私の手の中で、小さな震えが伝わっていた。
サオリちゃんは言葉を失ったまま、私の肩に額を預けている。
もう何も出てこない。
涙も、声も、表情さえも。
でも、確かに分かる。
さっきまで張りつめていたサオリちゃんの身体から、ほんの少しずつ力が抜けていっていた。
「…サッちゃん。」
アツコちゃんが目を閉じたまま、ポツリと言葉をこぼしてサオリちゃんの横にしゃがみ込んだ。
そして、そっとその名前を呼ぶと、返事の代わりに肩口に微かなくぐもった吐息が落ちる。
「…リーダー。」
「サオリ姉さん…」
ミサキちゃんが、静かに後ろから手を添えた。
語りかけるような言葉はなかった。
けど、冷たさすら感じる白い肌とその掌には、祈るような温もりがあるように思える。
ヒヨリちゃんの手もまだ少し震えていたけれど、それでも迷いのない優しさで、背中をなでていた。
「………」
止まっていたわけじゃない。
止めざるを得なかったんだ。
きっとその過去から、目を逸らさないために。
「……そろそろ、行こっか、みんな。」
私がそう口にすると、四人はゆっくりと顔を上げた。
返事はなかったけれど、目の奥に宿ったわずかな光が、何よりの応えだった。
「……だが、私は…」
足元に散った葉が、風にさらわれて舞う。
ひとひらと揺れてサオリちゃんの肩に乗ったそれが、すぐにふわりと落ちていく。
その音が、まるで終わりと始まりを告げる音の余韻のように、静かに響いた。
「…さすがに、ここにずっと立ち止まってるわけにはいかないからね?サオリちゃんに言ったさっきの言葉も……本当に、本心だから。」
私はゆっくりと立ち上がって、膝にのしかかっていた重さを払い落とすように深呼吸をする。
けどそれは、私にとってはただの深呼吸じゃない。
これからを見据えるための小さな、でも確かな準備の呼吸だった。
「だからね……私が一緒にいることで、みんなが自分を責め続けることは、もうここで終わりにしてほしいんだ…?」
サオリちゃんの唇がわずかに動いたけど、その言葉は、声にはならなかった。
私も少し無理矢理に笑ってみせながら、でも胸の奥にはまだざわついたままの気持ちが渦巻いている。
「(だって、アイツはこの子たちを…)」
それでも、『私』がこの子たちに向かってしっかりと言葉を伝えないと、『私』が次に進めないとも思った。
「何も知らない私が、多くを言えないけど……それでも、ただ自分を裁き続けることが贖いになるとは、思わない。人は…生きているかぎり、変わることができると思うから。」
本音を言えば、私だってまだ答えを見つけきれたわけじゃない。
正しさも、赦しも、答えも、まだ。
笑っているつもりではあるけど、今だってこの子たちの前でどんな顔をしているのかすら、私自身にもよく分からない。
でも、この子たちを前にして湧いてくる気持ちには、あの歪で、自分に対して嫌悪を感じた感情は、もうひとつも残っていなかった。
「…それに、このトリニティに侵攻したアリウスのみんなが、こうしてティーパーティーの一つとして存在してる。だからもう、誰かに許されるのを待つ必要はないんだと思うんだ…」
「……」
「ありがとう、ございます…」
3人の沈黙の後、アツコちゃんがぽつりとそう呟きながら相槌を打つ。
それはまるで、自分たちの居場所を確認するような声だった。
そうだ。
もうこの子たちは、自分の居場所を見出しているんだ。
どんな過程を踏んで、どんな思いを抱えてその場所を得たのかは想像できないほどに。
せっかくこの子たちが手にしたそれを、私自身が、これ以上踏みこむようなことはしたくない。
だからもう、これで終わりだ。
「…だから、みんなから目的地に着くまでに、こうして受け入れられるようになるまでのこと、それにもっと弟のことを聞きたいんだ?」
私は4人に向けて熱を求めるように手を差し伸べる。
誰に、というわけでもない。
けれどその指先は、確かに誰かを求めるように微かに震えていた。
「まだ、私1人じゃ分からないことしかないからさ……い、いいかな?」
「は、はい…!」
最初に私の手を取ったのは、ヒヨリちゃんだった。
まだ不安の残る手つきで、それでも精一杯の力で指を絡めてくる。
でもちょっと、強いかな…
「……うん。」
ヒヨリちゃんに続いて、アツコちゃんがその隣で小さく頷く。
ミサキちゃんはほんの一瞬、私の手の前でためらっていたけど、その小さな沈黙のあと、そっと私に指先が触れた。
何も言わずに後ろから支えるように寄り添い、そして最後に…
「…ほら、サオリちゃんも?」
「………あぁ…」
一瞬だけ目を伏せたあと、サオリちゃんは迷いを押し込めるように、私の手を握った。
その温もりはまだ頼りないけれど、確かに『ここにいる』と告げていたように思える。
私も、これに対してぎゅと握り返す。
それが、言葉の代わりだった。
「そう言ってもらい……感謝する…」
また吹いた風に誰かの髪がふわりと揺れて、誰かの服の裾が音を立てる。
空はすっかり正午を告げるような色に染まって、陽の光が私たちの上から差し込んでいた。
「……よし、それじゃあ行こっか!道草ばっかりしてると、また道に迷っちゃいそうだしね…」
不格好で、ちょっとだけ変に歪んだ笑みだったと思う。
この瞬間の自分にできる、いちばん誠実な表情のはずだった。
……うん、多分。
「………」
止まっていた景色が、また動き出したみたいだった。
色を失っていた世界が、少しずつ、少しずつ息を吹き返すみたいに…
このトリニティの景色が、より色彩に触れて彩りよく見えてくるように感じる。
「(……アイツも、こんな風にこの子たちを、トリニティを見てたのかな…)」
どんな場所からでも、きっとまた歩き出せる。
誰かに裁かれるためじゃなくて、誰かの代わりになるためでもなくて、ただ、自分自身のために。
だからその一歩を、この子たちが歩めるように、私は言葉に出さずに強く願うことにしよう。
この願いが、あの子たちの歩みに少しでも繋がるのなら。
私の願いは、誰かの正しさではなく、その子たちの歩みの中にある気がするから。
*******
石畳で舗装された小道を、五人でゆっくりと歩いていく。
甘い匂いと、花の落ち着く香りが混ざり合った冷たい空気が、風に揺れて通り過ぎる。
静かな森を連想させる縁を縫うようにして続く道の上の太陽は高く、でもその光は葉のフィルターを通して、柔らかく私たちを包み込んでいた。
「…それにしても、トリニティの景色って本当に綺麗だね?写真や動画でしか見たことなかった場所みたい、って言えばいいのかなぁ…」
「…うん。でもなんだか、こうしてゆっくり景色を眺めながら歩くのって、本当に久しぶりな気がする。」
ぽつりと呟いたのは少し前をアツコちゃんだった。
前を見たまま、誰にともなく口にしたその言葉は、まるで新しい景観を目にしているみたいだった。
「…あれ、そうなの?」
「そうだね…いつもは任務とか移動とか、何かしら理由があって歩くことばっかだったから。それ以外の時は、私たちはどっちかっていったら、ほぼ屋内に籠ってたし。」
「えへへ……長い間、暗い場所で過ごしていたことも影響してるかもですね…」
「……だね。」
ヒヨリちゃんの言葉に、ミサキちゃんが少し俯きながら、私のすぐ隣を歩いている。
話を聞けば、アリウスがトリニティの一員として認められるまで、やっぱり想像以上に苦労を重ねたみたいだった。
「…元々、私たちはトリニティを陥れようとした『指名手配犯』。…だからやっぱり、路地裏とか色んな場所で過ごしてた私たちの性に合ってたってだけかもね?」
「で、でも今は違うんでしょ…?」
「うん。こうしてしっかりと、トリニティの一員になってるよ。」
例えば、無法地帯やアリウス自治区といった場所での活動を引き受ける。
ある時は、トリニティの他派閥や一般生徒が近づけないような、高リスクな区域に自ら赴いて任務をこなす。
「それでもあの時は、『アリウススクワッド』として、色んな場所に駆り出されたよね?私としては、みんなと堂々と行動できて良かったんだけどね。」
「た、たしかに姫ちゃんは、楽しそうにしていましたからね?」
「(……あれ?アツコちゃんって、意外と武闘派?)」
逃亡生活の中で学んだことを他のアリウスの子たちに伝える。
トリニティとの交流も増やしていき、学力も伸ばして行く。
「ただ、トリニティのために戦うってわけじゃ、なかったんだね?」
「そうだね……特にアリウス自治区にいた時は、戦いばかりで教育とかもあまり受けてなかったから、苦労した子も沢山いたから…」
「そっか…」
「まあ……でも正直、いちばん堪えたのは、『会って話す』ってことだったかもね…」
「…えっ?『会って話す』こと、が?」
それは、アリウスが関わった騒動の当事者と、被害を受けた人たちと定期的に話し合う時間が設けられた時のこと。
これには必要に応じて、ティーパーティーが立会人として同席していたみたいだけど、ミサキちゃん曰く『この時間が1番色々とキツかった』みたいだった。
「当然だけど、私たちはいい目では見られなかったし……今だってそう。アリウスをティーパーティーの一つの加えるって案が出た時にも、最初は反対の意見の方もそこそこあったからね。」
「そんなことが、あったんだね…」
この言葉の奥に、どれだけの苦悩と沈黙があったのか。
たしかに、こうして歩いている間にも、向けられた視線の中には、暗い視線が少なからずあった。
ミサキちゃんが言った『今だってそう』には、その視線が含まれている気がした。
「………」
でも、やっぱり、私には全部を知ることができない。
けれど、それでもこの子たちが一歩ずつ、少しずつ歩いてきたそれを。
私は、知らなきゃいけない。
「
「そ、そうですね……本当にお世話になりましたね…」
みんなは表情も変わらないままだけれど、それでも私に歩調をしっかりと揃えてくれていた。
「…でも、誰かに理由を与えてもらえると、ちょっとだけ気が楽になることってあるよね?考える余裕がないときは、特に。」
「たしかに私たちって、そのことをよく実感してるかもね?」
私の持論に、アツコちゃんが口元を緩めて応じてくれた。
周りの景色は一歩進むごとに変わっていき、少し開けたところに出ると、爽やかな草花の匂いが先から漂ってきた。
「……あっ…」
「…着いたよ、お姉さん。あれがトリニティ総合学園の本校舎。」
目の前に広がった、まるで絵画の中から抜け出してきたような光景に私は目を奪われた。
「そして、ここがそこに続く庭園だよ。」
高くそびえる尖塔と、淡いクリーム色の石材で組まれた本校舎は、陽の光を受けて柔らかく輝いている。
アーチを描く回廊が校舎の外縁を優雅に囲み、その先にはまるで大聖堂のような高い窓と、精巧な彫刻が刻まれた重厚な扉が見えた。
「ここが、トリニティの中心……綺麗、だなぁ…」
そして校舎へと続く庭園は、きちんと剪定された低木と色とりどりの花が、まるで絨毯のように敷き詰められている。
石畳の小道はゆるやかに曲がりながら、広場の中央へと続いていた。
広場には大理石で作られた円形の噴水があり、澄んだ水が光を受けて、静かに揺れている。
そこから流れる水はまるで空からの光を取り込んでより輝いているみたいだった。
風が吹くたびに水面がきらめき、草花の香りと一緒に、どこか懐かしい空気が胸の奥を優しくくすぐる。
やっぱり、現実離れしたような景色には、圧倒されてしまう…
「…ここからは、他のティーパーティーのいるテラスへ、私たちが案内していく。」
「茶会の途中だったからね?お姉さんには、トリニティの紅茶とかを楽しんで欲しいな。」
「ありがとう、お願いするね?サオリちゃん、アツコちゃん。」
ここで、静かに言葉を発さずにいたサオリちゃんが、私の前に立って凛とした表情のまま口を開いた。
アツコちゃんも、この景色も相まって絵画の一枚に収めたいくらいにキラキラとして見えた。
でも……うん。
いざ踏み込もうとすると、消えてたはずの緊張がまた湧き出してきそうだね…
まだ若干、顔が引き攣ってる感覚がある…
「分かった。それじゃあ任せるよ、アツコ『会長』、リーダー。」
「ふふ、任せて?」
「わ、私たちはここで失礼しますね!」
「も、もちろん、あとでしっかりとみんなと話したりして時間を過ごしたいとは思ってるよ!だからさ……また後でね。」
私がミサキちゃんとヒヨリちゃんに向かってそう呼びかけると、2人は笑みを返してくれる。
虚しさに飲まれていた子たちの姿はそこにはなくて、年相応のいい笑顔だった。
当たり前のはずのこの笑顔も、みんなにとっては、苦難を乗り越えた証なんだろう。
「……それでは、向かおうか。」
「お姉さんには、このまま私たちに着いてきてね。」
「分かった…お願いするね。」
離れていく3人の姿をしばらく眺めていたところで、サオリちゃんが声を向けてくる。
でもやっぱり、ここに着くまでもそうだったけど、まだ私に対しての緊張感が抜けてないみたいだった。
「………」
もしも、アンタが今ここにいたんなら。
この子に、どんな言葉をかけたんだろう。
「……ねぇ、サオリちゃん。」
「……!」
その時、サオリちゃんの足がわずかに止まる。
アツコちゃんはじっと私たちのことを言葉を発さずに見つめてくれていた。
「ど、どうしたんだ…?」
刹那、私たちの間を風がひとすじ通り抜けていく。
庭園に咲く白い花が音もなく首を振り、噴水の水面がそっと揺れて、透明な光が弾け、淡く滴のように石畳の上に落ちた。
「…やっぱり、気にしてる?」
「それは…」
私の言葉にサオリちゃんの喉が小さく震えた。
かすれるような声。
だけど、その瞳は私を真っ直ぐ見つめている。
風に揺れる漆黒の髪、その先に陽の光を反射する噴水のきらめきが重なっていた。
「……大丈夫だよ。さっきも言ったけど、どんな選択をしたとしても、私はサオリちゃんを『否定するため』には向き合わないよ。」
この言葉に、サオリちゃんの肩がわずかに揺れる。
瞳の奥に、まだ触れられぬ迷いが宿っている気がした。
少しだけ視線を上に向けてみると、空は暖かさを感じる光が灯った優しい青色だった。
「これからもどうするかは、きっとサオリちゃんが決めることだと思う。でも……ただ、私はサオリちゃんの言葉を、想いを、ちゃんと聞くために向き合うよ。」
「だが、それでは…」
サオリちゃんの声はほとんど風に溶けそうなほど小さかった。
けれどその沈黙に、彼女が自分の内側に耳を澄ませていることが、はっきりと伝わってきた。
「この先に何が待ってるかなんて、誰にも分からないけど……サオリちゃんたち次第で、少しずつ輪郭を持っていけるものなんだと思うんだ。」
「そうなのかな?」
「うん、きっとね。」
「………」
沈黙が、空気を包む。
噴水の水面がまた静かに揺れ、太陽の光を反射して私たちの影を淡く滲ませた。
「やっぱり未来って、曖昧で、不確かで、触れようとすればするほど、すり抜けていく。」
一歩、サオリちゃんとの距離を詰める。
硝煙の匂いが掠る上品な白い制服と、対照的な黒髪が陽の光に当てられて淡く光って見えた。
「でも……そんな風に不完全だからこそ、無数の可能性があるんだと思うんだ?」
「……!」
「だから、サオリちゃん。どんな形でもいいから、私はあなたが選んだ『これから』を、自分の手で掴んでほしいんだ。」
ひと呼吸のあと、サオリちゃんの瞳がわずかに揺れ、けれど確かに、微かな光を帯びていた。
言いたいことは言い切れたけど、これは…
「…変なこと言ってるかもだけど、やっぱり、先生のお姉さんなんだね?」
「そうだな…」
「………え?」
アツコちゃんが少し驚いたように口を開くと、サオリちゃんがそれに同調する。
でも、私だけがその言葉の真意に気づかずに居た。
「…実はね?私たちって同じようなことを、前に先生から言われたんだ。」
「あれ!?そ、そうだったの…!?」
「…ああ。今の言葉は、重なって聞こえたんだ。」
似たようなことをもうアイツが言ってるとか、分かるわけないじゃん…
「(同じこと…)」
まぁでも、それで良かったかもしれない。
また一歩、アイツが歩んできたものを見れた気がしたから。
「あの時と同じように、生きていく上で大切なことを教えられた気がする…」
「わ、私はそんな……2回目なんだしさ…?」
「そういうわけでもないよ?」
2人の口元が、ほんのわずかに震えたあとからゆっくりと、柔らかな笑みへと変わっていった。
それはまるで、曇天のすき間から陽が差し込むような、そんな微笑みで。
「はは、そっかぁ……うん、どういたしまして。」
まるで、さっきまでの緊張をほどいた証のように。
頬に当たる風が柔らかくて、ようやく見えた2人のその表情が、その答えを物語っている気がした。