とある夏の日、俺は春を殺した。

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泥の蓮華は黄泉に咲く

 俺は春を殺した。

 

 

──────────────────────

 

 

 雨が降っている。梅雨の時期ということで折りたたみ傘は必需品となっていた。

 

 買い物袋を床に置き、傘を畳んで軽く水気を取る。玄関の鍵を閉めると閑散としたキッチンに無機質な音が響いた。

 

 じめりとした熱気に思わず嘆息する。

 

 今年も夏がやってくる。そんな時は特に、あの女の笑みが思い返されるのだった。

 

 

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 高校生になった俺は文芸部に入った。運動神経が悪かったわけではないが、なんとなく汗を流す気にはなれなかったからだ。

 

 二年の先輩はおらず、三年の先輩方が引退する頃には詩や小説などの創作という活動内容は形骸化し、俺一人が部室で小説を読むだけという実に居心地のいい空間になっていた。

 

 そんな中入部してきた、あの女。

 

 一ノ目(いちのめ) (うたた)。二人しかいない文芸部所属にして、俺の後輩である。

 

 ある日奴は、こう言った。

 

 

『私を、殺してくれませんか?』

 

『は?』

 

 

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「……朝か」

 

 

 目覚まし時計を殴りつけてベッドから身を起こし、自室を出る。一日の中で最も憂鬱な瞬間だ。

 

 シャワーは基本朝と帰宅後に浴びることにしている。眠気覚ましになるし体を清潔にできるので一石二鳥だ。

 

 口を濯ぎ、白湯を飲む。ここまでが俺のルーティン。

 

 朝食はトーストとインスタントの野菜スープ。パンにバターを塗りながらテレビの電源を点けた。

 

 ニュース番組の内容はどれもありきたりなものだった。どこどこの猫の映像だの、知らない映画のインタビューだの、既視感ばかりある映像群。まあ朝から人殺しの報道など流されても気が滅入るだけだから平和なのはいいことなのだと思うようにしている。

 

 両親は既に働きに行っているためここには俺しかいない。持ち家なことも踏まえて借金返済のために少しでも金を稼ぎたいのだろう。

 

 俺に兄弟はいない。人間を育てるのは金も労力もかかる。両親にはそれだけの余力が無いらしい。俺も子供ができた時に分かるだろうか。

 

 制服に着替え、持ち物をチェックし、家を出た。空は澄み渡っており、日光が辺りを照らし出す。春がやってきていることを顕著に知らせていた。

 

 

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「起立、礼」

 

 

 今日も退屈な授業が終わった。六限目ということで教室には安堵の雰囲気が漂っている。俺はといえば少し浮き足だっているのかもしれない。なぜなら俺の所属している部活動では小説を心置きなく読めるからだ。

 

 読書はいい。あれほど時間を忘れられる娯楽はそうそう無い。周囲の人間はゲームやカラオケに明け暮れているが俺はとことん前時代的らしい。

 

 顧問は消極的で、俺の活動に口出しはしない。そういう意味でも居心地がよかった。

 

 部室に向かう。そういえばだが俺は高校二年生。確か他の部活だと今日あたりに新入部員が入ってくる。

 

 部活動紹介の時では圧倒的に人気が無かった文芸部。部員が俺しかいない上、気勢を上げて紹介したわけでもなかった故に。

 

 ハッキリ言ってしまえば俺は新入部員に入ってほしくない。先輩方には申し訳ないがあの空間を独占する愉悦は誰にも渡したくなかった。

 

 と、いうことで手を抜いた。新入生から見れば文芸部は閑古鳥の鳴く冴えない部活だと思われただろう。実際その通りだ。

 

 部室のドアを開けると──そこには顧問と、知らない女。

 

 

「え?」

 

「こんにちは」

 

「あー、コイツが新入部員。まあ仲良くやってくれ」

 

 

 それじゃ、と言い残し部屋を後にする顧問。見知らぬ女と俺だけの空間だけがそこに残った。

 

 

「今日から文芸部に入ることになった、一ノ目転です。よろしくお願いいたします」

 

「は……?君、文芸部……?」

 

「はい。そうですが」

 

 

 小首をかしげて俺を見る女。なんと言ってたか。確か一ノ目転とかいう名前だったか。

 

 

「あー……、その、一ノ目でいいか?」

 

「はい。好きにお呼びください」

 

「言っちゃ悪いけど、この部活はもう大して活動してないぞ?今からでも他の所に行った方がいいと思うが」

 

「はい。それを踏まえて、ここを選びました」

 

 

 思わずこめかみを抑える。あんな投げやりな紹介をしたというのにこの部活のどこに良さを覚えたのか。

 

 

「…………まあいい。俺は大抵ここで小説読んでるから、君も好きなようにしてくれ」

 

「承知いたしました」

 

 

 先輩として見せる姿がこんなものでいい筈はないが、俺は基本無気力無関心無計画なダメ人間だ。

 

 椅子に腰掛け、いつも通りにページを捲った。

 

 

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「……一ノ目」

 

「はい?」

 

「どうして俺を見てるんだ?」

 

「好きなようにしてくれ、と仰っていたので」

 

「……」

 

 

 物腰は丁寧、表情も朗らか。しかしその視線は意識の奥底に絡みついてくるような蟻走感があった。

 

 

「ご不快に思われたのであればやめますが」

 

「……いい。好きにしろって言ったのは俺だ」

 

 

 ……この女の意図が読めない。何故この部活を選んだのか、何故俺をじっと見ているのか、皆目見当がつかなかった。

 

 

「そろそろ夜になる。早めに帰った方がいいと思うが」

 

「この部活の終了時間は何時(いつ)頃なのでしょうか」

 

「特に決まっていない。最後の一人が鍵を返せばそれで終わりだ」

 

「でしたら、先輩がご帰宅されるまで待っています」

 

「…………」

 

 

 両親と不仲というわけではないが、なんとなく家に帰りたくなかった。だからいつもは夕飯時まで本を読み尽くしていたのだが、暗い帰り道を女一人にさせるわけにもいかない。

 

 従って、俺はいつもより早めに切り上げた。

 

 

「一ノ目がよかったら、家まで送っていくがどうする」

 

 

 これは俺の偏見だが今の時期は辺りが物騒になる。見るからに華奢なこの女をその渦中に放っておくのはどうも憚られた。

 

 

「では、よろしくお願いします」

 

 

 花が咲くような笑みだった。

 

 

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 帰り道、会話は無かった。まだ入ってきたばかりの新入生と交流を深められる程出来た人間じゃない。

 

 もう日は完全に沈んでいた。

 

 

「それでは、私はここで。ありがとうございました、先輩」

 

「ああ」

 

 

 無事家まで送り届けたのを確認し、肩の荷が下りたかのような開放感に吹き付けられる。緊張でもしていたのか。

 

 ……これから毎日こんな時間を過ごすことになるのか。そう思うとえもいわれぬ倦怠感を覚えた。

 

 

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「クッキーを焼いてきたのですが……召し上がりますか?」

 

「……じゃあ、いただこう」

 

 

 気の利く女だった。常に俺を見守り、絶好のタイミングで手を貸す。

 

 気持ち悪いとすら思うくらいに優れた人間だった。少ない会話の流れで聞いてみたところ成績は学年トップ。教師陣からの評判も良い。

 

 雀の涙のような会話の中でも微笑みは崩さず、決して不快に思われるような言動はしない。小説を読むだけだった部室内の空間がよりアップグレードされたような気さえした。

 

 要するに、俺は一ノ目転との時間を心地よく思っていた。

 

 そんな毎日を送って三ヶ月程経ったある日。一ノ目はとんでもない爆弾発言を俺に突きつけた。

 

 

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「先輩」

 

「なんだ」

 

 

 一ノ目が水筒に入れてきたコーヒーを飲みながら今日も変わらず小説を読む。苦味と酸味のバランスが絶妙だった。

 

 俺は小説ばかり読んでいるが一応テスト期間はある程度勉強している。普段学校では消極的な姿勢のため友人も数える程しかいないが、それでも充実していた。

 

 当初は一ノ目の存在を鬱陶しく思っていた俺だが、すっかり変えられてしまった。彼女の献身の上にこの円滑な日常は成り立っている。

 

 そんなわけだから、俺は一ノ目に恩義を感じていた。俺にできることならできる限りは応えてやるつもりだった。その言葉が飛び出すまでは。

 

 

「私を、殺してくれませんか?」

 

「は?」

 

 

 耳を疑った。普段の彼女からは考えられない一言。

 

 

「何を……言って」

 

「ですから、私を殺してほしいのです」

 

 

 聞き間違いではない。語調から考えて冗談でもない。

 

 コロス、ころす、殺す。それは生命の終着地であり、決して許されるものではない。

 

 

「……俺が、お前を殺す?」

 

「はい。私はそれを望んでいます。強く」

 

 

 言葉が出てこない。この学校の格式高さ故にいじめなどは(少なくとも俺の代では)ほとんど確認されていない。その線は薄いだろう。

 

 家庭環境に問題でもあるのか?──というか、何故俺はただの気立てのいいだけの後輩に対してこんなことを考えているのか。

 

 ニュース番組で他人が死ぬ報道を見かけたところで多少心が陰るくらい。そんな俺が、何故一ノ目に対しては案ずるようなことを考えているのか。

 

 

「理由は……なんだ」

 

 

 コーヒーを飲んだばかりだというのに口の中がカラカラに渇いている。ひとまずそうなった訳ぐらいは知っておきたかった。

 

 

「理由などありませんよ。ただ先輩に殺されたい。それだけです」

 

 

 穏やかに微笑みながら彼女はそう告げた。遊びの約束を取り付けるような、弾んだ声で。

 

 

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 この問答には一つ嘘が紛れ込んでいる。しかし、当時の俺にはそれを気取られるレベルの判断材料が無かった。

 

 

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 我ながららしくないことだが、一ノ目の周辺環境を探った。そして判明したことだが、彼女は品行方正な生活を送っており、クラスにも溶け込んでいるらしい。

 

 心因性の問題ではない……とは言い切れない。俺は心を読めるわけではないし、その裡に抱え込んだものについて踏み込むこともできない。

 

 

「先輩?どうかしましたか?」

 

「……いや、なんでもない」

 

 

 あれから、少しずつ一ノ目を取りまく状況について気を巡らせるようになった。そのついでに、オススメの小説を紹介した。今やこの部室は二人で静かに読書するだけの空間と化していた。

 

 

「一ノ目」

 

「はい」

 

「今でも望みは変わってないか」

 

「はい。私は先輩に殺されたいです」

 

 

 気味の悪い女だった。穏やかな笑みを湛え淑やかに日々を過ごす。でありながら俺に望むのは『殺してほしい』の一点張り。

 

 

「先輩なら、私のしてほしいことをしてくれる。そう信じてますから」

 

「俺に殺人の素質でもあるって言うのかよ」

 

 

 思わず特大のため息をつく。俺の後輩は一癖も二癖もある女だった。

 

 

──────────────────────

 

 

「先輩」

 

「ん」

 

「夏祭り、一緒に行きませんか」

 

「ん……ん?」

 

 

 夏休みに入ったがやることは変わらない。部室で小説を読み漁るだけの日々。自由参加なのにも関わらず一ノ目は律儀に随伴している。

 

 課題はとっくに終わらせた。後は悠々自適に休暇を過ごすだけとなっているが、夏祭りか。

 

 

「無理にとは申しません。先輩がよければ行きたいと思いまして」

 

「……」

 

 

 ……知人と出かけることはそうそう無い。俺は元々付き合いが悪いし、誘われたことも数える程しかなかった。

 

 夏祭りか……。あまりいいイメージはない。人でごった返すだろうしこの時期は暑い。

 

 

「お前は、行きたいのか」

 

「ええ。先輩と一緒に」

 

 

 日頃の借りを少しでも返せるか?そう考えれば外出するのもそう悪くないように思えた。だから、

 

 

「分かった。じゃ、行くか」

 

「……はい」

 

 

 ……何がそんなに嬉しいのか、一ノ目は満面の笑みで俺を見やる。視線が合う刹那、俺は目を逸らした。

 

 

──────────────────────

 

 

「悪い。待ったか?」

 

「いえ」

 

 

 ラフな服装で来たことを早くも後悔していた。

 

 一ノ目は浴衣姿で(たお)やかに佇んでいる。風に(なび)く髪先、はためく袖口。周囲の空気も相まって人の目を引く美麗さがそこにはあった。

 

 

「じゃ、行くぞ」

 

「はい」

 

 

 一ノ目は俺に連れ添う形で。俺は彼女に意識を向けながら屋台の群れへ繰り出していった。

 

 

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「美味しいですね、焼きそば」

 

「そうだな」

 

 

 一ノ目は少食だった。数々の屋台に目を惹かれることはあっても買おうとはせず、唯一購入した焼きそばは俺と分け合う形で食べている。

 

 花火が揚がるまであと十五分。群衆に揉まれながら俺たちはベストポジションを探していた。しかしどこにいっても人、人、人。こうなったら──

 

 

「一ノ目。少し遠くになるが、それでもいいか」

 

「はい。先輩のお好きになさってください」

 

 

 移動したのは小丘にある寂れた神社。ここは穴場で、家に帰りたくない時は頻繁に訪れていた。

 

 

「ここならよく見えるだろ。……始まったか」

 

「────」

 

 

 一ノ目は花火に夢中になって声も出さなかった。俺はといえば無感動に眺めていたのだが。

 

 

「……先輩」

 

「ん」

 

「本当に、ありがとうございました。今日のことは決して忘れません」

 

「そんなに良かったのか?」

 

「お恥ずかしい限りですが私は寡聞なもので、花火を見たのは今日が初めてだったのです」

 

「また来ればいいだろ。花火は来年も揚がる」

 

「……そう、ですね」

 

 

 一ノ目の横顔を盗み見ると、彼女はどこか寂しそうに笑っていた。

 

 

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 時間はあっという間に過ぎていき、夏休みは残すところあと三日となっていた。しかし今日も今日とて読書一辺倒。

 

 

「ふー……」

 

 

 本を読み終わり、息を吐き出す。今回読了したのは重厚なミステリーホラー。内容が内容なだけにどす黒い何かが胃へ埋め込まれているような感覚だった。

 

 

「一ノ目」

 

「はい」

 

「少し話さないか」

 

 

 自分で自分の発言に驚いた。普段俺は滅多に会話をしない。一ノ目から話しかけられて応えることはあれど、自分から話を振るのはかつてない事例だった。

 

 

「いいですよ。どんな話をしましょうか」

 

「お前の家族について知りたい」

 

 

 俺に殺されたがっている理由。それをこの対話でできる限り暴いていきたい。……なんて、俺は何を考えているのだろう。いつも通り無関心でいればいいものを。

 

 俺にとって一ノ目はなんだ?ただの後輩だ。口を出す権利も義務も無い。

 

 ──だがこの女は俺に殺されたがっている。

 

 難儀なものだ。そこまで思考し終わってから、彼女は口を開いた。

 

 

「家族は、祖母だけです。私は一人っ子ですし、両親は既に他界しています」

 

「そ……れは、悪い。浅慮だった」

 

「いえ、気にしていませんので。……ふふ」

 

「?」

 

「ふふふ……先輩が話しかけてくれたことが嬉しくて、つい」

 

 

 破顔一笑する一ノ目。視線を合わせられそうになったため慌てて逸らす。

 

 何故かは分からないが、この女と目を合わせているとどこかのネジが狂いだしそうになるのを感じる。夏の熱気にやられてしまったのか。

 

 そうこうしてる間に夏休みは終わる。しかし部室で読書するだけという点では、普段と何ら変わりはなかった。

 

 

──────────────────────

 

 

「学校、どうだ」

 

「ん……まあ、ぼちぼち」

 

「友達はいるの?」

 

「……まあ、ぼちぼち」

 

 

 家族三人揃った夕食。会話はたどたどしいものだが、一ノ目と比べればこうして団欒を囲めているのは幸せなのだろう。

 

 両親は共働きなため普段は大抵孤食。しかし今日は都合が合ったのか父も母も俺に怒濤の質問を浴びせていた。

 

 

「そういえばだけど、食材まだ残ってる?」

 

「米がそろそろ尽きる。それ以外はまあ……数日は保つと思う」

 

 

 父と母、そして俺の弁当を作るのは俺だ。

 

 以前は母が疲れ切った体に鞭打ち三人の弁当を用意していたのだが、なんにも稼いでいない俺が楽をするのはどうにも許容できなかったので食材の購入から調理までは俺が担当することにした。

 

 できることなら食材分の費用も俺が調達したかったが、俺の通っている高校は基本アルバイト禁止。というわけなので金は両親に出してもらっている。

 

 

「ごちそうさまでした」

 

「早くない?ちゃんと食べた?」

 

「栄養はしっかり摂っているから」

 

 

 この年頃になると親との距離感が掴みにくくなる。幼かった日のように甘えるのは羞恥心が走る。そもそも俺は親とそこまで仲を深めていたわけでもない。

 

 もちろん恩義は感じている。今日まで育ててくれたことには感謝していた。

 

 ……そう思うと、俺は何故一ノ目に踏み込もうとしていた?恩義を感じているという部分に関しては両親に対するソレと似たようなものだろうに。

 

 自室に戻りベッドに体を投げ出す。しばらくすると両親が話し込んでいる声が聞こえた。

 

 

 ──私、あの子をちゃんと育てられているかしら。

 

 ──高校生になると親との距離感が離れるって聞いた。あいつもきっと思春期なんだよ。

 

 

 こうも筒抜けだとなんだか気まずい。スマホにイヤホンを差してから耳に当て、音量最大でお気に入りの曲を流した。

 

 

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 ノートにペンを走らせる。部屋の中に響くのは擦れた筆記音と、ページを捲る乾音のみ。

 

 今日の俺は勉強していた。この学校には自習室があるが、慣れ親しんだ部室の方が落ち着くためこうして一ノ目に見守られながら知識を脳に叩き込んでいる。

 

 

「あの」

 

「ん」

 

「先輩がよければお教えしましょうか?」

 

「?お前一個下だろ」

 

「高校の課程は一通り修めております。差し出がましい真似になりますが、大学受験のためご協力することも可能です。……いかがいたしましょうか」

 

 

 ……この際使えるものは使っておこう。

 

 

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 一ノ目は教えるのも上手かった。おかげで定期テストの成績は淀みないものとなり、順位は学年トップクラスにまで上り詰めることができた。

 

 改めて見てもとことんハイスペックだなこの女は。それ故に余計気になる。何故文芸部を選んだのか。そして何故俺に殺されたがっているのか。

 

 

「…………」

 

「……あの、どうかしましたか?」

 

「気にするな。俺がちょっと気にしてるだけだ」

 

「??……はい。承知しました」

 

 

 一ノ目を見ることが増えた。それに気づいた彼女はやや照れくさそうに笑む。

 

 欠点らしい欠点といえば殺されたいという願望を持っていることぐらい。逆にそれ以外負の要素が無かった。

 

 

「そういえば、今日はスコーンを作ってきたんです。よければお召し上がりください」

 

「ん」

 

 

 キャラメル味のスコーンに舌鼓を打つ。やっぱり一ノ目なんでもできるな。

 

 

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「お誕生日おめでとうございます、先輩」

 

「……なんで知ってんだ」

 

「こちらの方で」

 

「…………ああ」

 

 

 スマホの画面を見せられる。

 

 そういえばコミュニケーションアプリに誕生日の日時を記してあった。一ノ目の時、俺は祝辞を送らなかったというのに、律儀なものだ。

 

 

「細やかですがプレゼントをご用意しました。お受け取りください」

 

「これは……栞か?」

 

「先輩のご興味を引くものを考えると、やはり本の閲読に関するものかと思い、このような形になりました」

 

 

 押し花が挟み込まれている栞。丁寧に処理されているのがハッキリと分かった。

 

 

「礼を言う」

 

「はい」

 

 

 謝辞の一つも満足にできない俺なのに、彼女は喜色満面の笑みを湛えている。

 

 今度は俺から彼女に何かを返そう。他人にプレゼントなどを送ったことは無いが、俺なりの衷情を込めて。

 

 

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 ある日、課題も終わらせ暇だったため自室でスマホを弄っていた。俺の通う高校は生徒の自主性を重んじる方針なため面倒な宿題などが少ないのが個人的によかった。

 

 入れっぱなしのコミュニケーションアプリを開く。学友が少ない俺は宛先も絞られていた。

 

 思えば、俺は一ノ目にメッセージを送ったことがほぼ無い。直近の履歴を確認しても精々部室が使えない日の連絡ぐらいだ。

 

 

『一ノ目』

 

 

 そこまで入力して思いとどまった。特に話したいことがあるわけでもなく、伝えるべきことも無いからだ。

 

 だが──

 

 

「──い゛っ」

 

 

 寝ころびながら操作していたため顔面にスマホを落としてしまう。弾みで入力途中のメッセージが送られてしまった。

 

 

『はい、なんでしょう』

 

 

 取り消しをするよりも早く返信が来る。眉間をつまみながら指先を弾いた。

 

 

『すまない。気にしないでくれ』

 

『承知しました』

 

 

 疑問すら抱かず俺に従う。不気味でもあり、不可解でもある。

 

 

『一ノ目』

 

『なんですか?』

 

『まだ殺してほしいのか』

 

『はい』

 

 

 俺は嘆息した。

 

 

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「クリスマス、一緒に過ごしませんか」

 

「藪から棒だな」

 

 

 今日一ノ目が淹れてきたのは紅茶だった。甘すぎず苦すぎず、ちょうどいい塩梅となっている。

 

 本を読了したタイミングでかけられた誘い。やはりこの女は空気を読む能力に長けている。

 

 ……クリスマスか。暇なのは確定していた。

 

 

「どこか行く気なのか。悪いが金は出せないぞ」

 

「ふふ、そこまで大したことではありませんよ。私の実家に来てくれませんか」

 

 

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 クリスマス当日、俺は菓子折りを手に一ノ目の実家を訪れていた。流石にあれだけ面倒を見てもらいながら手ぶらというのもどうかと思ったので、最低限の誠意を。

 

 

「おお、よく来たな。上がっていけ」

 

「お邪魔します」

 

「ゆっくりしていってくださいね、先輩」

 

 

 どことなく勝ち気な印象を受ける老婆だった。

 

 

「今日はあんさんが来るって聞いたからな、あたしも張り切ってメシを豪勢にしたんだ」

 

「恐縮です」

 

 

 テーブルに並べられたのは手作りと思われる豪華な食事。老人と少食な一ノ目では到底食べきれない程の量だ。……少し気張るか。

 

 

─────────────────────

 

 

「それでなあ、転はあんさんのことをよく話しててなあ」

 

 

 食事が終わる頃には相槌を打つのにも慣れた。一ノ目の保護者なだけあってか料理の腕は高かった。

 

 一ノ目はニコニコと笑いながら俺を見ている。そんな姿を見ていると、疑問が生じた。

 

 彼女は殺されたがっていることを祖母に伝えているのだろうか。……この調子だと言ってないだろうな。話の内容的にも俺を良き先輩だと思っている節がある。

 

 

「あんがとなぁ、あんさんのおかげで転もよく笑うようになって」

 

「?いつも笑っているのではないんですか?」

 

「一口に笑ってる言うても、『温度』が違うんだよ。今までの転は冷たく微笑んでいるだけだったからな」

 

「あ、そろそろ始まりますよ。年末特番」

 

「おお、そうだったそうだった。ほれ、あんさんも」

 

「……はい」

 

 

 冷たく微笑むとは、どういった状態なのだろう。少なくとも若輩でしかない俺には計り知ることのできない内容だった。

 

 

──────────────────────

 

 

 そして冬が過ぎ、春になり、俺たちは学年を一つ上の位に進めることとなった。今年から俺は受験生。娯楽に割ける時間も減ってくるが、それはまあ仕方の無いことだ。

 

 

「新入部員、入ってきませんでしたね」

 

 

 一ノ目が入部する前からとっくに衰退していた文芸部。活動も碌にしないため部活動紹介も陳腐なものと化していた。誰も入ってこなかったのも当然と言える。

 

 

「まああまり大所帯になっても困るからな。俺たち二人だけぐらいがちょうどいいだろ」

 

「────」

 

「どうした」

 

「いえ。その……私も含めてくれたことが嬉しくて」

 

「?」

 

 

──────────────────────

 

 

「誕生日、何が欲しい」

 

 

 俺がそう切り出すと、彼女は硬直した。そこまで意外なことだったのか?

 

 

「……私の、誕生日、ですか?」

 

「日頃世話になってる礼だ。できる限りは応えるぞ」

 

「では、一緒に──」

 

 

──────────────────────

 

 

 というわけでやってきたのは本屋。俺のオススメを選んでほしいらしい。

 

 

「……!」

 

「ふふ」

 

「何がおかしい」

 

「いえ。やはり先輩は本がお好きなのだな、と」

 

 

 自覚が無かったが、俺は無数の小説を前に目を輝かせていたらしい。一ノ目の視線でようやく意識が浮上した。

 

 

「これ、読んだことあるか」

 

「いえ」

 

「じゃ、これが俺のイチオシだ。ああいい。金は俺が出す」

 

 

 俺が選び出したのはヒューマンドラマもの。あまりの切なさに胸が痛くなる、との触れ込み付きだ。

 

 

「しかし私の本なのですから、私が支払うべきだと──」

 

「いい。誕生日プレゼントなんだから大人しく貰ってろ」

 

「……はい、ありがとうございます」

 

 

 頬を僅かに紅潮させながら一ノ目は笑う。何度も見てきた笑顔。それなのに……と言うべきか、それ故にと言うべきか、俺は妙な安心感を覚えていた。

 

 

「……」

 

「?どうかしましたか?」

 

「……いや、その歩き方。無自覚なのか」

 

「え?……ああ、そうですね、気づいたら歩調が軽く」

 

 

 普段の淑やかな姿から考えれば少し意外な姿だった。見るからにウキウキとしている。

 

 今回の目的は誕生日プレゼントを贈ること。そう捉えれば大成功、と言っていいだろう。

 

 ──そして、

 

 そして。

 

 唐突に、その時はやってきた。

 

 

「一ノ目?」

 

 

 直立不動になったかと思えば、崩れ落ちるように倒れる彼女。あまりにも唐突なことで脳が状況を理解していなかった。

 

 

「おい……おい!大丈夫か!一ノ目!」

 

「あ……もうちょっと、()ってくれると思ってたんだけどな……」

 

「何言ってるんだよ!クッ、救急車……!」

 

 

 震える指先で端末を操作し、救護要請を発した。

 

 

──────────────────────

 

 

「……」

 

「ああ、来てくれたんですね、先輩」

 

 

 消毒液の匂い。花瓶の花。白いベッド。全てが彼女を包み込むように存在している。その現実が知らせるのは、逃れようのない死の兆候。

 

 

「……一ノ目。お前は──」

 

「大丈夫です。私は大丈夫ですから」

 

 

 大丈夫と連呼する人ほど大丈夫じゃないと、以前読んだ小説に書いてあったが、それを詰められる積極性が俺には無かった。

 

 

──────────────────────

 

 

 一人きりの部室。かつて俺が望んでいた孤独が期せずして到来したにも関わらず、コンディションは最低だった。

 

 勉強は手につかず、読書もままならない。思考するのはいつだって彼女のこと。

 

 心のどこかで平気だと思っていた。いつも通り、この部屋で二人読書する日々が戻ってくると。

 

 そうして一ノ目が戻ってこないまま、数ヶ月が経過した。

 

 

「起立、礼」

 

 

 授業の内容が頭に入っていかなかった。一ノ目は無事なのか。いつになったら戻ってくるのか。それしか考えられなかった。

 

 気づけば六限とホームルームが終わり、生徒たちが帰宅準備をしている中でも、俺は黄昏れていた。

 

 携帯電話が震える。

 

 

『先輩、来てください』

 

 

 俺は立ち上がった。

 

 

──────────────────────

 

 

 見舞いには何度も行ったが、日に日に一ノ目が痩せ細っていく姿を見せられて段々と行くのも億劫になっていた。欠かしたことは無いが。

 

 そして今日も彼女の元へ足を運ぶ。無事を確認しないと頭がどうにかなりそうだった。

 

 

「私を殺してくれませんか、先輩」

 

「……やっぱりそれか」

 

 

 今、答え合わせがされたように全てのピースが繋がった。この女は何故俺に殺されたがっていたのか。

 

 

「私、もう長くないんです。だからせめて、最後に送ってくれるのは先輩の手がいいんです」

 

 

 知っていた……というのは、強がりになるか?それでも薄々予想はしていた。

 

 

「……俺の人生を壊す気か」

 

「結果としてはそうなりますね。……ふふ、悪い女ですね、私」

 

 

 コロコロと笑う一ノ目。俺の表情筋は固まりきっている。

 

 

「なんで俺を選んだんだ。お前なら俺より良い奴を見つけることだってできただろ」

 

「一番最初に先輩を見た瞬間思ったんです。この人なら、私を終わらせてくれるって」

 

 

 俺に人殺しの才能でもあると言うのか。だが──確かに、俺は、

 

 

「なんて言ってるけど、いいんです。本当は私、先輩と会えただけでこの世界が愛おしく思えるくらいに幸せだったんですから」

 

 

 彼女の首に手をかける。ほっそりとしていて、力を加えれば簡単に折れてしまいそうな首に。

 

 

「……先輩?」

 

「……これが、俺の答えだ」

 

「……ふふ、うふふ……ああ、嬉しい」

 

 

 稚児のように彼女は笑う。その笑みは、どれだけ思い返しても鮮明さを残したままだった。

 

 

「先輩」

 

「なんだ」

 

(うたた)と、呼んでください」

 

「……いくぞ、(うたた)

 

 

 それ以上言葉は要らなかった。

 

 俺は長く、そして短い春を殺した。

 

 残った人間性を絞り出したかのような涙が流れる。感泣でも、哭泣でもない。それっきり、俺は二度と泣かなくなった。

 

 

──────────────────────

 

 

 それからはなるようになった。俺は捕まり、未成年ということで少年院に入れられ、数年間シャバとはかけ離れた世界を生きた。

 

 どうやら転が残した遺書には俺について書いてあったらしくそこでも一悶着あったようだが、もう知る術は無い。

 

 転の祖母からは大層恨まれ、俺の家族からは縁を切られた。見事なまでに俺の人生は崩壊していた。

 

 それでも、この結末が分かっていたとしても、俺の選択が変わることはない。

 

 俺の春はあの女に殺された。だが、春を殺したのは俺だ。

 

 俺は春を殺した。

 

 そして、今に至る。

 

 

──────────────────────

 

 

 雨が降っている。梅雨の時期ということで折りたたみ傘は必需品となっていた。

 

 買い物袋を床に置き、傘を畳んで軽く水気を取る。玄関の鍵を閉めると閑散としたキッチンに無機質な音が響いた。

 

 じめりとした熱気に思わず嘆息する。

 

 

「ふー……」

 

 

 経歴を気にしない職場となったらよほどのブラック企業か肉体労働の現場などしかなかったが、俺は別にどこでも構わなかった。人生の最盛期はとうに過ぎている。

 

 

「転」

 

 

 返事は無い。分かっている。

 

 買い物袋の中から食料を取り出し調理する。もう両親に振る舞うこともない料理を。

 

 全てを腹に収め天井を仰ぐ。そうする理由はない。さりとてやめる気もない。

 

 彼女の首を絞めた感触が、今もこの両手に残っている。

 

 天国になど行けないだろう。犯した罪はあまりにも大きすぎる。それでも構わない。

 

 地獄の泥濘の中で、きっと強かに笑ってみせる。

 


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