宇宙世紀0105年。アクシズ・ショックというひとつの神話が人々の記憶の中で風化し始めた時代。だが、あの戦いを生き抜いた者たちの胸には、今なお、それぞれの想いが、それぞれの宙(そら)の景色として、静かに広がっていた。
【地球、北米大陸・東海岸の小さな街】
「ほら、アビー! そっちじゃないわよ、ボールはこっち!」
抜けるような青空の下、芝生の広がる裏庭で快活な声が響いた。声の主は、ケーラ・スゥ。かつてロンド・ベル隊でリ・ガズィを駆った、勇猛な女性パイロットだった。今の彼女は、動きやすいTシャツとジーンズというラフな姿で、自分とそっくりな赤毛の活発な少女と、ボール遊びに興じている。
「ママ、速いよー!」
アビーと呼ばれた少女が、きゃっきゃと笑いながら、母親の投げるボールを追いかける。
その光景を、家のポーチのデッキチェアに座り、レモネードのグラスを片手に、アストナージ・メドッソが、目を細めながら見つめていた。ラー・カイラムのメカニックとして、幾多の死線を潜り抜けてきた彼の顔には深い皺が刻まれていたが、その表情はひだまりのように穏やかだった。
アクシズ戦の後、二人は軍を退役し結婚。アストナージは、この小さな街で民間の自動車修理工場を開き、時折、好事家たちのための旧式モビルスーツのレストアなども手掛けている。ケーラは、その快活さと面倒見の良さで、近所の子供たちを集めては、即席のスポーツ教室を開く、街の人気者だった。
「アストナージ! あなたも手伝いなさいよ! アビーの体力は、底なしなんだから!」
ケーラが、汗を拭いながら、夫に声をかける。
「へいへい。このエンジンブロックの調整が終わったらな」
アストナージは、そう言って、傍らに置かれた、小型のホバーエンジンの整備を再開した。その手つきは、昔と少しも変わらない、熟練の職人のものだった。
時折、彼は思う。
今頃、ラー・カイラムの仲間たちは、どうしているだろうか、と。彼自身もアムロや、そして多くの仲間たちを失った。だが、自分たち夫婦はこうして生き残り、新しい命を育んでいる。
「……いい天気だな」
彼らを、抜けるような青空が包み込む。この、何でもない穏やかな一日こそが、彼らが、そして自分たちが命を賭して守ろうとしたものなのだと、アストナージは、この幸せな光景を見るたびに噛み締めるのだった。
【ラー・カイラム、モビルスーツデッキ】
「ちょっと! 第四ジェネレーターの共振率がまた規定値に達していないじゃない! もう一度、最初からキャリブレーションをやり直しなさい!」
チェーン・アギの、鋭く、しかし的確な声が、巨大な格納庫に響き渡った。
彼女は、アナハイム・エレクトロニクス社からの出向技術主任として、今もラー・カイラムに残り、ハサウェイとクェスが駆る二機の怪物――Ξガンダムとペーネロペーの、総合整備責任者を務めていた。
「は、はい、主任!」
若い整備兵たちが、緊張した面持ちで、再びコンソールに向かう。
チェーンは、腕を組み、眼前にそびえ立つ、純白のΞガンダムを見上げていた。その瞳には、技術者としての厳しい光と、そしてどこか、遠い過去を懐かしむような、優しい色が混じっていた。
彼女は、アムロ・レイを愛していた。
そして、彼が最後にその魂を注ぎ込んだ、νガンダムを、誰よりも深く理解していた。
……アムロはもう、どこにもいない。だが、彼の意志と、彼の技術は、このガンダムの中に、そしてそれを駆るハサウェイとクェスの中に、確かに生き続けている。
「アムロ。あなたが見たかった未来は……」
彼女は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
「いえ……でも、あの子たちは強いわ。あなたやシャアのように、一人で全てを背負い込もうとはしない。二人で、支え合って立っている。……だから、きっと、大丈夫よね」
チェーンは、ふっと微笑むと、再び厳しい技術主任の顔に戻り、整備兵たちへと向き直った。
「さぁ、みんな!時間は有限よ!あと半日で、このガンダム達を万全の状態に仕上げるわよ!」
「「「はい!」」」
彼女の戦場は、今でもこの格納庫にある。アムロが遺した「希望」を、最高の状態で、未来へと送り出すこと。それが、彼女が自らに課した生涯の任務だった。
【ラー・カイラム、ブリーフィングルーム】
「以上で、次期作戦の説明を終了する! 各自、持ち場に戻り、出撃に備えろ! いいか、我々の敵は、単なるテロリストではない!過去の亡霊に取り憑かれた、過去の遺物だ! 感傷に浸るな! 我々が守るべきは、今を生きる人々であり、そして未来の子供たちだということを、ゆめ忘れるな!」
ボッシュ・ウェラー大尉の、低く、しかしよく通る声が、集まったMSパイロットたちの背筋を伸ばさせた。かつて、カラバの時代からアムロやブライトに付き従ってきた彼もまた、今や、アムロ亡き後のロンド・ベルMS隊を率いる、歴戦のエースとなっていた。彼の瞳には、多くの仲間を失い、戦争の不条理をその身に刻んできた者だけが持つ、深い哀しみと、それでもなお、責務を果たそうとする、鋼の意志が宿っていた。
部下たちが敬礼し部屋を出ていくのを見送った後、ボッシュは一人、モニターに映る部隊編成表を静かに見つめていた。
(……あんたが遺してくれたこの部隊を、俺は、俺なりに守ってみせる。そして、あの若い二人……ハサウェイとクェスの進む道を、俺たちが、全力で拓いてやらねぇとな……)
そこには、自分の部隊とは別に、特務部隊としてハサウェイとクェスの名が記されている。それを見ながら、小さく言葉を紡いだ。
「宇宙のどこかから、きっと、見守ってて下さいよ。アムロ大尉」
【ラー・カイラム、艦長室】
ブライト・ノアは、階級章が輝く制服に身を包み、一人、艦長室の窓から眼下に広がる青い地球を静かに見つめていた。その背中は、かつてよりも少しだけ丸くなったように見えたが、その威厳は、少しも衰えていない。
彼の机の上には、一枚のデジタル写真が飾られている。それは、湖畔の家で撮影された、クェスとハサウェイの、穏やかな笑顔の写真だった。アデナウアーが、先日、特別にと送ってきてくれたものだ。
(アムロ、そして、シャア……。お前達も見えているか?お前達の遺したモノは、形を変え、今も、この地球(ほし)を守っているぞ)
ブライトは、目を閉じ、多くの仲間たちの顔を思い浮かべていた。
アストナージとケーラは、幸せな家庭を築いた。
チェーンは、そして多くの仲間達は今もこの艦で、俺たちを支えてくれている。
そして、ハサウェイとクェス君は……。
彼は、窓の外、地球の向こう側に広がる、無限の宇宙(そら)へと視線を移した。
かつて、そこは、憎しみと悲しみが渦巻く、戦いの場所だった。だが、今は違う。
息子が、そして息子が愛した少女が守ろうとしている、未来へと続く希望の宙(そら)。
(……俺たちの戦いは、まだ終わらん。だが……。この、穏やかな宇宙が続く限り、我々には、まだ未来がある)
ブライト・ノアは、ふっと、口元に微かな笑みを浮かべた。それは、多くの犠牲の上に成り立つ平和の尊さを、誰よりも知る男の静かで、そして何よりも力強い、未来への誓いの笑みだった。
■
それぞれの場所で、それぞれの空を見上げ、それぞれの人生を生きる人々。
その全てが、『空の凪』という、一つの物語を織りなしていた。
【了】