五月。青葉の茂る、緑の眩しい季節。
新学期から一月明け、ゴールデンウイークの終わりと共に学園での日々が再度幕を開ける。
放課後の練習に向かうトレセン学園のウマ娘たちの足取りは、心なしか重たい。
長期連休明けというものはそういうものだ。この気怠さに理由なんてものはない。そう言い聞かせるトレーナーの彼も、連休中に溜まった仕事を処理しながら大きな溜息を吐いていた。
「トレーナーさんトレーナーさん!」
そんな中、部室のスライドドアが勢いよく開かれたあまり壁に叩きつけられ、轟音を鳴らした。そしてその轟音をかき消すかのように、自分を呼ぶウマ娘の声がトレーナーの鼓膜を揺らす。
「……びっくりした、入ってくる時くらい落ち着いて入ってくれたら助か」
「トレーナーさんトレーナーさん、一大事ですよ一大事!!」
「……あの、俺の話聞い」
「なんということなのでしょうか!! これは是非ともトレーナーさんに聞いていただかなくては!! その一心で急いでここまで……ちょっとトレーナーさん!! 聞いてますか!?」
「……もーいいや」
自分の話を微塵も聞かないのは、今に始まったことじゃない。いつものことだ、と諦念を抱きつつもトレーナーは一際大きな溜息を吐いた。
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「で、どうしたわけさ──
「良くぞ聞いてくれましたね!!」
あれから荒ぶる彼女──サクラバクシンオーをどうにか宥めたトレーナーは備え付けのソファに着席させると、暖かいお茶を出しながら彼女の対面に腰を下ろした。
「実は今日、クラスの友人に勝負を挑まれたのです」
「勝負?」
「はい。距離は1200mで芝。私と一対一で勝負をさせて欲しいと……」
「……いいことじゃないか。それのどこが一大事なんだよ」
「これで負けたらトレーナーはクビらしいです」
「ブフォアッ」
勝負することくらい別にたいしたことじゃない。むしろ同学年との研鑽は良い機会になるだろう。そのくらいの腹づもりで聞いていたトレーナーは突如尋常じゃなく鋭利な矛先を首筋に当てられたことに驚き、含んでいた茶を吹き出した。
「ホントに一大事じゃねぇかお前ぇ!! ってかなんで? なんでそんな話になってるの??」
「……どうやらその娘は私のことが気に入らないらしく、私をその……排除? したいみたいで」
「でもそんなことできな……ああ、それで俺か」
「はい。学生であるウマ娘の身分は学園から守られていますが……」
「トレーナーに限ってはそうじゃない。何かしらの理由があれば、俺たちは簡単に契約解消、最悪解雇されてもおかしくない身分だ。で、その友人はそれ理由をでっち上げられるってワケか」
トレーナーの言葉に、小さく首を縦に振るサクラバクシンオー。
彼女は決して賢くはないが、他者の悪意を感じ取ることができないほど間抜けでもない。
そんな彼女が深刻な顔をして打ち明けるということは、きっと本当にそういうことなのだろう。そして。
「……もう根回しも終わってる、ってコトか?」
「はい。『受けなければ貴方のトレーナーのクビが飛ぶ』と……理屈はわかりませんが、きっとそうなってしまうのでしょう」
「ふーむ……」
そう呟いて口元に手を当てながら、天井を眺めるトレーナー。そんな姿を見たサクラバクシンオーは、申し訳なさそうに目を伏せながら言う。
「……こんな形になってしまい、申し訳ありません。どのように返事をすれば良いのかわからず……」
普段の闊達でエネルギッシュな姿からは想像のつかないほど萎れた様子のサクラバクシンオーを見て、トレーナーは微笑みながら優しく頭に手を乗せた。
「よし、じゃあ頼んだわ。よろしくな」
「え?」
「いやだから、走ればいいよ。で、勝ってくればいいじゃん」
「そ、そんな簡単に」
「いやいや、簡単って君──」
「だって1200mだろ?
「……!」
それは予想? 未来予知? 否──
これから起きるレースに対しての、彼女の実力を鑑みた彼が導きだした事実。
心配も不安も存在するはずがない。何故なら彼女は、自分が知る限り最強の“
『負けるはずないだろ』。この一言に込められた自分への信頼を、彼女は正しく受け取って。
「──そっか」
それは時期外れの──桜を咲かせる。
「そうですよね!! 私はいつも通り、ただ走ればいいんですよね!!」
彼女の輝いた瞳から舞う、爛漫の花吹雪。
自身を縛る鎖から解き放つための鍵──それは『考えることをやめる』、即ち
侮るなかれ、悩みから解き放たれた彼女は文字通り“最強”。幾多の短距離レースでライバルを捩じ伏せ、両の手では足りない程の勝ち星を捥ぎ取ってきた。
版上に張り巡らされた
故に人は彼女をこう呼ぶ──驀進王。
「はー悩んでいたのがバカバカしくなってきました!! トレーナー、ありがとうございますッ!」
「そうだよ、君は頭空っぽの方が強いんだから」
「よーし、そうなったら練習です!! さあトレーナー行きますよ!!」
「え、あ、ちょまっ」
机上の湯呑みに入った熱々のお茶をグビリと飲み干し、『ご馳走様でしたッ!!』と合掌。トレーナーの静止も振り切って入ってくる時も同じ爆音を上げながら開かれたドアから、彼女は消えていった。
「……0か120しかないのか、ほんっとに」
そんな様子を見て、何度目かになる溜息を吐くトレーナー。しかしその表情には、確かな笑みが浮かんでいて。
五月。青葉の茂る、緑の眩しい季節の中に。
遅咲きの桜前線が、驀進しようとしていた。