聖女は静かに暮らしたい~星詠みの力でうっかり救世主に祭り上げられ、スローライフが遠のくんですが!?~ 作:ゴールド免許の2
ミリシアとアルテイシアが去った後の儀式練習用の広間には、なんとも言えない疲労感と、微かに残る甘いお菓子の残り香、そして神官長エグバードの重いため息が満ちていた。
「……騎士クワット、貴殿はどう思われるかな。あの、我が聖女ミリシア様の……その、奔放さについて」
エグバードは、まるで助けを求めるかのように、壁際で不動の姿勢を保っていたクワットに問いかけた。その声には、威厳よりもむしろ、どうしようもない困惑が色濃く滲んでいる。
「フフ……神官長。彼女はまだ八歳の子供。そして、我々の常識の範疇を遥かに超えた可能性の塊だ。既存の型にはめようとすること自体が、あるいは無意味なのかもしれんな」
「可能性、か……。確かに、先ほどのあの現象! 歌一つで燭台に火を灯し、ただの木の杖に聖なる光を宿らせるとは……! あれこそ真の聖女の奇跡! しかし、だからこそ……!」
エグバードは頭を抱える。
「だからこそ、もっと聖女としての自覚と威厳を持っていただきたいのだが……!」
その言葉は、広間の高い天井に虚しく吸い込まれていった。
「お披露目の儀まで、あと数日しかない。このままでは、諸外国からの賓客たちの前で、我が神殿、いや、グルテン王国の名誉が……」
「心配はご無用だろう、神官長。彼女はいつだって、我々の予想の斜め上を行く。それが吉と出るか凶と出るかは……フフ、それこそ星のみぞ知る、といったところだろうか」
「……騎士殿は、楽観的ですな」
「……期待、とでも言っておこうか。彼女の本番での強さというものにね」
クワットはそう言うと、片方の口角を微かに上げた。その表情が何を意味するのか、エグバードには到底理解できなかったが、少なくともこの若い騎士が、あの小さな聖女に何かを感じていることだけは確かだった。事案か?
結局、その日の聖女様お披露目の儀対策会は、ミリシア様の明日のご機嫌をどう取るか、という極めて現実的な議題に着地し、お開きとなったのだった。
一方、ミリシアの自室では、そんな大人たちの苦労などどこ吹く風、至福のおやつタイムが繰り広げられていた。
アルテイシアが腕によりをかけて用意したのは、約束の特製星蜜プリン。金色に輝く星蜜がたっぷりとかかり、頂上にはミリシアの好きな星形のカラメルビスケットがちょこんと乗っている。
「わぁ……! ぷりん、きらきらです! おほしさまみたいです!」
ミリシアは目を輝かせ、小さなスプーンでプリンをそっとすくう。ぷるんとした感触、口の中に広がる優しい甘さと、星蜜の芳醇な香り。それはまさに、天上の味わいだった。
「おいしい……おいしいです、アルテイシア! ほっぺたがおっこちそうです!」
「ふふ、お気に召して何よりです、ミリシア様。今日の練習、少し大変でございましたからね。たくさん召し上がって、また明日から頑張りましょう?」
「……あしたも、ぷりんですか?」
「それはミリシア様のがんばり次第、でございましょうか?」
アルテイシアが悪戯っぽく微笑むと、ミリシアは「むぅ……」と頬を膨らませたが、目の前のプリンの誘惑には勝てない。
「……もっとおいしいおやつなら……ちょっとだけなら、がんばってもいいです……」
その言葉に、アルテイシアは心の中で小さくガッツポーズをした。ミリシア様のモチベーションは、やはり食欲と睡眠欲に直結しているのだ。
プリンを綺麗に平らげ、温かいミルクで喉を潤したミリシアは、やがて満足そうなため息と共に、ふかふかのソファの上でうとうとし始めた。アルテイシアはうとうとしているミリシアを歯を磨き終えると、優しくミリシアを抱き上げ、寝室の天蓋付きベッドへと運ぶ。
「さあ、ミリシア様。ゆっくりおやすみなさいませ」
アルテイシアが、神殿に古くから伝わる子守唄を静かに口ずさむと、ミリシアはあっという間にすやすやと安らかな寝息を立て始めた。その寝顔は、全ての心配事を忘れさせるほどに愛らしく、清らかだった。
ミリシアが完全に寝入ったのを確認すると、アルテイシアはそっと部屋を辞し、自室へと戻った。そして、机の引き出しの奥から、鍵のかかった小さな箱を取り出す。中には、羽ペンとインク壺、そして一冊の厚手の革表紙の日記帳が収められていた。
『聖女ミリシア様観察日記』と、アルテイシアが密かに名付けたその日記帳に、彼女は今日の出来事を丁寧に書き綴っていく。ミリシア様の可愛らしい寝言、練習中の小さな奇跡、神官長様の苦悩、クワットの事案めいた微笑み……。
そして、最後にはいつもこう書き添えるのだ。
「ミリシア様が、いつまでも笑顔で、美味しいものを食べて、ぐっすり眠れますように。そして……どうか、弟のリュシアンにも、この幸せが少しでも届きますように」
ペンを置いたアルテイシアは、窓の外に広がる夜空を見上げた。星々が、ミリシア様を見守るように静かに輝いている。
その夜、ミリシアは夢を見ていた。
どこまでも広がる、深い深い宇宙の中。無数の星々が、まるで宝石を散りばめたようにきらめき、それぞれが異なる音色で歌っているような、不思議な感覚。それは、彼女が時折見る夢見の星図だった。
星々はミリシアに向かって何かを囁きかけているようだったが、その言葉は幼い彼女にはまだ理解できない。ただ、暖かく、優しく、そしてどこか懐かしい響きだけが、心地よく彼女を包み込む。
「……きらきら……たくさん……おほしさまが、うたってる……?」
明け方近く、ミリシアは寝ぼけ眼で、そんな言葉を無意識に呟いた。それは古代言語――アストラル言語の持つ、不思議な響きを帯びた断片だった。
その瞬間、誰も知らない神殿の地下深く。そこに安置された、古代アストラル文明の遺物とされる巨大な黒曜石の石碑が、ミリシアの呟きに呼応するかのように、ほんの一瞬だけ、淡い星のような光を放った。
しかし、その微かな共鳴に気づく者は、今はまだ誰もいない。
聖女ミリシア・アストラルのお披露目の儀まで、あと数日。
王都グリーンフィールは、静かな期待と一抹の不安を抱えながら、運命の日を待っていた。そして、その中心にいる小さな聖女は、今日もまた、おやつのことと、次のお昼寝のことだけを考えて、平和な眠りについているのだった。