時は少々遡り、五月某日。司波兄妹は二人でゆったりと夜の時間を過ごしていた。
「お兄様、少々お伺いしたいことがあるのですが」
「何かな?深雪」
「叔母上に、冴種先輩との敵対を避けることを四葉よりも優先すると伝えたこと、それ自体は私も納得しています。先輩の底知れなさはハンデ戦とは言えこの身で味わいましたし。ですが、お兄様は本当はどう思っていらっしゃるのか、冷静になると聞いていなかったとふと思いまして」
条件付きとはいえ四葉真夜への離反宣告。四葉に多少なりとも触れながら、物を知らぬ輩達からすればとんでもない話だ。例えば父親の司波達郎が聞けば泡を食って撤回しろだのと騒ぐ話であった。幸いにしてその手の騒ぎは何も起きていないが。
「……もう少し、なあなあにして見栄を張りたかったんだがな。済まない。端的に言おう。単純な戦闘ならば、恐らく俺の方が強い。それはほぼ事実として扱ってよい見立てだ」
「それは深雪も同意します。全力を以て相対した感想として、先輩は恐らく、性能の割には強くないかと。強さよりも理不尽さに特化していると申し上げるべきでしょうが」
ある程度は本気を出していた彼女と相対した所感として、冴種真由美は決して戦闘を主眼に鍛えた者では無かった。四葉で培った目利きが、これまでの言動が、彼女について正面から戦うことを第一の選択肢にしないタイプであることをくっきりと浮かび上がらせていた。
「それだな。……言いたくなかったが、正直に言おう。済まない、深雪。深雪のガーディアンとしての活動の片手間で先輩を捕らえる事は、多分無理だ。誓約による能力制限を解除したとしても、その程度では先輩を捉えることなどまるで足りない」
その上で、司波達也は自分より戦闘者としては弱いだろう真由美に勝てない。生まれて初めて弱音を妹に吐いた。理由は単純。勝てる戦いに持ち込む。そこまでが、対冴種真由美を想定した時にあまりにも遠過ぎた。
「……それほどまでに先輩は理不尽なのですね。……先輩に手解きされて、お兄様の助力を得て、漸く不安定ながらも『センス・エキスパンション』を発動できるようになって『精霊の眼』の世界に入門したこの身では計り知れない世界ですが」
「……少なくとも、『センス・エキスパンション』は四葉で開発されていたとしたら『フラッシュ・キャスト』以上の厳重秘匿対象になることは間違いない。あんな大安売りされているのがおかしい魔法だ。普及の価値も研究者の端くれとしては否定はしないが」
「大安売りしてもらっておいて何ですが、深雪も心から同意します」
「……少なくとも、俺があの魔法を監査した際、数ヶ所今の俺では理解しきれずに先輩に追加質問を強いられた場所があったからな?」
真由美の理不尽さの最たるもの、視座の異常性、その片鱗を司波深雪も『センス・エキスパンション』の教授において察していた。戦闘に使える練度ではないが、魔法の練習等の非実戦では十分なレベル、いわばちょっとした顕微鏡を覗き込む程度の取り回しながら、『精霊の眼』保有者の視るイデアの世界に入門できていた。
その一方で、知覚拡張という妹にとって全く新しい挑戦となる魔法を達也は当然技術監査した。しかしその途上で己の限界を思い知らされており、改めて『センス・エキスパンション』はこんな大安売りしていい魔法ではないこと、そうする真由美のイカれぶりを二人で再確認した。
「とまあ、こんな話が積み上がって総合的に考えると、深雪のガーディアンとしても、俺個人としても、先輩を敵に回すぐらいなら四葉から離反した方が余程合理的だという話になる。あくまで、俺が我が儘を言えるならの話ではあるが」
ガーディアンとしてはあるまじき弱音。四葉が一族の子を確実に守るための守り手が、四葉がその身を預ける器足り得ないならばと離反を唆す論外の言動。しかし何処までも愛に一途な兄の弱音を、深雪は手ずから自分と兄の為に淹れたお茶と共に飲み干す。
「先輩の影響、と言えてしまうのが不本意な話ではありますが。結局、私にとって何故四葉が嫌なのか。今一度、見つめ直してみました。畢竟、お兄様への待遇が悪いこと。これを除けば、他人に用意されたレールの上に縛られていることへのちょっとした不満。その不満に、そう大した中身など無かったことを認めます。申し訳ありませんでした」
「深雪が謝る事では無いさ。俺とて、深雪が高位の魔法師としての責務に縛られてしまうことを、それが魔法師社会の当たり前だからと受け入れたくなかった。兵器としての魔法師の宿命からの解放、その夢は、深雪が好きにやれる隙間を作ることありきだ」
櫻井穂波は本懐を果たすこともなく賊徒の凶弾を前に主人を置き去りにして即死していた。司波兄妹にとって、兵器としての魔法師の宿命というものは、四葉として触れる魔法師社会の闇、対岸の火事面をするには少々身近過ぎる他人事として感ずるものであった。
だからこそ、彼らが解放の夢を思い描くにあたって櫻井穂波の顔が浮かぶことはない。何処までも、あくまで好ましい処世の方便。良い椅子が無いなら作るか程度の話でしか無かった。
力が有り余る者の宿業と、それへの向き合い方については、ちょうど扱いに困る先達というものが示されたが為に、思う所が多々あるのが今の司波兄妹だが。
ともあれ、自由への道に、意外な抜け道が少しだけ見えてきた。
四葉の枠組みから完全に離れる必要があるのかは、まだ分からない。四葉が真由美と喧嘩せずに済むかも分からないし、便利な後ろ盾であることも否定はしない。だが、少なくともそこに縛られ続ける必要はないのだろう。
お互い、抜け道を使うことを躊躇うほど四葉に思い入れがあるわけでもない。ならば、使える選択肢があるというだけで十分だった。
「お兄様、お茶のお代わりはいかがですか?」
「そうだな。いただこうか」
そんな他愛もないやり取りと共に、二人の夜は穏やかに更けていった。
旧長野県との境に近い旧山梨県の狭隘な盆地。認識阻害の魔法に隠された道路の先に、死臭の染み付いた研究所、魔法技能師開発第四研究所跡地、現四葉家本家の邸宅を含む名もなき村はあった。
その隠された邸宅の書斎にて、主人たる四葉真夜は執事の葉山が淹れた珈琲を満喫していた。
「……世の中、儘ならないものね」
四葉真夜は、世界中を見渡しても、極東において何が起きていたのかを極秘作戦当事者以外で最も把握できている一人である。
ウランバートル条約。今や影も形もなく崩れ落ちた大亜連合と新ソ連の秘密条約、大漢の亡霊が全霊を尽くしていたものの本当の意義は、日本に潜む姿なき戦略級魔法師『七篠桜花』、もとい冴種真由美の炙り出しである。そして敵手に一世一代の大博打へと踏み切らせた原因は一重に戦場に陸戦適性の高い戦略級魔法を持ち込んだ冴種真由美の暴れ過ぎだろう。
無論、大亜連合と新ソ連の同時攻撃の責を彼女本人に問うのはお門違いにも程がある。強いて責を問うなら脆弱過ぎる周囲だろうが、相手が悪過ぎると言わざるを得ない。
「弘一さんや他の七草があんなものを育てられるとは思えないし、多分、放置していただけよね……」
真由美は四葉が夢見ていた超人、世界に勝てる個人、そんな命題の望まれざる別解だ。絶対的な破壊者という己のみが望んだ答えを体現したのが達也ならば、真由美は最も全知に近づいた無敵の狩人、自分も含めて超人を求めた四葉の誰もがこんな筈では無かったと言いたくなる厄災だ。
戦う前に勝つことを究めた彼女がその力を存分に振るった結果、創り出されるものは、無風の平和。戦闘と勝利に隷属する魔法師全てを等しく朽ち果てさせる真空の如き無音の地獄。
何せ、脅威が出落ちを通り越して、舞台に上がる前に消える。誰かに語ってもらえるとも限らない。そんな状況が何を齎すかは、狡兎死して走狗烹らるの言葉の如く、古代中国の時代から分かりきった話である。
実際にはマンパワーの限界という制約がある以上、四葉が無風の平和に呑まれて死ぬことは流石にない。だが、彼女の導き出す結果は、脅威を少なくない流血と共に闇から闇へ葬ってきた四葉の歴史ほぼ全てを明確に上回る。
そんな化け物は、七草弘一の第三子、後妻の子。四葉真夜が女性機能を喪い、前妻が死んだから、七草家当主の義務として作った子である。
「女としての私があの日死んだから、あの化け物は生まれてきてしまった」
逆に言えば、自分があの日悲劇に見舞わることも、それ故に姉の手で少女だった己を介錯されることもなく、無事に弘一と結ばれていた
七草家に、意図的に超人を生み出す技術などある訳がない。第三研究所から第七研究所への移籍に伴うやっかみにも苛まれていた当時の七草家には、強大な次世代を生み出すための技術を開発するどころか、そうした研究に投資できるだけの余力すら無かったのだから。
よって、彼女の誕生は完全に偶然としか言えない。少女だった四葉真夜の骸を苗床に、雑草面して無造作に生えてきた真由美が齎す無風の平和。演者も演目も日常に埋没するその世界では、既に開幕していたものさえ、日常劇以外にはなり得ない。
自分と同じフリズスキャルヴのオペレーターの一人、ジード・ヘイグ肝煎りの大仕掛け、後先捨てた大勝負であるウランバートル条約ですら例外ではない*1。日本の仮想敵国筆頭である大亜連合と新ソ連は、不可解な同士討ちによって、まともな事後検証すらままならないほどの深手を負った。真相を明らかにすることもできず、表向きの説明で傷口を覆い隠すしかない。そうして両国は、軽い小競り合いだけを残して舞台から退場させられた。
現在、最も余力を残している大国はUSNAだろう。だが、そのUSNAですら、尖兵を彼女の暗躍に振り回された末に離反させられ、真相をほとんど掴めていない。これでは、彼女の相手にならないと評さざるを得なかった。
「スポンサーの方々にとっては、達也さんよりもよっぽど便利よね」
この国を導く古老達にとっては、達也よりも真由美のほうが圧倒的に使い勝手がいいのだろう。今回のように、過ぎた動乱の芽を摘み取れる。それどころか、達也と深雪を足しても足下にも及ばない、圧倒的な手札の枚数を以て全く別の苗へ植え替えることすら可能だと証明されたのが今回だ。
冴種真由美とは、四葉が求めてきた安心を、四葉のこれまでを踏み潰す形で叶える答えである。冴種真由美とは、四葉真夜が求めてきた復讐と清算の舞台を、演者達の不在を以て閉幕とする終演である。
「……達也さんと深雪さん達を一高に進学させたのが間違いだったのかしら。いえ、時間の問題でしょうね」
達也が深雪を守る為に、真由美と敵対したら四葉を沈む船として見捨てると宣言した春。あの時点で、四葉真夜はもう既に詰んでいた。四葉の持てる全てを費やした所で、達也のいない四葉では冴種真由美には到底届かない。
冴種真由美が四葉に何もしなかったところで、司波達也が相対すべき敵は、きっと現れない。 もう、司波達也が立ち向かうべき世界、勝ち取るべき勝利など、どこにも残っていないのだろう。
今回真由美に支払われた報酬、横浜ベイヒルズタワー丸々一棟前払いとはこれ単体で十師族と同等の資産規模になる。一魔法師の報酬としては頭のネジが外れたとしか思えない桁の代物だ。しかし、これを以て、真由美は護国の神に祀り上げられた。
ベイヒルズタワーの資産価値を下げるような不穏な真似は、ウランバートル条約も含めて一切が真由美の反撃、それも十中八九は相手が理解不可能なそれを誘発する。
ベイヒルズタワーを狙わず、司波兄妹本人をピンポイントで狙った攻撃ならばその限りではないように見えて、冴種真由美は本質的にかなり面倒見がよい。それに気づかぬほど司波兄妹は社会経験に疎いとはいえ蒙昧ではない。高々後輩数人の為に四葉分家や独立魔装大隊、九重八雲といった一流、超一流を認識阻害による隠匿付きで覆面先生として呼んでくるのだから、考える頭がある業界人ならば分かろうというものだ。
必ず、彼女との何らかの取引という方法で達也は自分達の潜り込むべき安全地帯を真由美の足下に築き上げる。真由美の方も、緩く取引をして傘下の影を貸しつつ放置という、司波達也を知った者誰も、四葉ですら出来なかった真似を平然とやってのけるだろう。
そうなれば、無風の平和を司波兄妹は簡単に勝ち取れてしまう。悠々自適に過ごしながら、たまに姉が深雪に教え込んだであろうノブレス・オブリージュを四葉の外側からこっそりこなす。
「うちの子供達にとっては、もうただの便利な取引相手なのよね」
皮肉な事に、四葉の次代の子供達にとっては、何の問題もない話だ。今まで教えられてきた通りに、この国を裏から支え、暗部としてそこそこの仕事をしながら平穏が破られないように保ち、また次代へ繋ぐ。そういう風に望まれてきた以上、ちょっとした取引の範疇でレールを補充してくれるような相手に逆らう理由がない。
ただ、自分も含めた四葉の大人達、そして恐らくはかつての婚約者だけが無惨に取り残される。救済や清算を求めたこれまでは、それが幾ら実ろうとも収穫の日は永遠に来ない。
四葉真夜の物語は舞台の消滅による打ち切りを迎えようとしていた。もう、生きる意味がない。自分の手で終わらせる気力すら沸かない。そこまで爆発するストレスが生理学的に存在できないのだ。
生殖機能の喪失、即ち卵巣の喪失によるホルモンバランス崩壊の補填を筆頭に、四葉真夜の肉体は四葉家当主として完璧に調整措置を受けている。死臭を染み付かせながら磨き上げられた技術の粋が、四葉家当主という外殻を強固に保持させている。
姉に蘇らされたゾンビが今更癇癪を起こした程度で壊れる心身ではない。真由美を憎むことは出来なくもない。だが。そうしようと頭を巡らせればすぐに理解、否、再確認できてしまう。そもそも己が世界を復讐の相手として選んだのは、直接の復讐先、自分の人生を壊した当人達をお父様達が国ごと平らげてしまったからだと。
司波達也は己の力を以て世界に勝つ使命など果たさずとも、四葉の他の子供達と同様に、もう既に勝っている勝ち馬に乗ってしまえば、それであがりだ。
さて、そんな子供達の姿は司波達也という未来の勝ち馬を作って縋った己とどれほどの違いがあるだろうか。戦闘魔法師として最高峰と讃えられようと、世界そのものには勝てないと見切りをつけたかつて。今更夢を見続けるには、もう夜明けが近すぎた。
「慶春会……深雪さん達は呼んでも多分来ないでしょうね」
ウランバートル条約の存在を知った時点では、想定シナリオとして司波達也のマテリアル・バーストによる両国攻勢の強行突破は四葉真夜の中で十分あり得るものだった。その場合は、恒例行事であった慶春会は戦争後の後始末に押し流されて中止になっていただろう。
無事……本当に文字通り何事も無く、慶春会は開催できる。が、そこに主賓が来るか、と言われれば、非常に怪しいものがあった。
四葉深雪を次期当主に指名する。ついでに達也を己の子として公式な兄妹結婚の地盤を与える。四葉というものが司波兄妹にとっては牢獄じみて見えていたことなど百も承知であり、牢獄を彼らの城に変えてしまえば脱走の心配などなくなる。
他にもっといい安住の地がなければ、もとい真由美さえいなければ、真夜にとっては勝利をほぼ確定させるカードだった。他の条件は兎も角として、司波深雪の性癖はある種設計通りに司波達也一択。結婚を暗黙のうちに強いられる魔法師社会の柵は、深雪にとって隠れ場のない地獄だった。
だが。司波兄妹が真由美に助けを求めれば、後出しジャンケンだろうと全てが問答無用で捲られる。司波兄妹だけで四葉に逆らうには足りなかった総合力の問題など、真由美一人いれば何の問題もない。行き過ぎた超人相手には命乞い一択、相対的力量優位のみが最後に物を言う十師族体制において共通する宿痾は四葉とて例外ではない。
無論、暴力を生業とする彼女に四葉相手のいざこざをどうにかしてくれと泣きつく行為はとても高くつく。司波深雪だけならば真由美を動かすには予算の壁に突き当たる。が、司波達也がいる。それだけで話は終わりだ。
司波兄妹は独立することも、結婚の話を一生暈し続けることも、何ならいつの間にか父親不明の私生児を拵えることも、真由美の傘下ならまるで問題なく好き勝手やれる。
結局のところ、余計な抵抗をしたところで自滅するだけ。四葉真夜が四葉家当主として出来ることは、四葉から緩く独立する達也と深雪を見送り、程々に美味しい汁を分けてもらえる程度の距離感を保つこと、あわよくば放っておけばそのうち生まれるだろう彼らの子供を誑し込んで回収してくれないか未来の子供たちに期待すること。それだけであった。
珈琲を飲む。葉山の淹れた珈琲は、冷めていても腹立たしさすら覚えるほどに完璧だった。
毎度感想ありがとうございます、ここすきと合わせて励みになっております。
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