シャーレのビルの入り口を出た瞬間、鼻先にひやりとした空気が触れた。
やわらかく冷たい風が髪を揺らし、重ね着したシャーレのマークが入った厚手のブルゾンの裾やネクタイを少しだけ舞い上げる。
…それにしても、アイツがたぶん着てたこの上着もかなり大きい。
ギリギリ指先が出てくれるくらいには、私の体とサイズ差があるな…
手首から先がぽっかり浮いているような感覚がくすぐったくて、思わずブルゾンの袖をもう一度引き寄せた。
肩のあたりには、今でも微かに残っていて…これは、ちょっと懐かしいアイツの匂いだな…
「ほんっと、今日は当たりの日……こういう天気って、やっぱり外に出たくなるよね〜。」
空はほんのり薄雲がかかっていて、まるで柔らかなフィルターをかけたように、太陽の光を拡散していた。
地面に落ちる木々の影もくっきりと濃くはならず、街全体がやわらかな色合いに包まれている。
向かってくる風も心地よく、体感気温は……15度くらいかな?
通りを行き交う人たちの表情もどこか和らいで見えた。
つまり、今日は『完璧〜』……ってやつだね。
「『お姉さんは、いわゆるアウトドアなのでしょうか?』」
上着の内ポケットの中からプラナちゃんの声が聞こえてくる。
たしかに、今のテンションが若干高めの私の言葉を聞いた限りだと、そう思うだろうね…
……だけど、これには超個人的な条件が、色々とあるだよなぁ…
「んー、まあ…外に出てもいいかなって思える気温ならね?でも、少しでも外の気温が25度を超えたら、意地でも外には出ないようにしてるよ…そのくらいが活動限界だし…」
「『なるほど……お姉さんは夏がお好きじゃないんですね?』」
「そうだねー……私にとって夏は、大っ嫌いなことこの上ない季節だよ。
だから、こうして木枯らしが吹く今みたいな空気のほうが……私は好きかな?」
ジリジリと照りつける灼熱の太陽光。
肌にまとわりつく湿気と、アスファルトの照り返しでむわっとする空気。
文明の利器に頼ることでしか解決できない、あの恨みがましい暑さ。
夏を構成するあらゆる空気は……やっぱり今も、どうしても好きになれないな…
「『先生も夏は苦手そうでしたが、夏にしか訪れない空気はお好きそうでした。』」
「あー…それは私も分かるかもね?あの、なんていうか……夏の空気って、ちょっとだけ『青春の名残』みたいな匂いがするよね?…まあ、今の私はもう青春が遠ざかって、夏と上手く付き合えない人間になっちゃったけどね…」
私の言葉に、プラナちゃんは小さな電子音で頷いたように感じた。
それを聞いて私も、少し笑って多くが青に染まった空を見上げる。
薄曇りの奥にぼんやりとした光がにじんでいる。
「(……夏…か…)」
…たしかに夏が生み出す独特の空気に、身を委ねるのもいいものだとは時々思う。
特に満天の夜空や延々と広がる海の景色の綺麗さは、たしかに他の季節と比べても群を抜いているしね?
だけど…私から見ると、やっぱりそんな利点を覆い隠す程の重く不快な空気が……好きになれない。
「…でも、今はそんな夏とは真逆の季節だからね?ふふ、とりあえずは気分良く行こっか、プラナちゃん?」
「『はい、お姉さん。では、まずはこの道をしばらく真っ直ぐ進んで…』」
ぽつりぽつりとプラナちゃんの案内の元歩き出した足は、やがてシャーレのビルの前を離れ、駅へと続く緩やかな坂道に差しかかった。
街路樹の梢が揺れる音が、かすかな葉擦れとして耳をかすめる。
やっぱり風は冷たいのに、体は芯からじんわりと温かい。
…たぶん、着ているこの上着のせいだけじゃないと思うけど。
「『……少し風が強くなってきました。ブルゾンの前、閉めますか?』」
「うん、ありがと…でもさすがにこれだけ大きいと、閉めなくても風はほとんど入ってこないから大丈夫だよ。…それに、プラナちゃんも暗いのは嫌でしょ?」
小さく笑いながら答えつつ、ふと視線が近くの歩道橋に向いた。
そこには、制服姿の4人の子たちが、楽しそうに喋りながら歩いていた。
ピンク色の髪の小柄な子が、手をバタバタさせながら背の高い同じくピンク髪の子に対して、何か熱弁をふるっている。
その様子を、少し後ろから歩く金髪の子が困ったように笑い、白っぽい髪の子は黒いぬいぐるみを胸に抱えて、じっとその賑やかな様子を見守っていた。
あれは学園へ向かうためか…それとも、ただの寄り道だろうかね?
「………」
その姿に、思わずまぶたの裏に浮かんでしまう。
かつて、母親が私とアイツを引率していた青空の下の風景。
…母さんの背を追って、弟と並んで歩いた小さな影。
まるで、あの頃の残像みたいに。
「……私さ…」
ポツリとつぶやくと、プラナの返事を待たずに続けた。
「今さらだけど…弟が何を見て、何を思って、このキヴォトスで先生になったのか……少しだけ、わかってきた気がするんだ?」
日常の中に転がる、小さな声や笑顔。
その全部を拾って、未来に繋げようとしてた……そんな姿勢を。
彼が好きだった『生徒たちの時間』は、こうして日々のなかに静かに溶けていたんだな…
「……ああいう光景を見ると、それがよく分かるよ。」
「『……お姉さんは、先生が見た風景と同じものが見えているんですね。先生のことを、嬉しそうに思っています?』」
「はは……どうだろうね?褒めたいのか呆れたいのか、どっちつかずってとこかな?」
再びプラナちゃんには冗談めかして笑ってみせる。
私が歩く道沿いには、古びたカフェや小さなショップが並び、店先の看板が風に揺れる音を立てる。
歩道にはところどころに落ち葉が舞っていて、気まぐれな風に押されながら、ゆっくりと地面に積もっていった。
「あっ、ここか…」
そうして歩いているうちに、駅の屋根が見えてきた。
白とグレーの近未来的な意匠が、空の青さに溶け込んで、まるで都市と空がひとつになったみたい
高層ビルの間から覗くその屋根は、まるで先端技術を象徴するように輝いて見える。
そして、改札口を通るために上着の内ポケットからスマホを取り出したが、同時にここで不意に思う事が出てきた。
「あっ…そう言えばさ、このままトリニティに向かうのもいいけど、誰かに連絡をしたほうがいいのかな?…また、銃撃に巻き込まれるのは、怖いから避けたいし…」
昨日だって、何気なく街を歩いていただけで事件に巻き込まれた。
もちろんのほほんと何も考えずにいた私に非はあるけど…やっぱり無防備に移動するのが少し怖くなってしまうよ…
……だからこそ、誰かと一緒に歩く安心感って、何ものにも代えがたい。
カンナちゃんとコナカちゃんの2人のような、近くにいてくれる存在がいるだけで、気が色々と楽になる…
「『…たしかに、そうですね。何がキッカケで騒動が起きるのか分からないのが、キヴォトスですので…』」
「そ、それはよーく、実感してるよ…でも、誰に連絡をすべきかな…?トリニティに面識がある子に出会ったわけじゃないし……まず誰の連絡先も分からないしね…?」
私は駅の改札を通る前にふと足を止め、くるりと踵を返す。
すぐ近くにあった公園のベンチ、グリーンカーテンで覆われた木陰の一角へと歩き、ゆっくり腰を下ろした。
木漏れ日が、風に揺れてちらちらと舞い落ちる。
その光がまるで粒状の夢みたいに、私の視界にふわりと差し込んでくる。
眩しくて、思わず片目を細めながら空を仰いだ。
「ふぅ〜〜…うん。少し作戦会議しよっか、ここで…」
「『…そうですね。やはりお姉さんは、安全第一で行動した方がいいですからね。』」
プラナちゃんの言葉と共に、風が頬を撫でる。
その音は静かだけど、まだ私には小さな緊張がまだ燻っている。
視線を下ろすと、プラナちゃんが静かに思案している様子が、スマホの画面越しに伝わってくる。
…しかし、本当にどうしようかね…
でも、例えば――アイツがクッキーを作る手伝いをしていたという子なら、理由づけとしても悪くないかな?
「『…お姉さん。生徒さんたちに連絡をしたいのでしたら、私が繋げることが可能です。不審に思われないためにも、お姉さんの名義で連絡をするのはどうでしょうか?』」
「えっ…!?そ、そんな事もできるの?!そうそう、なんとか繋げてもらえれば、私もありがたいよ…!」
思わず身を乗り出すと、ベンチの背もたれが軋んだ音を立てた。
その拍子に、風がブルゾンの裾をふわりと持ち上げる。
こうして悩みが出てきても、すぐに解決の術を導き出してくれるプラナちゃんには本当に頼りになる。
よし、そうだな……やっぱりここは…
「…じゃあさ、プラナちゃん…弟がクッキーを作る手伝いをしていた子に繋がる事ってできる?お礼って形でトリニティに行きますよー…って言っておけば、いい感じにまとまるんじゃないかな?」
「『その生徒さんですか…分かりました。先にお伝えしておくと、その生徒さんはトリニティでも上の立場のお方です。ですので、お姉さんから事情を話せば、安全にトリニティを回る事ができると思います。』」
「(……?……上の立場…)」
プラナちゃんの言葉を聞いて、思わず考えが詰まる。
そんなに大きな人物だとは思っていなかったから、少し戸惑ってしまうな…
「あっ…い、いや…そうなんだね…?……でも他に思いつかないし、その子に頼るしかないんだよね……お願いしてもいい?」
「『かしこまりました。』」
その言葉に応じるように、スマホの画面が切り替わり、自動的に通話の待機状態へと移る。
画面には「通信中」の文字とともに、どこかで聞き覚えのある名前が表示された。
しかし、『上の立場』か…
プラナちゃんのこの一言が妙に気になって、思わず尋ねてしまう。
「…ところで、プラナちゃん。…弟が手伝いをしていたその子ってどんな子だったの?ユウカちゃんやノアちゃんみたいな、その学園の生徒会所属の子?」
「『はい。その方はトリニティの『ティーパーティー』の1人、『
「………んえ…?」
思わず声が裏返った……聞き間違いじゃないよね?
……いや、たしかに聞いた。
うん、私はしっかりと聞いたよ……聞いちゃったよ…
プラナちゃんは、いま『ティーパーティー』って言ったよね?
「あ……え…?…ティ、ティーパーティー…って…」
『ティーパーティー』――それは昨日、プラナちゃんが説明してくれたばかりだった。
学園の三大派閥『パテル』、『フィリウス』、『サンクトゥス』、そして新たに設けられた派閥の、それぞれから選ばれた生徒会長たちによって構成される、トリニティのトップに立っているという組織。
その生徒会長のひとり……桐藤ナギサちゃん。
……あれ?
…もしかして私、めちゃくちゃ気軽に……とんでもない子に電話をかけてない?
「ちょっ…えぇっ!?ま、待って待って…!いきなりそんな凄い所属の子に対して連絡しちゃったの、私…!?」
「『そこまでご心配はいらないかと。先日いらっしゃったセミナーのお二人とお話ししたばかりですので。』」
「そ、そうだけど気持ちが…!昨日はユウカちゃんとノアちゃんの2人の方から来てくれたけど、今はいきなり私の方から連絡をしちゃってるんだからさ…!し、しかも所属しているわけじゃなくて、生徒会長だよ!?」
どこかでセミナー後の繋がりがあるにせよ、礼儀ってものがある。
少なくとも『一般人』としての自分が、脳内で警鐘を鳴らしている。
……コール音が、止まらない。
心臓の鼓動と、スマホから流れる音が妙にリンクして聞こえる。
ど、どうしよう…
今から「間違い電話でした〜!」なんて言ったら…いや、苗字出てるし、余計にややこしい。
このままキャンセルしたら……それこそ変な誤解を招く。
ああもう……完全に詰んでるやつだ、これは…
「…あっ。」
こうしている間に……スマホのコール音が止まった。
ピッ――という短い電子音。
その瞬間、まるで空気そのものが静止したように感じた。
鳥のさえずりも、風の音も、すべてが凍りつくような静寂。
スマホの画面が、着信の接続画面へと切り替わる。
……繋がってしまった、終わった…
いや、始まったのか?
あー、ダメだ……現実逃避したい気持ちしか湧かないよ…
「(……うそ…でしょ…)」
思わず心の中で諦めがこもった声が漏れる。
もう目の前で開かれた通信の先に、トリニティのトップの子がいる…
昨日と今日で、立て続けに高位な子たちと関わる事になるなんて……本当に信じられないんだけど…
…弟、ほんと頼むから、もっと普通の子とも関わっておいてよ…
あーもう、せめてこの木漏れ日に溶けて消えられたらいいのにな…