雨粒が容赦なく顔を叩き、目を開けるのも苦労する。
俺は顔をぐっと下げ、数歩先だけを見据えて駆けていた。
まだ午後を回ったばかりだというのに太陽は渦巻く黒雲に隠されている。
周囲は黄昏時のように暗かった。
激しい降雨が周囲の物音をすっかり吸い取って、俺は自分の足音も聞き取れない。
平時ならぼうぼうとやかましく鳴く沼蛙たちの気配は消え失せていた。
代わりのように、
幸いなことにまだ遠い。
防水布で仕立てた外套の下で、懐にしがみ付くシュカを抱え直した。
蛙の群れには辛うじて追いつかれていない。
俺に戦いの心得はない。
いまや策もない。
血路ならミロスラフ達が切り開いてくれた。
彼らは今頃、はるか後方で蛙の群れを蹴散らしながら魔物の発生源――湖へ向かっている。
俺が小さな子供を無事に送り届けるためにすべきことはただ一つ、ひた走るだけだ。
幸いにして、目的地であるポハードカ村まではあと少し。
視界を覆う風雨の幕の合間から、かがり火が行き来するのが見える。
村人たちが蛙の群れの襲来に備えているのだろう。
雨粒が目に入った。
立ち止まった俺は右手で水を切るように目元を拭い、左腕に支え持った小柄な身体を抱え直す。
「寒くないかい?」
シュカに様子を問いかける。
孤児は俺を見上げ、無言で肯いた。
その目は夜空のような漆黒だ。
凍えても怯えてもいなさそうだ。
安堵し、再び走りだそうとした瞬間。
ぐい、と上着を引っ張られる。
「なな、なんだい!?」
再び外套をめくってシュカの様子を覗き込む。
「あそこに行きたい」
シュカがか細い指で指し示す先は、村はずれの古ぼけた監視塔だ。
「……なんでまた」
虚を突かれた俺はごく普通に聞き返す。
シュカもまた、真面目くさった様子で理由を答えてくれた。
「大気の精のおてつだいするの。そして、わるいカエルをおっぱらうの」
俺は気付く。
どういう訳か、シュカが喋る時だけ雨脚は確かに弱まるのである。
そして俺は今、じたばたと暴れる子供を両手で抱えて村へと直進している。
(自分の中の常識的感覚に……負けた!)
流石にこの状況で子供の言うことを真に受けるのは俺の良心が許さなかった。
この子の保護者――主には郊外の夫婦だ――は今頃胸の潰れる想いだろうからなおさらだ。
臆したと言いたくば言え! と、誰にともなく言い訳をしながら走る。
「やーだ! のーぼーるーの~!」
「まずはみんなに無事な姿を見せてから! な?」
これじゃあまるで人さらいだ。
今ばかりは雨風のおかげで人目のないことを感謝し、村の入口めがけて最後の丘を駆け折りた。
「――あんた、こんな夜に外で何を……シュカ!?」
「シュカだって?」「おおい! 村境の家に知らせろ!」
松明をかかげた男衆に出迎えられ、俺たちは郊外の家に案内される。
出迎えたおかみさんは俺たちの姿を見るなり、シュカに駆け寄って抱きしめた。
「ああ、シュカ! よく無事で……」
涙声のおかみさんはシュカの顔を撫でる。
シュカも、今ばかりは大人しい。
俺は土間の上で外套を絞った。
さしもの防水布も降りしきる雨に晒されて芯まで濡れている。
「――なあシュカ!」
俺は戸口の前から、シュカに呼びかける。
「なあに」
「本当に行くかい? 子供の君が頑張らないといけないことなんて、なんにもないぜ」
こんな日に子供は外に出るべきじゃない。
乾いた服に着替えて、粥でもあてがわれて、あたたかい寝床でぐっすり眠るべきだ。
案の定、おかみさんは怯えたようにシュカを抱えたまま、奥へ引っ張って行こうとしている。
まるで俺があの子を連れ去ろうとするかのように。
けれども。
シュカは、おかみさんの腕の中からかき消えた。
瞬きの間に俺の目の前に立っていて、ずぶ濡れの上着の裾を掴むのだ。
「そうやって、今までも家を抜け出していたのかい?」
「とうにのぼる。つれてってくれるって、いった」
「……わかったよ」
時たまこんな子供が現れる。
使命か、偶然か、大きな力を持って生まれた人物が。
例えばそう。
後の勇者ミロスラフのような。
「必ず無事に返します」
おかみさんに告げる。
彼女は諦めの極地のような表情で、力なく肯き返した。
行き会う夜警たちは、一様に「正気の沙汰ではない」という顔をしていた。
俺も同意見だ。
けれど、この頑固な孤児を大人の理屈に押し込めればもっと危険な行為に走るだろうよ。
俺は弁解じみた思考を遊ばせながら通りを行く。
雨よけ外套を被ったシュカの手を引いて、監視塔に向かっているところだ。
風雨の勢いは増し、ほとんど嵐に近付きつつあった。
横殴りの雨に降りつけられて、俺の全身はとっくに芯まで濡れている。
「シュカ、疲れてないか? もう少し歩くぞ」
「うん」
「監視塔に着いたら、何をするんだ?」
シュカは首をかしげている。
問い詰めるのは、やめておいた。
そのうえシュカはまだ子供だ。
本人にも細かな説明はできないのだろう。
監視塔に着き、警らの者との若干の押し問答の末に中に入ることが許された。
というより、俺たちに構う暇がなくなったらしい。
とうとう村境に
歩幅の差が惜しい。
俺は再びシュカの身体を抱き上げると、内壁にへばりつくように刻まれたらせん階段を足早に登る。
頂上につき、俺はシュカの軽い体を降ろしてやる。
シュカは弾かれたように窓へと駆けて行って、止める間もなく窓枠によじ登った。
俺は慌ててシュカの腰に腕を回して落下しないように支える。
その頃には、シュカは既に
半開きの口から漏れる言葉はこの国の古語に響きが似ている。
古い魔法の言葉、使う者も絶えて久しいような。
「――シュカ?」
「なに?」
意外なことに、シュカに話しかけるとすぐに返事をした。
こちらを振り仰ぐ表情も普段のままに見える。
「これ、どのぐらい続く?」
「んー……」
当人にもはっきりしないのか。
「あのね」
「おう」
「みずうみのカエルだいおうがじゃまして、うまく行かない」
「カエル大王~?」
急に絵本じみて来たな。
俺はもしや、夢みがちな子供の空想癖に付き合わされているだけなのか?
先ほどの瞬間移動を目の当たりにしなければ、そう思うところだった。
「でもまあ、それなら安心して待とうじゃないか」
「そう?」
「あっちにはミロスラフが居る。あいつなら、その大王とやらだって敵じゃないさ」
「ふうん」
俺は窓の外に視線をさまよわせる。
下界の光景は降りしきる雨の幕に隠されていた。
しかしそのはるか先の湖では、ミロスラフたち勇者一行が今まさに闘っている。
「俺が思うに、信じるに値する奴らだよ」
そうとも。
彼らはやってのけるに違いないのだ。
そして、いくらかの時が立つ。
「あ」
シュカがおもむろに顔を上げ、渦巻く黒雲を見た。
その視線はきっと、垂れ込める雲の向こうの太陽を見据えている。
「
シュカの詠唱に重なるように天上から不可思議な声が響き渡った。
次の瞬間、俺は突風と強い光のまっただ中に放り出される。