ただの『正しさ』に縋れば、きっと誰かが壊れる。
間違いを責めれば、もう二度と繋がれない。
だから私は、名前がないその場所に立なきゃいけない。
善でも悪でもない、その狭間に。
痛みと沈黙だけが交わされる、『赦し』の名を持たないような、そんな場所に。
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人はきっと、誰しもが『どちらか』に寄り添いきれないもの。
清廉な『被害者』でも、完全なる『加害者』でもなく、その『狭間』で揺らぎながら生きている。
それは俯瞰し、『中立』でいることこそが、生きていく上でより強く求められるから。
それは言い訳だと言われれば、たしかにそうかもしれない。
でも、どちらかを否定するだけでは、人は誰も救えないのも事実だ。
だって私は、そうだと思って、それを言い聞かせられて生きてきたから。
「………」
でも、私の中でなにか大切にしていた『それ』が、静かに音もなく崩れていくのを感じた。
まるで手のひらの上で細かな砂がこぼれ落ちていくように…確かだったはずの境界線が、ぼやけていく。
「……ねえ、サオリちゃん?」
昨日の名残が、今さらになって鈍く疼く。
胸に絡みついた痛みと打撲の鈍さが混ざり合い、思わず顔をしかめた。
空の青さがゆっくりと正午に近づいてきていて、遠くで鐘が鳴っていた。
私の声が、そんな静寂に沈みそうな空間へ染みこむように落ちる。
「それって……どういうことなの?」
「……っ!!」
思わず一歩、私は足を踏み出すと、その音が石畳の床を打つ。
するとサオリちゃんは小さく息を呑み、視線を下へ落とした。
その喉元がひくりと震えるのが、はっきりと見える距離だった。
「ひっ…!」
そして、続けて後ろから、ヒヨリちゃんが小さく息を呑んだ音がした。
そっちの方へ視線を向けると、ヒヨリちゃんだけでなくミサキちゃんとアツコちゃんも、怯えとためらいを宿した瞳で私を…
「…………ぁ…」
ここでやっと、私も空気が大きく変わっていたことに気づいた。
そう……今のみんなの表情は、まるで『悪い大人の顔』を見た時のような。
建物の影で覆われていた空気が、微かに震えている。
まるで、そこに『正しさ』の名を借りた感情が、静かに渦を巻いているような。
それが、私の顔に浮かんでしまっていたのだと気づいたのは、みんなの視線でそれに気づいたからだった。
「ご、めん…」
酸素が行き渡らないせいか、私の中でぐらりと大きく何かが揺れた。
私は、すぐに手を顔に乗せて呼吸を整えた。
鏡を見ずとも、自分でも分かるくらい、多分私は醜い表情になっている。
言葉が出かけていた喉の奥が焼けるように熱く、でも反対に指先は冷えきっている。
………最低だ。
私が、こんな顔をしてどうする?
サオリちゃんは、自分がしたことを自覚しているから、私にこう話してきたんだろ?
それだったら、そんな顔せずに黙って理由を聞けよ、私。
「……理由があるのなら、聞かせてくれないかな……サオリちゃん。」
自分に何度も言い聞かせるように、言葉を吐いた。
ただ、今は一人の人間として、一人の大人として、向き合いたかった。
「あなたの言葉で、話してほしい。」
誰かを守ろうとして、誰かを傷つけることがある。
何かを背負おうとして、何かを失ってしまうこともある。
サオリちゃんの言葉は今も静かに、けれど妙に早く脈打っている。
『弟を殺しかけた』と、そう言ったときの瞳、言葉から感じられた重み……あれは嘘じゃなかった。
「……お願い…」
だから、聞かなきゃいけない。
この言葉の意味と、あの子とこの子たちの間に何があったのか。
「……私は…」
「…リーダー。」
言葉を紡ごうとしたサオリちゃんを静かに遮ったのは、ミサキちゃんだった。
ほんの一瞬だけ視線を落として、ほんの僅かに唇を噛んでいる。
そして、少し間を開けてから、俯いていた顔をゆっくり上げて揺れる前髪の奥から淡い光を放つ視線をサオリちゃんへ向けた。
「……私たちも一緒に話す。これは、リーダーだけじゃなくて、私たちの『罪』でもあるから…」
「…っ…ミサキ…」
「サ、サオリ姉さん…!わ、私たちも…っ、同じです…!で、ですから一緒に話しましょう…!私は、お姉さんにちゃんと知ってほしいです…!」
ヒヨリちゃんが両手を強く握りしめて、震える声で叫ぶように続ける。
肩をすくめながらも、まっすぐな想いをぶつける姿に、アツコちゃんがゆっくりと一歩前へ出た。
「お姉さん……サッちゃんだけじゃなく、私たち全員で、このことについて、話していいですか?ちゃんと、順を追って……全部。」
「……うん、大丈夫だよ。」
私は表情を、なんとか無理矢理戻してから、ゆっくりと頷いた。
背後からさっきの戦闘の痕跡か、火薬の匂いの混じった風が流れてくる。
そして4人の話は、プラナちゃんからも少しだけ聞いた、かつてのトリニティで巻き起こった出来事。
ーー『エデン条約調印式』の時へと遡った。
それは、トリニティと同じく、三大校の一つ、『ゲヘナ学園』との間で結ばれるはずの、歴史的な和平協定……だった。
だけど、トリニティとゲヘナは、互いにキヴォトスの三大校に数えられながらも、その関係性は険悪だったらしい。
故に、自体に懐疑的な子が多かったのも事実。
そして、さらにその裏には、ずっと燻り続けていた怨念と憎悪が静かに息を潜めていたという。
それこそが、かつて昔にトリニティから排斥された派閥の一つ、『アリウス』。
4人を含めたアリウスに属する子たちは、そこから大きくエデン条約に関わっていったという内容だった。
「………」
誰も言葉を挟まないまま静かになる。
耳を澄ませば、外の風が木々の葉を揺らす音がかすかに聞こえてくる。
その音さえも、この場を浄化することはできないように思えた。
「……私たちを含めたかつてのアリウスは、『ベアトリーチェ』という『大人』の指示のもと…このエデン条約に乗じ、トリニティへの復讐を果たそうとした…」
沈黙を破ったのは、サオリちゃんだった。
その声は細く……けれど震えはない。
どこか決意のようなものが、サオリちゃんの背筋に宿っていた。
「……あなたたちは、その時の先導の立ち位置だったんだね…」
「……そうだ…」
私がそう問いかけると、サオリちゃんは小さく頷いた。
その隣で、ヒヨリちゃんが小さく肩を縮め、ミサキちゃんは何かを噛み殺すように眉を寄せていた。
当時、アリウスの生徒たちは、『ベアトリーチェ』というゲマトリアの指導者によって『教育』されていた。
「(でも……それって…)」
そう……それは、教えという名の『洗脳』に近いもの。
それは、希望なんてものじゃなく『虚無と憎悪』を語り、未来を語らずに、ただ過去の恨みに縛りつけるものだった。
それによって、サオリちゃんたちはトリニティに留まらず、キヴォトス全体に対する憎悪を……『全ては虚しいだけ』という毒のような言葉に飲まれることで増長させていた。
選択肢など、最初から与えられずに『歪んだ教鞭』を叩きつけられたように。
「(ゲマトリア……またここで…)」
私は、1人胸の内でその言葉を反芻した。
この名を耳にしたのは、今が初めてではないけど、こうして『目の前の子たち』と結びつくなんてことは思っていなかった。
なんで、コイツらは……弟だけじゃなく、この子たちにまで…
「……エデン条約の時は、多くが重なっていて…私たちはその中で行動に移した。」
ミサキちゃんの声は落ち着いていたけど、目の奥には、その時を悔いる想いがにじんでいた。
トリニティとゲヘナ間だけでなく、トリニティ内部でのいざこざ。
裏で手を引く、ゲマトリアとアリウスの接触など。
そんな絡まった糸のような、複雑な要因の中で、アリウスによる襲撃は引き起こった。
「そ、その時の私たちには……も、目的がありました…」
ヒヨリちゃんが、おそるおそる声を漏らす。
語尾が震え、何度か瞬きをして、視線を定めようとしているのが分かる。
けれど、言わなければならないことを、自分でも分かっているみたいだった。
「……そう、だね…あの時の私たちの中で排除の目的になっていたのが、ティーパーティーと……『先生』だった。」
「……!!」
その名前が、アツコちゃんの口から告げられた瞬間、自分の心のどこかが強く、脈打つのを感じた。
吸い込む空気が重い。
いま私の立っているこの場所が、まるでその時の情景のまま思い浮かんでくるようだった。
弟は、そこに立っていた。
「私たちは、その目的のために……崩壊したトリニティを駆けていた…」
サオリちゃんの言葉と同時に、脳裏に過る情景。
光に包まれていた白い街が黒煙に覆われる。
そして、砕けた瓦礫や爆風で砕けた聖堂の柱。
煌びやかで祈りを捧げる場所が、戦場へと塗り替えられていった。
エデン条約調印式の最中、ミサイルによって振り落とされ、打ち壊された静寂。
そうして巻き起こったのは、大規模な混乱。
アリウスとトリニティ、ゲヘナによる銃撃、怨嗟、悲鳴、恐怖、虚構、全てが入り乱れた世界。
その中でアリウススクワッドは、サオリちゃんは、弟を追い込んで…
「そうして、私が引き金を引いたんだ…」
「…………」
風がひときわ強く吹いて、後ろの建物を強く叩く。
サオリちゃんの口から告白された『事実』は、まるでこの場所の温度を一気に凍らせるような衝撃だった。
でも、誰も声を上げなかった。
私に視線を向ける子は、いなかった。
その静寂が、何よりも重かった。
ただ、言葉では足りないほどの後悔。
赦しを乞うことすら許されないと、きっとこの子たちは思っている。
「……そう…だったんだ…」
私はそれだけしか、言葉にできなかった。
口が、心が、どうしても他の言葉を許してくれなかった。
唇が乾いてひび割れそうで、まるで砂を噛むように口の中も重たかった。
頭の中では何かがぐらりと揺れて、足元の感覚すらあやふやになる。
私の中の何かが、ざわつきと一緒に感情の矛盾になってせり上がってきている。
けれど、それと同じくらい強く……『この子たちを責めきれない』という声も、私の心臓を叩いていた。
「(だって、そうじゃん…)」
もし、私がこの子たちの立場だったら?
最初から選択肢も与えられず、歪んだ言葉で縛られ、狂ったような正義の顔をした憎悪に染められて。
そんな歪な大人の喰い物にされていた子たち。
その中で、自分を疑い、間違っていると気づける子が、果たしてどれだけいる?
「………」
ふと目をやると、サオリちゃんは肩を小さく震わせながら、両手を膝の上で強く握りしめていた。
表情は悲痛で、爪が白くなるほどに、きつく。
ミサキちゃんは目を閉じて顔を伏せたまま唇を噛み、アツコちゃんは感情を押し殺すように背中を丸めている。
ヒヨリちゃんは震える手でサオリちゃんの背中をそっと支えながら、ただ一点を見つめていた。
「(………私は…)」
狂ったような大人に命じられ、従い壊そうとした。
でも、心までは壊せなかった少女たち。
そして、それによって凶弾を刻むことになってもなお、『先生』として、『大人』として、この子たちを許した弟。
どちらの痛みも、覚悟も片方だけでは語れない。
何も知らない、知らなかった私には、どれも語れない。
……語る権利なんて…ない。
「謝って、済むことではないのは、分かっている…!そんなことを私…は……私は…!!」
サオリちゃんが顔を上げた瞬間、その目に涙はない。
けれど、目の奥には、涙より深く沈殿した悔いがあった。
『罪』とは、行いだけで裁けるものじゃない。
そして『赦し』とは、感情だけで与えられるものでもない。
それでも私は、今この手に残された、見えない重さを抱えたまま、ここに立っている。
これは私が、何度も見てきたものと、同じものだ。
『先生の姉』としてじゃなくて……ただの、一人の『大人』として。
「………サオリちゃん。」
ゆっくりと歩き出す。
重力が強くなったような一歩一歩だった。
草の葉が風に揺れていた。
どこか遠くで鐘の音が鳴っていた気がする。
けれど、それすらも現実味がないような空間だった。
そして私は、膝を曲げて地面につける。
目線を合わせて、悔やみ尽くしているサオリちゃんの前に。
「顔を、上げて…」
私の声に、サオリちゃんはびくりと肩を跳ねさせる。
まるで罰を受ける子どものように、反射的に身をこわばらせるサオリちゃんに……私はただ、そっと手を伸ばす。
そこには、赦しでも裁きでもない、名前のない温度が宿っている気がした。
「(私、は……)」
この世界には、『正しさ』だけじゃ測れない関係がある。
たとえばそれは、『加害者と被害者の間』に広がる、言葉にしがたい空白のこと。
あまりにも残酷な、事実のみが存在している暗がりの影の中。
そんな光が差さず、音もない……ただ存在するだけの『痛み』。
そこに立たされたとき、人はきっと『どちらでもない者』になる。
赦すことも、裁くことも、ただ受け止めることすらもできずに、ただ見つめるしかできない。
そうだ……それが『私』だ。
「………私は…」
けれど私は、もう、そこから目を背けたくはない。
あの子が背負い、サオリちゃんたちがこうして黙って苦しんで抱えていたものを、無かったことにはしたくない。
だからーー
「……!!」
私は、こうして目線を合わせて、傷ついた子たちを抱き寄せて包むことしかできない。
それがきっと、『
「私は………あなたを受け止めるよ。」
その瞬間、鐘の音が、遠くから静かに響いた。
赦しにも、裁きにも似ていないその音が、まるで『境界』そのものを揺らしているようだった。
そして、サオリちゃんも肩が崩れるように沈んで、唇から小さな嗚咽が漏れる。
この子たちは、ずっと心の底にある『叫び』を、誰にも届かないようや場所に閉じ込めていたんだ。
「私は……あなたを否定しない。だから……もう、大丈夫だよ。」
……だから、これでいいんだ。
きっとこれが、私が羨むような『大人の姿』だったはずから。