青い残影を求めて   作:イナブ

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〈プロローグ〉『大人』?

 

 久方ぶりに訪れた休日の昼下がりは、窓辺のカーテンの隙間から細く差し込む、少し気だるげな午後の光に包まれていた。

 

 私は、昨夜までの残業の重みを未だ引きずるように重たい、絹の蓋のような瞼を擦る。

 そして、電子レンジから響く甲高く無機質な終了のファンファーレに応じた。 

 

「〜〜♪」

 

 鼻歌は、長すぎた眠りから覚めきらない喉の奥で微かに軋むよう。

 中から取り出したコンビニ弁当からは、湯気という名の暖かい生活の匂いが立ち上る。

 その熱と香りが、泥の中に沈んでいた私の意識を一気に覚醒させた。

 

「フッヒヒ〜…」

 

 何年も肌に馴染んだ、毛玉の一つ一つが歴史を語るようなジャージに身を包む。

 嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂いに、罪深くも愛おしい添加物まみれの香りが混ざり合い、湯気となって立ち昇る。

 弁当の蓋を開ける、ぺりっという軽い音が、この空間の静寂を破る唯一の合図だった。

 

「それじゃあ、このまま今日は幸せなハッピーライフを過ごそ〜…」

 

 徹夜明けの飢えた獣のように、惰眠と疲労でだらしなく広がった身体に、消費期限を少し過ぎたコンビニ弁当を詰め込む。

 この瞬間はまるで社会という重い鎧を脱ぎ捨てた者だけが許される、背徳的な儀式ーー『大人の嗜み』と呼ぶにふさわしい。

 

「むぐ、むぐ…うーん……最高!」

 

 身だしなみも、遠い世界にいる他人の目も、すべてを気に留める必要のないこの至福のひととき。

 四方15㎡の壁に囲まれた息苦しいようでいて、何ものにも縛られないこの楽園で過ごす時間は、私にとっての渇いた砂漠に湧く一筋のオアシスだった。

 

 視線をテーブルの端へやると、そこには山脈のように積み上がった、昨夜クリアした戦いの証である書類の束がある。

 それを見て、私は心の奥底で三度目の万歳を決め込んだ。

 

「ゲッ……誰だ〜…」

 

 その時、蜜の滴る極楽に投げ込まれた一粒の砂利のように、私の耳に不快極まりないスマホの通知音が鳴り響いてきた。

 

「私のオアシスに足を踏み入れようとする不届きものはー…」

 

 食べかけの割り箸を口に挟んだまま、テーブルの上のスマホに目を向けると、深く長くため息をつく。

 その画面に映し出されていたのは、記憶にも履歴にも残らない、全く見覚えのない数字の羅列。

 よくある迷惑電話だと分かっているが、その執拗さには粘着質の不快感がある。

 

「…はぁ〜……まっ、予想通りか…」

 

 ネットで検索をかけても、発信元は暗闇の中に隠れたまま。

 さらに着信拒否の設定を施しても、まるで結界を破るかのように、何度も何度もかかってくるのだ。

 今週に入って、その着信回数はもう二十の壁を軽々と超えてしまっただろう。

 

 …正直、身体の芯までダルいこと、この上ない。

 

「…………やっぱ、やめとこ…」

 

 『仏の顔も三度まで』という言葉があるように、流石の私もこの回数では喉元まで言い返したい言葉が込み上げてくる。

 …だけど、太陽の恵みのような今日という素晴らしい休日を、こんな薄汚れた朝の霧のような気分で始めるのは、やっぱり本意ではない。

 

 故に結論は…

 

「(……着信キョーヒ…)」

 

 電話帳に飛び、流れるように長押し&着信拒否。

 こうして私の平穏な休日は、20の壁を超える『大台突破記念日』という名のシミ付きで始まったのだった。

 

*******

 

 『大人の朝』は、常に早い。

 それは昨日の疲労という重石を抱え、満員電車の鉄の揺らぎ、寝不足の深い霧、雨の冷たい障壁。

 そして何より、心身のダルさという目に見えぬ幾多の困難を乗り越え、今日という日を無理矢理にでも迎え撃つことから始まる。

 

 これは私もその例外ではない……いや、というか、普通の大人よりも早く『現実』という名の朝を迎えることになるのかもしれない。

 

「準備完了…」

 

 鏡台の前に立ち、戦闘服のように身だしなみを整える。

 姿見で最終確認したウルフヘアは、最近のマイトレンドであるものの、幾分か不揃いなハネ具合が気になる。

 だが、「まぁ、どうにかなるだろう」という諦念にも似た自信が湧く。

 それに不思議なことに、この手入れが行き届いていないようなラフさが生徒たち……特に女子生徒には、妙に受けが良いのだ。

 

「さ〜て、行きますかぁ。」

 

 必要な持ち物をバッグに収め、少し厚手の上着を羽織って部屋から一歩外へ踏み出すと、肌を刺すような冷たい風と唐突に対面する。

 それは暦の上ではまだ秋だというのに、限りなく冬の訪れを告げる使者のようだった。

 

「うーー、寒ッ…!?はぁ〜……早く行こー…」

 

 マンションの階段を駆け下り、道を進む。

 足元の茶色く乾いた枯れ葉が、私の歩みに合わせてカサカサと細い音を立て、目の前を通り抜けていく。

 その音を聞き、ふと一つの記憶が頭をよぎった。

 

「(あー……そういや、あと少しで卒業式の時期か…)時間が経つの……本当に早いなー…」

 

 哀愁を帯びた、どこか切ない冬前の風を受けながら、しばらく人通りの多い通りを進む。

 これから始まる行事や、過ぎ去る時間の残酷なほどの速さなどなど…

 様々なことを考え込んでいるうちに、目的の場所、私の戦場、そして安息の地に到着した。

 

 聞こえてくるのは、私と同じように寒さに肩をすくめ、身体を震わせながらも、芯のあるエネルギーに満ちた元気な声だ。

 そうして門をくぐると、いつものように、待っていてくれた誰かが私の名前を呼んでくれる。

 

「……あっ、『四乃崎先生』!おはようございます!」

 

 その声に、昨夜までの疲労が一瞬、溶けて消えるような感覚を覚えた。

 この元気な姿は、いつ見てもいいものだ。

 

「あー、おはよー……今日も早いねぇ、生徒会は?」

 

「……それは、先生が遅いだけではないですかね?あと10分でホームルーム始まりますよ?」

 

 目の前のきっちりと制服を着こなした生徒の、真面目な瞳にたじろぐ。

 

「ははぁ〜、生徒にそれ言われちゃったら何も言えないね?ということはまた私って最後尾だった?」

 

「はい、そうですね……というか、先生待ちでした。」

 

「あら?そっかそっかぁ、ギリギリまで待たせちゃったのなら悪いことしちゃったね?」

 

 生徒の頭のてっぺんを軽くポンと手を置く。

 

「あの、先生……ちゃんと休めていますか…?何だか顔が暗いような…」

 

「大丈夫だよ……でも、心配してくれてありがとうね?」

 

 ……私の張り付けた笑顔の裏側にあるものを、生徒は恐ろしいほど敏感に感じ取ってしまう。

 

「ふふ……今日もお疲れ様、〇〇ちゃん。」

 

 多感で、人の視線を受ける今のような子達だからこそ、より人の過敏な感情の変化に気づけるのだろうね…

 

「は、はひぃ…!?」

 

「……あれ?そんなに驚かせるつもりはなかったんだけど、大丈夫?」

 

「だ、大丈夫です…!は、早くしないと遅れちゃいますよ…!?」

 

「あっ、もうこんな…!?それじゃ、またホームルームでね…!」

 

 ……まぁ、これが私の日常だ。

 

 何の移り変わりのない日常が季節と共に過ぎ去るだけ。

 そんな中で、私はいつの間にか『大人』になっていた。

 

 色々と語ってきた『大人』についてだが、私のものも数ある例の1つに過ぎない。

 だけど、1つ確信を持って私が言えることがある。

 

 それは『大人の定義』とは色々あるだろうが、私が思うのは全員が『大人にならざるを得なかった成れの果て』だということだ。

 

 でもこれは……主に、私が該当しているものだけど…

 

「(……戻りたいなぁ…)」

 

 ……ほら、また同じこと思っちゃってるよ…

 

*******

 

「あっ、先生!その髪型似合ってますよ!」

 

「あれ、そうかなぁ?私としては、やっぱり結構バッサリいっちゃったなぁって思ってたんだけど…」

 

「いやいや!ぜひ今後とも、そのままでお願いします!」

 

「(相変わらずのダウナー感漂う凛々しい顔に、このウルフの相乗ダブルパンチ……そしてそれに反比例するかのような、緩くて優しげな性格…これはまさに…)…ギャップの逆バンジー……ってところだな。落差ってより、跳ね上がる衝撃…的な?」

 

「何1人でブツブツ言ってんだ…?先生に変な事言ったら、周りの女子たちに叩かれるぞ?」

 

 私は大人……それも子供を導く『先生』である。

 とは言っても、まだせいぜいとあるクラスの副担任に着任してからせいぜいまだ数年。

 年齢で言ったら生徒たちとあまり差異はない。

 

「(少し前まで、同じだったのになぁ…)」

 

 だけど、この数年の間に先生として求められるものはあまりにも多い。

 純粋な学力や知識だけに留まらず、人との適切な関わり方(いわゆるコミュニケーション能力)、成長への意欲。

 

 そして使命感や責任感といったもの。

 

 これらを、たった数年で身につけろっていうんだから大変だ。

 

 ……正直、どれもこれも今の私には不足しているものばかりだ。

 

*******

 

「……はぁ…」

 

 夕日が差し込む1人空き教室に篭り、今日も1日があっという間に過ぎたことを実感した。

 

 窓枠を斜めに切り裂いて入る光は、すでに茜色を通り越し、焼けたオレンジと薄い紫が混ざり合った色をしていた。

 教室の古い木製の机や椅子の表面に、その光は長大な影を投げかけ、時間の経過を静かに告げている。

 空き教室特有の、冷たくて微かに埃っぽい空気が肺を満たす。

 

 何だか日に日に時間の進みが早くなっているように感じるけど、これが歳をとるということだろうかね?

 

「(…はは……それはやだなぁ…)」

 

 私はこの学校の生徒たちとは、比較的仲は良いはず。  

 でも、それは『そうなるように』意識して振る舞ってきたものでもある。  

 

 私は人と関わることは……確かに私が好きなこと。  

 

 そしてそれが、私が『先生』になるきっかけにもなっている。  

 だが現実は、非常に面倒くさくて、やっぱり自分の想像通りにいかない。

 

「四乃崎、先生…」

 

 私の後ろの扉が静かに開く。

 廊下の喧騒が遠い過去の音のように消え、その生徒は、夕焼けを背負うようにして、遠慮がちに立っていた。

 

「……失礼します…」

 

「あっ、待ってたよ、〇〇さん……ちょっと呼び止めさせてもらったのは、今後の進路についてなんだけど……まだ進路調査の書類がね…?」

 

「…っ…そ、それについて、なんですが…」

 

「……ん?どうしたの?」

 

 『先生』とは子供たちに道を指し示す、子供にとって親の次くらいに接することになる『大人』である。  

 だけど前述した通り、せいぜいまだ私はこの子よりも少し年齢が高いだけの『大人もどき』。  

 『先生』と呼ばれるのには、とても遠く及ばない人間だ。

 

「……そっか…どうしても将来のことで家族との意見が合わないと…」

 

「はい……自分のやりたいことを伝えても、どうしても…」

 

「たしか、絵に関係する道に進みたいんだったよね?〇〇さんの絵、すんごいもんねぇ?この間だって特賞を取って表彰されてたしさ…」

 

「………」

 

 彼女の目には、夕日のオレンジが反射して揺らめく水面のように見えた。

 その光は、彼女の秘めた熱意と、それに伴う不安の両方を映し出している。

 

 でも……まただ。

 

 また奥底で思ってしまう。

 何度繰り返しても、慣れる事はない。

 

 「何でそこまでこの子を縛るんだ」というこの子自身の心情を察しての言葉。

 

 「何で私の言う事を聞いてくれないんだ」というこの子の将来を心配しての両親の言葉。

 

 どちらにも、自分にどうこう言う権利などないのは分かっている。

 だけど……どうしても、過去の自分と重ねてしまう。

 

 ーー『…やめときな?先生なんてさぁ……いいもんじゃないよ。』

 ーー『…ッ……何で、だよ……姉さん…!!」

 

「……先生…?」

 

「……あっ…」

 

 一瞬、空き教室全体が、過去の記憶の冷たい水に満たされたように感じられた。

 私は声を聞いたことで、現実の夕暮れに引き戻される。

 

「ごめんごめん…!うーん、そうだねぇ……やっぱりもう一度、自分の熱意を伝えてあげてみたらどうかな?もしそれでもダメだったら、また私が相談に乗ってあげるよ。」

 

「で、でも…」

 

 …あぁ、まただ。

 私も結局同じなのに、また無責任で聞こえのいい言葉を言っている。

 

「……私は、〇〇さんの努力はしっかり見ているよ?自分の人生を決めるのは、最後は誰かじゃなくて自分自身……だから、大丈夫だよ。当たって砕けろー……って意味じゃなくて……あれ?こう言う時は、なんて言えばいいんだっけ?」

 

「……!も、もう、先生ったら…」

 

 空き教室の窓の外は、すでに紺色の帳が下り始めていた。

 そんな中で、彼女の顔に諦めではなく、まだ消えきっていない希望の薄明かりが見える。

 

「あはは、ごめんごめん!……でも、何かあったら相談には乗るよ?なんて言ったって私はーー…」

 

 ……今の私はうまく笑えているだろうか?

 強張りを見せ、この子を不安にさせていないだろうか?

 

「『大人』……だからね?」

 

 私は、本当に『大人』に近づけているのだろうか?

 

*******

 

「たっだいまー…」

 

 今日も今日とて帰る時間は遅くなった。

 生徒の青春の光が、人生最後の休日として過ごした学生時代を思い出させてくれるバフとして残っているけど……やっぱり、色々としんどい。

 

「はぁ……誰もいないのに、ね。……何してんだか…」

 

 玄関で靴を脱ぐ音すら、部屋の闇に吸い込まれて消えていく。

 手に下げたレジ袋をテーブルに置くと、私はすぐに魂を脱ぎ捨てるように部屋着に身を包む。  

 私にとっての自由の象徴であるこの服装は、やっぱり何よりも心地がいい。  

 

「……本当、懲りないねぇ…」

 

 そして約半日振りのスマホ画面とご対面。

 液晶が放つ無機質な青白い光が、疲れた顔を照らし出す。  

 しかしそこにあったのは、やはり身に覚えのない不在着信であった。

 

「……ッ!?」

 

 いつものように電話帳から削除しようと指を画面の上に置いたが、番号が書かれているはずの宛名が変わっていた。

 

 そして、そこに表示されていたのは…

 

「……『四乃崎』…」

 

 その名前を見た瞬間、心臓が一段と大きく跳ね上がった。

 目は前の現実が、音を立てて軋む。

 

 私と同じ苗字……だけど、私に対して連絡をよこす可能性のある人を、私は1人しか思い浮かべれない。

 震えていた身体を落ち着かせ、その連絡先に改めて目を通すと、発信地点の欄に見慣れない文字が書かれていた。

 

「(……『キヴォトス』?』)」

 

 まるで聞いたことのない国の名前だ。

 すぐに画面を切り替えて検索をかけてみるが、やはりそんな国など存在していない。

 となればこれも悪戯……それも特段、悪趣味なものだ。

 すぐに削除しようと指を動かすが、画面に表示されているこの名前がその動きを止めさせる。

 

「(いや……でも…)」

 

 そうしてしばらく受けた衝撃に動けずにいたが、私の指は意思とは無関係にその名前へと伸びていた。

 何かの詐欺まがいの電話だったしても、それならばすぐに切ればいいだけ。

 

 何度かこうして自分に言い聞かせるようにしながら、私は……履歴に残っていた名前に指を置いた。

 

「………」

  

 暗い部屋にしばらく電子的なコール音が、重く、粘つくように鳴り響き、スマホの先から聞こえてくるはずの声を待っていた。  

 

 しかし私は……何をしている?  

 

 なんでこんなに緊張して……これはただの、何の変哲もない久々の『姉弟』の再会だ。  

 

 あっちが私をどう思っているのかは想像することしかできないけど、数年振りに連絡を寄越してくれた事実に……私は内心胸を高鳴らせていた。

 

「(……いやいや、何でもうアイツだって決めつけて…)……単純だなぁ、私も…」

 

「『…突然の連絡失礼します。これは四乃崎さんのお姉様のお電話で、お間違い無いでしょうか?』」

 

「(……!?)は、はい…!そうですが…」

 

 スマホの先から聞こえてきた低く落ち着いた女性の声に身体をビクつかせた。  

 なんでこの人は弟のことを……そしてこうして私に連絡を…?  

 一気に様々な情報が頭の中に入り込んできて混乱していたが、スマホの先から声が続いてやってくる。

 

「『先生……失礼。四乃崎さんについて、お姉様にお伝えしなければならないことがあり、連絡させて頂きました。』」

 

「それはわざわざどうも……えーっと、色々聞きたいことがありますが、なぜあなたが、四乃崎の名前で私に連絡を…?」

 

 一体この声の主は弟とどういう関係なのだろうか?

 内心連絡を寄越してきた人物が弟本人でないことに、若干面食らっているけど、まずは状況の整理だ。

 

「『……落ち着いて、お聞きください。四乃崎さんは…」

 

 だけど、続いて紡がれた言葉を聞いて、私の周りから一切の音が消えた。

 周囲の暗さと相まって、まるで深海や宇宙に放り込まれたかのような感覚である。

 

 スマホの青白い光だけが、部屋の中で冷酷に瞬いていた。

 電話の先の女性が言い放った言葉。

 

 それはーー

 

「………死んだ?」

 

 弟の訃報であった。

 

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