

 

嘘じゃないのかもしれない。

でも、全部が本当でもなかった。

 

 

ユウは何も言わないでゆっくりと歩き出す。

けれど、その視線だけは、たぶん全部を見ていた。

でも、なにも言わない。言う必要もない。

 

 

「……つーか、あん時、来んなっつったよな?

 ヒーロー志望のくせに人の言葉も覚えられねぇのかよ」

 

「卒業まではまだ時間あるかなって」

 

「普通、もう来ねーだろ」

 

「普通ってどんなの?」

 

死柄木は口をつむんだ。

わずかに眉をひそめる。

 

それは単純な疑問だった。

彼の言う“普通”がどんなものか、知ろうとしただけ。

 

ユウは、いつものように、席に座った。

 

 

「……知るかよ」

 

「そっか、そうだよね」

 

私も、“普通”はよくわからない。

けれど、そんな言葉を口にすることはなかった。

 

それきり言葉は消え、機械的な効果音と、ページをめくる音だけが部屋に満ちる。

 

死柄木はその言葉にまた、言いようのない感情が胸の内に広がった。

 

 

でも、

 

なにも言わずに、

なにも触れずに、

 

ただ──画面の明かりがふたりを照らしていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

昇降口は、校内を満たす喧騒の中で、微妙な余白があった。

 

写真を撮る音、泣き笑い、名前を呼び合う声。

誰かから見たら友人と呼べるような子達とそんなやりとりをした後、夕紬はひとりで下駄箱に来ていた。

上履きが廊下を踏む、柔らかな音が聞こえた気がした。

 

「……よう、如月」

 

少しだけ後ろから、聞き慣れた声がした。

 

顔を向けると、砂藤くんが居た。

紙袋をひとつ、片手で持っていた。

 

「卒業、おめでとさん」

 

「……なにそれ、変なの。

 砂藤くんも卒業したよね?」

 

クスッと笑いながら、それだけ言って、靴を取り出そうと手を伸ばす。

けど、彼はその前に一歩踏み出して、袋の中から小さな包みを差し出した。

赤いリボンが夕紬の目に留まる。

 

「……あの時の、チーズクッキー。ちょっと改良してみたんだ。

今日で最後だし、“記念”ってことで」

 

 

私は一瞬、固まった。

 

でも、すぐに受け取った。

 

両手で、ゆっくりと。

 

 

「……覚えてたんだ」

 

小さくそう呟くと、彼は笑った。

 

何気ない、“思い出”を語るよう、

彼の優しさ、そのものを表すような柔らかな笑顔。

 

 

 

 

「そりゃ──お前、あの時ちょっとだけ……笑ったろ?」

 

 

その一言が、夕紬の胸の奥を刺した。

夕紬はまるで忘れてしまったと首を傾げながら笑う。

 

 

「……そうだっけ?」

 

「あぁ、俺にはそう見えたんだ」

 

彼はそれだけ言って、ふっと目を細めた。

 

優しい、笑い方。

 

ニカっと人好きの好い笑み。

 

彼らしい、そんな気がした。

 

 

 

ふと、夕紬の脳裏に何かが走った。

 

あれ?

 

待って──彼は雄英に行くはずだ。

確か、ヒーローになると……人伝に聞いた気がした。

 

私は彼は、そうなる筈だと確信を抱いた。

それは、過去の記憶の名残なのか。ただの思い込み、か。

わからないけど、彼はヒーローになる筈だ。

 

でも、雄英入試に彼は──いなかった。

 

 

体の末端から温度が消える。

 

 

「あのさ…こんなの言われても困るかもしれねぇけど」

 

「俺、ヒーロー目指すのやめたんだ」

 

 

呼吸が止まった。

 

 

「俺、作ってる方が好きだわ」

 

照れくさそうにでも、楽しそうに笑う笑顔はとてもすてきだと思った。

 

あぁ……なにか、答えなきゃ。

 

 

「そうなんだ」

 

やっとの思いで出てきた言葉はあまりに静かだった。

 

「ほら、クラスのみんなもいつも喜んで食べてくれてたろ?

 それに、お前に笑ってもらえたから、そう思えたんだよ、たぶん」

 

「ありがとな」

 

少し頬を染めながら、照れ臭そうに、

でも自信と未来に満ちた、

とても、眩しい笑顔だった。

 

 

 

 

私は返せなかった。

 

何も。

 

ありがとうも、ごめんも。

 

だからせめて、笑った。

 

 

 

「あっ!夕紬ちゃんいた〜!」

 

聞き慣れた友人の声。

 

「1人で帰るの酷くない?」

「一緒に帰ろ〜」

 

「ってあれ?お邪魔だった…?」

 

こはるがニヤニヤしながら私と砂藤くんを見る。

 

「いやいや、そういうのじゃないってば」

 

彼は慌てて否定する。

 

「ちょ!それは流石に失礼でしょ~!」

「いや如月そういう苦手だろ」

「冗談じゃん、てかその反応──」

 

そんな声がどこか遠くに思えた。

手元のクッキーが妙に重い。

 

だから──ただ、そのクッキーを、そっとバッグにしまった。

 

甘さは、きっともう知っている。

でも、その意味までは──飲み込めないから。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

夜は深く、部屋は暗い。

 

蛍光灯の残り火がうっすらと染みるように、天井をぼやかしていた。

 

死柄木はソファに横たわっていた。

 

眠っているのか、目を閉じているだけなのか──それさえも判然としない。

 

その体が、ぴくりと揺れた。

 

「っ、……は、……や…めっ」

 

小さな声。

掠れた呻きが、途切れ途切れに漏れる。

 

何かを振り払うように、あるいは壊そうと指先が痙攣している。

身体は強張り、眉間には深い皺。

 

──夢の中で、なにを見ているのか。ユウにはわからなかった。

 

 

初めて見る彼のその姿を最初はただ、眺めていた。

 

 

 

 

如月夕紬は決して、一線を超えない。

それは自分と相手の距離を悟る力。

あるいは、望んでない誰かの心を暴こうとする事を無意識に避ける癖。

 

けれど、それは完璧であることはない。

どうしても意図しないで、踏み荒らしてしまうこともあるだろう。

 

けれど、彼にだけは違った。

苛立たせることはあっても、許容される距離が不思議とわかった。

 

だから死柄木弔は、ずっとユウを壊せない。

彼にとって破壊衝動は苛立ちに直結している。

 

気に食わないものは壊す。

それに例外はない。

 

ユウが自分のテリトリーを害するならば容赦なく始末していた。

部屋に訪れても、いつも一歩こちらから踏み込まなければ、手を伸ばしても、触れられない距離より近づかず。

そして、彼の心へは決して踏み込んでこない。

 

未成熟な彼の精神というコップのふちをなぞるように、歩き、避けていく。

 

 

それが無性に彼の苛立ちを募らせる。

 

けれど、死柄木は壊しに行くことはできなかった。

 

自分から近づけば──

あのガキに“影響された”と言葉にするようで、それがどうしようもなく、腹立たしい。

 

 

互いに動くことのない関係。

 

だからこそ──2人は今日まで互いの関係を表す言葉を持たずに済んだ。

 

 

 

 

 

けれど、その日、ユウは初めて手を伸ばせば触れる距離に近づいた。

音もなく、ユウがしゃがみ込んだ。

 

彼女はその悪夢を止めるようなことはしない。

 

呼びかけもしない。

 

触れることすら、きっとためらっていた。

 

 

でも。

ほんの少しだけ、指先を伸ばした。

 

その手には迷いはなく、静かに、

死柄木の額にそっと触れる。

 

汗ばんだ皮膚の下に、静かだけれど確かに脈打っていた。

 

 

 

 

「……っ、」

 

 

死柄木の目が、ゆっくりと開く。

 

薄明かりに照らされて、焦点の合わない瞳が揺れる。

 

 

彼女の手がまだ、自分の額に触れていることに気づいた瞬間──

 

 

「……なに、してんだよ」

 

 

声は掠れ、責めるには弱すぎた。

 

 

ユウは黙って手を引いた。

 

 

「魘された、みたいだったから」

 

それだけ言って、ユウは立ち上がる。

彼女がいた場所の空気が、わずかに揺れて、また静けさに戻った。

 

死柄木は、額に残る体温にそっと手を添える。

どこか引っかかるように。

 

ユウは、何も言わずに床へ腰を下ろし本を開く。

ソファのすぐそば、彼が座る位置から少しだけ離れた場所に。

 

 

 

 

──夜は静かに流れていった。

 

沈黙は、慣れたものだった。

けれど、今日はどこか違っていた。

 

死柄木は、視線だけを動かす。

彼女が手にしているのは、一冊の文庫本。

汚れのない新品のカバー。

 

 

その本を読み終えた彼女はそっと閉じ、立ち上がった。

 

そのときだった。

 

 

 

 

ひらり、と。

 

乾いた音が、かすかに床に落ちた。

それは、彼の足元から少し離れた場所へ、ふいに落ちた──

 

小さな、紙のしおり。

 

買ったわけではないのだろう。

なにか広告が書かれてる。

 

だが、角がわずかにめくれ、ずっと使われていたことを物語っている。

 

バッグへしまう際に滑り落ちたそれに、

ユウは気づかないまま、歩き出していた。

 

 

 

(……落とした)

 

死柄木の喉が、ごくりと鳴った。

けれど、それは音というにはあまりに静かだった。

 

彼女はもう、扉に手をかけていた。

何も言わずに、いつもと同じように、帰ろうとしている。

死柄木もいつものように、気に留めることもないはずだった。

 

 

 

 

──けど、今日は。

 

 

沈んでいた重みが抜ける。

ソファの布が、すれる音を立てた。

乾いた夜の空気に、その音だけが滲むように響く。

 

立つつもりなんてなかった。

声をかける気も、なかったはずだった。

 

けれど──

ユウが扉から出ていった、その瞬間を目にしたとき。

死柄木の体は、勝手に動いていた。

 

 

足音を立てることもなく、

死柄木はゆっくりと、落ちていた紙片を拾い上げる。

 

指先で、しおりの折れた角を撫でる。

 

別に大したものじゃない。

 

ほっとけば良い。

 

 

──なのに、なぜか。

 

気づけば、手が扉に触れていた。

 

 

 

廊下の先。

 

ユウの背中がそこにある。

扉の開く音に、ユウはわずかに立ち止まる。

 

拾ったことに気づいたのかもしれない。

けれど──振り向きはしなかった。

 

死柄木もまた、一瞬足を止めたが無言のまま、歩いた。

 

いつもと違う、空気の高さ。

 

ソファ越しに見上げてた彼女ではない。

 

歩幅から、距離は自然と縮まっていた。

いま、彼の視線はその背中を見下ろしていた。

そして、160センチほどの小さな肩。

それを彼の影がすっと包み込む。

 

「おい」

 

死柄木の喉から酷くとげのある声が出た。

ユウは言葉もなく振り向き、彼を見た。

 

けれど視線は交じり合わない。

 

視線が泳ぐ、言葉が詰まる。

2本の指で持ったそれを、ただ差し出した。

 

 

 

「……落としたぞ」

 

視線は何もない壁を見つめたまま。

掠れた声が、空気の中に滑り込む。

ごみを置いていくな。

そんなことも言えずに、漏れた言葉。

 

 

小さな紙片が、彼女の指に吸い込まれる。

一瞬、動きを止めて、それだけで、ユウはまた歩き出す。

 

……ありがと、と言ったのかもしれない。

けれど、それは耳の奥でほどけるように、すぐに消えてしまった。

 

 

あまりに小さな声で、あまりに遠い気がした。

 

 

 

 

 

 

 

残された彼は、初めて“立った”まま動けなくなった。

 

 

それは苛立ちを孕まない衝動だった。

ただ、“誰かの落とし物”を返すためだけに動いた夜。

 

まるで、自分の意志じゃないというように指先を撫でる。

 

でも、確かに──

“動いてしまった”。

 

 

あの背丈は、あまりに遠く、小さく思えた。

立ち上がってみなければ、わからなかった。

ずっとここにきてた、よくわからないガキが、どこか遠かった気がした。

 

 

まるで──

 

もう、手の届かない場所へ歩いていくように。

 

 

彼は1人、部屋に戻る。

言い表しようのない感情に首をかく。

 

らしくない自分に、後悔が募る。

何よりも、苛立ちが募る。

だらりとソファで横になれば、もう指先は動かなかった。

机の角に粉がこぼれていることに気づいたのは、ずっと後だった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

後日、死柄木が、ゲーム機の横に小さく置かれた端末を見つける。

 

黒霧の字で添えられたメモには、こう書いてあった。

 

《雄英への潜伏了承済み。

必要あらば、彼女より連絡が届くかと》

 

彼女が誰を指すのか、考えるまでもなく理解する。

死柄木は無造作にメモを握った。

サラサと紙が崩れ塵と化す。

 

勝手に、話を進めやがって……黒霧の字を見た瞬間、そう思ったのかもしれない。

自分だけが蚊帳の外だと、言われた気がして。

もしくは、もう会うことのない相手だと思っていた相手が、結局また来るというデジャヴに対する苛立ちか。

 

端末はすぐには手に取らなかった。

ただ、わずかに、口の中で転がすように呟いた。

 

 

「……あいつ、ほんと……」

 

 

その先の言葉は出なかった。

 

口元だけが、ほんの少し、動いていた。

 

笑わない。笑えない。

 

でもその声には、ほんのわずかに、空気がゆるむ気配があった。

 

そして、コントローラーを握り直す指に、余計な力は入っていなかった。

 

 

 

 

 

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