織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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姉川・岐阜の合戦 中

「ここが唯一の勝機! 姉川を生きて再び逆に渡ると思うな! われらはこれより織田軍の本陣だけを目指す!」

 

浅井軍の先頭に立ち、鬨の声を張り上げるのは、浅井長政。

父・久政から再び家督を奪い返し、今や北近江浅井家の正統なる頭領として、数万の兵を率いていた。

 

陽光を浴びたその姿は、まるで天より舞い降りた武神のごとし。

誰もが「天女のように美しい」と息を呑む凛々しい顔立ちを持ちながら、声は猛々しく、采配は豪胆無比。

もはやかつて夢見た「織田信奈と並び天下を盗る」幻想は、彼女の胸から完全に捨て去られていた。

ただ一途に、織田を討ち、天下を摑む。それだけが長政を突き動かしていた。

 

その覇気は軍勢を貫き、浅井軍の兵は天を衝くほどに士気を高めた。

さらに、初めてその艶やかな若武者ぶりを目にした朝倉義景軍の兵たちも、「この将ならば天下を狙える」と心を奮い立たせていた。

 

「長政。……意外なほどの猪武者ぶりだな」

すぐ隣、絢爛たる狩衣姿で馬を並べたのは朝倉義景。

血飛沫と矢の雨が頭上を掠めようとも、彼は眉ひとつ動かさず、どこか現実感を欠いた目で戦場を眺めていた。

 

「貴公に倒れられては、あとが面倒だ。身を慎むがよい」

 

長政が顔を向ける。

「義景どの。あとが面倒とは、いかなる意味か?」

 

義景は淡々と、しかし妙な艶を帯びた声で答えた。

「あと数刻のうちに、武田信玄が岐阜で斎藤道三を葬るだろう。もし貴公がここで命を落とせば、余が信玄と天下を争わねばならなくなる。そんな骨の折れる役目など、余はご免蒙りたいのだ」

義景の声はいつものように淡々としている。だが言葉の裏には怠惰ではない計算が潜んでおり、その余裕ぶった口調が軍の先頭に立つ長政の頬を一瞬だけ曇らせる。

 

「天下も武田信玄も私はどうでもいい」

長政の返答は鋭く、刃のように切れた。日輪の光を受けて鎧がきらりと鳴る。

「ここで織田信奈を討たねば、浅井家の命運は尽きる。ただそれだけだ」

 

義景は小さく笑った。

「それは困るな。まず織田信奈を討たれては余の生き甲斐がなくなる。次に、天下などという厄介なものに余は関わり合いになりたくない。余はただ、あの現世が生んだ奇跡の芸術品とも言うべき織田信奈を、この手にしたいだけだ」

 

戦場の風は二人の間を吹き抜け、血の匂いと土の湿り気を運ぶ。義景の瞳はいつも通りどこか遊興的で、だがそこにあるのは本物の欲望だ。長政はその顔を睨みつけると、短く吐き捨てるように言った。

 

「ふん。聞きしに勝る風流人だな──ならばこの私に従え」

長政の声音にはかつての若さゆえの凶気と、背負ったものの重さが混じっていた。

「朝倉義景! 現世では己の血を流さずして野望は遂げられぬと知れ!」

 

義景は肩をすくめ、やれやれと囁く。

「やれやれ。修羅の如き面相になっているぞ長政。平安を愛する余に言わせれば、醜い現世で天下などを争う貴公らこそ風狂だ」

 

長政は嗤うでもなく、ただ馬を前へ押した。

「それほど織田信奈が欲しいというのならば、勝手にするがいい。臆病風に吹かれて撤退などするなよ、義景」

 

「むろん」

義景の声に一瞬の凛とした光が差す。

「織田信奈という芸術品には、余が命を賭けるほどの値打ちがある。昨今もてはやされている茶碗などとは比べものにならぬほどに」

 

長政は義景の言葉を聞き流すように、再び顔を前に向ける。だが心の奥底に、義景の“風流”な計算はしっかりと刺さる。長政は知っている。義景の言う「芸術品」は人の命を玩具のように扱う宣言でもあるのだ。怒りと侮蔑が胸に滾る。しかし、今は言葉で応えるよりも槍を執って恐怖を切り裂くほうが彼には似合っている。

 

矢が空を縫い、鉄の匂いが鼻腔を満たす。兵の怒号、馬のいななき、甲冑の軋み──戦場はうねり、命が飛び散る。

 

(奴が支配する越前一乗谷の町は「小京都」として栄えているという。戦国大名としては有能なのだろうが、なんとも寒気がする男だ)

長政の内側に、義景への嫌悪が熱を帯びて立ち上がる。義景の優雅な言葉は、まるで香油で塗られた刃のように滑らかで、しかし致命的だ。

 

(義景などに義姉上を渡して弄ばせるくらいなら、私がこの手で義姉上を――織田信奈を討ち取る)

 

長政の胸に渦巻くのは、憎悪か、愛執か、それとも己をも焼き尽くす孤独か。

夢はすでに潰えた。

信奈と肩を並べて天下を望んだ夢も。

信澄と交わした儚き夫婦の夢も。

夢を捨てたのは誰でもない、自分自身。心のなにかに敗北した、自分自身。

 

その痛みが槍に乗り移ったかのように、長政はただ一騎で血路を切り開く。

槍が振るわれるたび、敵兵の身体が宙を舞い、鮮血が紅蓮の花を咲かせた。

 

誰も止められぬ。

生きながらに死兵と化した浅井長政を。

 

背後で進む朝倉義景は、誰をも見ていなかった。味方も敵も、長政ですらも。見ているのは現世の誰でもなく、幻の「織田信奈」ただひとり。

 

そして長政は悟った。

(これは……孤独な戦いだ)

 

 

 

 

 

 

大混乱の戦場のただ中で――。

 

「やっと大将が帰還したみゃあ~!」

「長かったじゃねえか、小僧!」

 

防戦一方だった相良軍団の足軽たちが、泥と血に塗れた顔を上げ、歓声をあげる。

その目に浮かんでいたのは恐怖ではなく、安堵と笑みだった。

 

「みんな! 五右衛門! すまねえ、やっと戻って来たぜ!」

良晴の声に、あちこちから「おおっ!」とどよめきが広がった。

 

一方で天城軍団。こちらは善戦しており、良晴の姿を見て笑顔を交わす兵たちの背後には――仔馬にまたがる小柄な半兵衛の姿があった。

 

「皆さん! 方円の陣を崩さないように! 負傷した人は下がって!」

幼い声が戦場に響く。

 

だが――誰一人として下がろうとはしなかった。

血に濡れた肩を押さえながらも槍を突き出す者。

片足を引きずりながらも仲間と盾を構える者。

その全員が「天城刃の家臣」として誇りを胸に立っていた。

 

半兵衛は采配を握る手を震わせ、唇を噛む。

 

(今、この軍を率いているのはわたし……。刃さんの軍を、一人も欠けさせずに返すことが、恋人として、軍師としてのわたしの責任……なのに、どうして……! どうして皆さん、退いてくれないんですか……!)

 

胸の奥で悲痛な叫びがこだまし、涙が滲みそうになる。

だが――それは決して、半兵衛の采配を疑っていたからではなかった。足軽たちの胸に燃えていたのは、不信でも反抗でもなく、ただひたすらに――矜持。

 

刃が不在の今、この軍を束ねている少女は、彼の副将であり、軍師であり、そして愛する恋人。いや、彼らの目にはすでに「大将の奥方」として映っていた。大将の隣に立つことを許された女性の一人。

刃の心を預かる者。だからこそ、彼女の身体に一つでも傷をつけてしまえば、それは自分たち家臣にとって何よりも大きな恥辱だった。

 

――恥ずかしくて、とても大将に顔向けできはしない。

 

足軽たちは理解していた。

もし半兵衛が傷ついたとしても、刃は決して彼らを罵りはしない。あの男は、そんな器の小さな将ではない。むしろ「よく守ってくれた」と労うだろう。だが、それで済むはずがない。

 

「責められないから許される」――そんな甘ったれた理屈で胸を張り、天城刃の家臣を名乗ることなど断じてできない。

彼が咎めぬとしても、自分たちの矜持が許さない。

 

大将が不在ならばこそ、大将が命よりも大切にしている存在を守り抜く。

それが天城軍団三百五十名、全員の使命であり、魂であった。

誰に命じられたわけでもない。合図があったわけでもない。

だが、不思議なほど自然に、一人残らず全員が同じ結論へと辿りついていた。

呼吸が揃う。鼓動が重なる。

三百五十の心が一つとなり、陣はまるで巨大な生き物のように蠢いた。

 

そして彼らは、さらに理解していた。

もし自分たちが倒れることがあれば、それは半兵衛の采配に問題があった証となる。彼女の顔に泥を塗ることに他ならない。

だからこそ、彼らは死なぬ。倒れぬ。致命傷を避け、身体を盾にしながらも、一歩たりとも退かない。

結果、驚くべきことに――死傷者はおろか、重傷者すら出ていなかった。

 

「相良さま! 天城大将はまだかみゃあ?」

「大遅刻だぎゃあ!」

足軽たちが口々に叫ぶ。その声には不満よりも笑いが混じっていた。

 

半兵衛はその声を聞きながら、頬を紅潮させて小さくつぶやく。

「……本当に。刃さん、あなたは……どれだけ慕われているんですか」

 

その小さな背を中心に、天城軍は鉄壁の方円を保ち続ける。

血と泥にまみれながらも、兵たちの瞳は揺らがない。

――すべては「刃の奥方」を守るため。

――そして「刃その人」に、無事のまま返すため。

戦場の渦中でなお、天城軍の結束は鋼よりも固かった。

 

 

「良晴さん! すでに十三段の陣のうち第一段、第二段が突破されました! 浅井・朝倉軍が怒濤の勢いで押し寄せて来ます!」

 

「浅井軍の士気の高さは異常でござる……たいへんなことになりまちたぞ、ちゃがらうぢ。かっぱをつれてきているばあいではごじゃらぬ!」

五右衛門が槍をくるくると回しながら叫ぶ。

 

「ぼ、ぼぼぼボクは河童じゃありません、宣教師です!」

慌てふためくオルガンティノ。

 

「オルガンティノ、悪いが土の中に隠れててくれ! 五右衛門、穴を掘れ! こいつをかくまってやれ!」

良晴が指示を飛ばす。

 

「わかりまちた! この河童の五体を木っ端微塵にして、土の中へ埋葬すればいいのでちゅな! ちょれでは、ちゃっちょく──」

「うわああああ!? よ、よよよヨシハルさんっ!? にににニンジャってこんな凶暴な女の子ばかりなのですか!?」

「五右衛門、違う違う! 殺すな! こいつは河童じゃなくて宣教師! 生きたまま隠してやれって言ってんだ!」

「……なるほど。了解いたした」

 

怒号、悲鳴、鬨の声。

戦場はもはや「陣形」などという整然としたものではなく、血と土煙にまみれた混沌と化していた。

 

織田軍が長大な十三段の陣を築き、敵を奥深く誘い込むはずの作戦は──完全に裏目に出ていた。

 

元康の援軍は影も形もない。

さらに朝倉義景が「風流な公家大名」の姿のまま、越前から自ら全軍を率いて突撃してきたこと。

その二つが、織田信奈の読みを完全に狂わせていた。

 

東から怒涛の浅井軍。

西から奔流のごとく押し寄せる朝倉軍。

両翼から挟み撃ちにされ、織田軍の細長く延ばされた十三段の陣は、巨大な波に飲まれる砂の城のように次々と崩れていく。

 

「大将、こたびの戦はやばいみゃあ」

「織田の姫さまともあろうお方が、下手をうったみゃあ」

「姫さまは『敵を誘い出して早く勝負をつける』の一点張りで、半兵衛どのたちの反対も聞いてくれなかったぎゃあ」

 

「俺たち川並衆は命を捨てて戦うがよ、親分のすべすべのお肌にもしも傷でもつこうものなら相良良晴! てめえを呪って呪って呪いまくってやるぜえ!」

「わかってんだろうなあ、小僧!」

 

「わかったわかった! いっせいにしゃべるんじゃねえ、お前ら! 俺は聖徳太子じゃねーんだから、いっぺんにわーわー言われても聞き取れねえって!」

 

その上。

「浅井長政さんご自身が槍を手に取り、鬼神と化して中央突破を試みています。刃さんがいない今、誰も触れられません。触れれば次の瞬間には首を飛ばされています、くすんくすん……」

ああなってしまうと、わたしの軍学では太刀打ちできないです……と采配をかまえた半兵衛がべそをかく。

 

 良晴は怒りにも似た苛立ちで拳を握りしめた。

(長政め、いったい何をやってるんだあいつは!?)

心の中で叫びながらも、声に出せる言葉は冷静な指示だけだ。

 

「そうだ、半兵衛ちゃん、前鬼たちはっ!? 雨のように飛んでくる矢を防ぐには、式神の力が必要だぜ!」

良晴が叫ぶと、半兵衛は小さく首を振った。頬に伝う涙をぬぐい、

「ええと……その、叡山でわたしも前鬼さんも力を消耗してしまったので……護符に『気』を満たせるようになるまで前鬼さんは召喚できないんです、くすん」と囁く。子どもの泣き声のようにか細い。

 

 その言葉は、戦場で聞くにはあまりにも脆かった。良晴は血の気の引くのを感じる。

「ということは!? 後鬼や十二神将も当面、召喚できないのか!?」

 

 半兵衛は震える手で首から下げた小さな護符を押さえ、首を振る。

「それは……その……後鬼さんたちは、もう召喚できないんです。くすん、くすん」

 

「陰陽道の世界で、なにかあったということか? だが今は目の前の敵を防がないと!」

 

もはや相良軍団の「陣」は、存在していなかった。

押し寄せる浅井・朝倉の兵に押し潰され、ただの乱戦と化した戦場で、仲間たちは己の体一つで抗うしかなかった。

 

天城軍団は、必死に方円の陣を維持していた。

だが盾を掲げる腕は血に染まり、槍を支える脚は震え、負傷兵が増えていく。

それでも一歩も退かぬのは、「刃の軍団」としての誇りと、留守を預かる半兵衛を死守するという強い意志ゆえ。

 

良晴も、苦手な槍をガシッと掴み取ると、顔を引きつらせながら「え、えいやああっ!」と叫び、姉川の血に濡れた原野を必死に暴れまわった。

突きは浅く、薙ぎ払いも雑。何度も敵の刃に喉元を狙われ、そのたびに背筋が凍る思いをした。

 

だが、良晴のすぐ背後には小さな影――五右衛門が張り付いていた。

「相良氏、相変わらず槍働きが苦手でござるな。突きの角度が甘いでござるよ!」

言葉と同時に、彼女の短刀が閃き、良晴に飛びかかろうとした敵兵の喉を一瞬でかき裂いた。

 

「わ、悪い五右衛門! このままじゃどの陣も各個撃破されちまう! 勝家や長秀さんは!? 十兵衛ちゃんはっ!? 松永弾正はっ!? みんなで一カ所に固まって、信奈の本陣を守らなきゃ負けだっ!」

声が裏返り、必死さが滲み出る。

 

「ぶ、ぶるぶる……そんなに大勢の武将の名をいちいちしゃべらされたら、拙者、かみかみになってしまうでごじゃるよ!」

五右衛門が珍しく弱音を吐きながらも、飛んでくる矢を手裏剣で叩き落とす。

 

その横で、天城軍団の盾に守られながら小柄な半兵衛が「やあっ、やあっ」と必死に采配を振るっていた。

だが――その頬には涙が伝っていた。

「この乱戦では、連絡がつけられません……! すでに七段目まで突破されてしまいました……くすん、くすん……!」

声が震え、采配を振る手が小さく痙攣する。

 

「ええっ!? 敵兵はもうそんな奥まで!? 俺はまだ浅井長政の姿を見てねえぞ!?」

良晴の叫びに、半兵衛はさらに泣き顔を歪めて告げた。

 

「いえ……さきほど良晴さんが石に躓いてコケて、地べたに這いつくばっている脇を……長政さんが馬に乗って、あっという間に駆け抜けていきました……。もし見つかっていたら……その場で首を飛ばされていたかもしれません……くすん、くすん……」

 

「ま、まるで本物の鬼だったでござる……。あんなの、忍者でも倒せないでごじゃる……」

五右衛門の顔にも恐怖の色が走る。

 

「なんてこった! ツキがあるんだか、ないんだか!」

良晴は額から血混じりの汗を拭い、乾いた笑いを洩らす。

 

――いや。いやいやいや。俺にはツキがある! ツキがなきゃここで死んじまう!

そう信じこまなきゃ、とてもじゃねぇがやってられなかった。

 

「朝倉勢の勢いもすごいです。いよいよ九段目まで破られたようです、くすん……」

 

「今すぐ信奈のもとへ全員を集結させるんだ! それで勝てるかどうかはわからねえが、それしかねえ!」

良晴が怒鳴るように号令をかける。土埃の中で唇が血に裂けても、声だけはまだ折れていない。

 

「どうやって集めるでござるか?」

五右衛門が訊く。すでに連絡網は切れかかっており、伝令が次々に倒れている。地形も崩れている。もはや一本一本伝令を飛ばす時間はない。

 

「もういちいち連絡を取り合ってる時間はねえ」

良晴は周囲を見渡して、ぱっと目を光らせた。

「織田家臣団が誇る『阿吽の呼吸』を信じるしかねえ。ド派手な演出で一発で全員に分からせるんだ!」

 

「なるほど。では狼煙を上げるでござるか?」

誰かが呟く。狼煙も良い。だが、それだけでは遠距離の谷間や森の向こうの連携までは届かぬ。

 

「狼煙ったって、『信奈の本陣に集合しろ』という合図を決めてるわけじゃねえしな……」

良晴が首を振る。合図は単純で強烈でなければならない。兵の耳目を一瞬で奪い、行動を起こさせる“見せ場”だ。

 

半兵衛は俯いて小さくすすり泣く。

「すみません良晴さん。このあたりは、わたしが軍師としてきちんと整備しておくべきでした。くすん、くすん」

 

「いや、半兵衛ちゃんのせいじゃねえ。刃を伊勢に飛ばした信奈の責任だ」

 

「あの~。ジパングのニンジャには、空を飛ぶ術があるとうかがっていますが」

 

地中に埋められて、首だけを地面から出しているオルガンティノが、おそるおそる良晴たちに声をかけてきた。

その様子は、まるで戦場に突如現れた“人間盆栽”。血煙立ちこめる修羅場の真ん中で、やけに滑稽な光景だった。

 

「おわっ!? なんで首だけ生やしてるんだよ!? びっくりしたっ!」

良晴が腰を抜かしそうになる。

 

「ボ、ボクに言われても……。これ、自力で出られないんですけど……」

オルガンティノは半泣き。

 

「南蛮人は拙者を誤解しているでござる。蜂須賀流には鳥のように空を飛ぶ術はないでごじゃるが、ちかち」

五右衛門がしたり顔で説明しはじめた。

 

「ちかち……なんだ? 三十文字ごとに止めないでいいから一気にしゃべってくれよ、五右衛門!」

 

「うにゅう……凧を空に揚げることはできるでござる。その凧に文字を書き込めば、ぜんぐんのぶちょうがよめまちゅな。このてでいけちょうでござるにゃ!」

と、誇らしげに地中から木箱を掘り出し、そこから忍び用の大凧を広げてみせる。

 

「おお……凧が出てきた。お前、まるで四次元ポケットだな」

良晴が呆れ顔をすると、五右衛門は胸を張って鼻を鳴らす。

 

「あらかじめ、いろいろ忍びの道具を埋めておいたのでござる」

 

「うーん。勝家のバカは漢字が読めねえって言ってたが……『信奈』くらいは読めるかな?」

 

「凧は敵軍の皆さんにも丸見えになってしまいます。暗号的な言葉を書かないと駄目です。あまり文字数が多いと読めなくなりますし、お味方にしかわからない手短な言葉で……くすん」

半兵衛が冷静に指摘した。

 

「つまり即席の合い言葉を考えねばならぬのでござるな」

五右衛門が頷く。

 

すると、首だけのオルガンティノが小さく手を挙げるように顎を動かした。

「あ、あの~……。『サガラヨシハル帰還』でどうでしょう? きっと皆さん安心して──」

 

「河童。そんなこといちいち報告しても意味ないでござる。天城氏なら話は別でござるが」

 

五右衛門が即座に切り捨てた。

 

「だ、駄目ですか!? ご、ごめんなさい……」

オルガンティノの顔がしょんぼりと土に沈む。

 

「ん? 待てよ……」

良晴が顔を上げ、目をぎらりと光らせた。

 

「みんなに“信奈がピンチ”だと伝えるなら、刃がいないって書くのが一番早い。だが、それじゃ浅井・朝倉の連中の士気を逆に上げちまう……。なら──!」

 

「良晴さん? なにか閃いたんですか?」

半兵衛が不安と期待を入り混ぜた瞳で見上げる。

 

「相良氏?」

五右衛門も期待に満ちた眼差しを送る。

 

良晴は槍を肩に担ぎ、真剣そのものの顔つきで言い放った。

 

「刃が信奈の怒りを買って伊勢に左遷された原因は、織田家の奴らなら知ってる! だが、浅井朝倉は刃と信奈のどうでもいい痴話喧嘩の内容なんて、よく知らねぇはずだ! だからこそ、この一手だ!」

 

「……なにを?」

半兵衛が目を見開く。

 

「浅井朝倉に刃がこの戦場にいないことを悟らせずに、織田家臣団だけに伝えるなら、刃に殺されるかもしれねぇが、これしかねぇ!」

 

良晴は、凧に書く文言を力強く筆でなぐり書きした。

 

『おれは いまから のぶなの  ちちを もむ わぁははは ~さる』

 

「……」

しばし沈黙。

 

「……良晴さん。ただでさえある意味悪評まみれの良晴さんの評判が地の底まで落ちます。柴田さまあたりはここが戦場だということも忘れて、真っ先に良晴さんを殺しに来るかもしれません。くすん、くすん」

半兵衛が泣きそうな声で言う。

 

「かもな! だが、これでこそ完璧なんだよ!」

良晴が胸を張った。

 

「織田家臣団なら“サル=良晴”ってのはみんな分かってるし、刃の信奈に対する過保護っぷりも理解してる! だからだ!」

 

彼の目がぎらぎらと光る。

 

「もし刃がこの場にいたら、俺がこんなバカみたいな狼藉に出るはずがねぇって、すぐにわかる! つまり──これは“刃の不在”を逆説的に証明する最高の合図なんだよ!」

 

五右衛門が「うにゅ……」と頭を抱え、半兵衛は泣き笑いのような顔で口元を押さえる。

 

そして地中から首だけ生えたオルガンティノは、絶句して震えながらつぶやいた。

「おおお恐ろしい……。この戦国の地では、煩悩まみれの痴話げんかまでも軍略に利用されるのですか……。主よ、どうかお助けください……」

 

凧が風を受け、空高く舞い上がっていく。

それは、最悪にして最高の狼煙だった。

 

 

 

 

 

 

 

同日同刻。

美濃国、岐阜城の麓に広がる濃尾平野。

 

鞭聲肅肅夜過河。

――夜闇と霧に紛れ、武田信玄は二万五千の大軍を密かに木曾川へと進ませていた。

濃霧があたりを覆い、馬蹄の音も水音に溶けて消える。軍団は息を殺し、ただ前へ、前へ。狙うは蝮・斎藤道三の居城、岐阜である。

 

だが、その静かな進軍の裏で信玄の脳裏に去来していたのは、かつての「川中島」の戦いだった。

 

信濃。川中島。

武田軍は海津城に拠り、上杉軍は妻女山に陣取って睨み合った。長い膠着の末、軍師・山本勘助は奇策を提案する。

 

――啄木鳥の戦法。

夜陰に乗じて大軍を川の向こう八幡原へと密かに展開させ、同時に精鋭の別働隊を回り込ませて妻女山を突かせる。

啄木鳥が木を突くとき、正面からは嘴が、背後からは翼が襲う。

逃げ場を失った獲物は、ただ挟み潰されるのみ。

 

勘助が魂を削り出した必殺の策。

だが、その「必殺」は一人の女によって破られる。

 

上杉謙信。

毘沙門天の化身とまで信じられている姫武将。

彼女は軍学を駆使したのではない。

緻密な分析や謀略をもって勝利を掴んだのではない。

ただ――「勘」で動いた。

まるで神の啓示でも受けるかのように、妻女山が危険だと察知した謙信は、撤退せず全軍で下山。

霧に包まれた八幡原へ、真っ向から突進していったのだ。

 

これに驚いたのは武田信玄本隊。

敵を八幡原で待ち伏せするつもりが、よもや自分たちが奇襲される側に立ったとは。

文字通り、乾坤一擲の決戦が繰り広げられた。

 

この結果──。

川中島の濃霧の八幡原において、武田と上杉の両軍は、霧が晴れるや否や正面から激突した。

 

「川中島の合戦」の前半戦は、啄木鳥の奇策をあざ笑うように、軍神・謙信の直感によって逆手に取られた。

別働隊を送り出して中核を削がれた武田軍は、次々と名だたる将を討たれ、信玄の陣も崩壊寸前に追い込まれる。

その最中、軍師・山本勘助は信玄の身を守るため自ら最前線に飛び込み、壮絶な討ち死にを遂げた──と、世間では伝えられている。

 

だが戦はそれで終わらなかった。

後半、空になった妻女山から疾風のごとく戻ってきた武田別働隊が上杉軍の背後を衝く。

形勢は一転し、八幡原は血の奔流と化す。

 

あと一歩で信玄の首に刃を届かせられるところまで迫った謙信は、全軍に退却を命じざるを得なかった。

しかしその前に、ただ一騎、白馬にまたがった姿で敵陣を突き破り、総大将・信玄の眼前へと駆け込んだのである。

 

「流星光底に長蛇を逸するか!」

謙信がそう唱え、神速の剣を振るった時、信玄の本陣は小姓も親衛隊も払底し、勘助もすでに戦場で命を散らしていた。

軍神と甲斐の虎――両雄がついに直接刃を交えた。

 

決着は、つかなかった。

その力も、胆力も、まさしく互角。

斬り結んだ剣は夜空を裂く雷鳴のようでありながら、両者ともに最後の一線を越えることはできなかった。

 

やがて夕暮れが戦場を覆い、八幡原には累々たる屍と馬の骸が折り重なり、血の匂いに満ちた地獄の光景だけが残った。

 

 

「勘助。今回は別働隊を金華山の岐阜城へは繰り出さず、濃霧に乗じて全軍を正面から押し出す。一見、凡庸に見える策だが……」

信玄は手綱を握り、鋭く目を細めた。

 

「御意。しかし斎藤道三は全身知恵の塊。川中島の一部始終を熟知しておりましょう」

 

「ならばこう考えるはずだ。武田信玄が、いちど破れた策を二度と用いるはずがないと。普通ならば、な」

 

「はっ。二度と啄木鳥を繰り返すまい――と、並の知恵者ならば読む。しかし道三は、常人の二歩も三歩も先を読む男」

 

「──あたしが裏の裏をかく、と先の先まで読んで自らもこの霧に乗じ──」

 

「はっ。岐阜城から下りて参りましょう」

勘助の声は、霧の中で低く響いた。

 

「しかし道三はさらに先の先の先まで読んで、あえて動かぬかもしれぬぞ」

信玄は馬上で口を引き結び、濃霧にかすむ金華山の方角をじっと見据えた。

「彼我の兵力差は圧倒的。かつて織田信奈の親父を迎え撃ち、加納口で奇襲をもって壊滅させた時も、奴は最初ひたすら籠城に徹し、敵を油断させてから牙を剥いた」

 

勘助が馬腹を軽く蹴って並びかける。

「御屋形さま。この戦は、知恵と知恵のぶつかり合い。ならば考えすぎたほうが敗れるものでござる。そして、考えすぎるのは──美濃の蝮のほう」

 

その声には確信があった。

「なぜなら、道三には決戦を急がねばならぬ理由がある。濃尾の霧が呼び水となり、今ごろ近江姉川では織田と浅井・朝倉が死闘を始めておりましょう。父は娘の身を案じ、娘は父の身を案じて気を焦らせる。互いにその心を突き動かされ、いずれ命を削る決断を下すはず」

 

「……織田信奈が、浅井朝倉を討ち果たせば、すぐに岐阜へ引き返してくるか?」

「御意。斎藤道三はその前に、必ずや御屋形さまの軍を退けねばならぬ。もし今日、信奈が敵を討ち漏らせば──天下は八割方、武田のものと定まりまする。ゆえに道三は先読みしすぎて、籠城を選べませぬ」

 

信玄は、遠くをにらんだまま低く息を吐いた。

「義理とはいえ、父娘の情を策に織り込むか。戦の鬼だなお前は……」

 

勘助は応えず、ただ星を仰ぐように天を見上げた。

「瀬田は目前。しかも、それがしが天文を観るに、織田信奈と斎藤道三の宿星はともに輝けぬ。並び立てば破軍の星に呑まれ、互いに滅ぶ定め。これこそが天命」

 

「天命か……」

信玄は眉間に深い皺を寄せた。

「武田家にもまた天命があるならば、いや……川中島で死地をくぐり抜けたお前にも、まだ生き延びた意味があるはずだ。勘助」

 

勘助は苦笑し、首を振った。

「残念ながら、それがしには自分やお味方の天命は見えませぬ。心に私情が差し込み、目が曇るゆえ」

 

その時、信玄が片手を挙げ、鋭く囁いた。

「──しっ!」

 

濃霧の彼方、木曾川を渡った野の空気を震わせるような蠢動があった。

地鳴りのような規模の大軍。

「感じるか、勘助。岐阜の軍勢が……山を下りている」

 

斎藤道三は、籠城を棄てた。

蝮は、野戦を選んだ。

 

しかし、川中島とは違う。

あたしは別働隊を割いていない。

最強の精鋭武田騎馬隊は、今、わが手許にある。

 

「斎藤道三、出て参りましたな。我慢できなかったと見えまする」

勘助の隻眼が霧を凝視する。

 

「勘助。攻守は逆転した。先手を取ったぞ。武田が攻める時だ」

信玄は鼻息荒く、鞍上で扇を軽く広げた。だが勘助は血走った眼で首を横に振った。

 

「くれぐれもご油断めさるな、御屋形さま。この霧の向こうに……まがまがしき妖気を感じまする」

その声音は、戦の鬼でさえ思わず身を固くするほどの凄みを帯びていた。

 

「ふん。あやかしか。真田忍群を擁する武田には通じぬ」

信玄は嘲笑するように吐き捨てる。

 

「いえ……違いまする。これは武士でもなく、乱波でもなく、陰陽師ですらない……ただひたすらに、おそるべき量の『気』。いったい何者が……」

勘助の声が震えた、その瞬間──。

 

霧の帳を裂いて、大地を震わせる蹄音が轟いた。

ずしん、ずしん、と土が跳ね、武田軍の旗が震える。

 

濃霧の奥から姿を現したのは、ただ一騎。

黒曜石のように巨大な黒馬。その背にまたがるは、全身を黄金の甲冑に覆われた異相の騎士。

 

頭部から顔まで完全に覆い尽くす黄金の兜。

煌めきに兵の目が眩むほど眩しい黄金の鎧。

その胸甲には深紅の十字架が刻まれ、黄金の盾にも同じく十字が輝いていた。

そして片手に携えるは、日本の長槍よりもさらに長大にして重厚な南蛮槍──鉄の巨柱のような得物であった。

 

白い霧を切り裂きながら、その怪物はただ一直線に武田の大軍へと突進してきた。

兵たちの心胆を揺さぶるような咆哮とともに。

 

「な、なんじゃ、あれは……!」

「ばばば、化け物が出たずら!?」

「ひいいいっ、目ぇ合わすな! 魂を抜かれるっ!」

 

精悍と謳われる甲斐の兵たちが、思わず後ずさる。

彼らは尾張兵三人に匹敵すると評された強兵であったが、南蛮の騎士など見たこともない。

三方ヶ原では、この黄金の騎士は一度も姿を現さなかった。

滝川一益が岐阜決戦の切り札として、温存していたのだ。

 

全身を黄金の甲冑で覆い尽くした南蛮の騎士が突然白い霧の中から襲いかかってきたその幻想的かつ不吉な光景は、彼らの目にはまるでこの世のものには見えなかった。

わっ、と「不動」で知られる武田の足軽たちが崩れた。

 

「聖ヨハネの騎士、ジョバンナ・ロルテス見参!

ジパングのサムライよ、勇気あらば──ワタシとの一騎打ちに応ぜよ!」

 

声は雷鳴のごとく大地を震わせ、武田の陣を切り裂いた。

ヨハネ! 黙示録を書いた者の名もヨハネ! 黙示録騎士団、キター!  

武田陣営にもしも伊達政宗がいれば、

「ククク、わが邪気眼の威力を思い知らせてやるぞ」と舌なめずりしながら颯爽と一騎打ちに応じたところだったろう。

 

だが、この黄金の騎士は──南蛮文明を知らぬ者が、軽々しく単騎で挑戦できる相手ではなかった。

奇怪。不吉。不気味。戦場に出てはならぬ異質そのもの。

 

だんっ!

突如、武田方の一人が恐怖に耐えきれず、種子島を放った。

 

カンッ!!!!

火花とともに弾丸ははじき飛ばされた。黄金の槍の石突で、易々と。

 

続いて武田の数少ない鉄砲隊が一斉に撃ち込む。ぱん、ぱん、と乾いた音が霧を震わせる。

だがジョバンナはすべてを槍と盾で弾き返し、巨馬とともにただ一直線に信玄本陣へと迫った。

 

その頭部に──。

 

ガンッ!

乾いた衝撃音とともに、一発が黄金の兜に直撃した。

 

「よぉっし! 頭に当たった!」

「ただの人間ずら~!」

 

兵たちの口から歓声が上がる。だがそれも束の間。

 

ジョバンナの動きが、一瞬、止まった……かのように見えたが。

 

ドドドドドドドド!

次の瞬間、なにごともなかったかのように突進を再開した。

まるで弾丸など存在しなかったかのように。

 

「……渡来したばかりの火縄銃を自国で量産する、お前たちの技術力には感嘆する。

だが──もっと近くから撃ち込まねば、わが兜を貫通させることはできない」

 

低く、震えるような声が戦場に響いた。

 

うわああああっ!

鉄の規律を誇る武田勢が、ただ一騎の敵に崩れはじめる。

勇猛と称される甲斐の兵でさえ、あまりの異相に心を奪われた。

 

今こそ──「動かざること山の如し」という孫子の教えを実践する時だった。

 

信玄は静かに馬から下りた。

そして小姓が差し出した床几に腰を下ろし、悠然と軍扇を広げた。

 

「ここを本陣とし、斎藤道三に総攻撃をかける」

 

その声は、雷鳴をもかき消すほどの確信を帯びていた。

 

「勘助。あの黄金武者、戦闘力が読めぬ。四天王たちに伝えよ──一騎打ちには応じるなと」

「はっ!」

 

「まもなく霧も晴れる。騎馬隊を前へ突出させよ」

「御意」

 

信玄の胸を打つ感情は恐怖ではなかった。

あの怪異が「先の先」を取って現れたことすら──信玄の内に眠る熱を呼び覚ましただけだった。

 

川中島で軍神・謙信の刃と交わった時の緊張。

秘湯で天城刃の殺気に触れた時の絶望感。

あの瞬間を凌ぎ切った自分である。

 

ならば、これしき。

 

むしろ今、戦場の只中で──血が沸き立つ。

勇気とも違う。蛮勇でもない。

ただ、戦に身を投じ、全霊で挑むことでしか得られぬ昂揚。

この時こそ、信玄が真に生きていることを実感できる瞬間なのかもしれなかった。

 

勘助の策は、破れてはいない。

 むしろ、要害である岐阜城から下りて野戦に応じた斎藤道三こそが、まんまと策中にはまり、いま追い詰められているのだ。

 

「御屋形さま。無敵の武田騎馬隊が、突撃いたします」

「うむ」

 

 軍配を軽く打ち鳴らす信玄。

 勘助はその姿を横目で見やり、勝利を確信していた。

 信玄が勘助へ寄せる信頼もまた、微塵も揺るいではいなかった。

 

 しかし──。

 

 斎藤道三に加勢した戦力は、あの黄金の鉄騎士ひとりにとどまらなかった。

 

 ガガガガガガーン!

 グワアアアアアアアーン!

 

「……むっ!? この大轟音は……!?」

 

「ちっ。種子島か……! しかも数が多い。五十、百ではきかぬぞ」

「御屋形さま! 種子島の音に慣らしてきたはずの馬どもが、恐怖にわななき始めておりまする!」

 

 甲斐の勇馬が、前脚を高く上げ、泡を吹き、騎士を振り落とす。

 戦場に轟く大音響は、もはや雷鳴をも凌駕していた。

 

「さすがは堺を押さえた織田信奈。騎馬隊の力押しで瞬殺できる相手ではないな……魚鱗の陣を取れ!」

「はっ!」

 

「畿内を制圧した後は、あたしも鉄砲をかき集めねばなるまい。騎馬と鉄砲の併用は難しいが──これほど馬が怯えては、戦にならぬ」

 

「御屋形さま。味方は三万、敵はわずか数千。兵力差は歴然でございます。騎馬兵を三割ほど犠牲にすれば、鉄砲隊など強引に蹴散らせまする。しかしながら……」

 

「一方的かつ圧倒的な完勝を収めたいところだな、勘助。天下が、この戦の行方を見ている。今日、勝利した者こそが真の天下人だと」

 

「御意。そのための策が……『啄木鳥・改』でございまする」

 

「川中島の汚名をそそぐは今ぞ、勘助」

 

 三方ヶ原では散発的なゲリラとして各地に分散していた滝川一益が率いる甲賀鉄砲隊──そして道三直属の鉄砲隊。

 その双方が今、一カ所に結集していた。

 

 甲斐の兵が見たこともない規模。

 数百丁もの鉄砲が、濃尾平野に並び立つ。

 

 堺の商人今井宗久を通じて信奈がかき集め、岐阜に備蓄していた銃器。

 一益が甲賀を通じて秘密裡に買い集めた数十挺。

 両者が合流したことで生まれた、驚異的な鉄砲密集陣。

 

 轟音と硝煙に包まれ、武田騎馬隊の鋒は一瞬足を止めざるを得なかった。

 しかし信玄も勘助も、眉ひとつ動かさない。

 

 小姓たちがすかさず本陣の周囲に陣幕を張りめぐらす。

 その上に「風林火山」の旗が翻った。

 

 退かぬ。

 一歩も退かぬ──。

 

 それは信玄の無言の意思表示であった。

 

 隣に控える勘助は、傷だらけの顔を歪め、不敵にほくそ笑む。

「御屋形さま……『啄木鳥・改』、いよいよ幕が開きまする」

 

「うむ」

 

 霧に包まれた濃尾の原野に、地獄の咆哮が木霊した。

 

 

 

 

 

 

 

「自ら出てくることないのにの。まむっしー」

「まむっしー?」

「お爺ちゃんのことを言うておる。くすくす」

 

無邪気に笑う一益の声が、重苦しい戦場にほんのひと雫の温度を加える。だが、その笑みの下で震えているのもまた事実だった。

霧はなお濃く、木曾川の向こう側からは馬蹄の低いうねりが絶えず届く。

遠景に揺れるは、風林火山の旗列。まるで黒い海の波頭が、こちらへと押し寄せてくるかのようだ。

岐阜城を下りて山麓の平野へ立つ斎藤道三の軍勢は、目に見えて少数であった。広大な濃尾平野にあって、その姿はまさしく、広い海に泡立つ小さな点――それでも、道三の眼差しは沈着で冷たかった。

 

「この霧に乗じて武田信玄は木曾川を渡り、岐阜城下へと攻めてくる。信玄は川中島での敗北を繰り返す愚は犯すまいと誰もが思うが、あの男ならばまた裏の裏をかいてくる」

道三は短く、だが断固とした声音で続ける。

「信奈どのより預かりしこの岐阜の城下町を、我が手で灰に帰すなど断じて致さん。」

 

刃が一益を抱き上げ草庵から出て行き、良晴を近江へと走らせたその直後──道三はすでに決断を終えていた。即座に立ち上がり、全軍に下山を命じ、濃尾平野の霧の中で布陣したのだ。

 

 今、彼は一益とともに岐阜城最後の希望とも言うべき鉄砲隊を掌中に収めていた。数百丁の鉄砲が一斉に火を噴き、天地を割らんばかりの轟音が響き渡る。

 耳を劈く音と共に、硝煙が霧と入り混じり、視界は白と黒に塗り潰される。その中で、武田の誇る駿馬たちは驚き、嘶き、前進をためらった。

 

 異形の黄金騎士ジョバンナが武田の兵の肝を冷やした直後に、鉄砲の大合奏。二重の衝撃が、武田軍の心胆を揺るがしていた。

 

「城を空にしたのはまずいのではないかの?」

と、震え声でつぶやく一益に、道三は微かに笑みを浮かべた。

 

「信玄は、川中島での『啄木鳥』と同じ愚はおかさぬ。たとえ小勢とはいえ、この蝮の道三をあなどって兵を二手に分けるような武将ではないわ」

 

実際に、信玄が率いている大軍勢は見た限り約三万。

上洛軍のすべてをこの戦に投入していた。

一益は鉄砲を用いた籠城戦を提案したが、道三はうなずかなかった。

籠城すれば、岐阜の町を焼かれる恐れがあった。

 

道三が手塩にかけて育て、そして道三の志を継いだ信奈が堺衆の一部を誘致して東海地方における南蛮貿易の一大拠点とすることで発展させたたいせつな町である。

信奈お気に入りの、南蛮寺の建築も予定されている。

その町が灰燼に帰すのを黙視してはいたくなかった。

 

そして──それよりもなお、強く老将を突き動かしたものがあった。

 

「刃どのの到着が遅れておる。今頃、信奈どのは苦戦しているであろう。この天下分け目の時に岐阜へ援軍を出されれば致命傷。ワシの存在が信奈どのの足を引っ張っておる。一刻も早く、武田信玄を甲斐へ押し戻さねばならぬ」

 

そう。刃は一益のわがままに付き合い早朝まで岐阜にいたため、姉川への到着が大幅に遅れているのだ。

刃がどれほど急ごうとも、数刻はかかるはず。

その焦燥が、道三を無謀とも見える決戦へと駆り立てていた。だが、老獪なる蝮は何も策なく死地へ突っ込む男ではない。

 

──

 

黄金の鉄騎士ジョバンナを霧の帳から出現させたのも、鉄砲の轟音で武田騎馬隊を恐慌に陥れたのも、すべて道三の仕掛けた舞台装置であった。

彼自身も火縄を構え、痩せた胸を震わせながら火花を散らして撃ち放つ。火縄の匂いと硝煙が白い霧に混ざり、地獄のような戦場の幻影をつくりあげる。

 

「見よ、信玄は本陣に腰を据えたようじゃ。ワシを瞬殺できると思うておったらしいが──先手を取られて、すでに一歩退いておるのよ……けほっ、けほっ」

 

乾いた咳とともに血の混じった痰が唇を汚した。

 

「のう、まむっしー。だいじょうぶかえ? 痰に血が交じっておるぞ」

傍らの一益が声を潜めて訴える。だが道三は首を横に振り、遠い昔へと思いを馳せるようにかすんだ目を細めた。

 

「思い出すのう、『加納口の合戦』を。まだ岐阜を稲葉山と呼んでおった頃じゃ。信奈どのの父、織田信秀公が攻め寄せてきた時、ワシはあえて籠城して負け続け、油断させてのう。ある夜、乾坤一擲の奇襲を仕掛け、織田軍を殲滅したわ」

 

あの時の信秀の面影が脳裏をよぎる。あの不俱戴天の敵の娘が、あれ程の覇王を従え、今は自らの志を継ぎ、天下を狙う立場に立っているとは──あの頃の自分には想像すらできなかった。

 

「岐阜の町と城は、わが命に替えても決して燃やさせぬ。たとえ相手が武田信玄と山本勘助であろうともな」

 

道三は、まるで虚空に誓いを立てるかのように言い放ち、瞬きの多い濁った目で霧の戦場を睨み続けた。

 

その姿を横目に見た一益は、(お爺ちゃん……もう目がかすんで、敵がよく見えていないのでは……)と胸を締め付けられる思いで呟いた。だが、声に出すことはなかった。

 

彼女は知っていた。老いた蝮の心を燃やす炎は、もはや己の命を顧みぬ覚悟と、信奈への深き想いであることを。

 

──

 

「ここから先はどうするのじゃ? 別働隊を出して信玄の退路を断とうにも、ぜんぜん兵力が足りないしの。鉄砲隊は、攻めるのには向いておらぬ」

一益が不安げに問いかける。華奢な肩を震わせ、南蛮渡りの大筒を抱えて立つ姿は、まだ年若き娘にはあまりに重すぎる役目を背負わされていた。

 

「おうおう、だいじょうぶじゃ一益どの」

道三は嗄れた声で笑った。その笑いには力がなくとも、老将の眼光だけは、なおも霧を貫こうとしていた。

「そなたを死なせるつもりはないぞ。そなたのことは刃どのに任されておる」

刃の名前が出ると、一益は顔を綻ばせた。

 

「信玄が本陣に腰を据えた今こそ、次の策を繰り出す時なのじゃ。ここからは、ワシが育て上げた旗本衆の働きどころぞ。みなの者、よいな」

その一言に、霧の中から響く声。

「御意!」

 

道三が指揮する旗本衆が、霧に包まれた前線へと進み出る。

鎧は古び、白髪まじりの髭を蓄えた武者も多い。だが、その背筋はしゃんと伸びていた。

 

彼らは、京の油売りから美濃国主へとのし上がった道三と共に、血と泥を啜りながら戦い抜いてきた男たちだった。

一国を得るまでの数多の暗殺、奇襲、謀略──その一部始終を知る者たちであり、主の栄光と汚辱をすべて共有してきた者たちである。

 

長良川で道三が息子・義龍と戦った時にも、圧倒的に劣勢だった道三に加勢して忠義を尽くした、股肱の臣ばかりであった。

彼らは皆、老いて甲冑の下の肉は痩せ、槍を持つ腕は震えてもなお、蝮に拾われた恩義を胸に抱き続けていた。

 

「そなたたちはそれぞれ、単騎で駆けると見せかけて四方に散れ。蠅のごとく動き回り、武田の騎馬隊を分散させよ。武田本陣を守る兵力が手薄となり、あの南蛮の騎士どのが本陣近くまで迫った時こそ勝機よ。

間髪を入れず駆けながら密集し、一匹の長き蛇となって本陣を呑み込め。一人が倒れれば、その後ろからまた次の一人が突き進むのじゃ。最後の一兵となっても止まるな。必ずや、信玄の首を獲れ。

くれぐれも影武者に注意せよ。たとえ信玄を討ち取っても油断するな。なおも第二、第三の信玄が現れるやもしれん。──生きては戻れぬ任務じゃ。ワシも、すぐにそなたらのもとへ逝く」

 

「地獄までお供します、道三さま!」

「よき夢を、ともに見せていただきましたぞ!」

「水も滴る色男っぷりだけが取り柄の油売りが、天下人のお父上にまで化けられましたからな。これほど壮大な法螺話も、ほかにありますまい!」

 

陽気に笑いながら、老いた旗本衆が続々と前へ進み出る。

それは勝ち戦の歓声ではなく、死を覚悟した者だけが見せられる、吹っ切れた笑みだった。

 

「ふっふっ。往年の色男ぶりはこのとおり、見るもむざんなありさまになってしもうたがのう」

「悪事を働きすぎましたからな、道三さまは」

「もはや若かりし頃の面影はかけらもござらぬ」

「天罰てきめん、というやつですな」

 

陽気に笑いながら、老いた旗本衆が続々と出撃していく。

 

「唯一心残りがあるとすれば……義龍どのと大殿が和解する場面を、この老骨で見てみたかったですなあ」

 

振り返る老臣の背に、道三はふっと笑みを浮かべた。

(義龍に流れる血は、ワシが追い出した主君・土岐家のもの。和解など、かなわぬ夢よ。されど……それを望んでくれる者がいたというだけで、救われるわい)

 

寂しげな笑みを浮かべた蝮の老将の胸中には、誰にも見せぬわずかな悔恨と、それ以上の誇りが同居していた。

 

 

 

「──あとは、この本陣でワシ自身が武田軍を釣る餌となって支えきるばかりじゃ。万一の時には、一益どのは岐阜城へ退かれよ。もし死なせたとあっては、刃どのが激怒し、何をしでかすか分からんからのう。こほっ、こほっ」

 

「お爺ちゃん、顔色が悪すぎじゃ……姫に任せて休めばよかろう」

「ふっふっ……ワシが顔を出しておらねば、武田の兵をひきつけられぬのでな」

 

もはや道三の体には、鉄砲を構え引き金を引くほどの力すら残されていなかった。肺は焼けつくように痛み、痰に血が交じるたびに胸が軋む。

命の灯火は、今まさに尽きかけている。

 

(まだじゃ……まだ死ねぬ。武田勢を撃退するまでは……信奈どのが天下を盗る、その姿を一目見るまでは……!)

 

老いた蝮は、必死に笑みを浮かべ、余裕を装った。だがその瞬間。

 

かすみ、ぼやけていた視界が──不意に鮮明に戻った。

命が蘇ったのではない。衝撃と絶望が、死にかけた感覚すら吹き飛ばしたのだ。

 

背後。

岐阜城の山頂に、ありえぬはずの旗が、翻っていた。

 

「……あれは……土岐の……旗印……!」

 

道三の胸に、冷たい鉄の刃が突き刺さったような感覚が走る。

理解は一瞬だった。──自分が、山本勘助の策に敗北したことを。

 

まさか。

まさかあの川中島で一度破れた「啄木鳥」を、この道三相手に再び用いてくるとは。

常道を嫌い、先の先を読み尽くす信玄ゆえに二度と繰り返さぬはずと高を括った己の油断。

 

だが──岐阜城に突如現れたのは武田の別働隊ではない。

あの蝮が、警戒を重ねてもなお防ぎきれなかった者たち。

 

かつて道三に美濃を追われた名門・土岐家の残党。

その旗を率いる頭領こそが──

 

「……義龍……!」

 

かつて自らの手で討ち果たしたはずの宿敵・土岐家。

その血を継ぐわが子が、岐阜の城壁に立ち、鬨の声を放っていた。

 

「う、うそじゃろ……」

一益の声が震えた。幼い胸の奥に走るのは、父と子の因縁が織りなす、血の宿命の恐怖。無意識に刃の袖を掴もうと、手を彷徨わせる。

 

無数の旗が翻り、岐阜城の石垣を埋め尽くすように立ち並ぶ。

そこに集うは、信奈と道三の夢を打ち砕かんとする兵たち。

岐阜の町と城を守るはずの場所が、いまや敵の旗で覆われていた。

 

天地が裂けるような鬨の声が轟き渡り、蝮の老将の心を抉った。

 

「まさか……あの六尺五寸どのが、今ここで信玄に呼応するとは……!」

道三の声は、笑いとも呻きともつかぬ響きだった。

「うぬ……ワシはどこまでも甘い男じゃった!」

 

最後の最後に、「因果応報」の理を突きつけられた。

己が手で美濃を奪い、主を討ち、息子を追い詰めた。その報いが、今。

 

(いちどは天城刃どのと、相良良晴どのに命を救われたワシであったが……この地で、おのが息子・義龍に討たれるという天命までを、変えることはできなかったのじゃな……)

 

信奈どのに夢を託しただけでは赦されぬ。

わが因業は、まだ償われてはおらなんだか──。

 

肺の奥で、なにかが破れた。

じわり、と胸腔を満たす生ぬるい感触。次の瞬間、口から鮮血が溢れ、道三は地に膝をついた。

 

「お爺ちゃんっ!?」

一益が駆け寄り、震える手で道三の背を支えた。

 

「……無念じゃ、一益どの……わが軍は、武田勢と義龍勢とのあいだで挟み撃ちにされておる……」

声は掠れ、血に濡れ、しかしその瞳だけは冴えていた。

「『啄木鳥』を……かような形で再び繰り出してきた……山本勘助の執念……ワシは……負けた……」

 

「お爺ちゃん……!」

一益の瞳から涙がこぼれ落ちる。

親子が骨肉を相食むは戦国の習い──そう分かっていても、あまりにも無惨な宿命だった。

 

「ワシは……鬼になりきれなんだ……」

道三の吐息は白く、しかし血の赤に濡れていた。

 

(戦国の鬼になりきれたならば、義龍すら……容赦なく斬り捨てられたのかもしれぬ。だが、ワシは……最後まで“父”であった……)

 

「この陣はもうもたぬ……逃げよ。一益どの……今すぐに逃げるのじゃ」

 

──耳の奥で、山本勘助の哄笑が聞こえてくるようだった。

 

 

 

 

 

姉川での激闘は続いていた。

 

 第三段、相良良晴・天城刃の陣、潰走!

 第四段、柴田勝家の陣、壊乱!

 丹羽長秀の陣、崩壊!

 松永久秀の陣、敗走!

 

 怒濤のように押し寄せる報告の声は、もはや織田家臣団の心を打ち砕く槌音に等しかった。

 

 だが、この乱戦のただ中にあっては、何が真実で何が誇張かも判別できない。伝令が途中で矢に倒れ、あるいは敵に追われ、断片的な情報が錯綜し、本陣に届く頃にはもはや全貌を掴むことすら困難だった。

 

 ただひとつ確かだったのは──信奈自身の眼に映る光景。

 

 戦場のあちこちで織田の旗が薙ぎ倒され、兵が蹂躙され、槍衾が砕け散り、方々で火柱が上がっていた。

 そのすべてを一言で言い表すならば──「織田軍、総崩れ」。

 

 信奈は歯噛みした。

 ここで敗れれば、蝮に援軍を送るどころではない。

 織田家そのものが、歴史から消え去る。

 

 浅井家はすでに裏切った。

 朝倉義景は天下を狙うために全軍を率いている。

 もし、この場で自分が家臣団の命を守るために降伏したとして──果たして生き残れると思うか?

 

 否。断じて否。

 

 浅井長政に命乞いをするなど、もはや選択肢にはなかった。

 ともに夢を語り、ともに天下を見ようと誓った義兄が、今や最前線で自分を討ち取ろうと突進してきているのだ。

 

「浅井長政自らが先頭に立ち、本陣へと一直線に斬り込んでこようとしています!」

「すでに十一段まで突破され、残るは第十二段の陣と、この本陣のみ!」

 

 報告を叫んだ物見の兵が、その場にがくりと崩れ落ちた。

 背に突き立つ無数の矢。血で泥にまみれたその姿は、これ以上の言葉を要さなかった。

 

「……陣形を立て直すしかない。姫さま。散り散りになってしまった各将の部隊をこの本陣の周囲に集めて、守りの堅い方円の陣形に」

ずっと無言で信奈の隣にはべっていた前田犬千代が、ついにじれたように声を出した。

 

「わかっている。でも、方法がないわ! 誰がどこで戦っているかもわからない。伝令兵を出しようがない……出しても、これだけ敵が多いと行き着けないわ」

 

信奈と犬千代は、どちらからともなく、思わず空を──冬の青空を見上げていた。

姉川を血で染め尽くす総力戦とは無関係のように、澄み切った青はどこまでも広がっている。

 

その青空に──ひらひらと舞い上がる、一枚の凧。

 

「……姫さま。あれを」

「……あれは──サルの字ね」

 

汚い文字だった。だが、奇跡のように風が凧を高く持ち上げ、陽光に照らし出す。

快晴の空に浮かぶその文字を、織田軍の誰もが読み取ることができた。

 

『おれは いまから のぶなの

 ちちを もむ わぁははは ~さる』

 

……戦場に、一瞬の沈黙。

 

最初にその意味を正しく理解した者は少なかった。

だが、ある者は笑い、ある者は怒り、ある者は「サルの仕業なら仕方ない」と首を振りながらも、本陣へと駆け出していった。

 

そして──いの一番に凧を見つけ、そこに記された文字を読んで烈火の如く激怒したのは柴田勝家だった。

 

「ささささサル~~ッ! この大一番でついに変態妖怪乳揉みザルの正体を現したなああああっ!」

 

敵中孤立し、数百名の浅井勢に取り囲まれて絶体絶命の窮地にあった勝家。

彼女の頬が朱に染まり、双眸が怒りで血走る。

これまで敵兵の猛攻で手も足も出ず、槍衾の中で死を覚悟しかけていたその刹那、凧の一文は彼女の中の「鬼」を呼び覚ました。

 

「敵は相良良晴にあり! 姫さまの操はあたしが守るううううっ!」

 

勝家の烈火の気合が、厳重に組まれていた浅井勢の包囲に亀裂を生じさせた!

 

「柴田さまっ! 今ですみゃあっ!」

いちはやく勝家の小姓が大きな瓶を肩から担ぎ上げ、彼女へと投げ渡す。

「合点! 秘太刀──瓶割大斬撃ッ! きええええええっ!」

 

ばがんっ!

青空を背景に宙を舞った巨大な瓶が、勝家の槍の一撃で木っ端微塵に砕け散る。

 

びゅん! びゅん! びゅん!

四方八方へと飛び散った鋭い破片が、鎧の隙間を突き刺し、浅井兵たちを次々と倒した。

 

「ぐわっ!」

「がっ……!」

「ぎゃあっ!」

 

包囲網を形成していた浅井勢が一気に崩れ、血路が拓かれる。

壊乱していた柴田隊の兵たちは歓声をあげながら勝家のもとへ殺到し、蜂の群れのように彼女を守り立てつつ本陣へと突進した。

 

「者ども! 姫さまのもとへ急げえええっ! サルの首を落とせええええっ!」

 

その咆哮は怒りか、奮起か、それとも羞恥の裏返しか──

だが確かに、織田兵たちの胸を打ち震わせる号令となった。

 

 

一方その頃。

攻め寄せる朝倉勢を相手に、鉄砲隊を軸に小高い丘を守り抜いていた明智光秀。

彼女は合流していた丹羽長秀の部隊と背中を預け合いながら、乱戦のただ中で青空を仰ぎ見た。

 

そして、ぽかん、と口を開いた。

 

「ああああれは……なんですかっ!? もしかしてサル先輩は、壊れたんですか?」

 

凧に書かれたあまりにも不敬極まりない文字列に、光秀の眉間がぴくりと跳ねる。

隣の丹羽長秀も、呆れたように吐息をつきながら応じた。

 

「はい。このまま相良どのの暴走を見過ごせば、戦どころではありません。織田軍はじまって以来の混沌……三点です」

 

「しかし……あんな物を打ち上げれば、天城先輩に斬られても文句は……っ! まさか、天城先輩はまだ来てないです!? 全軍、信奈さまの本陣へ走るです!」

 

「明智どの。これは再集結の好機。敵中でばらばらに戦えば各個撃破されるのみ。ならば凧を合図に陣を立て直す──八十五点です」

 

鉄砲の火線が轟き、白煙が戦場を覆う。

光秀の鉄砲隊は、混乱のただ中でも規律を失わない。

丹羽長秀の部隊は槍衾を固め、後退しながら追撃する敵兵を次々とはじき飛ばした。

突進力はないが、守りは岩のように堅い。

 

二人の部隊は互いに背を預け合い、絶妙の呼吸で敵を捌きながら信奈本陣へと歩を進める。

 

──

 

「まあ。相変わらず、面白いことを考える人だこと」

松永久秀もまた陣を突破され、乱戦の中、自ら宝蔵院流の槍を取って周囲を血の海に染めていたところだったが──。

 

「信玄暗殺が失敗に終わったので半ばあきらめていましたけど。織田家の天命は、天城刃とあのおサルさんがいる限りまだ尽きていないようですわ」

馬の背に積んであった高価な茶器を惜しげもなく左右に放り投げて、 「うふ。わたくし、もう少し皆さんと殺し合いを続けていたかったのですが──信奈さまのもとへ行かねばならなくなりましたの。あなたがたには、冥土の土産をさしあげますわ」

血眼になって自分を追ってくる朝倉勢の足軽たちの目を、茶器によってくらました。

 

「ありゃとんでもない名物だ!」

「槍働きなんかよりずっと金になる!」

「あの茶器ひとつで、一国一城の値打ちがあるぜ!」

「俺のだあ! あの茶器は俺のだああ!」

 

久秀が馬を走らせる背後で、壮絶な奪い合いがはじまった。

「うふ。欲深いこと。「冥土の土産」と言っていますのに」

久秀が黒い笑みを浮かべるその背後で。

轟音。

 

ばらまかれた茶器にむらがっていた朝倉兵たちが、爆薬とともに吹っ飛んでいく。

それぞれの茶器の中には、たっぷりと爆薬が仕込まれていたのだった──。

「これで本陣の守備力は高まりますけれど。悪鬼羅刹と化している浅井長政の突進は止められませんわよ。相良良晴さん。この窮地をあなたのサル知恵でどうなさいますのかしら」

 

 

 

「半兵衛ちゃん、どうだ見たか! 信奈の本陣に、続々と織田家の将兵が集まってきているぜ! これで陣形を組み直せば、まだまだ持ちこたえられる!」

 

ドドドドドド──。

雪崩のごとく、騎馬兵も足軽も目をギラギラさせながら、本陣を目指して血路を駆け抜けていた。

泥に塗れ、血にまみれ、息も絶え絶えの者たちが、まるで魂を呼び覚まされたかのように走る。

 

「くすん……くすん。良晴さん、柴田さまに首を落とされないように注意してください。これでもともとスケベだと評判だった良晴さんの織田家での女の子人気は、完全に地に落ちました……」

「気にするな半兵衛ちゃん! むしろ野郎どもからの人気は上昇したぜ!」

 

「そうだとも、大将!」

「いっそ、ほんとうに姫さまの乳を揉んでしまうみゃあ!」

「お前ら! 俺に死ねって言ってんのか!? 首が飛ぶどころじゃねぇぞ!」

 

良晴が顔を真っ赤にして怒鳴ると、兵たちの間にどっと笑いが広がった。

その笑いは、恐怖で凍りついていた心を解きほぐし、血の臭いに満ちた戦場に一瞬だけ人間らしい熱を蘇らせる。

 

「相良良晴! 姫さまに手出しはさせないぎゃあ!」

「坊主! 天城大将がいない隙に、前田さまや丹羽さま、半兵衛さまたちにまで手を出すつもりか! そうはいかねぇ!」

「そうでごわす! 天城大将が帰ってくるまで、おいどんたちが奥方さまたちをお守りするでごわす!」

 

天城軍団から上がった雄叫び。

皆傷だらけで、肩を借り合いながら走っているのに、誰一人欠けておらず、半兵衛に傷一つつけることなく守り抜いたその姿はまさに“天城刃の分身”のようで、戦場における誇りを見せつけていた。

 

「お、奥方……!?」

半兵衛は真っ赤になりながらも、頬は自然に緩む。

しかしすぐに良晴がちゃちゃを入れた。

 

「おいおい! まだ刃は結婚してねぇんだから、奥方は気が早すぎるだろ!?」

「天城大将が半兵衛さまを手放すわけがない!」

「つまり! 奥方さまで間違いないぎゃあ!」

 

兵たちの声はどよめきとなり、笑いと怒号が混じり合い、血の色に染まった戦場の空気を一変させていく。

半兵衛は羞恥と喜びに頬を染めながら、袖で目頭を押さえた。

「……みなさん……」

 

 

かくして。

丘の上に構える信奈の本陣へ──。

四方八方で散り散りになっていた織田の将兵たちが、次々と馳せ参じる。

織田家の仲間たちは、まさに“阿吽の呼吸”で良晴の凧の真意を読み取り、全軍が信奈本陣の下へ──ひとつの牙となって集結したのである!

 

「見つけたぞ、サルぅうううぅ~! 姫さまの操は奪わせないっ! 死ねやああああ!」

 

「待て、待て勝家! これは緊急の策ってやつでっ……」

 

「騙されるかあっ! ひひひ姫さまの乳を揉むだなどと、よくもよくも! ああああたしの牛みたいにでかい乳ではぜんぜん不満だったとでも言うのかあ、さんざん好きなだけ触っておきながら……こっ、この恩知らずのエロザルめっ!」

 

「違うんだってばあ! ひぃいい! 槍を振り回すんじゃねえ! 刺さったら死ぬだろ!」

「死ねやあ。死ねやあ。姫さまの操のために!」

……一部、まったく良晴の本意が伝わっていない脳筋な某有名武将もいるようだが、とりあえず本陣には真っ先に駆けつけてきたのでよしとしよう。

 

「相良先輩。やっぱり天城先輩はまだ来ていなかったですか」

 

突然、鋭い声で割り込んできたのは光秀だった。

 

「おお、十兵衛ちゃん! 俺の意図をちゃんと読み取ってくれたか!」

 

良晴は必死に笑顔を作りながら、胸をなで下ろした。

──光秀なら、凧の意味をわかってくれると信じていた。

 

「当然です」

光秀は冷静に言い放つが、その頬は赤い。

「いくらサル並みの知能しかない先輩でも、天城先輩がいる中であんな物を打ち上げたりはしないでしょうし」

 

「いや、言い方ぁ!」

 

良晴が突っ込む間もなく、光秀は一歩踏み出した。

その瞳に宿る光は、戦場の血煙や矢の飛び交う喧噪など完全に忘れ去っている。

 

「……て、そんなことより、相良先輩! 天城先輩は今どこにいるですか!」

 

声に籠もる熱。

光秀の頬がさらに紅潮し、胸の奥に押し殺していた感情がついに決壊した。

 

「あ、ああ。それは──」

 

良晴が口ごもるのを待たず、光秀は拳を固く握り、真っ赤な顔で叫んだ。

 

「この十兵衛と引き離されて、伊勢で寂しい思いをなされているに違いないです!」

 

「ん? 十兵衛ちゃん? なんか勘違いしてないか?」

 

「してないです!」

光秀はぐっと拳を握りしめ、戦場の喧騒をも忘れたかのように叫んだ。

「天城先輩は寂しいのです! 私と会えないから! だからこの戦に遅れているのです!」

 

「そんなわけあるかぁぁぁ!」

良晴が全力で否定する。

「そんな理由で遅れてくる懐刀がいてたまるか!!? 寂しさを感じるにしても、それは信奈と会えてないからだろ!」

 

「っ!?」

 

思いがけず飛び火した信奈は、怒鳴り返す──ことはなかった。

むしろ、胸の奥を熱い何かで満たされたかのように、嬉しそうに頬を染めていた。

 

「……サル」

低く呼ぶ声は震えていた。

「たまには良いことを言うじゃない」

 

「へっ? いや、そういう意味で言ったんじゃなくてだな!?」

「なにが“そういう意味”よ!」

信奈の瞳は、叱る色ではなく、宝石のように輝く光を宿して良晴を射抜いていた。

 

犬千代が横でぽつりと呟く。

「……姫さま、顔が赤い」

「う、うるさいわね!」

だが、その声は怒気よりも甘やかさに溶けていた。

 

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