ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

6 / 33
5話 綻び

 

 

 

 

鼻の奥に、血のにおいが滲んでいた。

息をするたび、喉の奥が、少しだけ鉄っぽくざらつく。

 

ぼやけた視界の中で、何かが動いていた。

誰かの声がする。けれど、それは、どこか遠くの世界のことのようだった。

 

動かないはずの手足。

そして──頬に、誰かの手が触れている。

 

けれど、確かに息をしていた。

心臓が、静かに鼓動していた。

 

その感覚すら、誰か他人の身体のものみたいだった。

 

──私は、生きてる?

 

理解できなかった。

 

あの瞬間、確かに「終わった」と思った。

 

彼の手が視界を覆い、触れられた感覚と同時に、

世界が「終わる準備」をしていたのに。

 

「……なんで……」

 

声が、漏れた。

 

自分でも、出すつもりはなかった。

喉が勝手に震えて、言葉になっていた。

 

耳に届いたその声は、自分のものとは思えなかった。

 

「私は──」

 

呟いたあと、言葉はもう出てこなかった。

 

思考の輪郭が、じわじわと滲んでいく。

世界の色が抜け落ちていくような、感覚。

 

ああ、これはきっと、

「頑張ることをやめた」時に、近い。

 

脈打つ音だけが、耳の奥に微かに残り、

それもだんだんと遠ざかっていった。

 

(……まだ、許されないのかな)

 

誰に向けた言葉だったのかも、わからないまま。

ユウの身体は、その場に音もなく沈み込んだ。

 

意志だけ動かしていた身体から、ふっと力が抜けた。

倒れるというより、重力に気づく間もなく、空気に溶けるように“意識が抜けて”いった。

 

けれど、その直前。

 

ほんの、かすかに。

 

彼女の唇が、わずかに笑った。

 

それは誰にも気づかれない、

自嘲と諦念の間にある、名もない微笑。

 

 

そして、静かに目を閉じた。

 

──終わらなかった世界の中で。

彼女だけが、ほんのひととき、すべてから遠ざかった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

風に混じって、ふわりと香る──

鉄の匂い。血の匂い。

 

一瞬だけ、世界が水の中に沈んだみたいに静かになった。

 

──気づいた時には、“手”が、伸びてきていた。

 

自分の体は間に合わない。

口だけが、空を切って開いた。

 

その時だった。

 

「っ──」

 

誰かの影が、ひらりと差し込んだ。

 

細い体。傷だらけのコスチューム。

息を呑んだ。心臓が跳ねる。

如月さん──あの子が、まるで隙間を埋めるかのように、私と“あの手”の間に立った。

 

背中しか見えないのに、どうしてか、

この子はきっと、私を守ろうとしてるんだって、わかった。

 

鼓動が強くなる。

でも、それは怖かったからじゃない。

 

──ただ、悔しかった。

 

助けてもらったことじゃなくて、

“助けられるしかなかった自分”が、悔しかった。

 

「本っ当かっこいいぜ、イレイザーヘッド!」

 

声が響く。緑谷ちゃんが、飛び出していくのが見えた。

 

私も反射的に、如月さんの体を引き戻そうと手を伸ばした。

けれど、敵の動きは、それより速かった。

 

「手っ…放せぇ!!」

 

彼の拳が振り上がる。

その先にいるのは──あの男。

 

「……脳無」

 

誰かがそう言った。

耳に残ったのは名前じゃなく、音。

 

重くて、濁った音。

喉の奥が、寒くなる気がした。

 

目の前で、“それ”が動いた。

巨大な影が、緑谷ちゃんに向かって。

 

速い。間に合わない。

今度は、あの子が──

 

「っ……!」

 

私は舌を伸ばした。誰に命じられたわけでもない。

 

ただ、助けたかった。

 

私は、ヒーローになりたいから、ここにいる。

仲間だから、友達だから──その子を守りたい。

 

……さっきの、あの子のように。

 

でも、届かなかった。速すぎた。

 

私の舌では、止められなかった。

 

そのときだった。

 

「なんで、」

 

如月さんの声がした。

 

あの子の体から力が抜けた。

 

──倒れる!

 

でも、その前に。

 

轟音が、空気を切り裂いた。

 

風が巻き上がる。視界が、金色に染まる。

 

「──オールマイト……!」

 

皆が、息をのんだ。

 

あの人が動いた瞬間、世界が変わった。

 

気づけば──

緑谷ちゃんが抱えられ、

相澤先生が引き寄せられ、

 

そして、如月さんの身体が、私の目の前に運ばれていた。

 

「彼女の手当てを! 君たち、頼むッ!」

 

オールマイトの声。

私は、迷わず頷いた。

コスチュームのポーチに手を入れて、緊急用の治療セットを取り出す。

 

「如月さん、ごめんね──今、すぐに」

 

額から流れた血が、目元に溜まっている。

滅菌パッドで優しく押さえながら、血を拭う。

 

(視界が塞がれてたら……きっと、痛かったよね)

 

出血箇所を確認して、止血スプレーを吹きかける。傷がぴくりと反応した気がして、私はそっと息をのんだ。

 

(もう少し……だから)

 

その身体は、小さくて、軽くて、傷だらけだった。

 

破れたコスチュームの下、

血と泥がこびりついている。

 

(私を──守った子)

 

あの瞬間、背中で全部を引き受けた子が、

さっきまで私を庇って立っていた背中が、今はこうして、床に横たわっている。

 

「しっかりして……如月さん……」

 

私は手を伸ばした。

震える指先が、彼女の手の甲に触れる。

 

──あたたかい。

 

ちゃんと、生きてる。

それだけで、胸の奥がじんとした。

 

力が抜けそうになった。

 

でも、涙は出なかった。

 

泣いてしまったら、きっと、言い訳にしてしまう。

“怖かったから”って、“辛かったから”って。

 

私はヒーローになるんだ。

泣くのは、誰かを助けた後でいい。

 

だから、私は手を握ったまま、ただ願った。

 

(……死なないで)

 

──今度は、私があなたを守りたいの。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

雄英高校・医務室

 

静寂に包まれた部屋で、蛍光灯の白い光だけが機械的に空間を照らしていた。

リカバリーガールは、端末に映る夕紬の簡易スキャンを静かに見つめていた。

 

頭部の裂傷。出血は額から右のこめかみを伝い、乾ききらない血がまだ瞼の端を濡らしている。

骨折、脱臼、内臓の軽い損傷、そして神経への衝撃──すべて、戦闘由来の明確なダメージだった。

 

リカバリーガールは、スキャンを確認したのち、小さく首を振った。

 

「……これじゃ、回復なんてできやしないよ」

 

“個性”を使えば治せる。だが、それは本人の“体力”を燃料にする力だ。

今のこの子にそれを使えば──回復どころか、生命力を削るだけになる。

 

だから彼女は、まずは待つことを選んだ。

「癒し」は万能じゃない。命の火が消えてしまえば、それでおしまいだから。

 

 

──スキャンの結果はだが、それだけではない。

首元から鎖骨にかけて、スキャンに妙な乱れが生じていた。

 

「……?」

 

輪郭が、ごく微かに歪んでいる。

読み取り精度が落ちたわけではない。そこだけ“正確に映らない”。

 

異物反応。だが、金属反応はなし。

まるで皮膚と融合した未知の構造体が、機器の認識を撹乱しているかのような揺らぎ。

生体なのか、機械なのか、判別すらできない。

 

(この部分は……既存の医療スキャンでは判断がつかないわね)

 

リカバリーガールは端末から視線を外すと、処置の仕上げとして、夕紬の首元に触れようとした。

その指が皮膚へと近づいた、その瞬間──

 

「……っ」

 

意識のないはずの夕紬の体が、ぴくりと跳ねた。

 

喉元を守るように、反射的に首を引く。

眠ったままでも、そこだけは──触れられたくないと、身体が覚えている。

 

リカバリーガールは手を止めた。

 

「……そう。ごめんなさいね」

 

それ以上、何も言わなかった。

声は静かで、やわらかく、余計な情緒を含まない──けれど確かに「尊重する」音色だった。

 

彼女は、首への処置を中断する。

“医療的には必要なし”という形式にすり替えて。

 

再び端末に目を戻す。

脳波は微弱な振幅を繰り返し、不安定。神経系は過敏に反応していた。

 

(“個性”の反動……それとも、戦闘による過負荷?)

 

精神ストレスと神経過負荷。

エールコールのような、声帯や神経を介して記憶の無意識下、深層に作用する“個性”なら──

 

脳波に乱れが出ても不思議じゃない。

記憶力や瞬時の判断精度も求められる“個性”だ。

繊細な制御が求められる分、神経の消耗は大きい。

 

それでも、この子は「死ななかった」。

今は、それだけで十分だ。

 

包帯を丁寧に巻き直し、インナーを切り開く。

けれど、首元に触れようとしたときの反応がよみがえる。

 

──そこだけは、守るようにすぼめた肩。

 

ハイネックのインナーは、必要な箇所だけ慎重に切り開き、

できる限りそのままにしておく。

 

彼女が嫌がる理由を知る必要はない。

ただ、“それ以上は踏み込まない”という選択だけが、今は必要だった。

 

そうして新しい服に着替えさせ、その上からブランケットをそっとかける。

 

呼吸を整えるように、ほんの一拍の間を置いて──

リカバリーガールは、灯りを落とした。

 

少女の眠りが、どうか少しでも穏やかであるように。

それを言葉にせず、背中で伝えて、部屋を後にした。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

コンコン、とノックをして、中からの返事を待つ。

 

「失礼します。蛙吹です」

 

中には、整理棚に何かを仕舞っている小柄な女性の背中が見えた。

 

「どうしたの? どこか痛む?」

 

「いえ。あの……ひとつお願いがあって」

 

私は少しだけ姿勢を正した。

 

「如月さんに、会わせていただけませんか?」

 

「如月……ああ、あの子ね。重傷処置のほうにいるわよ。まだ面会制限かかってるけど──」

 

「……命を、助けられました。

きちんと、お礼が言いたいんです」

 

言い切ると、リカバリーガールの動きが一瞬止まった。

 

一度だけ息をついて、目を細める。

 

「……いいわよ。行ってらっしゃい」

 

思ったよりも、すんなりだった。

 

「ありがとうございます」

 

けれど、ドアに向かいかけた私に、リカバリーガールはぽつりと言った。

 

「ただし、あの子はまだ全部が治ったわけじゃないわよ」

 

私は立ち止まり、ふり返る。

 

「身体は動いても、心はまだ動かないこともある。

だから、無理に“元気出して”なんて、言わないこと。わかってるとは思うけどね」

 

「……はい」

 

私が頷くと、彼女は微笑んで言った。

 

「だったら、大丈夫。行ってらっしゃい、蛙吹さん」

 

 

 

 

 

 

 

病室の扉をノックするが返事はない。

 

「失礼するわ。……夕紬ちゃん──じゃなかった、如月さん」

 

ドアをそっと開けると、ベッドの上に静かに横たわる姿が見えた。

 

(やっぱり、ねてるのかしら……)

 

彼女は目を閉じていたけれど、

何かを感じ取ったように、まぶたがわずかに動いた。

 

 

「……蛙吹さん?」

 

 

細い声。けれど、はっきりと届いた。

 

 

「今日は、“梅雨ちゃん”で来たの。お見舞い、ってことで」

 

 

そう言いながら、私は紙袋から、小さな箱を取り出す。

 

 

「ゼリー。冷たい方が美味しいけど、今は常温でも大丈夫なやつにしたの。……よく噛まなくてもいい」

 

 

差し出すと、彼女はほんの少しだけ目を丸くした。

 

 

「……ありがとう」

 

 

「いえいえ。私、ゼリーが好きなの。……だから、これなら食べやすいかなって」

 

 

笑ってみせたけど、彼女の反応は薄い。

 

でも、受け取ってくれただけで、十分だった。

 

 

少し間を置いて、私はそう答えた。

 

 

「……梅雨ちゃん、って」

 

 

「“呼んでほしい人”にしか言わないのよ。……だから、ちゃんと伝えておきたかったの」

 

 

彼女の目が開く。

 

少し驚いたような、それでいてどこか、困ったような顔だった。

 

 

それでも、口を閉ざしたままではいなかった。

 

 

「……そういうの、ちゃんと言うんだね」

 

 

「うん。言わないと伝わらないことって、あると思うから」

 

 

私はベッドのそばの椅子に腰を下ろした。

 

 

「私、あの時──助けてもらったのに、ちゃんと何も言えてなかった」

 

 

「いいよ。もう過ぎたことだし」

 

 

如月さんは、そう言ったけれど。

 

 

私は、首を横に振った。

 

 

「そうじゃないわ。“もう過ぎたこと”にしちゃったら、あの時のあなたの勇気も、意味も、なかったことになっちゃうもの」

 

 

「……」

 

 

「だから、ありがとう」

 

 

静かに言って、目を合わせた。

 

 

「それから──今度、ちゃんと呼んでいいかしら?」

 

 

「……何を?」

 

 

「夕紬ちゃん、って」

 

 

彼女のまばたきが止まった。

 

ほんの少し、肩が揺れた気がした。

 

 

そして──

 

数秒遅れて、小さく頷く。

 

 

「……うん」

 

 

「じゃあ、もう一度。夕紬ちゃん、ありがとう」

 

 

今度は、ちゃんと声にして。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

朝起きると夕紬の枕元には、いつの間にか一本のペットボトルが置かれていた。

ラベルのない透明な水。

誰が置いたか、訊くまでもない。

 

そこには、名も言葉も残っていない。

けれど──確かに「生きて帰ってきたこと」だけは、誰かが見ていたのだと分かる。

 

 

医務室の窓辺には、曇りガラス越しの光が差し込んでいた。

時計の針は午後三時を指している。

 

「失礼します」

 

 

扉の外から響いた声は、職員ではなかった。

夕紬が視線を上げると、そこには静かに佇む男がいた。

 

空調の音が、遠くで低く唸っている。

壁の時計は、針の音も立てずに時を刻んでいた。

まるでこの部屋だけが、世界の音から切り離されているようだった。

 

如月漣。

ヒーロー・サイレン。

 

「お見舞いだ。正式には“保護者としての確認”だが──」

 

そう言って、花や果物のひとつも持たずに、漣は部屋の隅に立った。

 

夕紬は、彼の出現に驚いた風もなく、ただまばたきを一つ。

 

「経過は確認済みだ。左腕は粉砕骨折、肋骨は複数、腰椎の神経圧迫に肺の一部損傷」

「腹部への打撲と、脳の機能負荷も報告されている」

 

漣は一拍置いて、窓の外に目をやった。

 

「……それだけの状態で、“報告は可能”と判断した理由は?」

 

「痛みには慣れていますから」

 

「そうか。君らしい」

 

二人の会話はそれだけだった。

 

漣は椅子に座らず、窓の外を見たまま、黙っていた。

 

やがて、サイレンが口を開く。

 

「医師からの報告は受けた。君自身の判断はどうだ」

 

「身体に問題はありません。明日以降は普段通りの生活に戻れます」

 

「……そうか」

 

漣は手を後ろに組み、背筋を伸ばしたまま、ただ静かに言った。

 

「君が“壊れたから終わるべきだ”と考えたのなら──私は、それを評価しない」

 

夕紬は何も言わなかった。

 

「だが、“誰かを守るためにそうした”のであれば──」

 

「それは記録しておく。

 善し悪しではなく、“選んだ”という事実としてな」

 

返答はなかった。

ただ、夕紬が視線を伏せたまま、少しだけ唇を結んだ。

 

その一瞬を、漣は見逃さなかった。

 

彼の目に、何かが浮かびかけ──

だが、いつもの沈黙で押し流された。

 

(──この判断は感情ではない。記録としての評価だ)

そう思いかけて、それすら“揺らぎ”だと自覚してしまう。

 

届いてしまったと気づくには、充分すぎる反応だったが──

届いたことを、口にする資格はなかった。

 

「……明日は、登校できるな?」

 

「はい。いつも通りに」

 

「ならば、それでいい」

 

漣はそう言って、背を向けた。

 

扉の前で一度だけ立ち止まる。

 

「必要があれば、端末で連絡しろ。何もなければ……沈黙は了解と解釈する」

 

「……はい」

 

扉が閉まる音は、いつもより少しだけ、やわらかく響いた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

放課後の教員棟。

備品室の前、人気のない廊下。

 

漣は、窓の影に立ち、何も言わずに待っていた。

 

やがて、足音が近づく。

 

「……見舞い、行ってたんだな」

 

相澤は、ファイルも持たずに声をかけた。

 

漣は返さない。

代わりに──ひとつ、思い出す。

 

夕紬の病室。

まだ動けないはずの彼女の枕元に、常温のまま置かれたペットボトルの水。

封は、開けられていなかった。

 

「……君も、だろう」

 

「……彼女は、報告をしない」

 

「らしいな。だが、嘘もついていない」

 

「嘘を事実で包む。嘘をつかない者は、誤魔化しが上手い」

 

「それも、彼女の個性だ」

 

数秒の沈黙。

 

漣は眼鏡の奥でまばたきを一つした。

 

「彼女は“生きるためにあの生き方を選んだ”。

君はそれをどう見る?」

 

相澤は返さない。

代わりに、壁の時計に目をやる。

 

 

「……選んだ、って顔じゃなかった」

 

一拍、言葉を止めて。

 

「あれしか、なかったんだろ。あの子には」

 

ゆっくりと視線を伏せながら、付け足す。

 

「だから──俺が教える。“それしかない”なんて、思わなくていいって」

 

 

相澤の言葉は、肯定ではなかった。

だが──確かに、“与える者”の声だった。

 

(……君は、教えられるのか)

沈黙の中で守られてきた少女に、

叫ぶ自由を与えることが、果たして“救い”になるのか──

 

自問に、答えはなかった。

ただ、彼の中の“過去”が──小さく、軋んだ。

 

 

漣はわずかに目を伏せた。

 

「君らしい」

「だが、私は考えてしまう──彼女はもう、“形がない”のではないかと」

「仮面の下に、“誰か”がいると信じてきた」

「だが今、それが信仰だったのかもしれないと──今回、初めて思ってしまった……」

 

「証明など──もう、誰にもできはしない」

 

 

 

「証明なんているのか。

必要なのは、誰が“最後まで見届けるか”だろう」

 

また沈黙。

風が廊下を通り抜け、ふたりのヒーローの間に一瞬の間を作った。

 

漣は歩き出す。

その背に向けて、相澤がぽつりと呟いた。

 

「……お前は“仮面を与えた側”だろ。

なら、剥がす役まで買うな」

 

その一言は、まるで釘だった。

 

漣は振り返らない。

ただ、右手の指がほんの少し、空を切った。

 

それが「了解」だった。

 

けれど、わずかに──ほんのわずかに、眉が動いた。

 

普段の冷淡で均整の取れた表情が、静かに“ほころぶ”。

 

目元が少しだけ伏せられ、口角が――笑うでも、怒るでもなく、わずかに震えた。

 

まるで、そこに“正しく痛みを感じる人間”が、

初めて顔を出したような仕草だった。

 

それは仮面の奥に、誰かを見つけてしまった者の、

ほんの一瞬の綻びだった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

──その頃、とある無人のバーの奥の一室。

 

整然としたカウンター。整頓された棚。

人の気配はないのに、どこか「使われている」感触だけが残っている場所。

 

明かりもつけられない場所で、男がひとり、黙ってスマホを見ていた。

 

画面には、たった一行の未読メッセージ。

 

 差出人:ユウ

 内容:『痛みで判断が鈍った。

     あれが綺麗な終わりかたな気がしたの。

     君を巻き込んで、ごめん。』

 

画面は、閉じられなかった。

 

スクロールもせず、指は何度も同じ文字列をなぞるだけ。

 

やがて──小さく、舌打ち。

 

それは苛立ちというより、“思考がまとまらなかった”ことへの、静かな不快の音だった。

 

「……何が、“綺麗”だよ」

 

呟いた声は、自分の中に沈んでいった。

怒りか、疑問か。──そもそも、それすらわからなかった。

 

画面の光が、虚ろな瞳を淡く照らす。

 

その顔には、怒りも、困惑も、何もなかった。

ただ、どこにも焦点を結ばない瞳があった。

 

でも。

 

……それでも、画面は、閉じられなかった。

 

逃げるように電源を落とすことすら──できなかった。

 

 

 

 

 

 












ここは連投したほうがいいと思い例外的に投稿しました。
予告なしですみません。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。