ただ一度、君の名を   作:K4R4SU

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新章の始まりです。

※1章4話を加筆前の旧バージョンで投稿していたため修正しました。
(約2,600文字増えてます)
※名前ミスを修正しました。


消せない痛み ―体育祭編―
1話 波紋のまま、歩き出す


 

 

 

医務室の天井には、静かな白が広がっていた。

息を吸うたび、鼻腔にわずかに残る消毒の匂い。

その中で、相澤は上体を少しだけ起こし、片手に立てかけたタブレットを包帯の隙間から見つめていた。

 

画面に映るのは、USJ事件のまとめ報告。

確保、目視された脳無の損傷状況、生徒と教師の怪我と治療記録。

そのどれもが、“仮定”の域を出ていなかった。

 

──脳無(β体:敵勢力によって回収された個体)

  ・α体に比し、筋力・身体能力において劣ると推定される。

  ・ただし、耐久性および身体能力は依然として**常人の生理的限界を大きく超えており**、戦闘においては十分に脅威足りうる。

  ・如月夕紬の“個性”により左上肢および両下肢を欠損。再生の兆候はなし。

 

 

あの個体は、自分が戦ったものとは別物だった。

もし同じだったなら──

 

(……あいつは──)

思考は、言葉にならずに沈む。

 

報告書には、彼女の治療記録もあった。

二日で片腕の骨折以外は回復。

 

骨折。裂傷。神経への衝撃。

だが、致命傷はなかった。

 

(殺意は、あった)

あの場で見た限り、動き、出力、軌道──どれも加減はなかった。

迷いもなかった。

 

なのに、彼女は──生きていた。

 

肋骨は折れ、内臓にも打撲。

けれど、それだけだった。

 

(受け流した? いや、それにしては……)

 

記録も証言もない。

あるのは、“そうなった”という事実だけ。

 

……如月夕紬という生徒の、結果だけ。

 

考えても、答えは出ない。

これはただの推察だ。

 

彼女は──生き延びていた。

それが、今の唯一の事実だった。

 

不意に、視線を下ろす。

両腕に巻かれた包帯が、鈍く軋んだ。

まだ痛む。けれど、歩けないほどではない。

 

彼はゆっくりとベッドの縁に腰を下ろし、端末を閉じた。

 

「……さて」

 

そう呟いて、立ち上がる。

 

カーテンがわずかに揺れて、向こう側の気配が動いた。

 

 

 

「もう出るのかい?」

 

背にかけられた声に、相澤は立ち止まる。

 

ドアの前で振り返ると、机の奥でカルテをまとめていたリカバリーガールが、わずかに顔を上げていた。

 

 

窓の外は傾いた陽が、窓際を柔らかく染めていた。

外は、すでに夕刻に差しかかっている。

 

一歩ずつ、ゆっくりと歩くたび、包帯の下で鈍く軋む痛みがあった。

 

けれど、それはもう“戦闘不能”の痛みじゃない。

 

 

「……無理はしちゃだめだよ。あんたの体、いまにも糸がほつれそうなんだから」

 

「……心得てます」

 

短くそう返して、ドアに手をかけたとき──

 

 

 

「……止まり方を、教えてあげな」

 

背中に届いたその言葉に、相澤の手がわずかに止まった。

 

 

 

「走り続けるのも、傷を抱えるのも──それ自体は、本人の選択だけどね」

 

「でも、“止まり方”だけは──誰かに教えてもらわなきゃ、きっと、わからない」

 

その声は、もうカルテへと視線を戻していた。

まるで独り言のように、けれど確かに、相澤へ向けられたものだった。

 

「……身体の方は、私の担当。けど、心の方は──そっちの管轄だろう?」

 

 

 

静かな沈黙が落ちる。

 

 

 

やがて相澤は、ゆっくりとドアノブを回した。

 

「……そう簡単に、教えられるもんじゃありませんよ」

 

声は低く、けれどどこか、確かなものを帯びていた。

 

「でも──やります。俺がやれる限り」

 

 

 

ドアが静かに開き、光の中に消えていく背中を、リカバリーガールは追わなかった。

 

ただ、書きかけのカルテの脇で、ふう、と小さく息を吐いた。

 

 

 

「……まったく、教師ってやつは」

 

誰にともなくそう呟いて、彼女はペンを動かし続けるのだった。

 

 

 

……けれど、追いつけるとは限らない。

 

彼女が何を捨てたのか。何を抱えたまま進むのか。

それを“理解する”ことは、きっと──ずっと、後になる。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

退院してから、まだ一日も経っていない。

 

いつものように照明はつけない。カーテンも閉じきっている。

外の音も、空気の動きも遮断された、小さな部屋の中。

 

室内の灯りは、キッチンの手元灯だけが淡く光っている。

ユウは壁にもたれかかるように座り、背筋だけはまっすぐだった。

痛みを抑えるための安静とは程遠い姿勢。それでも、動けない。

 

──これは儀式のような後処理。

 

ユウは、“あの日の痛み”を心の奥から引っぱり出すために、

記憶を取り出そうとしていた。

 

普通の人は、記憶を本を立てに積むように新しいページを重ねる。

すると古い本は下のほうに押し込まれ、アクセスしづらくなる。

 

だがユウは、あの戦場の痛みを棚にしまい込み、そのままにしてきた。

記憶棚の枠を使い切る前に、

古いページを取り出して「痛みを追体験して整理し、本として積み重ねる」必要があった。

 

 

呼吸は浅く、でも刻一刻と一定だ。

左腕にはまだ固定具がついていて、動かせるのは右腕だけ。

目を閉じる前に、口元にタオルを当て、歯に軽く噛みつく。

声になりかけた痛みの叫びを、ぎゅっと噛み殺すために。

 

瞼が閉じると──意識の奥で、あの日の世界が再び立ち上がる。

 

──脳無の拳が振り下ろされた瞬間。

──吹き飛ばされ、背骨が軋んだ感覚。

──肺が潰れて白く染まった視界。

──身体が「死ぬ準備」を始めていたこと。

 

意識の中で、それらをひとつずつ“見る”。

 

「……っ」

 

タオルの布地が歯に食い込み、肩が震えた。

いま痛いのは、身体ではなく“記憶の奥”に残る震えだ。

戦場の残響が、まるで瞼の裏で火花のようにちらつく。

 

《これはノイズ》《いまは、いらない》《この痛みは、“あとで”》

 

思考が、記憶の断片を仕分けていく。

しかし──完全に終わらない。痛みを後回しにしただけだから。

 

そして──

 

「……っ、は……ッ」

 

反射で、瞼が跳ねた。

その目は、淡い光に照らされて、かすかに揺れていた。

 

虹彩の奥に浮かぶ、幾重にも重なる同心円──

それは“記憶固定”が記憶を削除する際にだけ現れる、ごく内側の動作。

 

本来、誰の目にも触れない処理。

目を閉じたまま、誰にも知られずに済ませるはずの“整理”。

けれど今夜は、脳の処理が限界を越え、目が開いてしまった。

 

この揺らぎを見た誰かが、それを“異常”と認識するなら──

ユウは、もう“普通のふり”ができなくなる。

 

──ああ、だめだ。開くな。

ユウは、思わず目を絞った。

 

誰にも見せてはいけない目を、自分は今、開けている。

見られてしまえば、もう、戻れない。

 

けれど、それでも──処理は止めなかった。

 

「……これで、いい……」

 

 

このあり方を決めたのは、私だ。

誰かに与えられた力でも、使うと決めたのは、他の誰でもない“私”なんだ。

 

口ごもるように呟くと──

 

神経の端を針で突かれたような痛みが、下半身に走った。

そうだ、腰椎までやられていた。肋骨は折れたままだし、内臓にはアザが残る。

痛みを後回しにした代償が、いま一気に押し寄せてきた。

 

でも、逃げるわけにはいかない。

 

目の奥が熱い。

口の中でタオルがきしみ、背中が痙攣する。

足元の床に、汗がぽたりと落ちた。

 

──今夜、彼女が本当に「消したい」のは、

誰かを壊す選択を自分が下したという記憶。

デコイのように誰かの命を“使った”という事実。

 

そして──

 

「“左腕”」

 

戦場で、冷静を装いながら叫んだ自分の声が、耳に刺さる。

脳無はもう人間とは呼べないかもしれない。でも──

 

「“両脚”」

 

ただの戦術、正当な行動だったはずだ。

それでも──

 

「……醜い」

 

感情が遅れて押し寄せる。

胸の奥に、凍るような重みが降りてきた。

 

ああ、やっぱり消せなかった。

心から「消したい」と思わなければ、記憶は消えない。

 

ユウはそのまま頭を垂れた。

処理はひとまず終わった。

記憶は消えても、痛みだけはまだ身体に残った。

 

目を閉じると、たった今消えたはずの戦場が、もう蘇ることはない。

だが身体と脳が受け取った「痛みの事実」は、消えずに残ってしまった。

 

ユウはタオルを静かに落とし、床にこぼれた汗を見つめる。

指先がわずかに震えている。

 

それでも、立ちあがらず、ただ壁にもたれて天井を見つめたままじっとしている。

 

窓の外、夜が深まる。

世界は、何もなかったように動いていく。

 

あの日、何もなかったふりをした私は、

そこに取り残されたまま、まだ止まっている。

 

──この街が動き出すまで。

もう少しだけ、ここにいてもいいだろうか。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

処理が終わってから、しばらくの間、ユウはそのまま動けなかった。

 

体温がじわじわと戻ってくる。

でも、心拍はまだ落ち着かない。

 

喉の奥にまだ残る微かな震えがある。

それでも、無視するように立ち上がる。

 

ゆっくりと、浴室へ。

足取りは重い。けれどそれは痛みのせいだけじゃない。

 

シャワーの温度は、ぬるい。

熱すぎると息ができないし、冷たいと“現実”が強くなる。

 

水の音が、壁を伝って、反響する。

 

タオルで髪を拭く動作さえ、どこか機械的だ。

鏡は見ない。傷も見ない。必要なことだけを、淡々と。

 

(……眠れるかな)

 

そう思って、思うのをやめた。

 

ベッドに倒れ込むように体を沈める。

左腕は動かせないから、右手で毛布をなんとか引き寄せる。

 

目は、閉じる前から乾いていた。

 

何も夢を見なければいい、そう思いながら、

ユウはようやく、意識を沈ませた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

目覚ましが鳴る。

ユウは、静かに目を開けた。

 

カーテンの隙間から差し込む光が、まるで久しぶりの自室の朝を知らせる気配は、いつもと同じもののようで、少しだけ違って見えた。

痛むはずの腕に意識を向ける前に、呼吸を整える。

吸って、吐いて、また吸って。

 

「……それでも…」

 

誰にも届かない言葉を、喉の奥でそっと押し出した。

 

冷たい床に足をつけ、ゆっくりと立ち上がる。

左腕はまだ固定されていて、動かせない。

でも、制服は自分で着る。

靴下も、片手で履く。

朝食は、昨日買ってきたパンと、ジュース。

 

味は、しない。

 

それでも、咀嚼する。飲み込む。

“生きるための動作”を、ひとつひとつ、静かに繰り返す。

 

スマホに通知がいくつか。

既読をつけるだけ。返信は、しない。

 

鏡の前に立っても、目は合わせない。

髪を整え、シャツの裾を直し、いつものように仮面をかぶる。

 

外に出れば、世界は普段通りに動いていた。

笑い声も、靴音も、遠くで聞こえる朝の放送も──全部、自分には関係のないものに思えた。

 

(それでも今日は来る)

 

そう思いながら、けれど、足は止まらない。

 

まっすぐに校舎へと向かう、その歩幅は、

ほんの少しだけ、いつもより静かだった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

扉が開いた音で、ざわついていた教室がほんの一瞬だけ静まる。

 

 

次の瞬間、視線が集まった。

 

 

如月夕紬──“USJで戦った子”が、包帯の巻かれた左腕をかばうようにして、教室に入ってきた。

 

 

椅子を引く音も止まり、クラスの空気が固まる。

 

その中を、夕紬はまっすぐ歩いた。

 

 

「……おはよう」

 

 

笑顔は、いつも通りだった。

 

誰とも目を合わせず、けれど誰からも目を逸らさず。

 

仮面のように、でも完璧に自然な、優等生の“表情”。

 

 

その声で、ようやく教室の空気がまた動き出す。

 

 

 

 

「如月さん!」

 

 

真っ先に駆け寄ったのは、八百万百だった。

 

立ち上がる仕草さえどこか慎重で、背筋を伸ばしたまま、まるで診察するかのように夕紬の姿を見つめている。

 

 

「大丈夫ですか? 傷、まだ痛むのでは……?」

 

 

眉をひそめ、声にも緊張が混じる。

 

 

「ううん。もう、歩けるし。ありがとう」

 

 

笑って、首をすこしだけ傾ける。

 

その柔らかな言葉に、八百万の眉が少し緩んだ。

 

 

ほんの一瞬、周囲に“ああ、大丈夫なんだ”という安堵が走ったのがわかる。

 

 

 

 

「マジでさあ、それ……戦ったやつの証だよね?」

 

 

上鳴電気が椅子から身を乗り出すようにして、夕紬の腕を指す。

 

勢いはあるけど、どこか所在なさげで、気遣いの方向を探してるみたいだった。

 

 

「ちょ! 上鳴、あんたさぁ……!」

 

耳郎響香が呆れたように振り返る。

その声は咎めというより、思わず出た“面倒見のよさ”だった。

 

「……いや、マジですげぇと思ったんだって!」

 

上鳴は手をわたわたと振って、言い訳のように言う。

 

「その言い方が問題なんでしょ」

 

「──ううん。大丈夫だよ。耳郎さん、ありがと。上鳴くんも」

 

 

と笑ってみせた。

 

 

教室の一角で、誰かが小さく笑う。

 

空気が、少しずつ緩んでいく。

 

 

 

 

 

「……あの、如月さん」

 

少し離れた席から、緑谷出久が声をかけた。

 

「僕、なにもできなくて……その──」

その目には、まっすぐな感情と、言葉にしきれない“何か”が浮かんでいた。

 

「ううん。緑谷くんが敵に立ち向かったって聞いたよ。ありがとね」

 

だから夕紬は彼の目を見て、彼の言葉を遮る。

夕紬は、その目を見て、少しだけ笑う。

 

 

 

ほんの短い沈黙のあと──

 

 

「──おかえり、夕紬ちゃん」

 

 

蛙吹梅雨が、後ろの席から立ち上がり、数歩だけ前に出る。

 

夕紬の肩が、微かに動いた。

それは反応だった。言葉はなくても、ちゃんと。

 

「無理しないのが、一番大事よ。……知ってると思うけど」

 

「……うん」

 

「今日は、顔が見られてよかった」

 

その言葉で、教室の空気が一段階ほぐれた。

 

「え!?いいなー!! ねーねー!じゃあ私も“夕紬ちゃん”って呼ぶー!」

 

葉隠透の声が空間に弾ける。姿は見えないけれど、夕紬の肩のあたりで手がひらひら動いている。

 

「だってなんか、“さん”付けだと距離ある感じしない?それにほら、夕紬ちゃんって呼びやすいし!」

 

「わかる~!じゃあアタシも“夕紬ちゃん”で!」

 

芦戸が明るく続く。

 

「わ、わたしも!よろしいでしょうか…?」

 

八百万も、控えめに手を上げた。

そして、麗日、耳朗もそろそろと手を挙げた。

 

夕紬は返事をしない。けれど、

 

その目元が、ふっと緩んだ。

 

それを見た葉隠が、嬉しそうに叫ぶ。

 

「……今ちょっと笑ったよね!? かわいい!」

 

「……かわいくはない」

かすかに、だけど確かに返ってきた声に、周囲が笑い声で和んだ。

 

 

そのとき──

 

夕紬の視界の端で、爆豪勝己がちらりとこちらを見ていた。

椅子にふんぞり返り、腕を組んだまま、口は開かない。

 

誰よりも静かに、けれど誰よりも強く、視線だけを投げていた。

 

夕紬は、その視線に気づいたことを気づかれないように、

 

ただ一度だけ瞬きをして、ゆっくりと目を逸らす。

 

誰にも背中を押させず、でも誰にも拒絶されないように。

 

仮面のまま、如月夕紬は“教室の一員”で居続けた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

昼休みの時間。

校舎の裏手にある、ちょうど風が抜ける静かな場所。

 

自販機の並ぶそのスペースに、夕紬は一人で飲み物を買いに来た。

クラスメイトが止めたが、少しくらい気晴らしに歩きたかった。

 

囁くような声が、教室の喧騒の中でもしっかりと届いた。

手には紙パックのぶどうジュース。無意識に、吸い口を指でなぞる。

 

ちゅっと吸えば、口の中に広がる人工的な甘さ。

先ほど食べた、口田がくれたドライフルーツの素朴な味とは違っていて──

似ても似つかないそのギャップに、意味もなく小さく息が漏れた。

 

視線はどこにも定まっておらず、けれど周囲の気配はすべて把握している。

物音、足音、遠くの笑い声。全部、ただの雑音だ。

 

──なのに。

 

「……あのっ!」

 

不意に、弾けるような声が飛び込んできた。

 

振り返ると、そこには見知らぬ制服の少女が立っていた。ヒーロー科ではない。

 

「ご、ごめんね……突然、びっくりさせちゃって」

 

彼女は息を整えながら、制服の裾を握っていた。

思い出す。何日か前、下駄箱の影で階段に躓いていた子だ。

夕紬は咄嗟に支えて、落ちかけた書類を拾って手渡しただけ。

 

「そのときの……」

 

「あっ、うん! それ、それです!」

「……あのとき、誰も周りにいないと思ってたから」

「……ほんとに、びっくりした。けど……うれしかった」

 

少女は顔を赤くしながら、少しだけ俯いた。

声のトーンから、迷いと感謝がにじんでいた。

 

「……お礼、ちゃんとできてなくて」

「その……助けてくれて、ありがとう」

 

夕紬は一歩引くように、軽く首を横に振る。

 

「ありがとう」──ただの感想。それなのに、仮面がきしむ気がした。

本当に望んでいるのは、“誰の記憶にも残らないこと”なのに。

 

「気にしないで」

「たまたま、気付いただけだよ」

 

それ以上、理由なんてなかった。

生きるために必要だから、あれを助けないのは如月夕紬らしくない。

助ける必要があったから助けただけ。

 

それでも、心の奥では──ほんの小さな“棘”が動いた。

 

(……わたしは、「誰かのために動いた」わけじゃない)

 

それでも──

 

「……あのね、噂で聞いたの。USJの時、すごく大変だったって」

 

「……私、詳しいことはわからないけど」

 

「でも、あなたのこと、すごいって思った。クラスは違うけど、応援してるから」

 

そう言って、小さな紙袋を差し出した。

 

「これ、さっき購買で買ったお菓子……甘いの、苦手だったらごめんね!」

 

中身は個包装のバターサブレ。

夕紬は一瞬、言葉を探して黙る。

 

そして──

 

「ありがとう」

 

紙袋を受け取りながら、やわらかく微笑んだ。

紙袋は、軽かった。けれど、その軽さが、なぜか指先にまとわりついた。

 

 

それは、演技だった。

けれど、“誰かを安心させるための嘘”は、誰にも見破られたりはしない。

むしろ──本当より、よくできている。

 

彼女はそれで満足したように、安心して笑った。

 

「じゃ、またね!」

 

元気な足取りで戻っていく彼女が振り返る。

 

 

「あ!あの名前、聞いてもいいですか?」

 

夕紬の足元で、風が揺れた。

たった一言なのに、空気が変わった気がした。

少女は、まっすぐだった。

その瞳には、計算も疑いもない。

 

──それが、いちばん、苦しい。

 

「……如月、夕紬」

「ヒーロー科、1年A組」

 

名乗る声は、他人のものみたいだった。

 

「ありがと!如月さん!!」

 

明るく響いた声は、すぐに校舎のざわめきに紛れていった。

 

ただ、“戦略として助けただけだ”という思考が、ふと胸を掠める。

 

紙袋の温度だけが、指先に残っていた。

 

(……人の善意、か)

 

紙袋の温度が、じわじわと指先に染み込んでいく。

まるで、それが“本当の優しさ”だったかのように。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

放課後の時間。

A組の教室前には、人だかりができていた。

 

誰かが教室を覗き込む。

誰かがスマホを構える。

誰かが、噂話をこぼしていく。

 

夕紬は、爆豪と──どこか聞き覚えのある声の主が話しているのを横目に、反対側の扉から廊下に出た。

 

そのとき、ふいに一人の生徒と目があった。

 

「……あれ? 如月さんじゃない?」

 

その声に反応し夕紬に近寄る生徒、見覚えのある顔が三人いた。

サポート科の男子生徒。経営科の女子生徒。普通科の小柄な子。

 

それぞれ、名乗り合ったこともない。

けれど、一度きりの何か──装備の相談、提出物の手伝い、階段で交差した一瞬。

その些細な記憶が、彼らの中にまだ残っていた。

 

「この前、装備の試作で迷ってた時、アドバイスくれたの覚えてます。……頑張ってください、明日!」

 

「体育祭、観に行きます! あの……大丈夫でした? USJのこと……」

 

「……あのとき、ほんと大怪我したって聞いて、あの、そのっ今、歩けてるの、すごいです……!」

 

夕紬は、ひとつひとつ、静かに頷いた。

 

「……心配してくれてありがとう」

 

ほんの一言。それだけで充分だった。

 

 

彼らは満足したように笑い、夕紬が帰ろうとしていることに気づけば道を開けるように周りを促してくれた。

その背中に、夕紬は何も言い足さなかった。

 

ただ、ゆっくり歩き出す。

 

──仮面のままで、ここに立っていられる。

 

そう思ったとき、微かに息が詰まりそうになった。

 

(……でも、今の私は、「優等生の夕紬」じゃないと)

 

それは、自己防衛。

それは、役割の演技。

 

でも、ほんの少しだけ。

 

必要なことであっても、“誰かの記憶に残っていた”という事実が、静かに心を揺らしていた。

 

記憶されることは、きっと誇らしいことなのだ。

でも夕紬にとって、それは“逃げ場を失う”ことでもあった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「……なんか、夕紬ちゃんに声かけてる人、多くない?」

 

窓際の席でそれを見つけたのは、葉隠だった。

透明な手でカーテンをちょいと押さえて、小さく呟く。

 

「あれ……普通科? それとサポート科も……?」

 

八百万が目を細め、椅子から半分だけ身を乗り出す。

彼女の視線の先では、数人の生徒たちが夕紬に何かを言っては、それぞれ笑って去っていく。

 

「……交流広いよねぇ…」

 

芦戸が肘をつきながら、にやりと笑った。

けれどその声音に棘はなく、どこか感心すら滲んでいた。

 

「そりゃあなあ……あの子、声かけると優しいし、ちゃんと返してくれるからなぁ」

 

上鳴がぽつりと言うと、すぐ横で口田がコクリと頷いた。

 

机に両手を置いて、じっと夕紬を見ていた。

 

「……でも、やっぱすげーよ。USJであんだけやられたのに、普通に歩いてるし……」

 

峰田が呟くと、蛙吹は言葉を探すように視線を伏せた。

 

「……でも、きっと、普通じゃないぐらい痛かったと思うわ」

 

その外では、最後の一人とだけ短く言葉を交わし、夕紬が歩き出すところだった。

淡く微笑んで、誰にも視線を合わせず、静かに帰路へ着く。

 

──その背中に、どこか「誰にも触れさせない」ような空気があった。

 

「……なんかさ」

 

上鳴がぼそりと呟いた。

 

「疲れそう、だよなぁ」

 

返事はなかった。

けれど、誰もがどこかで──その言葉に、うなずきかけていた。

 

 

 

 

 

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