移民の手続きだけはハイネセンで行われる。
亡命者が、イゼルローン回廊からハイネセンまでの渡航許可は、簡単には降りない。変わりに何人かの政治家や役人が訪れた。
ヨブ・トリューニヒト氏も
最初に会ったとき、ただの政治家だと思った。
およそ戦場の匂いも、土の感触も知らない――
清潔な革靴と衣擦れの音だけが妙に響く男だった。
けれど彼は国家元首で、同盟最高評議会議長と言うとんでもない役職であった。そしてにこやかに言ったのだ。
「私の友人が焼き芋の香りにやられてしまってね。そちらから離れようとしないんだ」
あっけにとられた。どこまでも冗談の通じなさそうな風貌で、この人、なに言ってるんだろうと。
(いや、焼き芋って……何言ってんだこの人……)
でもちょっと笑ってしまった。
彼はそれを見逃さなかった。
「やっと笑った。あなたが笑えば、世論も十秒だけ優しくなるかもしれません」
胡散臭い。だが嫌じゃない。
それから話した。
星のこと、帝国のこと、民主主義のこと、そして味噌汁のこと。
芋の品種の話まで、なぜか弾んだ。
お互いに何かを得ようとしなかったから、かえって心が楽だった。
面談の終わり際、ふと彼は言った。
「久しぶりに裏表なく語り合えた気がします。エアハルトさん、私はあなたを友人と思いたい。ご迷惑でなければ──友情をください」
こういう時、帝国だったら膝を折って忠誠だのなんだの言ったんだろうな。
でも今は違う。
芋を分け合って、友達って言っていいんだ。
遠距離恋愛ならぬ、遠距離友情が始まった。
この人、ヨブ・トリューニヒト。
口はうまいけど、どうしようもなく、いいやつだった。
便宜を図ってくれたのは、ごく自然な流れだった。
公的には亡命者保護の一環。
実際には、彼の一言で書類の束がほどけ、許可証が即日発行され、滞在許可も無期限に変わった。
私の知らないところで誰かが動いていた。
でも、それがいやらしくなかった。
「ご迷惑をおかけしてませんか?」
そう尋ねると、トリューニヒトは少し首をかしげた。
「迷惑とは、取引が成立しなかった時に使う言葉です。あなたと私は取引をしていません。友情を交わしたのですから」
うーん、やっぱり口がうまい。
でも、なんだろう……こっちが疑ったら負けな気がするっていうか。
信じるのって、こういうとき勇気がいるんだな。
彼は、忙しない議会の合間にも、たまに私のところへ連絡を寄こした。
「今朝は味噌汁を自分で作ってみたんです。豆腐が崩れてしまって、なんとも情けない見た目でしたが……」
「でも美味しかったんでしょう?」
「ええ。塩梅がよかった」
私たちは笑った。
誰かが親切をするときって、下心があるのが普通。
でもこの人、なんというか……親切そのものが趣味なのかもしれない。
そういう人間、帝国じゃ絶滅してたけど同盟にはまだいるのかもな。
我、生涯の友を得たり。
「あなた、損な性格ですね」
私はある時、言った。
「親しい友には、無条件で優しくなるタイプでしょう。それってきっと、誤解されやすいし利用されやすい」
トリューニヒトは、黙って微笑んだ。
返事はなかった。でもその目はどこか寂しげだった。
きっと彼自身ももうわかっているのだろう。
どこまでが友情で、どこからが自己犠牲か。
だから、私は誓った。
私は彼を利用しない。
この友情は、塩だけで味つけしておく。
甘くも、辛くもしない。
帝国軍がイゼルローン回廊の同盟側勢力圏に度々、侵入してくるに至り、イゼルローン要塞内に近隣の住民や非戦闘員の疎開が始まった。
私やアンネローゼ、避難民も一緒だ。
イゼルローン要塞の空気は人工的に調整されている。
季節も天候も、外の危機もここでは再生されない。
ただひたすら、今ある生活を繰り返すだけの閉じた箱庭。
でもその中で私たちは確かに生きていると感じていた。
「エアハルトさん、また焼いてくれたの? 芋」
「今日は皮ごといける種類なの。よかったら、お子さんにも」
避難民の子供たちは、私が芋を焼く日を覚えてしまっていて、その時間になると勝手に寄ってきてしまう。
私はそれが少しだけ誇らしかった。
アンネローゼはというと、手先が器用なことを活かして子供用の小さな服を直したり、薄手の布で人形を作っていた。
「姉様、これ――!」
「持っていっていいわよ。お礼はその笑顔で十分だから」
アンネローゼは、無意識に人の心のお皿を満たしてくれる人だ。
私はまだその三分の一くらい。だからアンネローゼを素敵だと思うんだ。
広い要塞の中でも私たち非戦闘員の生活範囲は決まっていた。
ヤン艦隊の人たちも時折立ち寄る。
特にナンパ目的のポプラン氏は、余計なことを言って笑わせ、シェーンコップ氏がちょっとだけ無駄にかっこよく去っていく。
そんなある夜。
アンネローゼと二人、薄明かりのもとで同じ寝台で横になっていたとき、彼女がぽつりと呟いた。
「ねえ、ユリア。あなた、兄弟はいる?」
「いいえ、私は一人っ子よ。なぜ?」
「……ラインハルトは、きっと姉に執着してるの」
姉という存在にじゃなくて、姉属性に。
アンネローゼの言葉には、そんなニュアンスがあった。
「私はね、愛されてるんじゃなくて、必要とされてるんだと思うの。母親みたいに。それって愛と似てるけど全然違うのよ」
「……アンネローゼは家族だしね、異性への愛と同じだとヤバいでしょ」
アンネローゼは少し微笑んだ。
「でも気づいたところで、解けるものでもないのよ。依存は、絆と同じ顔をしてるから」
私には分からない苦労を、この人はしてきたんだ。
鎖のような優しさを、断ち切る覚悟を持っていたんだ。
だからこそ、彼女の隣にいたいと思った。
あれ。
ちょっと待って。
ふと思った。
「……つまりラインハルトは、シスコンこじらせて、アンネローゼの代わりに私に目をつけたってこと?」
思わず口にしてしまった私の言葉に、アンネローゼはほんの少し肩を震わせて苦笑した。
「気づいた?」
え。嘘でしょ。
「薄々……いや、今確信に変わった。マジかよ、あいつ……」
そうか。そうだったのか。
なんかずっと変な目で見られてた気はしたけど、あれ、私じゃなくて、姉に似た何かを見てたんだ……。
女を舐めてんな。心の底から。
「いやもう、許せねえ!」
私は起き上がった。たぶんこの要塞で一番キレています。
「女の心を、そういう風に見やがって。乙女の気持ちを、便利に代用すんじゃねえ!」
アンネローゼは私の手を握ってくれたが、怒りはおさまらない。
「でもね、ユリア」
「うん?」
「たぶん、あなたを代用品にしてしまうのは、
ラインハルトだけじゃないのよ」
「……それ、どういう?」
「人は皆、誰かを通して自分の過去を埋めようとすることがある。あの子は特に、それが強いの。あなたが似ていたからじゃない。似ているように見えただけ」
やっぱり許せねえわ。
似てるように見えたって、それ私のせいじゃないし。
思い出に私の顔を貼るな。
「でも」
私は静かに言った。
「私は私でいるから。誰かの妹じゃないし、代用品にもならない。焼き芋の味も、紅茶の香りも、私のものだから」
アンネローゼはそれに何も返さなかった。
でもその瞳は、少しだけうるんでいた。
「あなたが、あの子の隣にいなくて良かった。
私は、心からそう思うわ」
きっとアンネローゼの影と見比べられて不幸になるから。
私はアンネローゼの手を握り返した。
そう言ってくれるアンネローゼがいるから、私は私でいられる。
だから、もう代用品で悩むのはやめよう。
シスコンの事は忘れて、その分、芋を焼こう。
要塞の夜は静かだった。
でも、ここには確かに居場所があった。
ユリア・フォン・エアハルトとして。
どこの誰の姉でもない、私として。
「やあ、美しいお嬢さん。お会いできて嬉しいです。私に、神が与えた奇跡でしょうか」
声をかけてきたのは、お馴染み、イゼルローン要塞の紅茶より濃い男、シェーンコップ少将だった。
「……お疲れ様です、シェーンコップ少将」
私は首を傾げ、整った礼儀で返す。
「他の方に挨拶されては?」
「他の方が、あなたのような瞳をしていたら、もちろんそうするでしょうがあいにく、今日はあなた一択です」
来た来た。この人、空気より軽い挨拶するなあ。
でもイケメンだし、憎めないのが厄介なんだよね。
あ、そうだ。
「ひとつ、確認してもいいですか?」
私は手を組み静かに問いかけた。
「もちろん、なんでも。恋愛観でも血液型でも、何でも来いです」
「――私を姉として見てます?」
一瞬、シェーンコップが本気で驚いた顔をした。
「えっ」
「いえ、最近そういう扱いが多かったもので。私が誰かの姉に似てるって理由で、興味を持たれるのは少し……癪なんです」
言った、つい言っちゃった。
ナンパより先に、家族構成の話ってどうなの私。
恋愛初心者の地雷ムーブじゃん。
「……それは、まったくの誤解です」
と、シェーンコップは意外と真面目な顔で言った。
「私はあなたを姉だとも妹だとも思っていません。魅力的な女性として、興味があります」
「つまりナンパですね」
「はい、100%ナンパです」
何こいつ。潔すぎて逆に面白い。
「でも、興味があるというのは――一度お茶でも、という意味でして」
彼は指を立てた。
「その先は、あなたがどう返してくれるかで決まる。無理強いはしません。そもそも、私には勝ち目がない気もしてきましたが」
「よくわかってらっしゃる」
でも、この人のナンパって、傷つかないな。
それは多分、本当に断られる覚悟をしてる人の言葉だからだ。
軽くて、誠実。
めんどくさいけど、ちょっと好きかも。
「じゃあ……今日は丁重にお断りします。でも、ナンパは失礼だとは思っていません。ああいうのも、要塞の空気を和らげてくれてると思ってますから」
「それは光栄です。では、私はあなたのことを鋼鉄の花とでも呼ぶことにしましょう」
何そのネーミングセンス。ダサすぎてワロタ。
「……それは、ちょっと厨二病が過ぎます」
ふたりして笑った。
ここ最近、姉の代用品みたいな視線に疲れてたから、欲望どストレートな人が逆に信用できるという皮肉な現象が発生している。
「まっすぐ、己の欲望のままにナンパしてくるなんて逆に好感が持てます」
シェーンコップは口を開けたまま固まった。
「……まさかその返しは予想外でした」
「だって、善人の仮面をかぶった下心より、悪びれない正直な下心の方がずっと健康的ですもの」
変な媚びを売られるより、こっちの方が安心するんだよね。
自分を女神か何かと勘違いしてないところが逆に理性的。
「ただし」
私は言葉を区切って、椅子に腰掛け直した。
「肉体言語によるお付き合いをするつもりはありません。でも、お茶くらいならOKです」
「……お付き合いのハードルが、なかなか高度ですね」
「私の交際方針は、焼き芋と紅茶に匹敵する誠意を感じられるかが基準なので」
焼き芋を超える男、現れないかな……そしたら、ちょっと考えるのに。
シェーンコップはおどけた仕草で手を差し出した。
「では、今度、紅茶を焼き芋風味でお淹れしましょう」
「その時点で却下ですね」
ふたりで笑った。
それは決して恋ではなかった。
けれど戦場にあるべき礼儀正しい戯れのような、心地よい遊びだった。
要塞の片隅に、また小さな風穴が空いた気がした。
ナンパって、口説きじゃないんだ。
人を軽くしてくれるユーモアなんだな。
まあ……そういうのも、戦場では必要か。
イゼルローン要塞は、思っていたよりも狭かった。
いや、正確には顔を合わせる人間の範囲が狭いのだ。
逃げ込んだ避難民も、それぞれ割り当てられたブロックからほとんど動けず、その上、非戦闘員の自分が立ち入りできる場所なんて限られている。
だから、どうしたって──会うのだ。ヤンと。
「また会いましたね」
私の言葉にヤンは返してくる。
「まさか、ストーカーじゃないですよね?」
なんでやねん。金髪の小僧でもあるまいし。
その言葉は飲み込むだ。
「あなたがそうなら、私は先回りするストーカーですね」
と私が返せば、ヤンはうなだれるように笑った。
こっちが避けてるわけでもないけど、そんなにしょっちゅう会うもの?
むしろ、なぜ会ってしまうの?
あの人の重力圏、ちょっとおかしくない?
要塞というから全区域が軍事関連施設と言えるけど、数ある中でも私たちの利用するトイレの前。食堂の列。書庫の端の休憩室。
なぜかそこに、彼がいる。
そして、なぜかこっちを見ている。
手を振るでもなく、声をかけるでもなく、ただ気にしている。
「活動範囲が似てるんでしょうか」
とある日私が聞くと、ヤンはカップを傾けながら答えた。
「いや、同じ速度で生きてる人間は、自然とぶつかるんです」
「それ、物理じゃなくて文学ですね」
「私は文学専攻ですから」
嘘だ。
絶対理科系の頭してるくせに、
こういうときだけ詩人ぶるんだから。
でも、不思議と腹が立たなかった。
むしろ、そういう言い訳があると、
会ってしまう理由に名前をつけられる気がして安心した。
けれど私は、繰り返される偶然の中で、少しずつ親しさが積み上がっていくのを感じていた。
まるで、同じ速さで歩くことだけが友情の証明みたいに。
「よう、そこの綺麗なお姉さん方。イゼルローンに咲いた奇跡かと思いましたよ」
振り返ると、そこにはオリビエ・ポプラン。
爽やかさと軽薄さを、全身から香水のように振りまく男だった。
私の隣には目をぱちくりさせるアンネローゼ。
「こんにちは、ポプランさん」
私は笑った。
この人、風みたいだなあ……。
どこにでも吹いてくるけど、意外と害はない。
たぶんだけど、芋より軽い。
「お、ユリアさん、今日も可愛いっすね。うわー、二人ともマジ天使じゃん」
「ねえ、こういうの、何だと思う?」
私は隣のアンネローゼに訊く。ポプランはきょとんとしている。
「なにが?」とアンネローゼも小首を傾げる。
「可愛いねって言われること」
私は髪を指で梳きながら、ちらりとポプランを見た。
アンネローゼは私の意を汲んで唇の端を上げた。
「それは、言った時点で自分のほうが上って確認したいだけじゃない?」
アンネローゼの言葉に、ぎょっとするポプラン。
私はふっと短く鼻で笑った。
「わたしも、そう思ってた」
可愛いという言葉は、褒め言葉の皮を被った評価表現だ。
採点であり、免罪符であり、たまに罠であり。
何より、そう言えば笑ってくれると勝手に思っている男たちの、安っぽい通貨のようだった。
「でもね」
私は続けた。
「わたし、言われてちょっと喜んでる自分もいた。さっき、0.3秒くらい」
「……それ、正直でいいわね」
「でしょ。自分で引いた」
二人は一瞬だけ笑った。ポプランも肩の力を抜いて笑った。
でも私たちはすぐに顔を戻す。
ここで笑いすぎると、自分たちの輪郭が甘くなる気がした。
「でもさ、可愛いって、相手がどう見てるかって話でしょ」
ポプランが言った。
「自分が可愛いと思えるかは、また別じゃない?」
私は少しだけ目を細めた。
「たとえば?」
アンネローゼはきいてきた。
「うーん……朝、鏡見て今日わたしかわいい! って思う時って、たいてい顔じゃなくて、タイツの色とかネイルの光り方とか、そういうとこ」
「あー、ある」
最近は畑仕事や家事でネイルはしてないけど。
「逆に、今日だめだって思うときは、気圧とか、肌の湿度とか、カバンの重さとか」
可愛いは自分の中にもあるけど、外から来る可愛いとはだいたいずれている。
しかも外の可愛いのほうが、世の中ではなぜか強い。
「結局、可愛いっていう言葉に慣れちゃって、何にも感じなくなるのが一番怖い」
私はぽつりとそう言った。
「なんか、ラベル貼られて腐る前の食品みたいじゃん」
アンネローゼは頷い訊いてきた。
「じゃあ、どうされたら嬉しい?」
難しい質問だ。
「……今日も芋美味しいって言われたいかも」
「へえ。そっちなんだ」
「でも、ただの美味しいじゃなくて、リアルなやつ」
「ちょっと変わってるね」
「そうでもしないと、わたし可愛いに潰される気がするもん」
ポプランは口を開いて、やっぱり何も言わなかった。
「で、ポプランさんはどう思いますか」
だから振ってあげた。
「見た目か、しぐさか、声か、心か。人によって定義は違うでしょう? 俺はね、うっかり守ってしまう存在感が可愛いと思うんです」
「……うっかり?」
アンネローゼが目を丸くする。
「そう、戦場でも日常でも、危なっかしくて、目が離せないタイプ。でも本人は気づいてない。あれ無敵です」
「私は……」
アンネローゼはそっと言った。
「存在してるだけで静かに空気が変わる人かな。綺麗とか可愛いとかじゃなくて……なんか、周りが優しくなっちゃう人」
「へぇ……」
私は両手を広げた。
「じゃあ、私は芋を焼ける女子が最強だと思います」
自分の事じゃないよ。
「なるほど!?」 ポプランが真剣な顔で頷く。
「生き抜く力と家庭力を兼ね備えた女子! それは確かに――」
「塹壕でも生きられる女ですよ」
「惚れそうです」
……この人、冗談に対して本気で言ってる。
軽そうで、たぶん、どこかで本気。
軽い人間って、逆に芯を持ってるのかも。まさかね。
「でも、可愛いって戦略でもあるんですよ」
私は言った。
「戦場で、政治で、庶民の中で。私は無害ですよって旗印にもなる」
「ふむ」
ポプランは腕を組み、偉そうに頷く。
「じゃああなた、今可愛いを使ってる?」
「使ってません」
私はニヤッとして芋を差し出した。
「芋は平和の象徴です。戦略ではありません」
アンネローゼがくすっと笑った。
ポプランはその芋を一口で頬張り、むせた。
そうしてイゼルローンの廊下の片隅に、一瞬だけ戦火を忘れた平和の時間が流れた。
私は手を差し出して言った。
「友情も芋も、冷めると困りますから」
彼は手を握り返しながら笑った。
イゼルローンの食堂で、ヤン・ウェンリーと並んで座っていた。
スプーンで芋スープをすくいながら、彼は言った。
最初はぼんやりと、でも途中から急に真剣な顔になって。
「ユリアさん、トリューニヒトには気をつけた方がいいよ」
「それは……政治的に?」
「いや、君が人間として傷つかないかが心配なんだ」
冗談のように聞こえた。
でもその瞬間、ヤンの手が伸びてきて私の手に触れた。
指先だけの短い接触だった。
けれど、その動作には迷いがなかった。
えっ、なに? なんか今、触られてるよね?
普段あんな眠たそうな顔してるくせに、こういう時だけ真剣なんだこの人。
しかも、言葉より行動のほうが伝わるから困る。
友情って……ずるいよね。
「私はヤン提督を信じてます。でも、彼が私に見せる顔と、あなたに見せる顔は、たぶん違う。友情って、気を使わなくていい人と話すことじゃありません?」
私とヤンのように。
「それは……」
ヤンは少しだけ眉を動かした。
「君に利用されてないのは、たぶん本当だと思う。ただ、あの男は自分が利用してることに気づいてないかもしれない」
「だったら、なおさらです」
私は笑って、スープに口をつけた。
「彼に気づかせないように、友情だけ差し出しておきます。それ以上は、塩味が変わっちゃうから」
塩ってさ、うっかり入れすぎると二度と戻せないんだよね。
ヤンもそれ、わかってくれるはず。
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
でもヤンの視線が、私の手元に一瞬だけ戻ったのを私は知っていた。
きっとあれは指先に残った感触を思い返していたのだ。
「それで、手を握られたの?」
「指先だけよ」
私は笑った。芋をむきながら。
「でもね、あれ、本気だったと思う。心配してるふりじゃなくて、心配そのものだった」
アンネローゼは黙って編み物を続けていた。
カーディガンの袖口がちょっとだけ緩んでいて、たぶん糸のテンションが乱れたのだろう。
「ねえアンネローゼ」
「なあに?」
「男女の友情って、成立すると思う?」
「するんじゃない?」
彼女は目を離さずに答えた。
「でもそれは、すると思いたい人にとってだけかもしれないわね」
わかる、それ。
でも私はしたい。絶対に。
友情が崩れるの、もうたくさんだもん。
「私はね、成立させたいの。塩だけで味つけされた関係を。甘くも、辛くも、苦くもなく、しょっぱいけどちょうどいい友情を」
アンネローゼが、糸を止めて私のほうを見た。
「それは……トリューニヒト氏にも? ヤン提督にも?」
「うん、両方とも」
欲張りかもしれない。
「じゃあ、片方があなたを好きになってしまったら?」
「そのときは逃げる。全力で」
私は苦笑した。
「だって塩に砂糖を混ぜるのって、勇気がいるじゃない。どっちつかずになるかもしれないし、台無しになるかも。友情って、そういう綱渡りをしないから好きなの」
味の濃い愛情で火傷したくないから。
だから今は、ぬるいけど優しいものを大事にしたい。
アンネローゼはそれ以上何も言わなかった。でも笑っていた。
私の芋を一つ、そっと奪って。
「友情の味って、薄味でも忘れられないわよね」
「うん。舌に残らなくても、心には残るの」
「ねえ、ヤン」
私がそう切り出したのは、
休憩室のソファに並んで座って、もう30分近く何も喋ってなかった頃だった。
「私に姉を重ねてない?」
「え?」
ヤンはカップを傾ける手を止めた。
「その……ラインハルトが、アンネローゼさんに執着してるみたいに。私のこと、誰かの代わりに見てるんじゃないかって、ふと思って」
自意識過剰かなって、ちょっと思う。
でも、今のうちに聞いておかないと、後から気まずくなるのっていやなんだ。
「……してないよ」
ヤンはしばらく黙ったあと、そう答えた。
意外とはっきりと。
「君は君だよ。僕は、ただの友人として見てる。それだけ」
私はふっと、息を吐いた。
でもそのあと、ぽろっとこぼれてしまった。
「よかった。……でもね、ちょっと怖かったの」
「アンネローゼの弟が、私に……姉の代わりを重ねたときがあって。目が、すごく真剣だったから。でも、見てたのは私じゃなくて、過去だったのかもしれないって」
「――それは、辛かったね」
「ほんと、勘弁してほしいよ」
私は笑った。強がりだった。
ヤンは黙って私の手に触れた。
そして指を絡めて、しっかりと握った。
まただ。
この人、触れるのが妙に自然なんだよ。
なのに変な下心もない。だから逃げないで済む。
「君が、誰かの代用品になるような人間だったら、僕はこんなふうに……隣にいないよ」
「……ありがとう」
「むしろ、こんなに芋を愛せる人間、他にいないからね」
「……そこ褒めどころなの?」
「とても重要なポイントだ」
笑いながら、手はまだ繋がれたままだった。
その温度は、ぬるい紅茶みたいに優しくて、これは友情だと信じられるぬくもりだった。
投影じゃないって言葉が、どうしてこんなに安心するんだろう。
きっと、前に誰かに君は彼女に似てるって言われたとき、それが自分を消された瞬間だったんだと思う。
私はもう代用品にはならない。
今ここで、ちゃんと私として笑ってる。
「……ああ、ほんとよかった」
私はぼそっと呟くように言って、そのままヤンの肩にそっと頭を預けた。
拒まれなかった。
むしろ自然な流れのように受け止められた。
肩幅、ちょうどいい。
変な匂いもないし、ぬくもりもあるし。
あー……この人、ほんとにヤバいやつじゃなくてよかった。
「……寝てもいいよ」
「寝ないってば」
私はそう言いながら、もう片目が半分落ちてた。
「いや、寝ていいよって言っただけで、寝るとは言ってないし、君の意思を尊重――」
「ヤン提督、黙って」
すると彼の手がゆっくりと動いて、私の髪に触れた。
撫でるというよりなぞるように。一本一本、確かめるように。
うわ、やば。
この撫で方、やばいやつじゃん。
何この自然さ。
姉とか妹にもやらないでしょ、普通こんなの。
「……イケメンかよ」
私が言うと、ヤンはくすっと笑った。
「いや、僕はただの年金暮らし希望の軍人なんだけど」
「そういうところがイケメンなんだよ。自覚ない系のやつね」
なんだろう、心が溶けてく音がする。
芋を蒸したときの、あの柔らかい感じ。
……って、私、なんで芋で例えるんだ。
「でも……ほんと、安心したの」
「何を?」
「あなたがそういう目で見てこない人で」
彼の手はもう一度優しく髪を撫でてから、静かに離れた。
「君が僕を信じてくれてよかったよ」
「うん」
その日、イゼルローン要塞はいつも通り静かで、でも私の中には小さな波紋が確かに広がっていた。
優しさってこんなに静かで、こんなに強いものだったんだ。
イケメンって、顔じゃないんだね。
芋を分け合える人。安心をくれる人。
それが、私の中のイケメン定義です。
――――以下、某女史の視点――――
廊下の角、壁際の観葉植物の陰。
そこは、意図せず隠れるのにちょうどいい位置だった。
「……また一緒にいる」
ユリア・フォン・エアハルトと、ヤン提督。
まるで初夏の午後のように、穏やかに並んで歩いている。
指先が一瞬、触れ合っていた。ような気がした。
まただ。
どうしてこんなに自然に並んでいられるの?
どうして私は、あんなふうに笑えないの?
ユリアのことは、最初から悪い印象ではなかった。
むしろ優しい人だと思っていた。
あの声も、所作も、どこか余裕がある。
それが……いまは癇に障る。
「グリーンヒル大尉、何を見てる?」
後ろから声をかけられ、息をのんだ。
振り向くと、肉ダルマのような副参謀長のフョードル・パトリチェフ大佐が笑っていた。
「視察ですよ。避難民の動向確認」
「戦場より冷たい目してるけど、大丈夫か?」
「問題ありません」
問題がないわけじゃないけど、問題だと認めたらもっと苦しくなる。
ユリアが初めて私に微笑んでくれた瞬間を、思い出す。
あの笑顔に、私は泣きそうになった。
自分のちっぽけさが、暴かれた気がしたから。
「フレデリカさん、何か辛いことありましたか?」
そう訊かれたとき、私はないですとしか言えなかった。
でも本当はわからなかった。
辛いのは、好きという気持ちなのか、届かないという実感なのか。
ヤン提督。私はあなたを尊敬しています。
敬愛もしています。
でも、それ以上を望む資格が私にあるんでしょうか。
ユリアと話すあなたは、とても自然で、優しい人です。
私の知っている皮肉屋とは別人みたいに見えるときがある。
戦友としての顔しか、私には見せてくれないの?
それとも、見ようとしてないのは私?
私は知らない。友情と恋の境界線を。
そして、それが越えられるものなのかどうかも。
いつかこの心が、誰かに見透かされる日がくるなら。
私はどうなってしまうんだろう。