青い残影を求めて   作:イナブ

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〈第三十二話〉ベルガモット

 

 テラスに差し込む陽の光が、白いテーブルクロスと陶器のカップをふわりと照らしていた。

 私はそっと椅子を引いて座って、頭から肩に降りてきたまだ残るシマエナガのぬくもりを気にしながら、目の前に並んだティーセットに自然と視線が吸い寄せられる。

 

 お菓子の盛られた銀色の三段トレイ、金色の紋様が刻印されたカップ、銀製の小さなスプーン。

 目の前にあるものすべてが、どこか本の中の挿絵みたいに見えた。

 

「………」

 

 でもさぁ…いや、流石に私でもわかるよ、これは見ただけで高いって。

 普段の生活じゃ、絶対にお目にかかれないレベルのやつでしょ、これ?

 昨日のこともあって、やっぱり触るのも畏れ多いかも…

 

「さて、紅茶はアッサム、ダージリン、アールグレイ…それから今日は少し珍しいラプサンスーチョンもあるが、君はどれがいいかな?」

 

「(こ、紅茶ってそんなに種類があるんだ…)ん、ん〜……そ、そうだね…?」

 

 席についてまずはセイアちゃんが一番に私に尋ねてきたけど、呪文のように唱えられた紅茶の種類であろう言葉に思考が止まった。

 名前だけを聞いたことがあるものはちょくちょくあるけど、風味とか香りとか想像できないし、それぞれどう違うのか分からないな…

 

「名前だけを並べられても、ピンと来ないかな?」

 

「えっと…そうだね?名前だけは知ってて、でも実際に飲んだことないのがほとんどかも…」

 

 ほぼ思考停止している私に対して、アツコちゃんが横から顔を覗き込みながら問いかけてきた。

 

「あっ、でもアールグレイって香りが良いって、聞いたことあるくらい、かな?」

 

 咄嗟にどっかで聞いた特徴を口に出してみたけど、本当にそれだけ。

 うん、もうここは気張らずに素直になろう、私。

 

「ははは…やっぱり紅茶初心者だから、みんなのおすすめを教えてくれないかな…?」

 

「うーん、そーだねー…それじゃあやっぱりここは、アールグレイがいいんじゃないかな!これは特に渋い苦味とか癖もなくて、初めてでも飲みやすいと思うよ?」

 

 頭を悩ませていた私に、隣に座っていたミカちゃんがすぐにフォローをしてくれた。

 本当にありがたい。

 

「じゃあせっかくだし、私はそれにしようかな?」

 

「なるほど…」

 

 でもここで、横から別の視線を感じたため、すぐにそっちへ目を向ける。

 すると、ナギサちゃんがじっと私の方を見ていた。

 静かな視線の中に、どこかほんの少しだけ興味の色が混ざっているように感じた。

 

「アールグレイの香りがお好きだと感じるのなら、もしかするとお姉様には『ベルガモット系』のブレンドに向いているかもしれません。ダージリンはクセが少なくて王道ですが、やはり香りで選ぶとするのなら、茶葉そのものに個性があるものを選ぶという手もあります。」

 

「(……??)」

 

 わぉ〜……すごく専門的。

 紅茶の世界って、私の想像以上でこんなにも奥が深いんだ?

 

 ナギサちゃんの声には静かな情熱があって、それがまた、言葉以上に伝わってくる気がする。

 

「もう、ナギちゃん〜…お姉さんは自分で詳しくないって言ってたのに、いきなり過ぎだよ?」

 

「…あっ。」

 

 ミカちゃんの言葉に、ナギサちゃんはほんの一瞬だけ息を呑み、恥ずかしそうに視線を落とした。

 自分でも気づかないうちに紅茶に対する気持ちが前のめりになっていたことに、ミカちゃんに言われて気づいたかのように。

 

「致し方ないことだよ。こうして『先生のお姉様』と語らえる機会に心が浮き立っていたのは事実だ。」

 

 静かな声でそう告げたのは、セイアちゃん。

 その言葉はまるで、誰かに問うための詩のように響いて、これを聞いたナギサちゃんの頬には、さらにほんのりと赤みが差した。

 

「少々熱が入り、正しさに囚われると情熱もまた錯誤に変わる…まぁ、空回りした情熱は恥ほどのものでもなく、愛しくも映るものだよ?」

 

「も、申し訳ございません、お姉様…つい熱が入ってしまいましたね…」

 

「いやいやい、大丈夫だよ!?」

 

 ぺこりと私に対して小さく頭を下げるナギサちゃんに、そっと笑って首を横に振る。

 今のでナギサちゃんの、並々ならない紅茶に対する思い入れの強さを感じたし、私としても参考になることはあった。

 

「それに、熱中できる好きなものがあるっていうのは、私は凄く良いことだと思う!今のナギサちゃんの話を聞いて、私も『なるほど〜』って紅茶に対して興味が湧いたよ…!」

 

「そう、ですか……そう言っていただき、感謝申し上げます。」

 

 ナギサちゃんの表情が、すこしだけ柔らかくなった気がした。

 安堵がその仕草の端々から伝わってくる。

 

「…それじゃあ!私はアールグレイしようかな〜…ミカちゃんは飲みやすいって言ってたけど、具体的にどんな特徴があるの、ナギサちゃん?」

 

「そ、そうですね…アールグレイは、ベルガモットという柑橘系の果実の香りをつけた紅茶となっております。風味としては、爽やかですっきりとしているんです。」

 

「へえ〜、ただの紅茶の茶葉から淹れたものじゃないんだね?」

 

「その通りです。私もその風味からミルクなどは加えずにストレートで業務の合間に口にすることが多いんです。…そういえばサオリさんも、アールグレイを好んで飲んでいますよね?」

 

「あぁ、そうだ。私もナギサと同じように、眠気覚ましに飲んだりしていて、こうした茶会の中でも常飲させてもらっている。私からも、おすすめするぞ?」

 

「そういう飲み方もあるんだ、なるほど……じゃあ私も、普段は仕事の合間はコーヒーばっかりだったから、今度試してみようかな?」

 

 2人の揃った紅茶の飲み方に感心して、私も同じように飲んでみようと思えた。

 でもここで、セイアがくすりと笑って、カップを置いた指先をゆっくりと揃えながら言葉を紡ぐ。

 

「3人揃って、襲い来る眠気をベルガモットの香りで追い払おうとするとは。…ふふ、まるで疲れた心に花を活けてごまかすようなものだね?」

 

「「うっ…」」

 

 セイアちゃんの言葉に、ミカちゃんは思わず同時に肩をすくめて苦笑したように見える。

 私たち3人は、綺麗に揃って図星を突かれたような表情になっていた。

 

「確かにベルガモットの香気は脳を刺激するが、眠るべき時に眠れず、本来飲むべき時に適さないない時に紅茶を嗜む…ずいぶん逆説的な健気さを披露してくれるね?」

 

「………はい…」

 

「セイアさんの言う通りですね……何も言い返せません…」

 

「あぁ、私もだ…」

 

 このやりとりを通して、私たちは3人揃って口を閉じて静かになった。

 でもそれは、静けさではなく、ちょっとだけ自分たちの心の襟を正したくなる、そんな温度を持っていた気がする。

 

「ただ頑張るのもいいけど、それだと根は癒えないよ。特にサッちゃんとナギサさんは最近働き詰めだし、お姉さんも頑張りすぎちゃう性格でしょ?」

 

「アツコの言うことは的を得ている。けれどまあ、君たちがそうしてでも歩みを止めたくないと思っているなら、私は無理を咎めつもりはない。」

 

 2人の声は穏やかだった。

 諭すでも、咎めるわけでもなく、ただ緩やかな波のように響いてくる。

 

「だからせめて、その香りが君たちにとって穏やかであることを願うよ。」

 

「無茶だけは、しないようにします…」

 

「…善処する。」

 

「ナギサちゃんとサオリちゃんに同じく…」

 

 言葉の最後に、セイアちゃんの声がほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。

 節々から私たちを労う意味の言葉が込められていたのが分かった。

 

「なーんだか、今日のセイアちゃん、口が回り過ぎじゃないかな?ナギちゃんと私にソワソワしてるって言ってたけど、やっぱりセイアちゃんも、お姉さんが来てるからって浮き足立ってるんじゃないのー?」

 

 ミカちゃんがジトっと目を細めながら向けた一言。

 セイアちゃんはわずかに目を伏せ、空になったティーカップの取っ手から指を離した。

 けれどその指は一瞬、ためらうように止まって、そして私の方を見ながら静かに口を開く。

 

「……それは否定はしないよ。私たちと共に、深く濃い時間を過ごした先生の血の繋がりを持つ家族が、このキヴォトスにいる。これには心が揺れないわけじゃない。」

 

「……!」

 

「だから私の浮き足立つのもまた、仕方のないことだと思ってくれ。」

 

「もー、セイアちゃんったら…」

 

 私もその言葉に、そっと心の中で息をつく。

 今のセイアちゃんの想いが、どこかアイツを想ってくれているようにも感じられた。

 

「…すまない、少し饒舌すぎたかもしれない。折角の陽だまりの刻に、影を落とすような話をしてしまったなら、それは私の手落ちだね?」

 

 セイアちゃんは目を伏せ、空のカップにそっと目を落としながら、静かに言葉を綴る。

 その声音には、どこか自嘲のような淡さが混じっていた。

 

「…だが君が来てくれたことが、私たちにとっても、君にとっても、『居場所』を少しだけ広げる機会になるかもしれないと思っているんだ。」

 

 けれど、すぐにこちらへと視線を戻し、ほんのわずかに口元をほころばせる。

 

「…君の選んだ茶葉はアールグレイで間違いないかな?ベルガモットの香り高い柑橘の香りは、最初の一杯にふさわしい。君の記憶の一頁に、穏やかな香りとして残ることを願おう。」

 

 落ち着いて澄んだような声。

 でも、そこにこめられた『願い』は、ほんの少しだけ熱を帯びていた。

 

 私も何かがあたたかく灯るような、そんな気持ちになるな…

 

「…ありがとう、セイアちゃん。私も、今日のこの時間をいい思い出にしたいって思ってるよ。」

 

「ふふ。」

 

 手を挙げて左右に振りながらそう答えると、アツコちゃんとセイアちゃんは目を細めて軽く頷いた。

 その仕草は、まるで長い旅の途中に差し込む午後の光みたいに柔らかくて、どこか優しかった。

 

「よし、じゃあこれで決まりだね!」

 

「そうですね…では、お姉様にはアールグレイをお願い致します。」

 

 ナギサちゃんは近くにいた子に対して紅茶の手配をお願いした。

 

「それにしても、なんだか新しい味覚への挑戦って感じで、見ている方も少しドキドキするね?」

 

 すると、隣のミカちゃんがぱちんと手を鳴らしていつもの調子でにっこり笑う。

 ミカちゃんの表情は無邪気で、それでいてどこか気遣いに満ちていて…この空間の空気に自然と溶け込んでいた。

 

「サオリもお姉さんと同じみたいに、紅茶の種類が分からないでしどろもどろだったし?」

 

「そうだったね?たじたじになってたサッちゃんの表情、今でも覚えてるよ?最終的に、私がおすすめしたものになってたよね?」

 

「……忘れてくれ…あの時は、私も全てが初めての経験だったんだ…」

 

 ミカちゃんとアツコちゃんの思い出話にサオリちゃんは視線を下げた。

 でも、サオリちゃんの気持ちはよく分かる。

 特に大人になってからだと、基本的にリスクを負わないで安全策を取ることが増えると自覚している。

 

 そう言う意味では、この感覚は懐かしくて、楽しみに思えるものかも?

 

「じゃあ、お姉さんの飲む紅茶も決まったことだしー……次は、お菓子タイムだねっ♪一番下の段から順番に、その子と一緒に選んでいいよ?」

 

「(……その子?)……あっ。」

 

 ミカちゃんがそう言うと、私の肩に乗っていたシマエナガがテーブルに降りてきて、数段に分かれて色んなスイーツが置かれているスタンドに近づいていった。

 そして私の方を振り返ってじっと何かを訴えるように見つめてくる。

 

 つまり、これは……いや、何を意味するの?

 

「そのシマエナガは、何を取るべきかをあなたに教えようとしている。私もこのティーパーティーに参加していた最初の頃は、多くを助けられた。」

 

「…えっ?」

 

 サオリちゃんはシマエナガに視線を向けながら、何かを思い返すようにそう言葉を溢した。

 

 私の目の前にいるのって、本当にただのシマエナガだよね?

 

 でも確かに、私をじっと見ているこの子の目は何かを訴えるような力強さを感じる気が……うん、しなくもない。

 

「ビックリだよね?でも、サッちゃんの言う通りなんだ。」

 

「ほ、本当にそうなの!?」

 

「あっはは!やっぱりお姉さんもそうなっちゃうよね?」

 

 アツコちゃんの肯定に驚くと、ミカちゃんの笑い声が返ってくる。

 

「あぁ。その子を含めたシマエナガたちは、私たちの行っているこの茶会に日頃から参加していたからかな?私としても、驚嘆に値したが…」

 

「まさか囀(さえず)りが本物の導きになるとは、私も思っていませんでしたが…」

 

 でも、反応的にこれはナギサちゃんやセイアちゃんにとっても、想像以上のことだったらしい。

 

「不思議なことだが、ずっとここにいて、空気を感じ取るようになったのだろうね…だが、君はそこまで気にする必要はないよ?」

 

 そう言われて改めて視線をテーブルの方に落とすと、やっぱりそこには変わらず私を見続けているシマエナガがいる。

 

 ティータイムの所作やマナー。

 

 確かに私は、触れることすらなかったから、そういうのについては全く知らない。

 

 でも、こうしてシマエナガに教えてもらうのは、中々に前代未聞だよ?

 

 これも、ここがキヴォトスだから……いや、やっぱりこの言葉の枠には収まらないくらいのものじゃない?

 

「えーっと、よろしくね…?」

 

 そのとき、私の言葉に反応してか、シマエナガが小さな体を傾けて、三段トレイの下段の方へとちょんちょんと近づいた。

 それから今度は、くちばしであるタルトをちょんと示すように突いた。

 

「…これが、いいのかな?」

 

 私がそう声を出すと、シマエナガはふるふると体を震わせた。

 

 うん、たぶん当たり、なんだろうね?

 

 まだちょっと信じがたいけど、この動きを見てると、そう思えてしまうよ…

 

「お待たせしました。こちら、アールグレイとなります。」

 

「あっ…ありがとうね?」

 

 そうして私がお菓子を取ったタイミングで、ちょうどアールグレイがテーブルへと運ばれてきた。

 銀のポットからゆっくりと注がれていく琥珀色の液体。

 ふわりと立ちのぼった香りが、思わず私の鼻先をくすぐる。

 

「(いい香り…)」

 

 まず私が驚かされたのは、想像以上よりも強い柑橘系の香り。

 口元に近づけた瞬間、ふわりと柑橘の皮をすりおろしたような鋭さが鼻先をかすめる。

 けれどその直後、まるで花の蜜のように穏やかでまろやかな香りが広がって、その移ろいに思わずまばたきを忘れてしまった。

 

 ベルガモットって、こういう香りなんだ。

 すっきりしているのに、優しく包まれるような余韻があるみたいに思える。

 

「未知に遭遇した時のように、不思議そうな表情をしているね?それが、アールグレイのはじまりの一香さ。最初の香りで、紅茶は半分決まるんだ。」

 

「そう言われてる気持ちが分かるかも……それじゃあ、いただきます。」

 

 セイアちゃんがぼそりと呟いた言葉に、私はそっとカップの取ってに手をかける。

 どっかで、正しいカップの持ち方についてぼんやりと見た気がするけど、今は目の前にある紅茶の味を確かめたいという想いが何より強い。

 

 ーーそして、一口。

 

「………」

 

 思っていたより、苦くはない。

 ほんのり渋みはあるけど、どこか穏やかで、さっぱりしている。

 そして、温かい紅茶がひんやりとした喉を通って温かく溶かしていく。

 口に含んだ瞬間はすっきりとしているのに、後からじんわりと広がるほのかな苦味と香りの余韻が、まるで胸の奥を撫でるようだった。

 ナギサちゃんが言っていた「ミルクを入れずに」っていうのも、なんだかわかる気がした。

 

「……うん、好きかも。」

 

 ぽつりとこぼしたその感想に、周りの皆がふわりと笑った。

 

「…良かったな、ナギサ。」

 

「ええ…お姉様の口に合ったのなら、何よりです。」

 

 サオリちゃんの言葉に、ナギサちゃんは安心したような表情を作る。

 

「それにしても、なんだか不思議だね?いつもならこんなに静かな空間で、『誰かの初めて』に立ち会えるなんて、そうそう無いよ?」

 

「…うん。それが先生のお姉さんなんだから、本当に貴重な時間だね?」

 

 誰かの言葉に、誰かの思いが重なって。

 ぽつぽつと注がれた紅茶のように静かで、でも確かに温かな時間が、そこに流れている。

 

 今日のこの記憶は、このアールグレイの香りと一緒に、きっと私の中に残っていく。

 そしていつかまた口にした時、同じ香りに包まれて、今日のことを思い出すんだろう。

 

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