開かれた扉の先、懐かしい匂いが目の前の空間から私に向かってきた。
私がアイツの住んでたアパートに入り浸ってた頃の…そんな匂い…
時間だけが取り残されたように、あの日の空気がそっくりそのまま息をしていた
「…では、お入り下さい、四ノ崎さん。」
「…!あっ…う、うん…」
名前を呼ばれた瞬間、心臓がひとつ跳ねた気がした。
私の前を歩いていたリンちゃんがそっと身を引き、できた隙間を縫うようにして、私は小さく息を吸い込んで扉の向こうへ足を踏み入れた。
エントランスと同じ、白く柔らかな光が差し込んで視界を包む。
でも、そこにあるのはさっきとは違う……ただ明るいだけの光。
温もりが抜け落ちて、表面だけが静かな……空っぽの輝きだった。
「(……ここが…)」
足元に少し目を落としながら踏み入れたが…中は想像よりもかなり広い。
まず目に入ったのは作業に使っていたであろうデスク。
複数のモニターと、何らかの書類が挟まれているであろうファイルが置かれている。
本当に、ついさっきまで誰かがここにいたような気がして…息が詰まりそうだった。
「(……ん?アレは…)」
あっちにもスペースが広がっている…思ったより、このオフィスはずっと広いみたいだ。
デスクから目を切ると、その先にあったのはローテーブルと数人掛けの長めのソファ。
テーブルの上には、飴などのお菓子が置かれており、ここで当番などできた生徒たちと談笑していたのは想像に難くない。
そして、その近くには冷蔵庫やキッチン、ポットなども置かれている。
……なんだか生活も、この部屋だけで完結しそうだ。
「(…やっぱり、ぱっと見だといい生活してそうじゃん…私の部屋の何倍も広いし、なんかズルイな…)」
…中々の待遇の良さに、思わず内心でちょっとだけ文句がこぼれてしまった。
すぐに気持ちを切り替え、デスクの横を抜けて正面の一面がガラス張りの壁の方へ歩いていく。
ここから見える景色は…やはり、かなり壮観だった。
ビルの周辺を歩く人たちの様子も見える…けれど…
ここまで高いと、さすがに足がすくむな……ずっとは眺めてられない…
「…………」
私はガラスにそっと手をつけた。
冷たい感触が、妙に現実味を帯びて指先に残る。
キュッと耳に残る音だけ残し、部屋の中に静けさだけが返ってくる。
「……先生にお姉さんがいらしたということ、初めて知りました。」
「…………えっ?」
窓の外の景色から目を逸らして、もっと細かく部屋の中を見ようとする。
だが、ここでリンちゃんがポツリと言葉を溢す。
突如として向けられた言葉に対して、私も口から掠れたような声が出てきてしまった。
「ご家族に関するお話を…先生から生徒にされることが無かったのです。私自身、気になってお聞きしようと思ったことは何度もありましたが…踏み込まないままでした。」
「……そ、そっか…でも、聞いたとしてもぼかされていたと思うよ?多分…弟は私の話をしたくなかっただろうし…」
「……!……四ノ崎さんは、過去に先生と何かあったのですか?」
「……うーん…」
……やっぱりこうなってしまうか。
これは…正直、あまり相手が誰であっても聞かせたくない話だ。
クラスの子にも、先輩にも話したことがない。
だから、誰も知らない……本当に、誰も。
…だから、リンちゃんには申し訳ないが、詳しい内容についてはぼかさせてもらおう…
「…そう…だねぇ……一言で言うすれば、『喧嘩別れ』…かな?…私と弟は、数年前に激しめの言い合いしちゃって……それからパッタリ。」
ふと、デスクの上に視線が行った。
…書きかけのメモ。
そこには見覚えのある字で、誰かに伝えようとして何か書いている痕跡があった。
…でも、その続きを……もう誰も書くことはできない。
「…!そうだったのですか……それから四ノ崎さんは、一度も先生と会わなかったのですか?」
「…うん、そうだね?けれど、この喧嘩の原因は私にあるから、自分から連絡したりするのは…躊躇しちゃってた。…だからさ、私と同じ苗字で連絡を受けた時に、変に緊張してたんだ…で、その内容が……弟が亡くなったって話だったんだ…」
「………」
リンちゃんは何も言わず、そっと視線を落とした。
思わずテーブルの上の飴玉に一瞬、指を伸ばしかけて……やめた。
「……あっ!べ、別にリンちゃんが気にする必要はないからね…!?私と弟の関係は知らなかったわけだし…ご、ごめん…変に気を重くさせて…」
「……いえ…」
小さくそう言ったリンちゃんは、いつもよりほんの少しだけ眉を下げていた。
…けれど、それ以上は何も聞こうとしない。
それためこの沈黙が、逆にジリジリと私の胸の内を痛めてくる…
言葉選び、盛大に間違ってんじゃないか…私。
ダメだな…これ以上は、私も自分から話せない。
……私も、あの時の本当に最低な私を思い出してしまう。
「ま、まぁ…?こんなことがあったから、私と弟の関係はあまり良くなくて…だからリンちゃんたちも、私の存在を知らなかった訳だね…」
どこか気まずそうに視線を逸らし、私は手の甲の湿布を指先でなぞる。
リンちゃんはまっすぐこちらを見て、小さく頭を下げた。
「…四ノ崎さんも、あまり話したくなかったであろうことだと思いますが、こうして話していただき感謝いたします。」
「い、いやぁー、そんなことは〜…」
沈黙がふと、再び室内の空気を静かに満たす。
…申し訳なさに心臓がキュッと握られるような感覚だ…
どこか落ち着かないこの沈黙に、リンちゃんがそっと姿勢を直した。
「……ところで、四ノ崎さん。キヴォトスにいる間、どこで過ごすかなどは考えておりますでしょうか?」
「…んぇ?あー…あはは…うん。何も考えずにいたねぇー…」
リンちゃんの言葉に、固く笑って肩をすくめ、視線を泳がせる。
そういえば、これについて何にも考えてなかったな……どうしよ?
「…もしよければ、この建物の中で過ごしてみてはどうでしょうか?ここには休憩室やシャワーもあるため、しばらくの間なら不便なく暮らせると思います。」
「…!…いいの?ここで私が過ごしても…?」
その言葉に、思わず少し身を乗り出して尋ねてしまう。
両手は膝の上に添えたまま、期待と不安が入り混じった視線でリンちゃんを見つめた。
「…はい、問題ございません。しかし、時々先生が亡くなった後でも、ここシャーレに生徒がやってくることがあります。加えて、四ノ崎さんがキヴォトスにいることが、すでに各学園に広まっているため…多くの生徒がここへ押し寄せる可能性があります…」
「…まぁ、大丈夫じゃないかな?こうして寝泊まりできるだけで、私としては十分ありがたいし……それに、他の生徒の子たちと、少し話してみたい気持ちもあるしね?」
私は微笑んでそう返しながら、手のひらを胸のあたりに置いた。
その鼓動は、ほんの少しだけ高鳴っていた。
リンちゃんは視線を一瞬だけ私から外し、どこかを見つめるように言葉を紡いだ。
「……分かりました。私はこれにて失礼しますが、何かあれば連邦生徒会へ連絡をして頂ければすぐに対応いたします。」
「うん、ここまでありがとう、リンちゃん?ここの片付けが済んだら、連邦生徒会にも顔を出すね?」
「…えぇ、頭に入れておきます…では、失礼します。」
そう言い残して、リンちゃんは私に一礼して部屋を後にした。
足音が廊下に消えていくにつれて、部屋の中は再び静寂に包まれていく。
…取り残されたような感覚が、じわりと広がった。
寂しそうに見えたのは、リンちゃんの背中だったのか…
ーーそれとも…
「(……もう、行ったかな…?…ちょっと話したく、なったかも…)」
1人になり、しんと静まり返った部屋の中、私はデスク横の椅子の背もたれに脱いだ上着を置く。
ネクタイを少し緩め、手の甲まで隠しているシャツの袖を手首が見えるまで捲り、そしてポケットからスマホを取り出した。
リンちゃんはもうエレベーターに乗って下階へ向かったくらいだろう…
私は、改めて誰もいないはずの周囲を確認すると、持っているスマホの画面に向かって声をかけた。
「…プラナちゃん、まだいるかな?」
「『…はい。どうしましたか、お姉さん?』」
デスクに寄りかかり、私が声をかけると、画面の中にプラナちゃんが映し出された。
しかしその表情は…少し暗い。
それもそうか…1番近い距離で私の話を聞いていのが、プラナちゃんになるんだもんな…
「…ちょっと聞きたいことがあってね?……プラナちゃんも、弟から私についての話…何か聞いてるの?」
「『…!……それは…』」
私は先程シッテムの箱の中にいた時は聞かなかった…いや、『聞けなかったこと』をプラナちゃんに問いかける。
プラナちゃんと話をしてみて、アイツとプラナちゃんとの距離は生徒たちと比べてもかなり近い印象を受けた。
ならばプラナちゃんには…アイツは、私についての話をしているのかもしれない。
「「……はい。私とアロナ先輩は、先生が倒れ、目が覚めた時に…最初にお姉さんのお話を聞きました。』」
「…!そう…なんだ…」
やっぱりかと思い、私は目を見開いて思わず小さく息をのんだ。
心臓が一度跳ねて、胸の奥で熱を持っていくのがわかる。
……大丈夫…落ち着いていけ、私…
「……弟は、その時どんな風に私の事を話してたの?」
問いかけながらも、視線はプラナちゃんから外れそうになる。
不安と期待がせめぎ合って、手元で指先をそわそわと組み替えた。
「『…体調が優れなかったこともありましたが……それでも先生は、お姉さんの話になると、少しだけ……笑っていました。』」
「……えっ?ちょ、ちょっと待って…わ、私に文句の一つや二つくらい…言ってなかったの…?」
「『…はい。お姉さんの距離感はとても近いということ、先生にとってお姉さんは唯一の家族など、様々なお話をしていました。…お姉さんに対して、そのようなネガティブな言動はありませんでした。』」
「……それなら、私たちが喧嘩別れしたことも……知らなかったんだね…?」
「『…そうなります。こちらについては先程、私もお姉さんの口から初めてお聞きました…』」
「そ、そっかぁ……それなら良かーー」
安堵の息が喉から漏れ、微かに口元が緩みかける。
けれどその瞬間……私の周りから音が消えた。
頭の中で何かが固まって、言いかけた言葉が唇の先で凍りつき、私はゆっくりと目を伏せる。
「(……ちが…う…)」
これは違う…私が良かったなんて、違うでしょ?
……いや…なんで私は安心しようとしてんだ?
これは当然のことだ…
この子たちに私との関係が悪くなって、今はほぼ赤の他人なんて…言う訳ないだろ。
そうだ、良いように見ようとするな………私だろ?
結果的にあの子は慕われる先生になった…でも、もういないじゃないないか?
ーーー私があの時、『あの子の夢を否定した』から…こうなったんだろ?
「『……お姉さん?』」
「…!あっ、ごめん…!少しぼうっとしちゃってた…ね。……うん、とりあえず…すぐにこのままシャーレの片付けを始めよっか?…あっ、でもリンちゃんも言ってたけど、生徒の子たちが来るかもしれないなら、あまり散らかさないようにしないとね…」
私は慌てて顔を上げ、取り繕うように笑顔を浮かべた。
頬がひきつっているのが…自分でもわかる。
言葉を繋ぎながら、机の上のスマホをそっと置くが…手のひらには、じんわり汗が滲んでいた。
「『は、はい……分かりました…』」
スマホ越しの声が、少しだけ不安げに揺れる。
私はひとつ息をついて、椅子から立ち上がった。
改めて見ても、至る所に生活感がある…思っていたより整っているのは、アイツの意外とマメな性格が表れているのだろう。
「ふぅーー……いッ…!?」
まずはデスク周りから片付けようと、軽く肩を回す。
だが、動きに合わせて脇腹が微かに痛んだ。
……こりゃあ、重量あるものは持てないな…
寄りかかっていたデスクから離れ、さらに身体を軽く伸ばしたその時——
ふと、視界の端に姿鏡が映る。
何気なく視線をそちらに向けた瞬間、私は動きを止めた。
「(………ハハ……なんでよ…)」
映し出されたのは、等身大の今の私の姿。
銃撃に抱き込まれたことによる湿布や包帯、絆創膏…そして、爆風によって乱れた髪が外側に跳ねている。
「(……ひどい有様だなぁ…)」
本当に、本格的に学生の頃に近づいた感じになっているな…
でも、私が目を引かれたのは他でもない……その瞳だった。
……なんでかな…
「(……なんで私が……そんな目してんだよ…)」
『鏡は映る人間の心を映し出す』と言うが…これもそうなのだろうか?
鏡の中に映っている私の目は、なぜか暗い影が落ちているように見えた。