はぁ、と呼気が白く流れる。冬の日は早くも落ちていく。家々をいっそう黒く染め、間近に迫った影も闇を切り取ったように見せていた。
――そうだ
これは闇だ。見ないふりをしてきた、ないのだと思い込もうとした、リラの中にうずくまる闇。
「その態度はないんじゃないか」
ざらついた声が言う。リラは硬直した。どこかもわからない路地の奥。突き当たりで逃げ場はない。
――ああ
姿くらましすればよかったのだ、と今更思い付く。だけれど、まともにものを考えられるのは、それこそ
「パパはお前に会いたかったんだぞ」
予想通りの言葉に酸っぱいものが込み上げる。目の前の男は薄汚れていた。昔はこうではなかった、と思う。輝くような金の髪。眼の色は。
「なあリラ」
男が囁く。捨てた娘と同じ
「……どなたでしょう」
声が震えないことを祈った。脇腹が軋む。冬の社交に出て、気疲れしたから帰りにダイアゴン横丁で少しゆっくりしようと思った。そしたら男を見かけた。いいや、視線を感じてそちらを見た、というのが正しいのか。草食獣が肉食獣の気配を感じ取るように。リラは追われる者で獲物、男は追う者で捕食者だった。
――幼かった
男が出ていった時、リラは十にもなっていなかった。一桁台の年の頃だ。顔なんて覚えていないはずだった。なのになぜ、振り向いて、大通りの人波のなか、リラを見る男がわかったのか。わからないほうがよかった。それはリラが男の記憶を、記憶の欠片であろうとも持っているということだ。わからないでいたかった。知らぬふりをしたかった。けれど、男を――だと認識できなければ、すぐさま走り出すことなんてできなかっただろう。そんな、まさかと混乱しつつ、足が勝手に動いた。そして足音が追いかけてきた。過去の、亡霊の靴音だった。
魔女だというのに姿くらましすら思いつけず、ひたすらに逃げて逃げて逃げ、いつの間にか夜の闇横丁――のどこかに追い込まれている……。
「私の父は、」
あなたのような物乞いではありませんが。賢い選択ではなかった。杖を引き抜く余裕もなく、肩を掴まれ、薄汚い壁に押し付けられているというのに男を挑発してなんになる?
ぴかり、と男の――忌々しいほどリラとそっくりな色の眼が光ったとき、リラは仄暗い満足を覚えた。ふ、と笑いかけたがしかし、頬に熱い衝撃がはしる。
「売女の娘め」
父親の顔を忘れたか。
己を父と言いながら、ためらいなく娘の顔を殴った男が吼える。薄汚れていようと、年をとっていようと、男の面が整っているのは明らかだった。そしてリラと似ているのも明らかだった。認めたくないほどに。金の髪、ライラックの眼だけでなく、リラは多くのものを男から――レストレンジの男から受け継いでいた。そして男の容貌が端正な分、怒り狂う様は無惨だった。
夜の闇横丁は、気味が悪いほどに静かだ。どうでもよい騒ぎを見に出てくるほど、夜の住人は暇ではないのだろう。
「あの人が売女なら」
あんたは■■なしよ!
リラは言い返す。血を分けた実の親など、リラは嫌いだ。レストレンジの男に惚れ込んで、子どもさえ産めばと思って、捨てられて、リラに八つ当たりして、勝手に死んだ。母はリアイスの魔女だった。売女ではなかった。愚かなだけだった。悲しいくらいに馬鹿だった……。
そして、レストレンジの男は愚かではなく残酷だった。首尾よくリアイスの女をたぶらかし、惚れ込ませ、子どもを産ませ……何年か家族ごっこをして、リアイスの女――母を捨てた。期待したほど「売女」がガリオンを、グリンゴッツの鍵を持っていなかったから。子どもがいれば、既成事実さえつくれば、リアイスも態度を軟化させるだろう……そんな目論見が外れたこと。どうやら女に寄生してしゃぶりつくしたところで旨味はないと見切り、女を捨てた。挙げ句に売女呼ばわりとは笑わせてくれる。愚かなリアイスと情のないレストレンジの血肉から生み出されたのがリラだった。
罵言に、男が眼を見開く。乏しい灯りの中で青みを帯びた。うぅ、と唸り、歯を食いしばる。
「お高く止まっているな」
男の声は平らかだった。即座に怒りを抑え込み、切り替えられるのはさすがスリザリンといったところか。滑らかに、男の舌が動く。
「なあリラ……リラ・シャックルボルト」
大臣のご息女、と男は笑う。リラは男を睨んだ。なぜ男がリラの前に現れたかわかってしまった。
「お前は幸せに、守られてきたんだろう?」
パパなんてこんなざまだ。お前がぬくぬくとしている間に追い出され、彷徨って。
はぁ、と耳に息がかかる。男の腐った吐息。汗と、脂じみた臭い。仮にも純血レストレンジ家に連なる男の、転落ぶりが文字通り身に染みる。触れ合うほどに近く、服越しに退廃の気配が伝ってくる。
「そのしあわせを」
わけてくれてもいいだろう?
「父娘なんだから」
声が粘り気を帯びる。媚びているのだこの男は。売女と呼んで罵った女の、その娘に。そう思うと、すっとなにかが冷めた。恐怖が薄らいでいく。状況は最悪だ。杖は巾着の中。ドレスからさっと着替えたから動きやすい服だけれど、男と近すぎて腕も伸ばせない。頬はきっと腫れている。そしてリラは屈強な戦士ではない。男と戦えば負ける。護衛もいない。なぜならば――。
「もう息女じゃないの」
見知らぬ人。
囁く。リラに血と肉を分けただけの人に。
「今の大臣は」
ハーマイオニー・グレンジャー=ウィーズリーよ。
どこを彷徨っていたの? 英国から出されて、大陸にでも? なんにも余裕がなかったのね。交代したのは去年のことなのに。
つらつらと言う。リラの肩を掴む手が、わなわなと震え始めた。もはや抑制が利かないのだろう。
娘がキングズリー・シャックルボルトの養女になった。少し脅せば甘い汁が吸えると思った。困窮して、食い詰めて、矜持を捨てて娘にすがりにきたのに、と。
「お前の、」
弟や妹がどうなってもいいのか。かわいそうに、お前にみたいないい服も着られない。お前とは違って。なあどうやってお優しいシャックルボルトに取り入った? それともあいつは幼女趣味なのか? お前は俺のものなのに?
ひぃひぃと笑いながら男が言う。リラは眼を細めた。腕は使えない。足も無理だ。そもそも、蹴ったところでたいした威力は望めないだろう。使えるものは限られる。
ぐっと頭を反らし「娘」にすがろうとする男、懲りもせずどこかの女をたぶらかし、胤だけをばら撒いた下衆の頭にぶつけた。
鈍い音とともに眼から火花が散った。呻き、痛みに歯を食いしばる。手で頭を押さえる代わりに、目の前にいるであろう男を突き飛ばす。
よろめくように前へ出て、つまずいて転ぶ。膝に痛みがはしる。じんわりと涙が滲んだ。
――この男は
父の苦労を知らない。最初は臨時で引き受けたはずの大臣の座に、長く長く座ることになった父。キングズリー・シャックルボルト。戦の後の混乱をおさめ、魔法界を立て直した。どれほどの重責か、この男にはわからないだろう。甘い汁だけをすすれるものではないのだ。
「この――」
立ち上がろうとしたが遅かった。そして男が立ち直るのは早かった。乱暴に髪を掴まれる。引っ張られ、ぷつんと髪が――金のそれが引き抜かれ。
ふっと痛みがなくなった。
リラ、と呼ばれる。低い――男になりかけの、少年の声だ。
「セリィ」
ふ、とその愛称が口からついて出る。セイリオス・リアイス――正式にはブラック=リアイスは、一つ頷いた。さっと上着を脱ぐ。仕立てのよい、よそ行きのそれをリラに羽織らせる。手を引いて立たせてくれた。在学期間が重なったのはたったの一年。弟がいたらこんな感じだろうな、という印象が強かったのだが。
――いつの間に
こんなにきちんとした子になった?
突如現れた救援にぼうっとする。背が伸びたのは知っている。それなりに顔も合わせている。だけれど、今日のセイリオスは別人のようだ。
「なんで? セリィ、君はいくつだっけ」
子どもがこんなところにいたら駄目、と口走る。セイリオスは灰色の眼でリラを睨んだ。
「付き添いもなしに「こんなところ」にいるのは誰だ? そして十四歳の微妙な年頃の俺がここにいるのはスラグホーンの若先生のせいだから」
若先生。サフィヤ・スラグホーンのことだ。ホラス・スラグホーンの養子。作家ルーナ・ラブグッドの夫。冬の社交に出ていた。貴族で仕立て屋さんで、ホグワーツの臨時教師。変な男に絡まれたらさらっと助けてくれる素敵な父親世代である。その若先生がどうしたというのか?
「なんとなく嫌な予感がするから、念のため追いかけろって」
「だからって」
若先生は妙に勘がいいときがある。それは認める。正直助かった。でも、だ。
「一人で」
行かせるなんて、と言おうとする。セイリオスは肩をすくめ、顎をしゃくる。
「若先生の判断に間違いはなかったよ」
セイリオスの視線をたどる。路地の奥に蒼が――燐が見えた。倒れ伏すなにかをすっぽりと包む、炎の繭だ。
傍らにいるのは魔女だ。夜色の衣をまとい、赤みがかった金の髪は燐を受けてほのかに輝いている。芸術家が丹念に、繊細につくりあげたような面は片頬のあたりだけ、うっすらと白い模様がはしっている。葉脈のようにも、誰かの手のようにも見えた。しかし、燐の蒼に染められた空間において、その白い刻印――傷痕は、雪の華、その綾を思い起こさせた。
「レディ・スクリムジョール」
呟けば、彼女はほんの少し口端を上げる。冷え冷えとした燐の眼を、拘束した獲物にちらと向け――視線で人を殺せそうなほどだ――さっと杖を振った。淡い光が降り注ぎ、リラの頭と頬の痛みがとけていく。
「命に別状がなくてよかった」
レディ・シャックルボルト。
落ち着いた声にどっと安堵が押し寄せる。
何事が起こってもおさめてくれるだろうという安心感はなにものにも代え難い。
セーミャ・スクリムジョール。二代前の大臣、ルーファス・スクリムジョールの息女。リラと同じ「元息女」。ホグワーツでの戦で活躍し、闇の陣営には蒼炎の魔女とおそれられる。
「セイリオス、おしゃべりしている暇があるならリラの治療を先になさい」
グリフィンドール十点減点、と彼女は言う。
「不出来な生徒で申し訳ありません。先生」
セイリオスがため息を吐く。レディ・スクリムジョールは鼻を鳴らした。
「令嬢を助けに飛び込んだのをかんがみて、グリフィンドールに二十五点」
「冬休みの課題を減らしてもらえるほうが嬉しいですね」
今、なんとなく不穏な感じでゴタゴタしているものでリアイスは。セイリオスはさらりと返す。
「防衛術は得意科目でしょう」
どうやら、レディ・スクリムジョールこと闇の魔術に対する防衛術教授は甘くないらしい。リラのときもそうだった。変な贔屓はしなかった、と思い出す。臨時のはずがずるずると続けてしまってこのありさま、と言っていたことがある。なんだかその言い方が父に似ていて親近感を持ったものだ。
「あなたのところのゴタゴタより」
今はリラの「ゴタゴタ」をどうにかしないとね。レディ・スクリムジョールは言って繭の中のそれをもう一度睨んだ。
「大臣息女にすりよる愚民は昔からいたけど」
これはその中でも性質が悪い。きっぱり言い、彼女は杖を振った。銀色の獅子が飛び出して、夜空に向かって駆け上がる。
ちらちらと銀をこぼし、星屑を降らせながら。
ほどなくして青ざめた父が駆けつけてきて、リラをぐっと抱きしめた。やはり元息女になったとはいえ、護衛くらいつけるべきだったと言って。
私のことをいくつだと思ってるの離してと言っても聞きやしない。
そうしてレディ・スクリムジョールは言った。笑みと、ほんの少し苦いものをにじませながら。
「好きにさせてあげなさい」
父親ってそういうものよ。
セーミャ・アレティ・スクリムジョール
蒼炎の魔女。レディ・スクリムジョール。
第■■第魔法大臣ルーファス・スクリムジョールの息女。闇祓いの娘。闇の魔術に対する防衛術教授。
チャーリー・ウィーズリーの妻。