1話 棘
朝の空は薄い雨にけぶっていた。
歩くたび、制服の袖に水の粒がやわらかく溜まっていく。
バス停のベンチに、保育園バッグを肩にかけた母子が座っていた。
傘を差した夕紬が通り過ぎようとした時。
ふと向けられた幼いまなざしに気づき、夕紬が静かに視線を返す。
一瞬、時が止まったように固まった子供へ、かすかに微笑めば──パッと花が咲くような笑顔が広がり、男の子は母親の服を引いた。
「ママ!あのお姉ちゃんだよ!テレビの!えっと、」
男の子は立ち上がり、弾むように足を踏み鳴らす。
少し疲れた顔の女性が夕紬に気付く。
「え?あ、ほんとだ……」
母親の肯定。
止める声が空気に溶けるより早く──
バシャッ。
水たまりが、勢いよく水しぶきを上げた。
男の子は弾むように駆け出していた。
淡い色の髪をひとつに結い、整った制服姿で歩く少女──如月夕紬のもとへ。
夕紬は人の流れを避けるように、ほんの数歩だけ前へ出た。
傘を持たずに駆け寄ってくる男の子に、自分の傘をそっと傾ける。
そして視線の高さを合わせるように、スカートを押さえながら静かにしゃがみ込んだ。
その一瞬。
周囲の視線がこちらへ揺れた気配があった。
それでも夕紬は動じなかった。
見られることも、憶測されることも、“この場での役割”として許容している。
男の子は、制服の端をぎゅっと握りしめる。
頬に火を灯したような笑顔で、喜びが言葉になりきれず、次々にこぼれ落ちた。
「ぼく見たよ!“きみ”ってスケートのお姉さん倒しちゃうやつ!すごかった!!」
夕紬は優しく微笑む。
「ほんと?ありがとう。嬉しいな」
少し遅れて、女性が慌てて駆け寄ってきた。
小さな傘と荷物を両腕に抱え、少し息を弾ませている。
視界の端でその足元が見えた夕紬は、顔を上げた。
「もう、お姉さん困ってるでしょ……
ごめんなさい、あの……あなた、雄英の生徒さんですよね?」
「はい、ヒーロー科に通っています。……いえ、むしろ嬉しかったです」
母親にやわらかく言葉を返し、それから少年に向き直る。
「応援、してくれたんだよね?」
「うん!!」
満面の笑みとともに、男の子は夕紬に抱きついた。
夕紬は少し驚いたように片手を添え、それでも笑顔を返す。
「ありがとう」
男の子は顔を上げ、隣に佇む母親へ得意げに言った。
「ほら!まま!やっぱ!あのお姉さんだよ!!」
「そうね……」
「ごめんなさい……体育祭見てからうちの子がもう大興奮で……」
母親が少し恐縮したように言う。
男の子は勢いよく夕紬から離れ、声を弾ませた。
「あれも見たよ!ばくはつ、呼ぶやつ!!かっこよかった!!」
ぽつぽつと降る雨の中、男の子は記憶の中の夕紬をなぞるように、片手を伸ばしてみせた。
夕紬は、わずかに目を丸くする。
けれどすぐに、学生らしく照れたような笑みをつくった。
「ありがと、うれしい」
少し服を濡らした男の子が、再び夕紬に抱きつく。
「ねえねえ、“ぼく”って言って! あれ、かっこよかった!」
声を弾ませた男の子が、濡れた制服の裾を気にも留めず駆け寄ってくる。
往来での個性使用は、本来なら褒められたものではない。
だから夕紬は片手を静かに差し出した。
一度、手のひらを開いて見せる。
なにもないことを確認させてから、指先を閉じる。
「……“きみ”」
次に開いたときには──小さな飴玉がふたつ、掌に転がっていた。
「わぁ……!」
子供の目が丸くなる。
わかる人には手品とわかる。
けれど子供には、それが魔法のように映っていた。
「わああ~~~! 出た~~~!!!」
男の子が飛び跳ねる。
夕紬は眩しそうに、優しそうに男の子を見つめていた。
その隣で母親が慌てて頭を下げる。
「すみませんっ、朝からほんと……」
「いいえ、大丈夫です。
飴玉、あげても平気ですか?」
夕紬は立ち上がり、母親に確認を取った。
幼い子どもが飴を誤飲すると危険だ──そんな話を、どこかで読んだことがある。
だから、念のために。
「ええ、ありがとうございます」
夕紬が男の子に声をかけ、飴を渡すと、彼は両手で大切そうに包み込み、目を輝かせた。
その様子を微笑みで見届けたあと、夕紬は母親の方へ向き直る。
「良ければお母さんもどうぞ」
夕紬の差し出した飴を見て、少し動きを止めた。
「え……?私、ですか?」
「はい、とてもいい子でかわいいお子さんですが……」
夕紬は一歩だけ近づき、小さな声で続けた。
「元気な子だなって思いました。……だから、ちょっとだけ、大変な日もあるのかなって」
「え……」
なんでわかったの?とでも言うような、いくつもの感情がにじむ顔で、母親は言葉を失う。
「ごめんなさい。余計なお世話、ですかね」
夕紬は驚かせてしまったかと眉を下げて、表情を作る。
そして元の距離に、そっと戻った。
「いえ、そんな……このくらい、普通ですから。
……ちょっと、びっくりしちゃって」
「ありがとうございます」
母親は夕紬の手のひらから、飴を受け取る。
雨粒が飴の包装に落ちる。
夕紬は男の子の方へ視線をやる。
母に渡された傘を持ちながら飴玉を持って、元気にはしゃぐその姿を見て、言葉を置く。
「“大丈夫”を続けるのって、結構疲れちゃうと思うんです。
無理なさらず、少しだけでも、休んでください」
夕紬は、言い終えてから母親の方を見やり、静かに笑った。
「……って、何様って感じですよね」
そう添えて、そっと頭を下げた。
飴玉に夢中な子供に、夕紬は指先を軽く振って歩き出す。
男の子はそんな夕紬に遅れて気づき、目一杯、叫んだ。
「がんばってねー! ヒーローになってねーーー!!」
夕紬は、足を止めて振り返る。
そして少しだけ、笑って手を振った。
その時──
隣で笑っている母親の姿が、なぜか目に留まった。
夕紬は再び歩き出す。
制服の裾がじんわりと重さを増しているのは、雨のせいだけじゃない。
あの母親の笑顔が、不思議と胸に残った気がした。
けれど、それもほんのわずかな揺らぎでもない。
きっと明日には忘れている。
横断歩道。
信号待ちの間、数人の通学途中の生徒たちが、ぼんやりとスマホを見たり、誰かと会話していた。
その中に、夕紬は1人静かに歩いていた。
その姿に、前を歩いていた男子高生が気づき、小さく声を上げた。
「……あ、如月さんじゃね?」
隣の友人が驚いたように振り向く。
「マジ!? え、てか本物? 」
「お前、何言ってんだよ……同じ学校じゃん……」
けれど、興奮の理由はわかる。
雄英体育祭。全校どころか、世間が注目した騎馬戦の“あの一手”。
口数は多くないけれど、優しい笑顔で確かな成績を残した子。
その中心にいるはずの本人は──
ただ、目が合った彼らに、静かに微笑んだ。
「おはようございます」
──一瞬、言葉を失う。
「……お、おはようございます……!」
軽口を叩いていたふたりは思わずぴしっと背筋を伸ばして会釈した。
交差点を渡っていく夕紬の後ろ姿に、遠くで女子の小さなささやきが追いかける。
聞こえると思っていない、朝の通学路での何気ない会話。
「やっぱヒーロー科って結構動くのかな?スタイルいいよねぇ」
「うん……でも、インナー着るのはちょっと親近感湧く」
「わかるー!普通にあの露出無理だよね」
「まぁでも、やっぱりうちらと比べられんくらい、頭いいんだろうなぁ」
話していた子たちの顔には、どこか親近感よりも憧れが混ざっていた。
“近づけなさ”と、“かっこよさ”の境界。
アイドルでもない。正義の味方でもない。
ただ──自分たちとは違う世界にいる、“誰か”。
夕紬にはその声が届くこともなく、歩き続ける。
通い慣れた道を抜け、校門が見えてきた頃──
数人の生徒のグループが、遠くから気づいて手を振る。
「如月さ~ん! おはよー!」
体育祭前に応援してると言ってくれた人たち。
夕紬は立ち止まり、小さく手を振り返す。
表情には、ちょうどよい温度の笑顔がある。
「おはよう」
そう言って、数歩近づいていく。
「いやーほんと惜しかったね!」
「如月さん、マジで勝つと思ったのに……」
自分のことのように悔しがる人たちに夕紬は苦笑いするように答える。
「ううん、爆豪君がすごかったんだよ、ちょっと悔しいけど、私動けなかったから」
「そっかー?あっ!そうそう、あの第一種目のとき助けてくれた子って、実はうちのクラスのやつでさー、そいつ──」
誰かが、自然にそんな話を振る。
夕紬は、少しだけ困ったように目を伏せて──けれど、また笑った。
「……そうかな」
──“答え”としては、ちょうどいい。
彼女の応対を見てから、控えめに声をかける生徒が少しずつ増えた。
すごい子だけど、近づけないほど遠いわけじゃない。
誰もがそう思ったかも知れない。
そうして、彼女は今日も教室へ歩いていく。
“誰の記憶にも、ちょうどいいくらいに残る優等生”として。
だから、ユウは今日も笑う。
誰にも違和感を持たせないように、均等な距離を保ちながら。
手を振り、挨拶し、優等生として──
“彼らが見たい如月夕紬”を、ちゃんと演じて。
……下駄箱を開けて、上履きを置くために下を向いた瞬間、ふっと、その笑顔を落ちた。
忘れていた温度が、少し顔を見せた。
(──あと、何日続けられるかな)
顔を上げたときにはもう、いつもの表情が張り付く。
彼女の本当の顔を、知る者は、ここには誰もいない。
***
クラスの扉を開ければ、夕紬に気づいた芦戸が立ち上がり駆け寄ってきた。
「あっ!夕紬ちゃんおはよう!
ねね、来る途中めっちゃ声かけられなかった!?」
「うん、色んな人が体育祭見てくれるんだなって実感しちゃったよ」
「だよねー!私もめっちゃ見られた!!」
外は雨が降っていて、湿度が高いはずなのに、ここは不思議と澄んでいる気がした。
雄英体育祭はヒーローとしての一歩を歩んだ実感として、生徒たちに確かな火を灯していた。
思い思いに会話が弾む中、チャイムが鳴った。
「おはよう」
相澤の登場の前に皆が席につき、そして彼の包帯が外れていることを喜んだ。
「婆さんの処置が大ゲサなんだよ。
んなもんより、今日は“ヒーロー情報学”ちょっと特別だぞ」
相澤が目元の傷を指先で撫でながら綴った言葉にクラスに緊張が走り、誰かが唾を飲んだ。
「コードネーム、ヒーロー名の考案だ」
「胸膨らむやつキタァ!!!!!!!」
生徒の大半が飛び上がり喜びを体と声で表してる。
相澤先生の髪があがる──個性の使用を無言の圧で知らせる。
瞬く間に皆、背筋を伸ばして着席した。
夕紬はクラスメイトの有り余る元気に感心するように笑う。
そして相澤が基礎的な話…ヒーロー名の重要さとなぜ今決めるか“プロからのドラフト指名”について説明を始めた。
指名の本格化は各自が経験を積み、即戦力として判断される2、3年。
今回の“指名”は将来性に対する“興味”の意味合いが濃いこと。
卒業までに興味が削がれたら一方的なキャンセルもあること。
「その指名の集計結果がこうだ」
相澤の背後、黒板に集計が表示される。
『如月:2,171』
「例年はもっとバラけるんだが、今回は注目が偏ったな」
「だー!!白黒ついたー」
「見る目ないよねプロ」
「一位、二位逆転してんじゃん」
「表彰台で拘束された奴とかビビるもんな」
「ビビってんじゃねーよプロが!!」
「さすがですわ、轟さん」
「ほとんどが親の話題ありきだろ……」
「無いな!怖かったんだやっぱ」
「んん……」
「夕紬ちゃん、やっぱ人気だね!」
「うん、ちょっと多くてビックリしてる」
クラスに様々な声があふれる。
「これを踏まえ……指名の有無関係なく、いわゆる職場体験ってのに行ってもらう
おまえらは──」
相澤の説明を聞きながら夕紬はもう一度、数字を見据えた。
2,171人。
それだけのヒーローが夕紬をスカウトしたいと希望したらしい。
(思ったよりも多い、やっぱり使える個性だからかな)
客観的な理由を考え、そして、何よりも先に“どうやって、期待を削ぎ落とすか”を考えていた。
無能を晒すのは違う。
長所と短所を見せる?
いや、親密な、卒業後はそこに身を置くのだろうという事務所を──
「まぁ仮ではあるが適当なもんは……」
「付けたら地獄を見ちゃうよ!!」
相澤の声にかぶせるように、ミッドナイトが教室へ入ってきた。
「この時の名が!
世に認知され、そのままプロ名になってる人多いからね!!」
「まァそういうことだ、その辺のセンスをミッドナイトさんに査定してもらう」
相澤は寝袋を取り出しながら生徒たちにアドバイスをする。
“名は体を表す”と。
先生の名前も正にそうだと夕紬は納得する。
15分程度の時間が設けられ、クラスメイトたちは各自書き出していた。
相談したり、自分でもう決めている子もいる。
夕紬は考える。
考えるが特に何も思い浮かばず時間だけが過ぎていった。
みんなが思いも想いのヒーロー名をクラスメイトの前で発表していく。
少し変わったもの。
よく考えられたもの。
幼少期に決めていたらしいもの。
そういえば小学校で同い年の子供たちがそんな会話をしていたなとひとりでに夕紬は思い出す。
ボードに、ペンを走らせようとして手が止まる。
なにも、ないや。私には。
すっと体から体温が落ちることも、指は震えも起きはしない。少し口角が動いただけ。
ただ、再認識しただけだから。
ミッドナイトが時計を確認する。
「思ったよりずっとスムーズに進んでるじゃない。
残ってるのは再考の爆豪くんと…飯田くん、如月さん、そして緑谷くんね」
夕紬は一度、目を瞑り、書き出す。
静かに手をあげる。
ミッドナイトと目があって、彼女が微笑む。
「如月さん、どうぞ!」
ボードを片手に教台に向かう。
その距離が妙に遠く感じた。
ボードを置く。
『コール』
「わかりやすさって親しみだと思うので」
夕紬はそう微笑みながら付け足した。
「そうね、シンプルイズベスト!
個性由来であなたのヒーローネームって誰もがわかってくれそう」
ミッドナイトの言葉に夕紬は笑顔を返す。
クラスメイトの反応も悪くない。
夕紬は少しの安心を抱えて席に戻る。
なのに、座っても、椅子に座った実感がない。
自分らしい名前を考えた人。
侮蔑を乗り越えて別の意味にした人。
まだ決めきれない人。
色々な人がいた。
みんなの発表を聞きながら、ふと机の上に置いたボードに目を落とす。
「コール」
乱れのない文字。
葛藤も希望もない、温度のない単語。
そこには葛藤も希望もなかった。
それに“意味”がなかった。
けれど──
今朝、確かに声をかけられた、
無邪気で、まっすぐな、あの子の言葉が耳に残った。
「ヒーローになってねーーー!!」
なんで、彼はあんなふうに言えたんだろう。
なぜ、そう思ったの、だろうか。
答えのない問いを飲み込んで、
ユウはまた一度だけ、記憶と共に目を瞑り、すぐに正面を向いた。
***
その夜、ユウは職場体験の広報一覧に目を通していた。
視線が離れたのは、通知音が鳴ったときだった。
差出人:父の知人
内容:『職場体験が始まると連絡を受けました。
こちらから指定はございません。
あなたの意思で選択ください。』
差出人は“父の知人”──けれど、実際の相手は黒霧。
もちろん、彼が父と面識を持つわけではない。
ただ、この名前なら通知を見た誰かが不審に思っても、深入りはしないと思ったから、そう付けた。
ユウはメッセージを読み終えると、端末の画面を閉じた。
そして、もう一度、資料へと目を戻す。
──職場体験。
みんなは“なりたいヒーロー像”や、できるようになりたいことに沿って、行き先を選ぶと言っていた。
切島くんは都市部での凶悪犯罪。
梅雨ちゃんは水難救助。
麗日さんは武闘派ヒーロー。
ユウは、その会話の記憶を呼び出してから、静かに思う。
(私は、どんなヒーローを──目指してる?)
いや、目指していれば自然だろうか。
個性を活かした救助活動?
私が相手を知らなくても誰かが知っていれば呼び出せる。
的確に運用すれば、人命救助にも役立つ。
それ相応の実績も残せるだろう。
けれど、それは私にとって「意味のある経験」だろうか。
──私は、内通者の“監視”を任されている。
指示は最小限。それ以外に何を求められているか、わからない。
この職場体験で、何を得れば正解なのか──誰も教えてくれはしない。
ならば、著名なヒーローとの繋がりを作るべきだろう、か。
ユウの指先が、ある名前の上で止まる。
『フレイムヒーロー・エンデヴァーヒーロー事務所』
社会的地位。影響力。
誰もが知るNo.2ヒーローのもとであれば、社会に“信頼されている”という証明にもなる。
最短で確実な選択肢ではないだろうか。
個人的な感情や希望ではない。
ただ──もっとも合理的で、間違いのない選択。
それで、いいだろう。
「……他にも目を通そう」
声には、感情の輪郭がなかった。
決まったのだから、資料を見る必要は無いかも知れない。
でも、どんなヒーローが私に興味を持ったのか。知る必要がある。
彼女にとって、足を止めない理由は数え切れないほどある。
正しくは、それがなくなった時が──彼女の終わりなのだから。
***
時は遡り、体育祭当日。
死柄木は、先生──AFOの指示でモニターの前に座っていた。
興味なんてない。
でも、先生は「学べ」と言う。──敵を知れ、と。
画面の中で、生徒たちが一斉に走り出す。
その中に、見知ったはずの顔があった──けれどそいつは知らない表情をしている。
いや、死柄木がつい、この間、初めて見た表情だ。
けれど数年間、見たことのなかった…たぶん、あいつが社会に混じる時の顔。
ニコニコ笑顔を振りまいて、死柄木の知る静けさはまるで嘘とでも言うような……
そしてそいつは、競技の中でずっと──
「……」
──誰かを助けていた。
死柄木の指に思わず力が入る。
スナックが、パリ、と音を立てて破ける。
「……はっ、なんだよ、ちゃんとヒーローやれてんじゃねぇか」
口の奥で呟きながらも、視線は離れない。
「気持ちわりぃ」
何よりも、
胡散臭いこいつの振る舞いを、誰もが称賛してるのが、癪に触る。
騎馬戦でユウは戦いの中心に立っていた。
一手目ですべてのタスキを奪い、以降の攻撃をすべて避けてみせる。
あらゆる可能性を考慮した立ち回りはまるでゲームマスターのよう。
それすらも死柄木の神経を逆なでする要因でしかない。
気が付けば騎馬戦は、もう終盤に差し掛かっていた。
叫ぶ実況、割れるような歓声、喧しい勝者コール。
そのどれもが、遠く、どうでもよかった。
でも──
勝利を決めたのに、ハチマキを仲間へ差し出す姿に、死柄木は眉をひそめる。
「……何だよ、それ」
かすれた声が、喉の奥で転がった。
怒りじゃない。
知ろうとして誰かに聞いたわけでもない。
ただ、“理解できない”という感情。
いや、それ以前に──“その光景が気に食わない”という本能的な反発。
“勝ち”も、“注目”も、“称賛”も──
全部どうでもいいとでも言いたげに、他人のために勝って、他人に渡してる。
あぁ……わかってるさ。こいつはヒーローになるために通ってるわけじゃない。
でも、
(なんだよ、それ──ふざけてんのか。なにがしたいんだ、こいつ……)
(ふざけんなよ、ヒーロー気取りか?)
指が動いた。
キーボードやマウスではない。
ただ、机の縁を爪で、カリと引っかいていた。
無性になにか壊したくなる。
その感情だけは、いつも明確だった。
ヒーローを見ているときのイラつき。
奪うことの意味を知らない“きれいごと”への嫌悪。
でも──
それだけじゃなかった。
指が止まる。
(お前……ほんとに、あの時のガキかよ)
あのUSJで、死にそうな顔で笑ってた。
痛みすら忘れた顔で誰かを庇って、笑ってた。
それを“綺麗な終わり方”とかほざいて、あんなメッセージを残したやつ。
(その顔……、何なんだよ)
怒りも抱えていない。
──まるで“何かを諦めた大人”の顔。
死柄木はそこまで言語化できなかったが一つだけはわかる。
“ヒーロー志望のガキ”がする顔じゃねぇだろ。
彼は知ってる、ユウはヒーローになんかなる気はないだろう。
でも、画面の向こうのあいつは誰よりも──
画面の光が、死柄木の頬を照らす。
その目は、焦点を結ばない。
感情の名前は、まだつけられない。
でも、胸の奥にひとつの違和感が残った。
それは、イラつきでも怒りでもない。
もっとずっと、ノイズみたいな“残響”。
その正体をまだ知らないまま、
死柄木はモニターを、ただ無言で見つめ続けた。
そしてトーナメント。
あいつは、相変わらず笑ってた。
どこか淡々としていて、誰よりも的確に──ちゃんと結果は残す。
ひとりを、読み切って。
もうひとりを、冷静にいなして。
そして最後は──違和感があった。
気持ち悪りぃ。
違和感が、死柄木の胸の奥にこびりついた。
爆豪との戦い、最後の瞬間。
瞬きのような一瞬だけ、カメラに映ったユウの笑顔。
それに死柄木だけは気づいてしまった。
「……は?」
思わず声が漏れた。
理解できない。
倒れたはずなのに、なんで笑ってんだよ。
いや、負けたから悔しく笑ったのか?
そんな考えを自分のどこかが否定する。
違う。あの顔はそんなんじゃねぇ…口の端だけ上がった、あの抜け殻みたいな笑い。
誰かを──自分を嘲笑うような。
それは死ねなかったと気づいたあの時の顔に、ひどく似ていた。
死柄木にはわからない。
ただ、ただ、虫唾が走る。
そして、なによりも──表彰台のシーン。
オールマイトに手を握られ、抱きしめられて──
ユウは立ち尽くしていた。
一瞬、顔が止まった。
その表情は、初めて色を見た子供のような顔。死柄木は小さく息を吐く。
「……っ」
頭が追いつかねぇだけだ、と自分に言い聞かせる。
なのに、死柄木の目が、そこに引っかかる。
PCの前で、まばたきもしないまま。
そして──ユウが、オールマイトに腕を回す。
まるで“わかってます”とでも言うように。
映像の中の、正しさの象徴。
“平和の象徴”だとか、ぬかしやがって──
お前が、
何を、誰を、救ったってんだよ。
死柄木は、気づけば指を伸ばしていた。
テレビ越しにオールマイトを触れる。
指先が──五本、揃う。
──拒絶の衝動だった。
「……触れんな」
ザッ……ッッ。
画面が、一瞬、白く弾ける。
乾いた音を立てて、テレビが砕けた。
どちらに向けた言葉だったのか、死柄木にもわからない。
それでも、あの光景は脳裏に焼きついていた。
壊しても、消えやしねぇ。
全部、読んだような動きで、
なのに、どうでも良いような顔して、
見られてもいい顔で、見られないようにそこにいる。
“ヒーロー達”の真ん中にいる──
ずっと。
止まることなく。
壊れることなく。
ヒーローに抱きしめられて、
まるで“ありがとう”って顔で、終わらせる。
ほんとに、なんなんだよ、お前は──
ただ、口の中に残った違和感を吐き出すように。
(……壊れねぇなら、いっそ──)
でも、そこまで思考がいって、止まった。
(……いや、違う。あれは)
あれは──たぶんもう、諦めてるんだ。
ずっと前から。
それでも、笑ってるだけだ。
……なら、なんのために生きてんだ。
そう思った瞬間、
死柄木の中で、何かが静かに軋んだ。
疑問を抱いた。
知りたいという欲はなかったはずなのに。
……疑問?いや、そう思いたかっただけかもしれない。
ほんとうにそうなのかは──自分でもわからない。
彼はユウが見せる静寂が嘘じゃないと思っていた。
ずっと…顔をまともにみたことすらなかった相手。
それでも表情よりも言葉よりも、空気は、言葉より雄弁だ……そんな気がしていた。
じゃなきゃ、なんでこんなに頭に残る。
まぶたの裏には、ずっとあの顔が焼きついていた。
あの、ヒーローに抱きしめられて、立ち尽くしたままの子供の顔が。
次にガキと会うとき、
──あの顔を壊したいのか、
──あの顔の理由を知りたいのか、
自分でも、わからなかった。
でも一つだけ、確かにあった。
気に食わねぇ。
そんな感情だけが、ずっと鮮明で、妙に胸に残っていた。
死柄木は、ユウをずっと興味がない、ただのノイズ──そんなフリをしていた。
邪魔ならば、初めて会ったときに壊せばよかった。
それができなかった時点で、彼はもう……認めずとも、“影響”を受けていた。
そして、ずっと見ないふりをしていたのに。
あの時──ユウという存在の、一番柔らかいところ。
その“核”を、見てしまった。
だから見ないふりが、できなくなった。
それは、既視感があるのに、まったく別のもの。
知らず、心のどこかにできてしまった、
小さな──けれど、確かなわだかまり。
それはまだ、名もない棘だった。
けれど、それはもう、抜けなかった。
そして、棘は──
彼の心に、静かに、根を生やす。