キモいあいつと私   作:キューブケーキ

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第6話

 移民の手続きだけはハイネセンで行われる。

 亡命者が、イゼルローン回廊からハイネセンまでの渡航許可は、簡単には降りない。変わりに何人かの政治家や役人が訪れた。

 ヨブ・トリューニヒト氏も超高速通信(FTL)のモニター越しに面談した一人だった。

 最初に会ったとき、ただの政治家だと思った。

 およそ戦場の匂いも、土の感触も知らない――

 清潔な革靴と衣擦れの音だけが妙に響く男だった。

 けれど彼は国家元首で、同盟最高評議会議長と言うとんでもない役職であった。そしてにこやかに言ったのだ。

「私の友人が焼き芋の香りにやられてしまってね。そちらから離れようとしないんだ」

 あっけにとられた。どこまでも冗談の通じなさそうな風貌で、この人、なに言ってるんだろうと。

(いや、焼き芋って……何言ってんだこの人……)

 でもちょっと笑ってしまった。

 彼はそれを見逃さなかった。

「やっと笑った。あなたが笑えば、世論も十秒だけ優しくなるかもしれません」

 胡散臭い。だが嫌じゃない。

 それから話した。

 星のこと、帝国のこと、民主主義のこと、そして味噌汁のこと。

 芋の品種の話まで、なぜか弾んだ。

 お互いに何かを得ようとしなかったから、かえって心が楽だった。

 面談の終わり際、ふと彼は言った。

「久しぶりに裏表なく語り合えた気がします。エアハルトさん、私はあなたを友人と思いたい。ご迷惑でなければ──友情をください」

 こういう時、帝国だったら膝を折って忠誠だのなんだの言ったんだろうな。

 でも今は違う。

 芋を分け合って、友達って言っていいんだ。

 遠距離恋愛ならぬ、遠距離友情が始まった。

 この人、ヨブ・トリューニヒト。

 口はうまいけど、どうしようもなく、いいやつだった。

 便宜を図ってくれたのは、ごく自然な流れだった。

 公的には亡命者保護の一環。

 実際には、彼の一言で書類の束がほどけ、許可証が即日発行され、滞在許可も無期限に変わった。

 私の知らないところで誰かが動いていた。

 でも、それがいやらしくなかった。

「ご迷惑をおかけしてませんか?」

 そう尋ねると、トリューニヒトは少し首をかしげた。

「迷惑とは、取引が成立しなかった時に使う言葉です。あなたと私は取引をしていません。友情を交わしたのですから」

 うーん、やっぱり口がうまい。

 でも、なんだろう……こっちが疑ったら負けな気がするっていうか。

 信じるのって、こういうとき勇気がいるんだな。

 彼は、忙しない議会の合間にも、たまに私のところへ連絡を寄こした。

「今朝は味噌汁を自分で作ってみたんです。豆腐が崩れてしまって、なんとも情けない見た目でしたが……」

「でも美味しかったんでしょう?」

「ええ。塩梅がよかった」

 私たちは笑った。

 誰かが親切をするときって、下心があるのが普通。

 でもこの人、なんというか……親切そのものが趣味なのかもしれない。

 そういう人間、帝国じゃ絶滅してたけど同盟にはまだいるのかもな。

 我、生涯の友を得たり。

「あなた、損な性格ですね」

 私はある時、言った。

「親しい友には、無条件で優しくなるタイプでしょう。それってきっと、誤解されやすいし利用されやすい」

 トリューニヒトは、黙って微笑んだ。

 返事はなかった。でもその目はどこか寂しげだった。

 きっと彼自身ももうわかっているのだろう。

 どこまでが友情で、どこからが自己犠牲か。

 だから、私は誓った。

 私は彼を利用しない。

 この友情は、塩だけで味つけしておく。

 甘くも、辛くもしない。

 

 

 

 

 帝国軍がイゼルローン回廊の同盟側勢力圏に度々、侵入してくるに至り、イゼルローン要塞内に近隣の住民や非戦闘員の疎開が始まった。

 私やアンネローゼ、避難民も一緒だ。

 イゼルローン要塞の空気は人工的に調整されている。

 季節も天候も、外の危機もここでは再生されない。

 ただひたすら、今ある生活を繰り返すだけの閉じた箱庭。

 でもその中で私たちは確かに生きていると感じていた。

「エアハルトさん、また焼いてくれたの? 芋」

「今日は皮ごといける種類なの。よかったら、お子さんにも」

 避難民の子供たちは、私が芋を焼く日を覚えてしまっていて、その時間になると勝手に寄ってきてしまう。

 私はそれが少しだけ誇らしかった。

 アンネローゼはというと、手先が器用なことを活かして子供用の小さな服を直したり、薄手の布で人形を作っていた。

「姉様、これ――!」

「持っていっていいわよ。お礼はその笑顔で十分だから」

 アンネローゼは、無意識に人の心のお皿を満たしてくれる人だ。

 私はまだその三分の一くらい。だからアンネローゼを素敵だと思うんだ。

 

 

 

 

 広い要塞の中でも私たち非戦闘員の生活範囲は決まっていた。

 ヤン艦隊の人たちも時折立ち寄る。

 特にナンパ目的のポプラン氏は、余計なことを言って笑わせ、シェーンコップ氏がちょっとだけ無駄にかっこよく去っていく。

 そんなある夜。

 アンネローゼと二人、薄明かりのもとで同じ寝台で横になっていたとき、彼女がぽつりと呟いた。

「ねえ、ユリア。あなた、兄弟はいる?」

「いいえ、私は一人っ子よ。なぜ?」

「……ラインハルトは、きっと姉に執着してるの」

 姉という存在にじゃなくて、姉属性に。

 アンネローゼの言葉には、そんなニュアンスがあった。

「私はね、愛されてるんじゃなくて、必要とされてるんだと思うの。母親みたいに。それって愛と似てるけど全然違うのよ」

「……アンネローゼは家族だしね、異性への愛と同じだとヤバいでしょ」

 アンネローゼは少し微笑んだ。

「でも気づいたところで、解けるものでもないのよ。依存は、絆と同じ顔をしてるから」

 私には分からない苦労を、この人はしてきたんだ。

 鎖のような優しさを、断ち切る覚悟を持っていたんだ。

 だからこそ、彼女の隣にいたいと思った。

 あれ。

 ちょっと待って。

 ふと思った。

「……つまりラインハルトは、シスコンこじらせて、アンネローゼの代わりに私に目をつけたってこと?」

 思わず口にしてしまった私の言葉に、アンネローゼはほんの少し肩を震わせて苦笑した。

「気づいた?」

 え。嘘でしょ。

「薄々……いや、今確信に変わった。マジかよ、あいつ……」

 そうか。そうだったのか。

 なんかずっと変な目で見られてた気はしたけど、あれ、私じゃなくて、姉に似た何かを見てたんだ……。

 女を舐めてんな。心の底から。

「いやもう、許せねえ!」

 私は起き上がった。たぶんこの要塞で一番キレています。

「女の心を、そういう風に見やがって。乙女の気持ちを、便利に代用すんじゃねえ!」

 アンネローゼは私の手を握ってくれたが、怒りはおさまらない。

「でもね、ユリア」

「うん?」

「たぶん、あなたを代用品にしてしまうのは、

ラインハルトだけじゃないのよ」

「……それ、どういう?」

「人は皆、誰かを通して自分の過去を埋めようとすることがある。あの子は特に、それが強いの。あなたが似ていたからじゃない。似ているように見えただけ」

 やっぱり許せねえわ。

 似てるように見えたって、それ私のせいじゃないし。

 思い出に私の顔を貼るな。

「でも」

 私は静かに言った。

「私は私でいるから。誰かの妹じゃないし、代用品にもならない。焼き芋の味も、紅茶の香りも、私のものだから」

 アンネローゼはそれに何も返さなかった。

 でもその瞳は、少しだけうるんでいた。

「あなたが、あの子の隣にいなくて良かった。

私は、心からそう思うわ」

 きっとアンネローゼの影と見比べられて不幸になるから。

 私はアンネローゼの手を握り返した。

 そう言ってくれるアンネローゼがいるから、私は私でいられる。

 だから、もう代用品で悩むのはやめよう。

 シスコンの事は忘れて、その分、芋を焼こう。

 要塞の夜は静かだった。

 でも、ここには確かに居場所があった。

 ユリア・フォン・エアハルトとして。

 どこの誰の姉でもない、私として。

 

 

 

 

「やあ、美しいお嬢さん。お会いできて嬉しいです。私に、神が与えた奇跡でしょうか」

 声をかけてきたのは、お馴染み、イゼルローン要塞の紅茶より濃い男、シェーンコップ少将だった。

「……お疲れ様です、シェーンコップ少将」

 私は首を傾げ、整った礼儀で返す。

「他の方に挨拶されては?」

「他の方が、あなたのような瞳をしていたら、もちろんそうするでしょうがあいにく、今日はあなた一択です」

 来た来た。この人、空気より軽い挨拶するなあ。

 でもイケメンだし、憎めないのが厄介なんだよね。

 あ、そうだ。

「ひとつ、確認してもいいですか?」

 私は手を組み静かに問いかけた。

「もちろん、なんでも。恋愛観でも血液型でも、何でも来いです」

「――私を姉として見てます?」

 一瞬、シェーンコップが本気で驚いた顔をした。

「えっ」

「いえ、最近そういう扱いが多かったもので。私が誰かの姉に似てるって理由で、興味を持たれるのは少し……癪なんです」

 言った、つい言っちゃった。

 ナンパより先に、家族構成の話ってどうなの私。

 恋愛初心者の地雷ムーブじゃん。

「……それは、まったくの誤解です」

 と、シェーンコップは意外と真面目な顔で言った。

「私はあなたを姉だとも妹だとも思っていません。魅力的な女性として、興味があります」

「つまりナンパですね」

「はい、100%ナンパです」

 何こいつ。潔すぎて逆に面白い。

「でも、興味があるというのは――一度お茶でも、という意味でして」

 彼は指を立てた。

「その先は、あなたがどう返してくれるかで決まる。無理強いはしません。そもそも、私には勝ち目がない気もしてきましたが」

「よくわかってらっしゃる」

 でも、この人のナンパって、傷つかないな。

 それは多分、本当に断られる覚悟をしてる人の言葉だからだ。

 軽くて、誠実。

 めんどくさいけど、ちょっと好きかも。

「じゃあ……今日は丁重にお断りします。でも、ナンパは失礼だとは思っていません。ああいうのも、要塞の空気を和らげてくれてると思ってますから」

「それは光栄です。では、私はあなたのことを鋼鉄の花とでも呼ぶことにしましょう」

 何そのネーミングセンス。ダサすぎてワロタ。

「……それは、ちょっと厨二病が過ぎます」

 ふたりして笑った。

 ここ最近、姉の代用品みたいな視線に疲れてたから、欲望どストレートな人が逆に信用できるという皮肉な現象が発生している。

「まっすぐ、己の欲望のままにナンパしてくるなんて逆に好感が持てます」

 シェーンコップは口を開けたまま固まった。

「……まさかその返しは予想外でした」

「だって、善人の仮面をかぶった下心より、悪びれない正直な下心の方がずっと健康的ですもの」

 変な媚びを売られるより、こっちの方が安心するんだよね。

 自分を女神か何かと勘違いしてないところが逆に理性的。

「ただし」

 私は言葉を区切って、椅子に腰掛け直した。

「肉体言語によるお付き合いをするつもりはありません。でも、お茶くらいならOKです」

「……お付き合いのハードルが、なかなか高度ですね」

「私の交際方針は、焼き芋と紅茶に匹敵する誠意を感じられるかが基準なので」

 焼き芋を超える男、現れないかな……そしたら、ちょっと考えるのに。

 シェーンコップはおどけた仕草で手を差し出した。

「では、今度、紅茶を焼き芋風味でお淹れしましょう」

「その時点で却下ですね」

 ふたりで笑った。

 それは決して恋ではなかった。

 けれど戦場にあるべき礼儀正しい戯れのような、心地よい遊びだった。

 要塞の片隅に、また小さな風穴が空いた気がした。

 ナンパって、口説きじゃないんだ。

 人を軽くしてくれるユーモアなんだな。

 まあ……そういうのも、戦場では必要か。

 

 

 

 

 イゼルローン要塞は、思っていたよりも狭かった。

 いや、正確には顔を合わせる人間の範囲が狭いのだ。

 逃げ込んだ避難民も、それぞれ割り当てられたブロックからほとんど動けず、その上、非戦闘員の自分が立ち入りできる場所なんて限られている。

 だから、どうしたって──会うのだ。ヤンと。

「また会いましたね」

 私の言葉にヤンは返してくる。

「まさか、ストーカーじゃないですよね?」

 なんでやねん。金髪の小僧でもあるまいし。

 その言葉は飲み込むだ。

「あなたがそうなら、私は先回りするストーカーですね」

 と私が返せば、ヤンはうなだれるように笑った。

 こっちが避けてるわけでもないけど、そんなにしょっちゅう会うもの?

 むしろ、なぜ会ってしまうの?

 あの人の重力圏、ちょっとおかしくない?

 要塞というから全区域が軍事関連施設と言えるけど、数ある中でも私たちの利用するトイレの前。食堂の列。書庫の端の休憩室。

 なぜかそこに、彼がいる。

 そして、なぜかこっちを見ている。

 手を振るでもなく、声をかけるでもなく、ただ気にしている。

「活動範囲が似てるんでしょうか」

 とある日私が聞くと、ヤンはカップを傾けながら答えた。

「いや、同じ速度で生きてる人間は、自然とぶつかるんです」

「それ、物理じゃなくて文学ですね」

「私は文学専攻ですから」

 嘘だ。

 絶対理科系の頭してるくせに、

 こういうときだけ詩人ぶるんだから。

 でも、不思議と腹が立たなかった。

 むしろ、そういう言い訳があると、

 会ってしまう理由に名前をつけられる気がして安心した。

 けれど私は、繰り返される偶然の中で、少しずつ親しさが積み上がっていくのを感じていた。

 まるで、同じ速さで歩くことだけが友情の証明みたいに。

「よう、そこの綺麗なお姉さん方。イゼルローンに咲いた奇跡かと思いましたよ」

 振り返ると、そこにはオリビエ・ポプラン。

 爽やかさと軽薄さを、全身から香水のように振りまく男だった。

 私の隣には目をぱちくりさせるアンネローゼ。

「こんにちは、ポプランさん」

 私は笑った。

 この人、風みたいだなあ……。

 どこにでも吹いてくるけど、意外と害はない。

 たぶんだけど、芋より軽い。

「お、ユリアさん、今日も可愛いっすね。うわー、二人ともマジ天使じゃん」

「ねえ、こういうの、何だと思う?」

 私は隣のアンネローゼに訊く。ポプランはきょとんとしている。

「なにが?」とアンネローゼも小首を傾げる。

「可愛いねって言われること」

 私は髪を指で梳きながら、ちらりとポプランを見た。

 アンネローゼは私の意を汲んで唇の端を上げた。

「それは、言った時点で自分のほうが上って確認したいだけじゃない?」

 アンネローゼの言葉に、ぎょっとするポプラン。

 私はふっと短く鼻で笑った。

「わたしも、そう思ってた」

 可愛いという言葉は、褒め言葉の皮を被った評価表現だ。

 採点であり、免罪符であり、たまに罠であり。

 何より、そう言えば笑ってくれると勝手に思っている男たちの、安っぽい通貨のようだった。

「でもね」

 私は続けた。

「わたし、言われてちょっと喜んでる自分もいた。さっき、0.3秒くらい」

「……それ、正直でいいわね」

「でしょ。自分で引いた」

 二人は一瞬だけ笑った。ポプランも肩の力を抜いて笑った。

 でも私たちはすぐに顔を戻す。

 ここで笑いすぎると、自分たちの輪郭が甘くなる気がした。

「でもさ、可愛いって、相手がどう見てるかって話でしょ」

 ポプランが言った。

「自分が可愛いと思えるかは、また別じゃない?」

 私は少しだけ目を細めた。

「たとえば?」

 アンネローゼはきいてきた。

「うーん……朝、鏡見て今日わたしかわいい! って思う時って、たいてい顔じゃなくて、タイツの色とかネイルの光り方とか、そういうとこ」

「あー、ある」

 最近は畑仕事や家事でネイルはしてないけど。

「逆に、今日だめだって思うときは、気圧とか、肌の湿度とか、カバンの重さとか」

 可愛いは自分の中にもあるけど、外から来る可愛いとはだいたいずれている。

 しかも外の可愛いのほうが、世の中ではなぜか強い。

「結局、可愛いっていう言葉に慣れちゃって、何にも感じなくなるのが一番怖い」

 私はぽつりとそう言った。

「なんか、ラベル貼られて腐る前の食品みたいじゃん」

 アンネローゼは頷い訊いてきた。

「じゃあ、どうされたら嬉しい?」

 難しい質問だ。

「……今日も芋美味しいって言われたいかも」

「へえ。そっちなんだ」

「でも、ただの美味しいじゃなくて、リアルなやつ」

「ちょっと変わってるね」

「そうでもしないと、わたし可愛いに潰される気がするもん」

 ポプランは口を開いて、やっぱり何も言わなかった。

「で、ポプランさんはどう思いますか」

 だから振ってあげた。

「見た目か、しぐさか、声か、心か。人によって定義は違うでしょう? 俺はね、うっかり守ってしまう存在感が可愛いと思うんです」

「……うっかり?」

 アンネローゼが目を丸くする。

「そう、戦場でも日常でも、危なっかしくて、目が離せないタイプ。でも本人は気づいてない。あれ無敵です」

「私は……」

 アンネローゼはそっと言った。

「存在してるだけで静かに空気が変わる人かな。綺麗とか可愛いとかじゃなくて……なんか、周りが優しくなっちゃう人」

「へぇ……」

 私は両手を広げた。

「じゃあ、私は芋を焼ける女子が最強だと思います」

 自分の事じゃないよ。

「なるほど!?」 ポプランが真剣な顔で頷く。

「生き抜く力と家庭力を兼ね備えた女子! それは確かに――」

「塹壕でも生きられる女ですよ」

「惚れそうです」

 ……この人、冗談に対して本気で言ってる。

 軽そうで、たぶん、どこかで本気。

 軽い人間って、逆に芯を持ってるのかも。まさかね。

「でも、可愛いって戦略でもあるんですよ」

 私は言った。

「戦場で、政治で、庶民の中で。私は無害ですよって旗印にもなる」

「ふむ」

 ポプランは腕を組み、偉そうに頷く。

「じゃああなた、今可愛いを使ってる?」

「使ってません」

 私はニヤッとして芋を差し出した。

「芋は平和の象徴です。戦略ではありません」

 アンネローゼがくすっと笑った。

 ポプランはその芋を一口で頬張り、むせた。

  そうしてイゼルローンの廊下の片隅に、一瞬だけ戦火を忘れた平和の時間が流れた。

 私は手を差し出して言った。

「友情も芋も、冷めると困りますから」

 彼は手を握り返しながら笑った。

 

 

 

 

 イゼルローンの食堂で、ヤン・ウェンリーと並んで座っていた。

 スプーンで芋スープをすくいながら、彼は言った。

 最初はぼんやりと、でも途中から急に真剣な顔になって。

「ユリアさん、トリューニヒトには気をつけた方がいいよ」

「それは……政治的に?」

「いや、君が人間として傷つかないかが心配なんだ」

 冗談のように聞こえた。

 でもその瞬間、ヤンの手が伸びてきて私の手に触れた。

 指先だけの短い接触だった。

 けれど、その動作には迷いがなかった。

 えっ、なに? なんか今、触られてるよね?

 普段あんな眠たそうな顔してるくせに、こういう時だけ真剣なんだこの人。

 しかも、言葉より行動のほうが伝わるから困る。

 友情って……ずるいよね。

「私はヤン提督を信じてます。でも、彼が私に見せる顔と、あなたに見せる顔は、たぶん違う。友情って、気を使わなくていい人と話すことじゃありません?」

 私とヤンのように。

「それは……」

 ヤンは少しだけ眉を動かした。

「君に利用されてないのは、たぶん本当だと思う。ただ、あの男は自分が利用してることに気づいてないかもしれない」

「だったら、なおさらです」

 私は笑って、スープに口をつけた。

「彼に気づかせないように、友情だけ差し出しておきます。それ以上は、塩味が変わっちゃうから」

 塩ってさ、うっかり入れすぎると二度と戻せないんだよね。

 ヤンもそれ、わかってくれるはず。

 二人の間に、それ以上の言葉はなかった。

 でもヤンの視線が、私の手元に一瞬だけ戻ったのを私は知っていた。

 きっとあれは指先に残った感触を思い返していたのだ。

 

 

 

 

「それで、手を握られたの?」

「指先だけよ」

 私は笑った。芋をむきながら。

「でもね、あれ、本気だったと思う。心配してるふりじゃなくて、心配そのものだった」

 アンネローゼは黙って編み物を続けていた。

 カーディガンの袖口がちょっとだけ緩んでいて、たぶん糸のテンションが乱れたのだろう。

「ねえアンネローゼ」

「なあに?」

「男女の友情って、成立すると思う?」

「するんじゃない?」

 彼女は目を離さずに答えた。

「でもそれは、すると思いたい人にとってだけかもしれないわね」

 わかる、それ。

 でも私はしたい。絶対に。

 友情が崩れるの、もうたくさんだもん。

「私はね、成立させたいの。塩だけで味つけされた関係を。甘くも、辛くも、苦くもなく、しょっぱいけどちょうどいい友情を」

 アンネローゼが、糸を止めて私のほうを見た。

「それは……トリューニヒト氏にも? ヤン提督にも?」

「うん、両方とも」

 欲張りかもしれない。

「じゃあ、片方があなたを好きになってしまったら?」

「そのときは逃げる。全力で」

 私は苦笑した。

「だって塩に砂糖を混ぜるのって、勇気がいるじゃない。どっちつかずになるかもしれないし、台無しになるかも。友情って、そういう綱渡りをしないから好きなの」

 味の濃い愛情で火傷したくないから。

 だから今は、ぬるいけど優しいものを大事にしたい。

 アンネローゼはそれ以上何も言わなかった。でも笑っていた。

 私の芋を一つ、そっと奪って。

「友情の味って、薄味でも忘れられないわよね」

「うん。舌に残らなくても、心には残るの」

 

 

 

 

 

「ねえ、ヤン」

 私がそう切り出したのは、

 休憩室のソファに並んで座って、もう30分近く何も喋ってなかった頃だった。

「私に姉を重ねてない?」

「え?」

 ヤンはカップを傾ける手を止めた。

「その……ラインハルトが、アンネローゼさんに執着してるみたいに。私のこと、誰かの代わりに見てるんじゃないかって、ふと思って」

 自意識過剰かなって、ちょっと思う。

 でも、今のうちに聞いておかないと、後から気まずくなるのっていやなんだ。

「……してないよ」

 ヤンはしばらく黙ったあと、そう答えた。

 意外とはっきりと。

「君は君だよ。僕は、ただの友人として見てる。それだけ」

 私はふっと、息を吐いた。

 でもそのあと、ぽろっとこぼれてしまった。

「よかった。……でもね、ちょっと怖かったの」

「アンネローゼの弟が、私に……姉の代わりを重ねたときがあって。目が、すごく真剣だったから。でも、見てたのは私じゃなくて、過去だったのかもしれないって」

「――それは、辛かったね」

「ほんと、勘弁してほしいよ」

 私は笑った。強がりだった。

 ヤンは黙って私の手に触れた。

 そして指を絡めて、しっかりと握った。

 まただ。

 この人、触れるのが妙に自然なんだよ。

 なのに変な下心もない。だから逃げないで済む。

「君が、誰かの代用品になるような人間だったら、僕はこんなふうに……隣にいないよ」

「……ありがとう」

「むしろ、こんなに芋を愛せる人間、他にいないからね」

「……そこ褒めどころなの?」

「とても重要なポイントだ」

 笑いながら、手はまだ繋がれたままだった。

 その温度は、ぬるい紅茶みたいに優しくて、これは友情だと信じられるぬくもりだった。

 投影じゃないって言葉が、どうしてこんなに安心するんだろう。

 きっと、前に誰かに君は彼女に似てるって言われたとき、それが自分を消された瞬間だったんだと思う。

 私はもう代用品にはならない。

 今ここで、ちゃんと私として笑ってる。

「……ああ、ほんとよかった」

 私はぼそっと呟くように言って、そのままヤンの肩にそっと頭を預けた。

 拒まれなかった。

 むしろ自然な流れのように受け止められた。

 肩幅、ちょうどいい。

 変な匂いもないし、ぬくもりもあるし。

 あー……この人、ほんとにヤバいやつじゃなくてよかった。

「……寝てもいいよ」

「寝ないってば」

 私はそう言いながら、もう片目が半分落ちてた。

「いや、寝ていいよって言っただけで、寝るとは言ってないし、君の意思を尊重――」

「ヤン提督、黙って」

 すると彼の手がゆっくりと動いて、私の髪に触れた。

 撫でるというよりなぞるように。一本一本、確かめるように。

 うわ、やば。

 この撫で方、やばいやつじゃん。

 何この自然さ。

 姉とか妹にもやらないでしょ、普通こんなの。

「……イケメンかよ」

 私が言うと、ヤンはくすっと笑った。

「いや、僕はただの年金暮らし希望の軍人なんだけど」

「そういうところがイケメンなんだよ。自覚ない系のやつね」

 なんだろう、心が溶けてく音がする。

 芋を蒸したときの、あの柔らかい感じ。

 ……って、私、なんで芋で例えるんだ。

「でも……ほんと、安心したの」

「何を?」

「あなたがそういう目で見てこない人で」

 彼の手はもう一度優しく髪を撫でてから、静かに離れた。

「君が僕を信じてくれてよかったよ」

「うん」

 その日、イゼルローン要塞はいつも通り静かで、でも私の中には小さな波紋が確かに広がっていた。

 優しさってこんなに静かで、こんなに強いものだったんだ。

 イケメンって、顔じゃないんだね。

 芋を分け合える人。安心をくれる人。

 それが、私の中のイケメン定義です。

 

 

 

 ――――以下、某女史の視点――――

 

 

 廊下の角、壁際の観葉植物の陰。

 そこは、意図せず隠れるのにちょうどいい位置だった。

「……また一緒にいる」

 ユリア・フォン・エアハルトと、ヤン提督。

 まるで初夏の午後のように、穏やかに並んで歩いている。

 指先が一瞬、触れ合っていた。ような気がした。

 まただ。

 どうしてこんなに自然に並んでいられるの?

 どうして私は、あんなふうに笑えないの?

 ユリアのことは、最初から悪い印象ではなかった。

 むしろ優しい人だと思っていた。

 あの声も、所作も、どこか余裕がある。

 それが……いまは癇に障る。

「グリーンヒル大尉、何を見てる?」

 後ろから声をかけられ、息をのんだ。

 振り向くと、肉ダルマのような副参謀長のフョードル・パトリチェフ大佐が笑っていた。

「視察ですよ。避難民の動向確認」

「戦場より冷たい目してるけど、大丈夫か?」

「問題ありません」

 問題がないわけじゃないけど、問題だと認めたらもっと苦しくなる。

 ユリアが初めて私に微笑んでくれた瞬間を、思い出す。

 あの笑顔に、私は泣きそうになった。

 自分のちっぽけさが、暴かれた気がしたから。

「フレデリカさん、何か辛いことありましたか?」

 そう訊かれたとき、私はないですとしか言えなかった。

 でも本当はわからなかった。

 辛いのは、好きという気持ちなのか、届かないという実感なのか。

 ヤン提督。私はあなたを尊敬しています。

 敬愛もしています。

 でも、それ以上を望む資格が私にあるんでしょうか。

 ユリアと話すあなたは、とても自然で、優しい人です。

 私の知っている皮肉屋とは別人みたいに見えるときがある。

 戦友としての顔しか、私には見せてくれないの?

 それとも、見ようとしてないのは私?

 私は知らない。友情と恋の境界線を。

 そして、それが越えられるものなのかどうかも。

 いつかこの心が、誰かに見透かされる日がくるなら。

 私はどうなってしまうんだろう。

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