秘める想いを抱く射命丸文
そんな射命丸の一幕

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第1話

 夕陽が妖怪の山の稜線に沈みかけ、空気が茜と藍の狭間で揺れている。

 その色を切り分けるように、木造三階建ての社屋から黒い翼がひらりと舞い降りた。射命丸文は翼を軽くたたんで玄関の板戸をくぐり、手慣れた動作でカメラバッグを肩から下ろす。

 

 廊下には、今日刷り上がったばかりの〈文々。新聞〉束が、背表紙を見せてずらりと並んでいた。インクの匂いは濃く、紙はまだ温い。

 文は束の上に置かれた封筒を一瞥した。読者アンケートと赤字で書かれている。

(はいはい、数字の神様のお告げですね)

 自嘲まじりに思いながらも、封筒を掴む手は自然と丁寧になる。

 

 編集卓へ足を進めると、犬走椛が既に輪転機の音を止め、机上に湯気の立つ湯呑を並べていた。

「お疲れさまです、文様。アンケート、今日来てますよ」

 椛の耳がぴくりと笑う。

「ええ、何か面白いものがあればいいですけどね」

 文は飄々と答え、封筒を開けた。

 

 中からこぼれたハガキの束――濃淡の違う筆圧、にじんだ墨、カラフルな丸ペン――千差万別の声が紙片に宿る。

 椛が一枚抜き取り、朗読するふりで喉を鳴らす。

「『博麗の巫女の日常、もっと写真付きで!』――博麗神社のファン、多いですねぇ」

「博麗の巫女は幻想郷の看板ですから」

 文はそっけなく言いながら、心臓の鼓動が掌まで伝わるのを隠すようにハガキをかき集めた。

 

 順序をつけるために机へ並べる。けれど“博麗の巫女”の文字列が視界に現れるたび、指がわずかに震え、紙を滑らせる音が早くなる。

(これほど名前が並ぶと、――まるで祭囃子みたい)

 頬に浮きかける熱を、夕陽のせいにして額の前髪で隠す。

 

「では、次の特集は“博麗の巫女の日常”で決まりですか?」

 椛の質問は純粋な仕事の確認だ。だが文には、その輪郭が刃のように研がれて聞こえた。

 彼女は視線を資料に落としたまま、呼吸を丁寧に整える。

「ええ。数字が物語っています」

 落ち着き払った声音。プロの仮面。

(嬉しい? ――いいえ、これは取材。ただの取材)

 

 だが胸の奥では、風が暴れ羽音を立てていた。

 

 椛は頬杖をつき、悪戯っぽく口角を上げる。

「霊夢さんに会えるの、文様も嫌いじゃないでしょう?」

「公平な報道のため、ですよ」

 即答。しかし声はやや柔く、抑え込んだ照れが滲む。それを悟られまいと、彼女は椛に背を向け、書棚から過去のスクラップを取り出した。

 

 その箱の底には、色褪せぬ一枚の写真――陽の光を浴び、無防備に笑う博麗霊夢――誰にも見せたことのない宝物が眠っている。

 文は箱を半ば引き出しかけて、ふ、と手を止める。

 机に立つ影が長く伸び、過去と現在をまたぐ橋のように写真の上を横切る。その影を見つめながら、彼女は心のうちで呟いた。

 

(叶わない。けれど、見守ることは叶う)

 

 編集室の窓から吹き込む山風が、ハガキの海を静かに揺らす。

 文は背筋を伸ばし、椛に向き直った。

「アンケート分析、お願い。私は取材計画を立てます」

「了解です。原稿用紙、追加で要ります?」

「――たぶん、いつもより多めにね」

 

 自らの鼓動をインクに変え、言葉に封じ込める。

 それが射命丸文という記者の、たったひとつ許された告白の形なのだから。

 

 翌日の昼下がり、妖怪の山を下った射命丸文は、石段を一息で駆け上がり博麗神社の鳥居をくぐった。木槿の花が揺れる境内は人影もなく、蝉の声だけが境内の時を埋めている。

 遠目に拝殿の軒先を掃く赤白の影――博麗霊夢――を見つけると、文の足取りは無意識に緩んだ。

(仕事だ。記者として、ただの取材だ)

 胸の奥でそう唱え、一拍置いてから声を張る。

 

「霊夢さん、ご機嫌いかがでしょうか」

「……なによ? また取材?」

 霊夢は竹箒を肩に担ぎ、軽く顎を上げた。声は素っ気ないが、追い払う気配はない。

 

 文は胸元の名札を指で示し、いつもの丁寧すぎない敬語で切り出す。

「読者のリクエストがですね、『博麗の巫女の日常を密着で』と――数字が語っておりまして」

「へえ、好きねぇみんな。私の日常なんて掃除と食事と昼寝だけよ?」

「そこが面白いらしいんです。人間も妖怪も、博麗の巫女の日常には特別な物語を感じると申しますか」

 文は鞄から読者ハガキを数枚取り出し、霊夢の前で扇形に広げた。

「ほらここ、“巫女さんの素顔が知りたい!”、“寝起き姿が見たい!”……最後は少し過激ですが」

「寝起きは却下。ていうか覗きじゃない」

 霊夢は呆れ半分の目でハガキを眺める。

 

 その視線の動きを、文はただの観察者として追いながら、心臓の裏側で別の熱を抱えていた。

(あなたの素顔なら、もう何枚写真に収めても足りないのに)

 けれど表情には出さず、スナップ写真のように微笑を載せる。

 

「取材は一週間。掃除、結界確認、参拝者対応、交友関係の調査まで網羅します。もちろん、謝礼は相応に――」

 その言葉を聞いた瞬間、霊夢の瞳がわずかに輝く。

「謝礼、ね。いくら?」

「こちらに――」

 文は封筒を差し出した。アンケートの“封筒”より一回り厚い。中身の小判が鳴らないよう、そっと慎重に。

 

 霊夢は箒を脇に立て掛け、封筒をつまんで重みを確かめた。

「……悪くないわね」

「取材協力と、神社の維持費支援という名目で」

「助かるわ。最近お賽銭、減ってるし」

 

 現金なほどあっさりした承諾。それなのに文は、心のどこかで安堵より寂しさに近いものを覚える。

(私は“金と記事”を介さなきゃあなたの隣に立てない……)

 その感情を拭い去るように、彼女は額にかかった黒髪を耳にかけ、仕事の顔を作った。

 

「では正式に。明日から七日間、朝から夜まで密着させていただきます。生活に支障が出ないよう細心の注意は――」

「細かいよ。まぁいいわ。朝は騒がしくしないでね。あと新聞配るついでに私の分も置いてって」

「かしこまりました。ちなみに今号は焚き付けではなく読んでいただけると嬉しいのですが」

「読む前に焚いちゃうかも」

 霊夢が肩をすくめる。

 

 軽口が弾むたび、文の胸は微かに疼く。

 霊夢との距離はほんの数歩――それでも、踏み込めない。踏み込んではならない。

 だからこそ視線の端で、彼女の表情という“手の届く遠景”を拾い続ける。

 

 ふと、霊夢が縁側へ腰を下ろし、傍らを手で叩いて示した。

「まあ座りなさいよ。せっかく来たんだし、お茶くらい出すわ」

「恐縮です」

 文も腰を下ろすと、板の間の温もりが翼の付け根まで伝わった。

 

 霊夢は土間へ降り、急須に湯を注ぐ。

 その背中を見ながら、文はカメラを構えかけては思いとどまる。

(肩越しのその仕草を、フィルムに閉じ込めたい)

 けれどシャッター音一つで、霊夢のお茶の湯気が壊れそうで――ただ瞬きを長くして、網膜に焼き付けるだけに留めた。

 

 湯飲みが置かれ、立ちのぼる香りに蝉の声が紛れる。

「そういえば文、明日は何時に来るの?」

「明日、何か予定はありますか?」

「日の出前に、結界の巡回があるわよ。」

「では、それの少し前に伺わせていただきます。」

「そ...もし、私が寝てたら起こしてちょうだい。」

「いえいえ、霊夢さんを起こすのは心苦しいので、戸口で三猫の鳴き声をまね――」

「やめて。変な噂立つ」

 二人して吹き出す。笑い声が軒下に反響し、夏の空気を揺らした。

 

 霊夢が湯飲みに口をつけた隙に、文はそっと視線を落とす。

 白磁に映る朱い唇のライン。その微細な揺らぎすら、記事の一文として残せたなら――

(でも書けるのは“博麗霊夢は穏やかに茶をすする”だけ)

 胸の奥に浮かぶ語彙を削いで、削いで、読者が受け取れる平熱の描写へと薄める。

 

「そういえば、この前撮った写真、出来はどう?」

「えっ」

 文の鼓動が跳ねた。霊夢が許した唯一の写真――例の宝物のことだ。

「秘蔵してないで見せなさいよ。記者でしょ?」

「ええ、もちろん。現像が終わり次第、必ず」

 文は努めて平静を装う。実際には、あの写真を人目に晒す勇気などまだない。霊夢自身の目でさえも。

 

 ひとしきり茶を飲み終え、霊夢は立ち上がる。

「じゃ、約束はしたから。私は昼寝するわ」

「では私は退散を。準備を整えて改めて参ります」

「うん。明日からよろしく、文」

 霊夢が手を軽くひらひら振る。その仕草が夏雲の影を切り裂くように瑞々しく、文の視線は吸い寄せられた。

 

 しかし次の瞬間には翼を翻して縁側を離れ、きびすを返す。

(これ以上見つめては、熱が洩れる)

 神社を背に飛び立つと、耳元を通る風が火照りを冷やしてくれる。

 

 遠ざかる境内に、赤と白の巫女姿が小さく揺れた。

 文は胸中でそっと呟く。

 

(明日から七日。取材という名の、私の空白を埋める七日間――)

 

 翅を強く一度打ち、彼女は雲間へ溶けていった。

 

 射命丸文の住まいは、妖怪の山の中腹に点在する烏天狗長屋の一角――杉の丸太を組んだ二階建てで、記者仲間たちからは「文々。新聞本社」と冗談めかして呼ばれている。

 夕映えの空を滑るように帰り着き、欄干へ軽くつま先を掛けて着地すると、玄関戸の向こうから微かな活版インクの香りが漏れてきた。日常に染みついた匂い。けれど今日は、かすかな甘さが混ざって胸をざわつかせる。

 

 戸を開ける。壁際の書棚から床へ向かって、資料が滝のように積み重なっている。新聞紙の束、読者葉書、古い号外、取材ノートに焼き増しフィルム。自分の部屋ながら、風が吹けば記事の潮がざわめく海のようだ。

 文は羽繕いを一度だけし、埃を払うように手を動かしてからカメラバッグを下ろした。

 

「――七日間の取材。さて、何を切り捨て、何を残すか」

 

 独り言を呟き、机へ向かう。机は天狗の木工職人に特注した広い天板だが、今日はその半分以上を新しい原稿用紙が占めていた。椛が気を利かせて持ってきてくれたのだろう。端に小さく「頑張ってください」と墨書きの付箋が貼られている。

 文は「ありがと」と一人感謝をつぶやく。用紙をとりあえず左端に寄せた。

 

 机の引き出しを開けると、一番奥にしまってある黒い写真帳が月明かりを呑んで鈍く光る。ほんのためらいの後、文はそっと取り出した。綴じ紐を解き、最初のページを開く。

 そこに貼られているのは――博麗霊夢が夕暮れの境内で箒を肩に担ぎ、笑いながら空を見上げている一枚。遠い虹を捉えたその瞳の輪郭を、光の粒子が柔らかく縁取っていた。

 

 撮影したのは少し前、取材の帰りに偶然許可が下りた奇跡の瞬間。以来、霊夢はどんな頼みでも「もうそれ一枚で十分」と取り合ってくれない。

 文は写真に指を触れぬよう、空を撫でる仕草だけでページをめくる。次のページは白紙のままだ。そこへ視線を落とすと、新しい命題が空白の上に蒸気のように立ち昇る。

 

(七日後、私はここにどんな“二枚目”を貼る? 貼って、いいのだろうか)

 

 写真帳を閉じ、息を整える。胸奥で熱が渦巻き、羽根の付け根がかすかに疼く――これは高揚か、それとも恐怖か。

 思考を切り替えるため、文は書棚から大型のフィールドノートを引き抜いた。表紙に朱のインクで〈博麗の巫女に密着〉と殴り書き。ページを開いて、見開きいっぱいに取材項目を箇条書きしていく。

 

一日目 未明:結界巡視同行(稽古・戦闘行動の撮影可否?)

 

朝の掃除・参拝者迎え

 

午後 霧雨魔理沙来訪(高確率)

 

夜 神社裏手の温泉地脈調査(霊夢の目視確認のみ)

 

 二日目、三日目……と予定を組みながら、ふとペンの動きが止まる。

 “霊夢の笑顔”――企図は単なる記録用カット。それでもペンは躊躇い、溜息がインクのしずくを落とした。

 

(私は、この笑顔を“記事の装飾”にしてしまう)

(でも、それをしなければ霊夢さんの笑顔は紙面に存在できない)

 

 葛藤は今に始まったことではない。報道と感情――どちらを取るでもなく、ただ両翼でバランスを取るように飛び続けてきた。

 だが今回は一週間。距離を詰めるほど、ファインダーの奥に自分の顔――“ただの射命丸文”が映り込みはしないか。

 

 ノートを閉じ、椅子にもたれて天井を仰ぐ。裸電球の光が翼の影を畳みに映し、影は心拍に合わせて震える。

 文はその震えを、ゆっくり指でなぞった。

 

「叶わないと、わかっている。わかっているから、残せるものがある」

 

 独白は誰に向けた祈りでもなく、ただ夜気へ溶ける。

 机の上では目覚まし時計が規則正しく秒を刻む。午前零時。夜はまだ深くなる。

 

 ここからは仕事の時間だ。文は気持ちを切り替え、カメラ機材の点検に取りかかった。

 愛用のカメラ――外装はしっかりしているが、シャッター幕の布が少し緩んでいた。薄い羽根を使った独自機構ゆえ、湿気に敏感だ。

 綿棒で丁寧に油を拭き取り、潤滑を調整し、フィルムマガジンをいくつも補充。暗室用の赤ランプを灯し、感光材を一枚一枚確認する。

 

 作業に集中していると、心のざわめきが薄らぐのを感じる。シャッター音を空打ちするたび、内部で小さく跳ね返る金属音が、胸の鼓動と共鳴してリズムを整えてくれる。

 最後にレンズキャップをはめ、とくん、と一拍深く息を吸う。

 

 戸外では雨が心地良い音色を奏で、風が鳴り、木々を撫でていく。華奢な山鳴りが静寂を刻み、窓辺の風鈴がチリンと一度だけ震えた。

 文は不意に視線を窓へやり、暗い山腹を見下ろす。遠い麓に、小さな灯りがいくつも揺れ、あの神社の方角をかすめている――幻想郷の夜の息づかい。

(霊夢さんも、今ごろは横になっているだろうか。昼寝をたっぷりしたから、まだ起きているかもしれないけど)

 そう思い浮かべると唇がわずかに緩む。その弛みを、間仕切り障子の影がそっと隠してくれた。

 

 時計は一時を過ぎる。明日は未明の出発だ。

 文は机を離れ、梁に吊るしたコットにつと腰掛けた。翼をたたみ、靴を脱ぎ、足を揃える。

 だが眠気はまだ訪れない。代わりに、胸の奥に先ほど閉じた写真帳の白紙ページがちらつく。そこに収まるかもしれない“次の一枚”が、まだ形もなく揺らめいている。

 

(シャッターの向こう側。私は何を切り取る? 彼女の強さ? 愛らしさ? 日常? それとも――)

 

 思案は夜を深くし、やがて静かに霧散する。

 文はそっと目を閉じ、息の上澄みだけを吐き出す。

 

「七日だけ。“博麗の巫女”を撮る。そして――射命丸文は、誰にも知られず風になる」

 

 自嘲でも悲嘆でもない。宣言というほど強くもない。ただ夜闇に紛れた決意の梢。

 やがてまぶたの裏に、夕陽を背負った霊夢の笑顔が揺れ、その像を枕にして文はようやく浅い夢へと沈んでいった。

 

 ――外では山風が、新聞紙束をめくる音に似た小さな羽音を立てていた。

 

 

夜と朝とが指を絡める刻、博麗神社の境内にはまだ人の気配が薄い。山裾で鳴き交わす鳥たちの声を背に、射命丸文は石段を無音で駆け上がった。

 薄い雲を透かした東雲は、境内をわずかに青みがかった銀で包んでいる。濡れた敷石がその光を飲み込み、前夜の雨の名残を艶めかせた。

 

 鳥居をくぐると、竹箒を握る博麗霊夢の姿が目に入る。白と朱の巫女装束は夜露をはじき、肩まで伸びた黒髪の端が雫を弾くたび、淡い朝靄がそこだけ切り裂かれる。

 文はその光景を一瞬で“画”と捉え、反射的にカメラを構えかけたが、次の瞬間、シャッター音が静寂を乱すことを恐れて指を止めた。

 

(まだ“仕事”が始まっていない。最初の一歩は音を立てずに――)

 

「おはようございます、霊夢さん」

 囁くほどの声で呼ぶと、霊夢は肩越しにちょこんとこちらを見て「ああ、来たの」と眠たげな笑みを押し出した。瞼はむくみ、紅い紐で束ねられた髪は寝癖で跳ねている。

 

 文の胸が、薄い羽根のように震えた。

 

「結界見回りの前に掃除かと存じまして。お手伝いしても?」

「そうね。とりあえず紙ゴミ拾ってくれる? 昨日の夜風で散らかったわ」

 

 霊夢が顎で示した先には、雨でふやけた新聞紙――見覚えのある〈文々。新聞〉。同僚の天狗が配り歩いたものだ。

 文は苦笑しながら膝を折り、指先で紙片を摘んだ。墨が滲み「博麗の巫女がまさかの犯人?」の見出しが判読できないほどくしゃくしゃだ。

 

「焚き付けにするには湿りすぎましたね」

「乾くまで縁側にでも干しとく? ……まあ、どうせ焚いちゃうけど」

 霊夢は竹箒を捌き、濡れ落葉と朝露をまとめて掃き集める。力みのない肩、一定のリズムで揺れる袖口――その自然体に視線が吸い寄せられる。

 

 文は紙片を袂に収めながら、頭の中で文章を走らせる。

 

 | 博麗霊夢――暁の境内で竹箒を振るう姿は、雨後の雲間を祓う風の化身。

 

 思考のペン先が熱を帯びかけた瞬間、霊夢の声が割り込む。

「文、メモ取るのはあとにして、こっちの落ち葉も頼むわ」

「失礼、つい観察に――いえ、すぐに」

 

 彼女の並びに立ち、同じように箒を振る。湿った葉が石畳を滑り、細かな砂が奏でる音に鶯の囀りが重なる。二本の竹箒が交互に石畳を叩くリズムは、境内に即興の二重奏を編み上げた。

 

 やがて掃除が一区切りつくころ、東の雲間から一条の陽が落ちた。霊夢は額の汗を袖でぴしゃりと払う。その無防備な仕草に文はまたシャッターを――しかし思いとどまる。

 

(レンズ越しの霊夢さんより、今この距離の霊夢さんが欲しい)

 

「で、結界の巡回だけど、今日は東の森を回るわ。昨日の雨で歪みが出てるかもしれないから」

 霊夢が箒を置き、腰の御札束を叩く。

「私も同行してよろしいでしょうか。記録のためと、万一のサポートに」

「もちろん。危ない場所じゃないけど、足元濡れてるから気をつけて」

 

 文はカメラバッグを背負い直し、霊夢の半歩後ろについた。樹皮に染み込んだ雨の匂いが境内を超えて漂い、二人の影は並んで森へ溶け込む。

 

 

 神社裏手の杉木立は、夜露を滴らせる薄緑の天蓋だ。幹から幹へ結界符が張られ、紙垂が朝の風に鳴る。霊夢は靴底でそっと苔を踏み、糸を辿るように進む。

 文も足音を殺し、時折カメラを構えて標を写し取った。ファインダー越し、結界符の光は肉眼よりも強く脈動して見える。

 

「ここの張り直しは……まだ大丈夫ね。昨日は雷が鳴ってたから気にしてたけど」

 霊夢は札を指先で弾き、紙表のホコリを払い落とす。その一動作が紫煙のような霊力を纏い、空気をわずかに震わせた。

 文はそれをカメラ越しに観測し――直後、シャッターを切るのをやめた。

 

(結界符が脈動する瞬間、霊夢の横顔は他者を寄せつけない神域の貌になる。私の“好き”はシャッターの音で汚せない)

 

 だが仕事を放棄するわけにもいかない。文は代わりに手帳を開き、筆記体で素早く書きつけた。

 

 |6:42 東側第一結界符――霊力安定。

    霊夢、指先で紙垂を払う。瞬時の霊圧上昇。

    瞳孔が反射光で深く、声量わずかに下がる。

 

 事実だけを――感情を薄めたインクで。

 

 巡回は淡々と続く。四箇所目の石祠を確認するころ、霊夢がふいに振り返った。

「文。写真あんまり撮らないのね。遠慮してる?」

「いえ、状況を見計らっております。霊力干渉でフィルムが飛ぶ可能性もありますし」

「気を遣わなくていいわよ。仕事なんだから」

 柔らかな声色。その何気ない善意が、文の理性を少しだけ揺らす。

「ありがとうございます。ただ――今日一日は“巫女としての動き”より“日常の霊夢さん”を優先で追わせてください」

「ふぅん? 変わり者ね、あんた。いや、昔から変わり者だったか」

 霊夢がくつくつと笑う。

 

 文は僅かな照れを誤魔化すためにレンズキャップを外し、一度だけシャッターを切った。カシャ、という乾いた音が森に溶ける。

 映ったのは笑みを噛み殺したままの霊夢、その背後で薄い陽が差し込み、木洩れ日の斑が頬へ散った瞬間――巫女でも、人間でもない“ただの博麗霊夢”の顔。

 

 フィルムが感光した手応えに、文の胸が跳ねる。

 

(この一枚は……記事に使えないかもしれない。でも、どうしても残したかった)

 

 霊夢は首を傾げ、「今のは何ショット?」と尋ねる。

「心象風景です。記事とは別枠の、私的なスケッチのようなもの」

「ふーん。まあ、変な写りじゃなきゃいいわ」

 そう言って、霊夢は再び前を向く。

 

 巡回の終点は東の崖際。そこから霧立つ谷を見下ろすと、朝日がちょうど雲海を焼き始めていた。

 霊夢は袖口を風に揺らし、結界の境点を指差す。

「ここから先は私の管轄外。けど、結界が歪むと谷底から瘴気がせり上がって来るのよ」

「存じています。昨年の鬼火騒ぎの際は、ここが震源でしたね」

「そう。だから雨の後は必ず見る」

 

 霊夢が指をすっと伸ばす。その爪先から淡紅の気が生まれ、見えない網目を撫でるように広がる。文はカメラを構え――そして、またキャップを戻した。

 代わりにその場に深く息を吸い込み、山の霊気と湿った木の匂いを胸に刻む。

 

(私に残せるのは、この匂いと、シャッターを切らなかった決断の重み)

 

 霊夢が結界を引き締めると、淡紅の光が鞘に収まるように消えた。

「問題なし。じゃ、朝ごはんにしましょ。お腹すいた」

「了解です。山の湧き水でお茶を点てますので――」

「うん、甘いお菓子も欲しい」

「取材経費でよろしければ、後ほど」

 

 文は軽く笑い、霊夢の後ろ姿を追う。森の中へ差し込む光の帯が二人の足跡を交互に染める。

 その光の織り目に、文はひそかに言葉を置いた。

 

想いは足音とともに消え、風の中で匂いだけ残る――

 

 取材一日目の朝。射命丸文はまだ一枚しか写真を撮っていない。

 だが胸の暗室には、露光を待つ情景がすでに幾重にも重なり、静かに現像の時を待っていた。

 

 ページ開ける

 

 晩春の陽は頭上で白く澄み、博麗神社の木立が濃い影を地面に落としている。

 取材開始から三日目、正午の空気はまだ少しひんやりとしていたが、炊飯の匂いと焚き火の煙が境内に甘い膜を張っていた。

 

 射命丸文は拝殿脇の縁側でカメラを膝に置き、取材メモを整理していた。紙の上には「午前中――賽銭二名、結界符点検一巡」の走り書き。

 霊夢は鳥居近くで薪をくべ、昼の軽食――粥の鍋をじっと見守っている。薪火の朱が巫女装束の緋と呼応し、風にほどける髪がわずかに煤を含んで黒光りしている。

 

(三日目でも、彼女の所作は新しい角度を見せてくる。欲しい瞬間は増えるばかりだ)

 文はファインダーを覗くでもなく、霊夢の後ろ姿を視界の端で追った。恋慕という言葉を禁じ手の札のように胸に伏せてから、まだ一つも切らずにいる。

 

 鍋がぐつ、と音を立てた瞬間、境内の空気が騒めいた。

「おーーい、霊夢! 飯時を狙って来てやったぜ!」

 森側の参道を蹴立て、霧雨魔理沙が闊歩してくる。黒いローブの裾が乾いた土を撒き上げ、手には堂々とした籠――中身は林檎と、焼き立てのクッキーが山と詰め込まれている。

 

「……また食糧目当て? 今お粥しかないわよ」

「鍋の匂いがうまそうなんだ。ほら、これ差し入れ」

 魔理沙が籠を放り、霊夢は慣れた手つきでキャッチする。林檎の赤が巫女装束の袖に転がり、文は思わずレンズキャップを外した。

 

 丁度その時、鳥居の外から涼やかな声が重なる。

「博麗神社に参拝でーす! おみくじも引いていきますねっ」

 山の方から駆けて来たのは東風谷早苗だった。神奈子と諏訪子の使い――早苗ひとりが紙袋を両手に抱えている。

 

「おや、魔理沙さんも。――霊夢さん、今日はお忙しそう?」

「忙しいのはあなた達が押しかけてくるからでしょ」

 霊夢は呆れた声を出しつつも、魔理沙の籠と早苗の紙袋を無言で受け取り、縁側に並べた。

 

 文の視点の隅で、三人の影が寄り集まる。

 魔理沙は鍋を覗き込み「味見!」と言いながら匙を突っ込み、早苗は縁側に座って紙袋から鈴蘭団子を出し、霊夢は二人を追い払う風を装いつつ火の加減を整える。

 

――シャッター音。

 文はわざと一度だけ音を立てた。混ざり合う笑顔と、散らかる皿、薪火の煤が浮かぶ午前の光――“巫女の昼食の一幕”として読者が欲しがるであろう絵面だ。

 

 しかしファインダーを下ろすと、胸の奥にとろりとした異物感が残った。

 それは嫉妬とは少し違う。霊夢の日常に自然と入り込み、無防備に笑い合う二人を眺めると、射命丸文という名の輪郭がふわりと薄くなる。

 

(私は“密着取材”という札を掲げてここにいる。だけど、霊夢さんの日常はもともとこうして続いていた……私が来る前から)

 

 思考が湿りかけたところで、霊夢が手を振った。

「文もこっち来て。でないと魔理沙が全部食べるわ」

「えっ? いや私は取材――」

「取材対象が昼を食べてるのに、記者だけ絶食ってそれでこれから持つの?」

「うぐ……それは確かに」

 霊夢の言葉は冗談交じりでも、文には救いの手のように温かった。

 

 縁側に腰を下ろすと、魔理沙が気さくにクッキーを押し込み、早苗が団子を突き出す。文は鴉天狗らしく礼儀正しい笑顔で受け取りながら、レンズを膝に置いた。

 

 鍋から霊夢が盛ってくれた粥は、ただ米と塩だけの素朴な味。湯気の向こうで霊夢が「冷めたら不味いわよ」と箸を急かす。

 一口すくい、舌に乗せる。ほのかな塩気と米の甘さが胸まで染みてくる。

 

(この塩加減。雨上がりの結界符が放つ霊氣と同じ匂い)

 

 ふと顔を上げると、霊夢の視線がこちらに止まっていた。

「美味しい?」

「――はい、とても」

 それだけで霊夢は満足したように微笑み、魔理沙が「そりゃ霊夢の鍋だしな」と茶化し、早苗が「私も今度、参道で巫女汁を振る舞おうかな」と言って笑いの渦が広がる。

 

 文は湯気の向こうでその輪を見つめる。写真を撮ろうともしない自分に気づき、胸の中でだけシャッターを切った。

 カメラの機械が記録しないもの――匂い、温度、鼓動。

 それらは記者としての“記事”には一行も載せられないが、射命丸文という一個人の暗室で静かに現像液に浸かっている。

 

 昼食後、魔理沙は「腹が膨れたら眠くなった」と箒で飛び去り、早苗は団子の串を片付け「また来ますね」と手を振った。

 境内に再び静けさが戻ると、霊夢が深い息をついて言った。

「やれやれ。あの子たち、私より食費使ってる気がするわ」

「賑やかなのは、霊夢さんが好かれている証拠です」

「好かれてるんじゃなくて、便利に使われてるのよ」

 霊夢は苦笑し、箒で縁側を軽く掃く。

 

 その背中に、文は静かに声をかけた。

「……それでも、私は羨ましいと思います」

「え?」

「霊夢さんの日常に、ああして自然に入り込めることが」

 霊夢は箒の動きを止め、振り返る。

 文は視線を合わせず、空へと傾けた。

「私は記者ですから。同行するにも、記事という道具が要る」

「……そんなの関係ないと思うけどな」

 霊夢は肩をすくめる。

「私にとっては“誰がどういう立場”かより、一緒に居て気が楽かどうかだけよ。文は気を遣いすぎ。もっと適当でいいの」

 その言葉は光の矢のように胸に刺さり、周囲の蝉の声が一拍遅れて耳に届いた。

 

(気楽に……適当に……? それは私の“叶わない想い”が許さないのだけれど)

 

 唇に浮かびかけた反論を、文はそっと飲み込む。

「――心がけます」

 ただ、それだけ。

 

 霊夢は満足げに頷き、竹箒を肩に担ぎ直した。

「じゃ、午後は本堂の奥を掃除しようかな。写真撮るなら今度こそちゃんと撮りなさいよ。記事にするんでしょ?」

「はい。良い絵になるよう精進します」

 

 文はカメラを構えた。霊夢の背中に向けて、一枚。

 シャッターが落ちる瞬間、ファインダーの十字線がわずかに滲んだ。昼の陽炎か、それとも胸のどこかが潤んだのか――判別できないままミラーが跳ね上がり、音だけが境内を震わせた。

 

 取材三日目、昼下がり。

 射命丸文の心情ノートの余白には、こんな一行が書き足される。

 

|12:57 “賑わいの後の静寂”――巫女、微笑一つ。私の胸、風通し良く空洞。

 

 それは嫉妬ではなく、切なさの温度でしか発酵しない、ひどく澄んだ空洞だった。

 

 

 

 夕刻に叩きつけた豪雨は、夜半を回る頃ようやく梢のしずくへ鎮まった。

 博麗神社の屋根瓦はまだ濡れ、月光を蒙ったように灰青く輝いている。

 境内の土は重く匂い、蝉ではなく葉裏の蛙が声を張る。

 射命丸文はその湿った空気を胸いっぱい吸い込み、息を整えてからカメラを首から提げた。

 

 時刻は二十三時過ぎ。

 境内の灯籠にはまだ明かりが残り、博麗霊夢が結界札を束ねて縁側に立っていた。

 雨で洗われた夜気の中、その白装束は灯籠の炎で温く灯り、朱の袖口が闇に滲む。

 

「遅くなったわね」

 霊夢が短い言葉で迎える。眠気はないが、雨に晒され疲労が薄く見える。

「湧水の道が崩れていたので回り道を。お待たせして申し訳ありません」

「いいわ。どうせ結界はすぐ切り替えられないし」

 

 霊夢は札束を胸に当て、一歩踏み出した。

 文は半歩下がって並ぶ。

 雨上がりの石段を降り、社殿東側の小径へ入ると、苔の匂いが靴底を経て足首まで遡ってくる。

 

 深夜の巡回は霊夢が最も気を張る時間帯だ。

 魔除けの結界線は昼間より強く脈動し、湿気を帯びて文字通り“光”になって揺れている。

 霊夢は最前線の軍人のような眼で符を見据え、必要な箇所には新しい札を添え、古いものを剝ぎ取っていく。

 文は決して声をかけず、カメラのシャッターすら押さず、ただ補助灯を低く構えて歩調を合わせた。

 

 境内から二重目の鳥居を越えると、杉林の根に雨水が溜まり、所々で微かな靄が生じていた。

 霊夢が足を止める。

「見える?」

 結界札の糸がそこだけ薄く、湿気で緩んでいた。

 霊夢は袖口をまくり、右手の人差し指で糸を弾く。

 指先から一瞬だけ淡紅の火花が散り、雨粒が弾かれたように飛び散った。

 

 文はその光を視界の端で捉えながら、シャッターに手を伸ばし――思いとどまる。

 霊夢の真剣な横顔は、写真に閉じ込めれば“巫女の凛々しさ”として紙面映えする。

 だが今この場には雨の匂い、濡れ木の肌触り、霊夢の吐息の湿度があり、それは銀塩には乗らない。

 

(紙の上で再現できないものを、私は自分だけの暗室に焼き付ける)

 

 霊夢は結界糸を解き、新しい札を口にくわえて手早く張り替えた。

 雨の滴が頬を滑り、顎へ落ちる。

 文が指でその雫を拭う仕草をしかけた瞬間、霊夢は札を引き絞りながら囁く。

「触ったら痛いわよ。結界、今張り替えたばかりだから」

「……失礼」

 文は手を引き、自嘲気味に笑みを崩す。

 

 

 巡回は森の奥へ向かい、最後の交点は崖の上だった。

 谷底からは霧が立ち上がり、月光が乳のように満ちる。

 風はまだ湿って鈍く、吹き上げるたびに霊夢の袖を膨らませ、文の翼の羽先を震わせた。

 

「ここが一番歪みやすい。瘴気が強いから」

 霊夢は札を束のまま広げ、両手ですくうように谷へ掲げる。

 呪文のような囁き声。札が一斉にひらりと舞い、虹彩のない月の光を受けて淡く輝く。

 文はその光景を見上げ、初めてシャッターを押した。

 カメラ内部でミラーが跳ね、静かな夜に乾いた音が吸い込まれる。

 

 レンズ越し、札が舞う軌跡を辿る霊夢の瞳は、昼間の友人たちと笑い合う時よりずっと遠く、強く、孤独だった。

 結界を担う者の責務――誰にも渡せぬ重み。

 文の胸に、そこへ寄り添うことを許されない風の冷気がひたと沁みる。

 

 札は次々と崖際の樹木へ留まり、淡紅の糸が張られていく。

 霊夢が息を吐いた。

「……終了。これで谷からの瘴気も上がらないわ」

 袖で額の汗を拭うと、その指先がわずかに震えているのを文は見逃さなかった。

 

「何か、甘いものでもお持ちしましょうか」

 文が囁く。

 霊夢は首を振る。

「大丈夫。緊張が抜けただけ。すぐ治るわ」

 そう言いながら足を運ぼうとした時、濡れた岩肌が滑り、霊夢の体がぐらりと傾いた。

 

 文は反射より速く動いた。

 翼で空気を払い、腕を伸ばし、霊夢の肘を受け止める。

 一瞬、二人の距離が呼吸の温度を共有するほど近付く。

 霊夢の瞳が驚きで丸くなり、文の鼓動が胸郭を叩いた。

 

(今、触れている――許されぬほど近くに)

 

 だが霊夢はすぐ体勢を整え、文の手からそっと身を離す。

「……ありがと。慣れてるつもりでも、雨上がりは滑るわね」

 声には照れか安堵か、微かな震えが混じっていた。

「お怪我がなく何よりです」

 文は掴んだ袖を放し、胸中で自分の鼓動を噛み殺す。

 

 帰路、霊夢は終始無言だった。

 境内へ戻ると、灯籠の火は細り、夜虫が寄っている。

 霊夢は縁側に腰を下ろし、濡れた草履を脱いで足を揉んだ。

 文は軒先に立ち、カメラを胸に抱えたまま、火の影に揺れる霊夢を見守った。

 

「写真、さっき撮ってたわね」

 霊夢がぽつりと言う。

「はい。札が舞った瞬間を」

「……載せるの?」

「いいえ。あれは、記念のようなものです」

 文は答える。

「記事用には、もう少し穏やかな場面を選びます」

「ふふ、そう。――じゃあその写真、あとで一枚私に頂戴」

 意外な申し出に文は瞬きした。

「霊夢さんに? いいですけど……でも、なぜ?」

「自分が結界を張る顔、見たことないから。あなたがどう写したのか興味あるの」

 霊夢はそう言い、足を引き寄せて頬杖をついた。

 灯籠の残り火が瞳に映り、火色の光点がちらつく。

 

 文は答えを返せず、ただ頷いた。

 霊夢に渡す写真――それは彼女の強さと孤独を写した一枚。

 渡せば、文の胸にだけ隠してきた情景を霊夢も知る。

 けれど霊夢はそれを“巫女の仕事としての証”としか見ないだろう。

 それでいい、と文は思う。

 

「じゃあ私は先に寝るわ。見回り、ありがと」

 霊夢が立ち上がり、軒先から文へ背を向ける。

 白い裾が闇に吸い込まれ、障子が音を立てて閉まった。

 

 境内に文ひとりが残された。雨の匂いは静かに薄れ、代わりに夜桜のほの甘い香が漂う。

 撮ったばかりのフィルムが胸元で重く感じられた。

 文はレンズキャップを閉め、カメラをそっと抱きしめる。

 

(触れた距離のぬくもりは、すぐに冷める。それでも――)

 

 空を仰ぐと、雲が切れ、月が剥き出しの鏡のように瞬いている。

 その光はどこまでも冷たい。

 けれど射命丸文の胸には、霊夢の袖に残った微かな温度が確かに灯り、静かに燃えていた。

 誰にも知られず、声にもならず、風のように。

 

 

 雲ひとつない朝焼けが博麗神社の屋根を朱に染め、薄紫の影を境内に長く落としていた。

 縁側の端には行李――射命丸文の取材道具一式と、昨夜までに書き上げた原稿用紙の束が布で包まれている。

 その隣で文は胡坐をかき、膝上に広げたノートへ万年筆を滑らせていた。

 筆先が走るたび、黒インクの光がかすかに揺れる。余白に書き込まれるのは、これまで七日間で拾い集めた“巫女の日常”の最後の断片――

 

* 午前五時三四分 境内にて結界符交換・完了

* 午前六時二二分 参拝者:村の老人二名――「巫女は働き者」との発言

* 午前七時〇七分 神社本殿裏で朝露の梅を確認、霊夢さん「今年は漬けるか迷う」

 

 どれも新聞の行数にすれば一行にも満たない“風景”。

 けれど文にとっては、薄紙ほどの切なさを幾重にも重ねた記録だった。

 

(今日が最終日。もう“追加取材”という名目でここへ泊まり込む理由はなくなる)

 

 筆先が止まり、心の奥に冷えた空洞が覗く。

 その瞬間、縁側の障子がガラリと開いた。

 

「おーい、文。朝のお茶淹れたわよ」

 博麗霊夢が湯気の立つ急須を片手に現れる。

 寝起きのほわんとした顔は、七日前よりいくらか柔らかい。

「ありがとうございます。あと少しで清書が終わりますので」

「そんなの後にしなさい。熱いうちが美味しいの」

 

 霊夢はどっかりと文の隣に座ると、湯飲みを二つ並べ、淡い香りの新茶を注いだ。

 茶の色は若葉を溶かしたように瑞々しく、湯気に混ざる土と木の匂いが朝を拡張する。

 

「七日間、早かったわね」

「ええ。本当に、あっという間でした」

 文は湯飲みを両掌で包む。

 磁器越しの温度が指先から腕へ伝わり、胸の冷えをひとつ溶かしていく。

 

 霊夢は縁側の端を蹴り、足をぶらぶら揺らしながらぽつりと呟く。

「アンケートのためって言ってたけど、読者はこんなの読んで楽しいのかしら」

「楽しいかどうか――そこは書き手の腕の見せどころですね」

「じゃあプレッシャーかけとく。面白くなかったら焚き火にするわ」

「それは困りますが……焚き火写真も記事になるかもしれません」

 文が冗談で返すと、霊夢は呆れつつも小さく笑った。

 

 笑みの端が柔らかく折れ、朱の下唇が薄く濡れる。

 文は意識して視線を逸らし、紙束を手にとった。

 

「最終稿、少し確認していただけますか」

「そんなの私が読んでいいの?」

「事実関係の最終チェックです。誇張はあっても嘘は許されませんから」

 

 文は原稿の最後に挟んだページを広げる。

 そこには、“密着取材を終えて――博麗霊夢という存在”という見出しが踊り、数行のリードが続く。

 

【博麗の巫女は、人間であり、要であり、時に風景である。

彼女は日の出とともに掃き、雨夜に結界を織り、誰にも気付かれぬうちに風鈴を掛け替える――。】

 

 霊夢は眉を上げ、口元で「ふーん」と相槌を打った。

「私、風景扱い?」

「“幻想郷を支える景色”という意味です。意訳すると、あなたはここに居るだけでいい。けれど居てくれなきゃ困る、という」

「便利屋みたいね」

 霊夢はさらりと言い、だが頬の端に照れの色が滲む。

 

 文はその色彩を逃すまいとファインダー越しに――いや、肉眼のまま瞳に焼き付けた。

 シャッター音を立てない代わりに、心の中で静かに切る。カシャ。

 それは白紙の心情ノートにしか現像されない、秘密の一葉。

 

 茶を飲み終えると、霊夢は漬物石のような古い硯箱を取り出した。

「記事に署名欄があるんでしょ? 落款の印影が欲しいって言うから掘っておいたの」

 文の目が丸くなる。

「落款?」

「“博麗”の朱文字よ。無いと格式が落ちるんでしょ」

 霊夢は決まり悪そうに鼻をこすり、石の蓋を開ける。中には朱肉と小さな篆刻印――〈博麗霊夢〉の文字。

 

「印税でも取る気でしょうか」

「あんたの記事が売れて賽銭が増えればそれでいいわ」

 霊夢は軽口を飛ばしながらも、文の原稿の余白に朱肉を叩き、慎重に印を押した。

 乾いた朱が紙に吸い込まれ、鮮やかな印影が浮かぶ。

 

 その瞬間――文は胸に澄んだ痛みを覚えた。

 “取材相手”と“記者”を分けていたはずの線が、朱の色で淡く滲んでゆく。

 距離を保とうとした七日間の努力が、たった一押しの朱肉で崩れるような錯覚。

 

 霊夢は印影を見て満足げに頷く。

「ほら、格好ついたでしょう?」

「……ええ、とても」

 文は声を震わせぬよう努めて抑えた。

 筆箱の中でペンがかすかに転がり、金属音が胸の鈍痛をチリリと揺らす。

 

 原稿確認が終わると、霊夢は縁側を立ち「さて」と腰に手を当てた。

「次は何を撮る? 巫女舞の稽古? それとも昼寝?」

「舞の稽古も魅力的ですが……最後に、いくつか“個人的な質問”をしても?」

「個人的?」

 霊夢は眉を跳ね上げる。

「記事には書かれないかもしれません。けれど読者が“巫女の人柄”を知るエッセンスとして」

「うーん、変な質問じゃなければ」

 

 文はノートを開き、インクを補充した万年筆を構える。

 だが最初の一筆が降りてこない。

(あなたに聞きたいことなど山ほどある。けれど、どの言葉も私情の色で濁ってしまう)

 

――その逡巡を見抜いたのか、霊夢が小さく笑った。

「じゃあ逆に、私が質問しようか。文、今どんな気分?」

「え? 私が?」

「そう。最終日なんでしょ? 記者としてじゃなくて、今の“あんた”を教えて」

 唐突で、けれど博麗霊夢らしい直球。

 

 文は視線をノートから外し、霊夢の瞳に合わせる。

 そこには揺れる笑みの光と、巫女としての静かな真面目さが同居していた。

 言葉に換えきれぬ何かが喉に詰まり、震えがペン先へ伝わる。

 

「私は――」

 一秒、二秒、風が縁側を撫でていく。

 杉の梢がざわめき、紙縒りの風鈴が短く鳴った。

 文は深く息を吸う。

 

「‥‥私は、取材が終わるのが惜しいと感じています。

 記事は完成に近づいているのに、まだ足りないと思う。

 あなたの語る声の抑揚とか、くしゃみの前の瞬きとか、そういった日常をもっと記録したい」

 

 霊夢は目を瞬かせる。

「意外ね。記者って取材が終わると晴れ晴れするものかと思った」

「ええ、いつもはそうなんです。記事が数字になる瞬間は心地いい。

 でも今回は――」

 

 文は言葉を濁らせる。

 “でも今回はあなたの記事だから”と言いかけ、舌の裏で呑み込んだ。

 霊夢は何かを悟ったように息を潜め、縁側の影が二人を包む。

 

 沈黙は長くは続かなかった。

 霊夢が肩をすくめ、冗談めかして口を開く。

「だったら延長料金払いなさい。もう一週間くらい付き合ってあげる」

「そんなに経費は――」

 言いかけて、二人同時に笑った。

 

 軽い笑いが縁側を弾み、文の胸で固まりかけていた言葉の氷がひと欠け崩れ落ちる。

 霊夢は起き上がると、帳面と筆を抱えた文の肩をぽんと叩いた。

「午後から天気崩れるかも。写真撮るなら早めに構えておきなさいよ。最後の日を雨で台無しにしたら焚き火行き」

「肝に銘じます」

 

 霊夢は踵を返し、拝殿へ消える。

 白と朱の背が陽射しの中で揺れ、障子の向こうへ溶け込んだ。

 

 残された文は、湯飲みに残るぬるい茶を一口含む。

 舌の上で広がる渋味と甘味が、心臓の鼓動と同じリズムで揺れる。

 

 ペンを握り直し、心情ノートの最下段にそっと走り書きをした。

 

取材七日目・午前九時三一分

“惜別”という語を記事に使うことはない。

しかし今、胸の奥には確かにそれが芽吹いている。

風は止まず、羽ばたく準備だけが静かに続く――。

 

 万年筆を置くと、山の風がちょうど縁側を抜け、原稿の束を一枚揺らした。

 朱い落款印が陽の光を浴びて鮮やかに燃え、射命丸文はその赤を胸に映したまま、次のページをめくった。

 

 午後三時を回った頃、空を覆っていた灰雲は山風にちぎられ、傾きかけた陽が境内へ斜めに射し込んだ。

 降るかと思われた雨は落ちず、枝先の雫だけが陽に反射して宝石のように瞬いている。

 

 射命丸文は鳥居下に三脚を立て、カメラの脚をわずかに伸ばして水平を確認した。

 ファインダー越し、鳥居の朱は西日を浴びて深紅に燃え、参道の敷石は黄金色に染まる。

 まるで舞台装置だ──自分で用意したわけでもないのに、すべてが準備万端に整っている。

 

(最後の一枚。これで取材は完結する)

 

 しかし胸の奥では“完結”という語が冷えた鈴のように鳴り、文の指先をわずかに震わせた。

 風の匂いは朝より乾き、杉の尖葉がサラサラと擦れる。シャッター音が飲み込まれるには惜しいほどの静けさだ。

 

「ねえ文、構図は決まった?」

 博麗霊夢の声が背中から届いた。

 振り向くと、霊夢は白襷を解き、衣紋を正して立っている。袖の線が夕陽に透け、朱と白の境目が淡く溶け合う。

 彼女が一歩進むたび、足首の紐鈴が小さく鳴り、音はすぐ樹影に吸い込まれた。

 

「鳥居を額縁にします。霊夢さんは少し前へ。そう、そこです」

 文は両手で枠を作り、霊夢の立ち位置を指示した。

 霊夢は腕を後ろに組み、陽を背負って立つ。逆光で輪郭が輝き、髪の産毛すら金糸をまとう。

 文は息を止め、露出計を覗いた。数値は許容範囲。不思議なほど完璧だ。

 

「まぶしいわね」

「もう少しで太陽が鳥居に掛かります。光輪みたいになって綺麗ですよ」

「巫女が後光背負うなんて出来すぎじゃない?」

「幻想郷ですので」

 軽口を交わしながらも、文の胸は高鳴っていた。露出、構図、背景──そして霊夢の表情がそろう瞬間は秒刻みだ。

 

「腕は? ポーズいる?」

「自然に立っていてください。肩の力を抜いて、目線は少し下。ええ、そのまま」

 霊夢は言われた通り視線を敷石に落とし、睫毛が影を作る。

 夕陽は鳥居の上端に届き、太陽の輪郭が木肌に接吻する。

 

 文はファインダーを覗く。

 光と影の境目で霊夢だけが柔らかく浮き上がり、背景の世界が薄いフィルムのように遠ざかった。

 指先がシャッターボタンに触れる。その瞬間——胸の内側で、ひとつの呟きが生まれる。

 

(どうか、この一瞬であなたの幸せが映りますように)

 

 カシャリ。

 

 ミラーの跳ね上がる乾いた衝撃が、心臓の鼓動と同調する。

 霊夢が顔を上げ、眩しそうに瞬く。

 

「終わり?」

「いえ……あと少し、夕陽が沈むまで」

 文はフィルム送りレバーを親指で引き、滑らかな感触を確かめる。

 露出を半段上げ、再びファインダーを覗いた。

 

「じゃあ……笑った方がいい?」

 霊夢が小さく首を傾げる。

 夕陽が頬を舐め、肌が淡い朱に染まる。

 文はファインダー越しに首を振った。

 

「いいえ。──そのまま、静かに」

 

 風が一度止む。鳥居の影が霊夢の足元をすり抜け、逆光の中で彼女の瞳だけが淡い琥珀に光る。

 文は再び息を止め、指を重ねる。

 

 カシャ。

 

 それでも足りず、文はもう一枚、フィルムを送り切らずに半押しし、露出を微調整した。

 霊夢が微かに笑みを含んだ気配を漂わせる。唇の端が揺れただけで、表情はほとんど変わらない——だが文にはわかる。

 

(誰も知らない、ひとつぶの微笑み)

 

 カシャ。

 

 三度目の音のあと、太陽は鳥居の上から外れ、光輪は崩れた。

 あっけないほど短い黄昏。境内の影はすぐ深まり、蝉の終わりを告げる蜩が鳴く。

 

「終わった?」

 霊夢の声は、安堵と名残惜しさの入り混じった温度だった。

「ええ。完璧です」

 文はカメラから顔を離し、深く息を吐いた。緊張がほどけ、肩がやや落ちる。

 霊夢が近寄り、ファインダーを覗こうと身を乗り出す。

「見せて」

「フィルムなので、すぐには……でも、インスタントなら一枚だけあります」

 

 文は胸ポケットから小型の即写カメラを取り出し、最後のシートを引き抜いた。

「はい、こっち見て。さっきより少しだけ笑ってください」

「さっき笑うなって言ったのは誰よ」

「最後は“博麗神社の巫女”じゃなく、“博麗霊夢”で」

 霊夢は呆れつつも、目尻を柔らかく下げた。

 カシャ。白いシートが吐き出され、文は揺らさぬよう胸元に抱える。

 

「現像には少し時間が……」

「待つわ」

 霊夢は鳥居の柱に背をあずけ、夕闇に溶ける空を仰いだ。

 文はその横顔を見上げる形で立っていたが、ふと目を伏せ、指でシートの端を優しく撫でた。

 しみ出す像が徐々に色を帯び、霊夢の姿が淡く浮かび上がる。

 

 輪郭が完全に現れたとき、霊夢は覗き込み、静かに息を吸った。

「……綺麗に撮れてるじゃない。さすがは記者かしら」

「ありがとうございます。記者だからというのもありますが——」

 文は指でシートの余白をなぞり、目を逸らさずに言葉を続けた。

「大好きですから……写真撮るの」

 

 “写真”という語に重ねて落とした声色。それは自分でもわかるほど微かに震えていた。

 霊夢は一瞬、意味を測るように瞬きをし——やがて気づかぬふりを選んだように微笑んだ。

「そう。じゃあこれは新聞に載るの?」

「いえ、これはご本人用に。もし差し支えなければ……」

「もらうわ。いい記念よ」

 霊夢は受け取ったシートを袖の内に滑らせ、柱を軽く叩いた。

「そろそろ暗くなるわね。晩ご飯どうする?」

「取材費で、何か温かいものを……」

「じゃあすき焼き。肉厚めで」

「さ、賽銭より高くつきますよ」

「延長料金ってことで」

 二人は笑い合い、鳥居を後にする。

 

 参道を戻りながら、文は胸の中にまだ現像しきらない一枚の“像”を抱えていた。

 シャッターの向こうで沈む陽、鳴り止まぬ鼓動、そして「大好き」という言葉がかすかに残す余韻。

 霊夢はそれを“写真偏愛”と受け取り、文はそれ以上の真意を差し出さなかった。

 

(それでいい。これ以上、光を当ててはいけない)

 

 空に一番星が灯る。

 文はレンズキャップを確かめ、カメラバッグのジッパーを閉じた。

 胸の内側にだけ、夕陽の残滓がまだ赤く燃えている。

 それは叶わぬ想いの残火。夜風に晒されても、容易には消えない小さな焔だった。

 

 早暁四時、妖怪の山の烏天狗通信社。

 輪転機のインク匂う床に、第一束の〈文々。新聞・特別号〉が吐き出された。

 見開き大判、四面フルカラー。主見出しは――

 

「博麗霊夢・七日間密着 幻想郷を支える“日常”の真価」

 

 射命丸文は活字の光を確かめるように指先で紙面を撫でた。

 そこに並ぶ写真は慎重に選び抜いた十六枚。

 ――早朝、竹箒を振るう霊夢。

 ――雨上がり、結界札を張り替える霊夢。

 ――友に囲まれながらもふと遠くを見やる霊夢。

 そして、鳥居の夕陽を背負った一枚。後光の輪の中心へ、淡く揺れる瞳を据えた巫女の立像。

 

 記者名の隣、朱で押された〈博麗霊夢印〉が小さく燃えている。

 ――彼女自身が印した“公式の承認”。

 文は胸の奥を熱気に灼かれながらも、表情を崩さず刷り上がりを束ねた。

 

 犬走椛が輪転機を止め、紙面をひっくり返して眺める。

「数字、跳ねそうですね。巫女の笑わない写真を載せるなんて逆張りかと思ったけど……この夕暮れ、読者は刺さるなあ」

「笑顔は記事の外で十分ですから」

 文は答える。声は静かだが、指先の震えは止まらない。

「ところでこれ、霊夢さん本人は読みますかね? 焚き火コースじゃ勿体ない」

「そこは信仰と気分次第、ですね」

 

 椛がにやりと笑い、配送隊が束を抱えて飛び立つ。

 空が紅に転ずる直前、新聞は幻想郷各地へ散っていった。

 

 同じ頃、博麗神社の縁側。

 霊夢は寝癖のまま鼻をすすり、届いたばかりの新聞を手にしていた。

 いつもの焚き付け用途に折ろうとして、ふと目を留める――自身が鳥居を背に立つ大写真。

 逆光の縁取りに「誰?」と一瞬戸惑い、すぐに苦笑する。

 

「……本当に綺麗に撮るんだから」

 

 縁側に出してあった竹箒の柄で新聞を軽く叩き、折らずに畳んで室内に持ち帰る。

 のちのち魔理沙に「焚き付けに使わなかった新聞なんて初めて見たぜ」と冷やかされるのは、もう少し後のことだ。

 

 同日昼過ぎ。人里の茶屋では常連客らが紙面を広げ、

「巫女さんって意外と働き者らしいぞ」

「早起きで掃除してるってよ」と頬を緩めた。

 河原では河童たちが結界点検の写真を拡大鏡で覗き込み、霊力測定の数値を推測しては騒ぐ。

 山の麓の人間の子どもは切り抜きを色紙に貼り、「巫女さんごっこ」の拝礼を真似た。

 

 新聞が運んだのは“事件”ではなく“日常”。

 しかし日常こそが幻想郷を巡らす歯車だと、読者は気付かずとも感じ取っていた。

 

 夕方。印刷所の喧騒が引けた後、文は自室の暗室ランプを点けた。

 乾燥台には高品質銀塩で焼いた一枚――鳥居の逆光写真。

 新聞掲載版より解像度を上げ、光輪が柔らかいグラデーションになるよう手焼きした特製プリントだ。

 

 彼女は手袋をはめ、写真をピンセットで慎重に外す。

 光に透かすと、霊夢の瞳の奥に夕陽が二重に映り、見る角度で淡い金と紫が揺らぐ。

 

「…………」

 

 言葉はない。ただ息を飲む小さな音が暗室に落ちる。

 文はプリントを二枚用意していた。

 一枚は明日、謝礼の報告をかねて霊夢へ手渡す。

 もう一枚は――自分だけのために。

 

 引き出しを開け、以前から仕舞われている写真帳の白紙ページをめくる。

 頁の余白は七日前と同じように真っさらだ。

 そこへそっとプリントを挿し込み、黒の角紙で留める。

 

 ページの下隅にペンで小さく書き添えた。

 

取材最終日 夕陽 叶わぬ光輪、胸中に収蔵。

 

 書き終えると、文はそっと蓋を閉じ、引き出しを押し戻した。

 木が擦れる音が“終章”のように響き、暗室の赤が静かに脈動する。

 

 窓を開けると、夜の山風がフィルムの甘い匂いを攫っていく。

 新聞の増刷要請を知らせる鐘が遠くで鳴ったが、文は机に肘をついたまま耳を貸さない。

 

(叶わない。けれど、私の翼はまだ自由だ)

 

 風は言葉を持たない。

 だからこそ、どこへでも吹ける。

 想いを誰にも知られず運び、どこか遠くでそっと撫でることもできる。

 

 文は机上の湯呑に残った冷茶を口に含み、ゆっくり嚥下する。

 渋みと微かな甘味が喉へ落ち、その余韻が胸の温度をわずかに上げた。

 

「幸福、ね……」

 

 誰にも聞かれない独り言。

 それは“成就”ではなく、“十分”でもなく、ただ“今ここにある”という柔らかな実感。

 

 窓辺で羽を一度だけ広げ、夜気を撫でる。

 黒い風切羽の先に月光がひっそりと反射し、瞬きを思わせる小さな光が浮かんだ。

 今夜その羽音に気付く者はいない。

 けれど文は知っている――風は必ず誰かの頬を撫で、過ぎ去るとき、ほんの僅かなぬくもりを残すことを。

 

 同じ夜、神社の庫裏。

 霊夢は布団に入る前、袖から取り出したインスタント写真を灯明の下にかざした。

 逆光で輪郭を光に溶かす自分――

 ふと、撮影の直後に文が呟いた声色が耳の奥で揺れる。

 

「大好きですから……写真撮るの」

 

 意味深に間を置いた“好き”の濁り。

 聞き違いかと思いつつ、霊夢は写真を見つめ、ぽつりと言った。

 

「……ほんと、変わり者」

 

 それ以上の詮索はしない。

 巫女として背の重みも、友として交わす気楽な笑いも、そして天狗記者が胸に秘めたものも――

 すべてまとめて“幻想郷”という風景の一部だ。

 

 霊夢は写真を机の引き出しに入れる。

 紙が木箱に触れるやわらかな音が、胸の鼓動と同じテンポで消える。

 

 新聞発行から十日後、読者アンケートには再び「巫女の日常をもっと」の声が溢れ、

 文々。新聞は次号の特集を“博麗の巫女の新たな一面”に決めた。

 射命丸文は新しい取材計画を立てつつ、写真帳を開く。

 

 そこに並ぶ二枚の霊夢――

 一枚目はいつかの夕立明け、虹を見上げる笑顔。

 二枚目は夕陽の中、ひとつぶの微笑みを浮かべる顔。

 

 頁を閉じ、文はほほ笑む。

 想いは写真の裏に潜み、風の中でさざめき続ける。

 叶わぬことを知っている。その痛みごと愛しい。

 

 窓の外、山桜が揺れた。白い花弁が夜風に乗り、闇へ舞い上がる。

 文は静かに羽ばたき、花と一緒に宙へ浮かんだ。

 

 風が、また吹く。

 羽音は誰にも聞こえない。

 けれど確かに、“射命丸文の幸福”がそこに漂っていた。


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