夏休み初日、合宿当日。
夕紬たちは敷地内のバス停に集まっていた。
荷物を係に渡し終えると、クラス全員で相澤の言葉に耳を傾ける。
「雄英校は一学期を終え、現在夏休み期間中に入っている。
だが、ヒーローを目指す諸君らに安息の日々は訪れない。
この林間合宿でさらなる高みへ……Plus ultraを目指してもらう」
「「「はい!!」」」
返事の輪の中に夕紬も立っていた。
ただ、その声の熱だけが少し違う。
出発までまだ時間があるからか、
クラスメイトは各々、雑談を始める。
その時、夕紬のそばにいた麗日が、一目散に緑谷の元へ駆け出した。
それは、あまりにまっすぐな笑顔で。
その勢いに押されるように、夕紬は思わず視線で追ってしまう。
「デクくん!」
麗日は緑谷の元に駆け寄ると腰を少しだけ曲げ、満面の笑顔で緑谷に顔を寄せる。
「ついに林間合宿の始まりだね!」
「う、うん!
そうだね、麗日さん…!」
女性に対して初心な緑谷は、麗日の距離感の近さに顔を真っ赤にして慌てている。
「どうしたの?」
「いや…あの…その」
「ん?……あっ」
その麗日の小さな声は夕紬の立つ位置までは届かない。
ただ、麗日が何かを思い出したようにハッと、耳まで赤くして慌てるように距離を取ったのだけは見えた。
「が、合宿だね!」
「合宿!合宿!」
照れ隠しのように麗日が左右に体を揺らしながら手を叩き、はしゃぎ出す。
それにつられるように芦戸や上鳴も踊り出した。
「「「合宿!合宿!合宿!合宿!」」」
ショッピングモールの時――いや、中間試験の頃から、
麗日の態度が少し変わったことに夕紬は気づいていた。
ああいう人を、夕紬は知っている。
“応援してほしい”と手紙の文面を一緒に考えたこともあった。
あれは、きっと好意だ。
「けろけろ」
隣で蛙吹が笑う。
その周囲にも、どこか穏やかな空気が流れていた、その時――
「え?なになに、A組補習いるの?」
B組の物間が、どこで聞きつけたのかそんなことを口にした。
息継ぎもなく、矢継ぎ早に煽り立てる。
「つまり期末で赤点取った人がいるってこと!?
ええ!?おかしくない!?おかしくない!?
A組はB組よりずっと優秀なハズなのにぃ!?
あれれれれぇ?」
A組の誰かが反応するより早く、
拳藤が無言で手刀を入れ、物間はその場で崩れ落ちた。
「ごめんな」
申し訳なさそうな声だけ残して、
拳藤は慣れた手つきで気絶した物間をバスへ引きずっていく。
夕紬は、その一連の騒ぎをクラスメイトと同じように苦笑しながら目で追った。
物間が気絶して運ばれていくのを見ても、B組の誰ひとり止めようとはしない。両手を幽霊のように、前に垂らしたままの柳レイ子が、ぼそりとつぶやく。
「物間怖っ」
その声に気付いた出久が、そちらへ顔を向けた。
「あ、B組の!」
気さくに笑う緑髪セミロングの取蔭切奈と、黒髪ボブの小大唯が声をかけてきた。
「体育祭じゃなんやかんやあったけど――
ま、よろしくね A組」
「ん」
「バス乗るよー!」
拳藤の声に、B組の女子たちは「はーい!」と元気に返し、A組に手を振りながらバスへ向かっていく。
「じゃ、またね」
蛙吹をはじめとするA組の女子たちも笑顔で手を振り返した。
夕紬も数名の顔見知りに向かって手を振り、静かに微笑んだ。
「B組のみんなとも、もっと仲良くなりたいわ」
「そうだね、普段は余り機会ないけど、せっかくの合宿だしね」
蛙吹の言葉を夕紬が笑顔で肯定すると、葉隠がぴょこんと手を上げた。
「私、パジャマパーティーしたい!」
「え、楽しそう!」
「いいねそれ!」
女子たちが一気に盛り上がり始める。
その様子を少し離れた場所から見ていた峰田が、よだれを拭いつつぼそりとつぶやいた。
「A組だけじゃなく、B組の女子まで……!!
じゅる……よりどりみどりかよ!」
「おまえダメだぞ、そろそろ」
いつもより声が低い切島が、真顔で肩をつかむ。
気が付けば出発の時間が近づいていたらしい。
バスの前で手をビシッと伸ばして指示を出す飯田の声が響く。
「A組のバスはこっちだ!
席順に並びたまえ!」
「えー、また席順?」と芦戸が不満を漏らす。
「せっかくだし、好きに座ろうよ!」と葉隠も続く。
「なっ…!しかし、これは学校行事であり、委員長として――」
「そーだぜ、委員長!
相澤先生が合宿キツイって言ってたんだし、楽しめるときに楽しまなきゃ体もたないって!」
飯田はそんな上鳴の言葉を否定せず、
「むむむ」と少し考えてから、片手を挙げクラスメイトに問う。
「ならば、ここは“多数決”で――!」
「早く乗れ」
相澤の低い一言が落ちる。
次の瞬間、「待ちたまえ!」と飯田が声を上げるより先に、数名がバスへ駆け込んだ。
皆が動き出したのを見て、夕紬はポケットから端末を取り出す。
――決められた“手続き”を済ませるために。
「私、窓際が良い!」
「梅雨ちゃん一緒に座ろ?」
そんな声を耳にしながら端末をいじり、保護者への報告を済ませる。
その後、少しだけ端末をいじるフリをして、クラスメイトの会話を一歩離れて聞く。
女子は7人、1人男子と座らなければならなくなる。
このクラスメイトに嫌がる子は居ないと夕紬もわかってる。
これはただの染み付いた習慣だ。
何人かが先にバスへ乗り込むのを確認し、夕紬は端末をしまって歩き出した。
ふと視線を感じ、顔を上げる。
轟くん……?
彼は静かに夕紬を見ていた、向けられた視線の意図はわからない。だから夕紬は言葉を返さず、微笑んだ。
バスに乗り込み、空いた席に座れば、後から乗り込んできたらしい轟が声をかけてきた。
「隣、いいか?」
夕紬は笑顔で返す。
「もちろん」
バスが走り出すと、すぐに中は喧騒に包まれた。
相澤の声は、喧しいざわめきにあっという間にかき消される。
「お前ら、一時間後に1回バスを停車させる。そのあとしばらく――」
「音楽流そうぜ!」
「席は立つべからず!」
「しりとりのり!」
相澤のため息を聞いてから、夕紬も隣の席の轟に声をかけた。
「先生が一時間にバス止めるって、休憩かね」
「……そんなこと言ってたか?」
「皆の声で聞き取りにくかったけど、言ってたよ」
「如月って、耳良いんだな」
「人並だと思ってたけど、そうなのかな?」
夕紬はそう言って笑う。
轟は口数が多くない。
どう会話を繋げるべきか、いや、無言でも別に――
「あっ!夕紬ちゃんもお菓子食べる?」
夕紬の思考を断ち切ったのは、前方の席から身を乗り出した芦戸の声だった。
持ってきたお菓子を周りに回しているらしい。
「ありがとう」
夕紬がそう言って受け取ると、隣の轟がためらいがちに口を開く。
「……なぁ」
「ん? なに?」
夕紬はお菓子を一口かじり、首をかしげた。
「親戚にヒーローとか、いんのか?」
目をぱちぱちと数度、驚いたようなフリをして笑顔を作る。
「藪から棒だね、どうしたの?」
「……“個性”の使い方を見て、そう思った」
「ふふっ轟くんも“個性”の応用うまいもんね。
うん、実は叔父がヒーローやっててさ、いろいろ教えてもらってたの」
夕紬は笑顔のまま、都合のいいように話を繋げた。
あっけらかんと返された答えに轟は少しだけ驚いたような顔を見せた。
「そうなのか」
「“個性”は似てないけど、結構ルールに厳しい人でさ」
「……大変そうだな」
「そうでもないよ、いい人だから。
でも、いろいろ気にかけてくれてる分、ちょっとだけ気を遣うけどね」
夕紬が苦笑いを漏らせば、今度は轟が首をかしげる。
「そういうもんか?」
「そういうもんじゃない?
そんな感じだから、雄英に入って独り暮らしも始めたんだけど、思ってたより快適でさ。
轟くんはない?一人になりたいときとか」
夕紬の言葉に轟は少しだけ考える。
今までは避けるために一人になりたいと思っていたが、今は違う、考える時間が欲しいと思う時が多かった。
「……ある」
「やっぱり、一人の時間って大切だよね」
夕紬は頷いてから、芦戸に貰ったお菓子を数個、轟に差し出して笑って見せた。
「でも、こうやって友達と過ごす時間は別腹だよね」
「……そうだな」
轟はお菓子を受け取り、口に含む。
ふたりの間に、静かな時間が流れた。
それから、バスで乗り物酔いした青山のために、クラス全員でしりとりが始まった。
簡単な遊びでここまで盛り上がれることを夕紬ははじめて知った。
気付けばあっという間に一時間が経っていたらしく、バスが止まった。
外に出ると、足の裏に土の感触が戻ってくる。
それから、長く座って固まった身体をほぐすクラスの姿が視界に入った。
「つか何ここ、パーキングじゃなくね?」
切島がぽつりと言う。
建物は一つもない。
ここは“待避所”と呼ばれる、車を一時的に停めるための場所だ。
見渡す限りの緑。視界の端は山で区切られている。
どこを見ても道路が続くだけで、建物は見当たらない。
一台だけ停まっている車が目に留まるが、角度が悪く夕紬の位置からでは車内は見えない。
「あれ?B組は?」
耳郎が、周りに他のバスがないことに違和感を抱いた。
トイレを探していた峰田が、相澤にすがるように声をかける。
「トトト、トイレは……」
「何の目的もなく、では意味が薄いからな」
峰田に返事をすることなく、相澤は淡々とそう告げた。
そのとき、止まっていた車のドアが勢いよく開く。
「よーうイレイザー!!」
女性の声。相澤はすぐに頭を下げた。
「ご無沙汰してます」
その態度だけで、夕紬は相手が合宿の関係者――あるいは支援者であると理解する。
案の定、車から降りてきた二人の女性は派手な服……コスチュームを身に纏っていた。
ただ、一緒に降りてきた小柄な男の子が、誰なのか夕紬にもわからなかった。
「煌めく眼でロックオン!」
「キュートにキャットにスティンガー!」
「「ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ!!」」
堂々とした名乗りと決めポーズ。
相澤が今回お世話になるプロヒーローだと説明すると、緑谷が勢いよく語りだした。
要約すると、山岳救助を得意とするベテランヒーローらしい。
緑谷が年齢に触れかけた瞬間、金髪の女性がコスチュームの猫の肉球を模した手袋をそのまま緑谷の顔に押しつけた。
……指先には爪を模した金属が付いている。
年齢については……触れないほうがよさそうだ。と夕紬は記憶に留めておく。
相澤はそんな様子を気にすることなく、生徒たちに声をかけた。
「お前ら、挨拶しろ」
「「「よろしくお願いいたします!」」」
クラスメイトの挨拶にヒーローの2人は笑顔を返す。
ショートカットの女性──マンダレイが一歩前へ出て説明を始めた。
「ここら一帯は私らの私有地なんだけどね」
彼女は、ここからでは施設どころか壁も天井も見えないほどの深い森を指さし話を続ける。
「あんたらの宿泊施設はあの山のふもとね」
その言葉で、一部の生徒に嫌な予感が走る。
夕紬もすでに答えは察していたが、動くことはなかった。
「え……?じゃなんでこんな半端なところに?」
麗日の疑問に、蛙吹がぽつりと呟く。
「これってもしかして……」
瀬呂が冷や汗を流しならみんなに声をかける。
「バス……戻ろうか……な?早く…」
「そっそうだな、そうすっか」
「うん」
何人かが苦笑いを浮かべながら、バスに近寄り出す。
それを見たプッシーキャッツの一人、マンダレイが軽く笑って呟く。
「今は午前9時30分。
早ければ12時前後かしらん」
どこか加虐的な笑顔に生徒たちは自分達の末路を察する。
「ダメだ……おい…」
「戻ろう!」
「バスに戻れ!!早く!」
芦戸、切島の声を皮切りに、生徒たちが一斉に駆け出した。まるでホラー映画のワンシーンのように、我先にと逃げていく。
夕紬は、その最後尾で周りの動きに合わせて動き出す。
マンダレイは追い打ちのように、笑った。
「12時半までにたどり着けなかったキティはお昼抜きね~」
「悪いね諸君」
相澤の言葉に合わせるように、ピクシーボブがバスの前に立ちはだかり爪を向けた。
生徒たちは思わず足を止める。
「合宿はもう」
ピクシーボブが地面に両手をつく。
「始まってる」
相澤の言葉を聞き終える前に生徒達は、波のように隆起した土に襲われ、そのまま崖の外へ押し出された。
「何だ~!?」
「土が盛り上がって!?」
悲鳴が飛び交う中、夕紬は目と口を閉じ、ひと呼吸だけ息を止めた。土が入り込まないように身を固め、それから落下中に姿勢を整える。
視界の端に、着地地点の土の質感が映る。柔らかい。いま、一緒に落ちていっている土もクッションになるだろう。
――大丈夫。
“個性”を使うほどではない。
唯一の懸念は、汚れた制服をどうするか、それだけだった。
案の定、着地を取れず尻餅をついたクラスメイトも怪我はなさそうだった。
「お~い!」
崖の上からマンダレイの声が降ってくる。
「私有地につき“個性”の使用は自由だよ!!
今から三時間!自分の足で施設までおいでませ!」
「この……魔獣の森を抜けて!!」
口に含んだ土を吐きながら、生徒が思い思いの言葉を口にする。
「なんだそのドラクエめいた名称は!」
「雄英、こういうの多すぎだろ……」
耳郎が疲れた声で言うと、切島が制服を軽く叩きながら立ち上がる。
「文句言ってもしゃぁねぇよ、行くっきゃねぇ!」
その場で誰よりも早く走り出したのは、ずっと尿意をこらえていた峰田だった。
「耐えた…オイラは耐えたぞ」
森に駆け込んだ峰田の目に、木の陰から“それ”が姿を現す。
人より遥かに大きい。
目のない頭部に、顎を貫くほどの長い牙。
四足で地面を抉るようにして動く、名の知らぬ生き物。
夕紬の知識にはない姿。
だからすぐに理解する――“個性”由来の“魔獣”だ、と。
「「マジュウだ―!?!?」」
周囲から悲鳴が上がり、ざわっと全体が揺れる。
すぐに構えを取った者もいるが、驚き動けないものもいた。
魔獣は峰田を見据え、巨大な前脚を振りかざそうとした。
――最初に動いたのは口田だった。
「静まりなさい、獣よ。
……下がるのです!」
けれど魔獣は止まらない。
夕紬は続いて口を開こうとしたが、やめた。
視界の端を、緑の髪が勢いよく駆け抜けたからだ。
緑谷が峰田を抱え、飛び退く。
魔獣はその動きを追うように姿勢を低くする。
すると、体の端から土がぼろぼろと崩れ落ちた。
その瞬間、生き物ではないと悟った生徒は何人かいた。
――でも、飛び出せたのは四人だけ。
緑谷、爆豪、轟、飯田。
4人は“個性”を使い、魔獣を瞬きの間に破壊した。
クラスメイトの間に安堵と称賛の声が広がる。
その中で、ひとり――峰田は肩を震わせていた。
「やった、おいら…やっちまった……」
涙をこぼす峰田。
クラスメイトの前で文字通りの醜態を晒してしまった彼に夕紬は声をかけた。
「荷物になるかもだけど……峰田くんのキャリー、呼び出そうか?」
峰田は顔を上げ、ぼんやりと夕紬を見つめた。
「……女神か……?」
***
施設についたのはPM5:20。
皆が息を切らしながら、やっとの思いでたどり着いた。
夕紬は魔獣の数は途中で数えるのをやめた。
A組全員で互いの長所を生かしながら協力して、この結果。
「なにが、三時間ですか!!」
全員の内心を代弁するように瀬呂が叫ぶ。
「それ、私たちならって意味、悪いね」
悪びれもせず、マンダレイとピクシーボブが笑った。
「ネコネコネコ。
でも正直、もっとかかると思ってた。
私の土魔獣が思ったより簡単に攻略されちゃった」
「いいよぉ君ら」
「特に……そこ4人!」
最初に動き出した四人を指差し、「3年後が楽しみ!」と文字通り、ぺっぺと唾をつけるピクシーボブに思わず周囲が固まる。
夕紬も思わず苦笑しつつ視線を巡らせたが、B組の姿はまだない。違う施設なのか、まだついていないのか。
夕紬がそんなことを考えている間に、緑谷が疑問を投げかける形で、マンダレイの従甥の洸汰という少年を紹介された。
「ほら、洸汰!
挨拶しな、一週間一緒に過ごすんだから……」
「あ、えっと……僕、雄英高校のヒーロー科の緑谷。よろしくね」
緑谷が腰をかがめ、握手を求めたが、洸汰は迷わず彼の男性の急所に右ストレートを決めた。
なぜと問いかける飯田の言葉に切り捨てるように睨み返す。
「ヒーローになりたいなんて連中とつるむ気はねぇよ」
「つるむ!?いくつだ君!!」
言葉遣いに飯田が驚き、爆豪が鼻で笑う。
「マセガキ」
「おまえに似てねぇか?」
「あ?似てねえよつーかてめェ喋ってんじゃねぇぞ、舐めプ野郎」
「悪い」
口で謝りながらも、小さく似てると呟く轟。
そんなやりとりを見て、夕紬はみんなと同じように口元をゆるめた。
「茶番はいい、バスから荷物降ろせ。
部屋に荷物を運んだら食堂で夕食、その後入浴で就寝だ。
本格的なスタートは明日からだ。さぁ早くしろ」
そう急かす相澤にみんな返事をして、体をなんとか動かす。
夕紬は端末を開き、宿舎についたことを保護者に報告し、みんなのあとを追った。
荷物の持ち込みを済ませると食堂に案内された。
食堂には長いテーブルと椅子が置かれ、ところ狭しと卓上におかずが置かれていた。
やっとの食事ということもあり、生徒らのテンションはいつもより高かった。
ピクシーボブは、そのテンションに押され気味に笑いながら声をかけた。
「まぁいろいろ世話焼くのは今日だけだし、食べられるだけ食べな」
「「あざす!」」
元気のいい切島と上鳴の声のあと、
忙しそうにしていたマンダレイの声が聞こえた。
「あぁ…洸汰!
そのお野菜、運んでおいて!」
彼は返事もなく、荷物を運ぶ。
その様子を見ていた緑谷の顔が、夕紬の視界に引っかかった。
「ねね、夕紬ちゃん!これもおいしいよ!!」
けれど、麗日に声をかけられてすぐに視線を戻す。
「ほんと?少しもらってもいい?」
「もちろん!」
***
食後は部屋に戻り、
着替えやタオルを手に夕紬達、A組の女子は風呂に向かった。
「温泉、露天風呂だってさ!楽しみ~」
「温泉、温泉、ろってんぶろー!」
脱衣室では葉隠、芦戸をはじめ、みんなが楽しそうに鼻歌混じりにオリジナルソングを歌っている。
「おっきいお風呂っていいよね~」
「そうだね、独り暮らしだとお風呂狭いもんね」
ニコニコと笑顔の麗日の言葉に夕紬も笑顔でうなずく。
すると、耳郎が首をかしげた。
「あれ、夕紬って独り暮らしだっけ?」
「うん。前に言ったような……言ってなかったかな?」
「えぇ伺った記憶がありますわ」
「それより、早くお風呂行こー!」
自身の洗顔やシャンプーを持ち込んだ生徒が多く、「これ使ってみる?」とあちこちで貸し合いが始まっていた。
夕紬は自分のものを使い、長い髪を泡立てていた。
隣の洗い場から、芦戸がひょいと覗き込み、夕紬の“首からつま先”まで目を走らせてから呟く。
「夕紬ちゃん、肌きれーだよね」
すぐ隣で体を洗っていた蛙吹も、声をかけてくる。
「そうね、傷跡、残ってなくて安心したわ」
夕紬は指先で自分の腕をなぞり、笑ってみせた。
「リカバリーガールのおかげだよ、心配かけてごめんね」
「そうだよ!女の子なんだから――!」
そんな声に、夕紬は眉尻を下げて「ごめんごめん」と謝る。
すると芦戸が「ちゃんと反省しなさーい!」と悪ふざけで夕紬にシャワーを向けた。
ただ、顔にかからないように気を遣っているのがわかる。
「おふたりとも! 危ないですわ」
八百万が慌てて注意すると芦戸は「あ、ごめん!」と笑い、周りにも笑みが広がった。
そんなやり取りを経て、みんなが体を洗い終え、
湯気の立つ露天風呂へゆっくりと足を運んだ。
「気持ちいいねえ」
「温泉あるなんてサイコーだわ」
「だねぇ」
夕紬はクラスメイトとの会話に相槌を打ちながら塀の向こう……男子風呂から聞こえてくる峰田の声を拾った。
覗き。
その単語を耳にしても、落胆も怒りもない。
“やっぱり”という、淡い呆れだけが浮かぶ。
先生が対処すると言っていた。任せればいい。
そんな思考を巡らせていたその時。
「壁とは超える為にある!
Plus Ultra!!」
「速!!」
「校訓を汚すんじゃないよ!」
男子風呂側が一気に騒がしくなる。
仕切りの塀の影から峰田がよじ登ろうと身を乗り出す――が、塀の上で待ち構えていた洸汰が峰田を押し、突き落とした。
「ヒーロー以前に、ヒトのあれこれから学び直せ」
「くそガキィぃィ!!!」
峰田の悲鳴とも罵倒ともつかない声が、静かな温泉に響きわたった。
「やっぱり、峰田ちゃんサイテーね」
「ありがと!洸汰くーん!」
女子風呂から、蛙吹と芦戸が声をかけた。
呼ばれれば振り向くのは自然な反応だ。
洸汰が顔を向けた先には、湯に浸かる――何も身にまとっていない女子たち。
少年には少し刺激が強すぎる光景だった。
「わっ……」
洸汰は思わず姿勢を崩す。
――落ちる。
夕紬はその判断と共に湯船から立ち上がり“個性”を使った。
「洸汰くん」
極力、彼に刺激を与えないように、彼の目元へ手を添えながら、温泉の床へ呼び寄せた。
ほんの少しだけ遅れて、ドン、と塀の向こうで何かがぶつかる音がした。
「だ、大丈夫!?」
麗日が湯から声をあげる。
「へっ平気だよ!それより洸汰くんは!?」
音の正体は緑谷だった。
洸汰を助けようと“個性”を使い止まりきれずに塀にぶつかっていた。
彼の言葉で女子たちの視線が夕紬へ集まる。
目元を覆っていた手をそっと下ろすと、洸汰は白目をむいて気絶していた。
「怪我はない。
でも、気絶してるみたい」
「良かった……」
夕紬の言葉に、男子風呂の緑谷が安堵の声を漏らす。
そこへ蛙吹が問いかけた。
「緑谷ちゃんは大丈夫?」
「大丈夫、勢い余って、ぶつかっちゃっただけだよ。
あっ驚かせたかな!?ごめん!」
「こっちは平気だよー」
耳郎が声を返した。
男子風呂のほうも、緑谷を気遣う声や峰田を叱る声で少し騒がしくなっている。
「洸汰さん大丈夫でしょうか……?」
八百万の声に、夕紬が静かに答える。
「驚いて気絶しちゃったんだと思う。
念のため、マンダレイさんのところに連れて行くね」
「あっ緑谷にも伝えといた方がよくない?」
芦戸の提案に、葉隠が声を張る。
「緑谷くーん!夕紬ちゃんが洸汰くん、マンダレイさんのところ連れてくってー!」
「ぼ、ぼくも行くよ!」
「念のため、緑谷も見て来てもらえば?」
男子側からそんな声も上がった。
夕紬は、洸汰をこれ以上濡らさないように軽く体を拭き、抱き上げた。
そのまま更衣室へ向かい、下着に手を伸ばして――やめた。
バスタオルを胸元に巻きつけ、髪を軽くクリップで上げたまま、更衣室を出る。
廊下には、すでに出ていた緑谷がそわそわと立っていた。
夕紬の予想通り、彼はタオルを腰に巻いただけで服は着ていない。
ドアが開く音に気づき、緑谷が振り向いた。
「あっ如月さん!洸汰く…ん……」
如月は体にタオルを巻いただけの姿。
髪先の雫が肩を濡らし、温浴あがりのせいか血色も良い。
緑谷の顔がみるみる赤くなり、手で自分の視界を遮るようにして、うわずった声をあげた。
「き、如月さん!!ふ、服は……!」
「洸汰くんの安否の方が優先かなって。
緑谷君も同じ考えでしょ? お互い様だよ」
緑谷は夕紬の腕の中の洸汰へ視線を移す。
その拍子に、夕紬の髪先から落ちた雫が肩に伝い、肌を滑り、谷間へ落ちていくのが視界に入り――
反射的に目を逸らした。
「でっ!でも、如月さんは、お、女の子だし……!
ほら、風邪ひいちゃうから!!ぼ、ぼくがマンダレイさんのところに運ぶよ!!」
「そう?」
夕紬が小さく首を傾ける。
「う、うん! 大丈夫、任せて!!」
「じゃあお願い。頭は打ってないけど……念のため、慎重にね」
緑谷は視界に洸汰だけを入れるように目を細め、できるだけ丁寧に腕を伸ばして受け取った。
「すぐ着替えて行くね」
夕紬はそう告げ、緑谷の返事を待たずに脱衣室へ戻っていく。
緑谷は脱力し、その場に座り込みたい衝動を押し殺して――出来る限り慎重に、しかし急いでマンダレイの元へ駆けていった。
一方、夕紬はすぐに着替え始めていた。
――彼が気を失った時、どんな状態だったか、わかるのは自分だけ。
そう考える。
怪我はなかった。
でも、もし病気を患っていたら?
そんなほとんど0%に近い可能性すら切り捨てない。
自分が呼び出すべきだったかどうか。
思考を止めずに、体を動かす。
さっきは全員入浴中だった。
あちら側にはクラスメイトがいた。
でも急いで動けば転倒の危険がある。
二次被害にもつながる。
――そう判断して、動かなかった。
でも、緑谷はすでに動き出していた。
なら、私は何もしないほうがよかった……?
それとも、もっと早く動くべきだった……?
その問いに、答えはきっとない。
服を着て、タオルを片手に夕紬は薄暗い廊下を歩く。
「――洸汰にとって、ヒーローは理解できない、気持ち悪い人種なんだよ」
開いたドアの奥から、マンダレイの声がこぼれた。
洸汰くんにどんな過去が……と一瞬だけ思考が走る。
けれど、その先には踏み込まない。
私にそれは求められていない。
それに彼にはヒーローたちがいる。
きっと――ひとりにはならない。
……いや、なりたくても、なれないのかもしれない。
ふと浮かんだ言葉を胸の奥に沈め、余計な思考を切り捨てる。
夕紬は開いたドアの前に立ち、軽くノックした。
「すみません、お話し中でしたか?
洸汰くん、大丈夫か心配で……」
眉尻を下げ、気まずそうな微笑みを作ると、
マンダレイが口角をわずかに上げて「洸汰は平気だよ」と優しく微笑み応じてくれた。
ソファに寝かされた洸汰を見つめるその横顔は、まるで本の中で読んだ“母親”のようにやわらかかった。
「緑谷くんから聞いたよ。洸汰を助けてくれたんだってね。ありがとう」
「いえ、そんな……事の発端はうちのクラスメイトなので。
むしろ巻き込んじゃって、申し訳ないです」
「ふふっ、まさか本当に覗きするなんてね。
今度からは女子の入浴中はあの子、縛り上げておくよ」
「クスッ……ぜひ、お願いします」
マンダレイの頼もしい言葉に夕紬が笑顔を浮かべれば、緑谷のほうへとピクシーボブが目を向ける。
「ほら君も、湯冷めしちゃうから早く着替えておいで」
「あっ、はい」
二人で軽く頭を下げて部屋を出る。薄暗い廊下に出た瞬間、隣を歩く緑谷の影が少しだけ濃く感じられた。
夕紬は二、三歩だけ先に出て、緑谷の前に立ち予備のタオルを差し出す。
「はい」
「え……?」
「髪だけでも先に拭かないと、風邪ひくよ」
「でも――」
「合宿中、寝込むつもりなの?」
「……ありがとう」
なにかあったの?と夕紬が口にすることはない。
追及はしない。
ただ黙って、緑谷より少しだけ前を歩く。
緑谷はしばらく黙ってついてきて、それから口を開いた。
「あのさ、如月さんって……好きなヒーロー、いる?」
「好きなヒーロー?パッとは出てこないなぁ」
夕紬は前を向いたまま言う。
その答えに、緑谷の顔にわずかな陰が落ちる。
「そ、そうなんだ…」
「でも、尊敬しているヒーローならいるよ」
「え……?」
あっけらかんとした声に、緑谷は思わず足を止めた。
夕紬は振り返って、いつもの笑顔を浮かべる。
「好きと尊敬って似てるけど違うと思うの。
例えば、好きと成りたいヒーロー像が違うこともあるんじゃないかな?」
「それは……そうだね」
「うん、人それぞれだと思うな」
緑谷の中で“ヒーロー”は、ずっとひとつの感情でできた世界だった。
好きで、憧れて、目指すもの。
それ以外の感情の存在を知らなかった。知る機会がなかった。
けれどヒーローである両親を亡くした少年はヒーローを嫌っていて、敵はヒーローを憎んでいる。
どれも緑谷の外にある、“知らなかった気持ち”だった。
価値観の相違に戸惑う緑谷だったが、クラスメイトの一人はそういうものでしょと笑っていた。
その笑顔は、いつもと変わらないはずなのに――
薄暗い廊下のせいか、緑谷の目にはほんの少しだけ冷たく見えた。