聖女は静かに暮らしたい~星詠みの力でうっかり救世主に祭り上げられ、スローライフが遠のくんですが!?~   作:ゴールド免許の2

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赤狼

 クワットは、その魔獣が放つ尋常ならざる威圧感と濃密な魔力を瞬時に感じ取り、これがただの森の獣などではないことを悟った。彼がこれまでに遭遇したどの魔獣よりも、危険で、そしておそらくは知恵も働く相手だ。

 

「アルテイシア! 聖女ミリシアを頼む! 何があってもそこを動くな! 他の者たちは私に続け!」

「は、はいっ! クワット様!」

 

 クワットは鋭く指示を飛ばすと同時に、腰の愛剣を抜き放った。磨き上げられた剣身が、薄暗い森の中で鈍い銀色の光を反射する。彼はミリシアたちの乗る馬車の前で陣形を取ると、その切っ先を赤狼へと向けた。

 

「フン……招かれざる客、といったところか。だが、この私を前にして、聖女様に指一本触れさせるわけにはいかんな」

「ニャアアアアアアアアン!!」

「犬なのか猫なのかはっきりして欲しいところだな――ッ!」

 

 赤狼はクワットの敵意を感じ取ったのか威嚇の咆哮を上げた。それは森の木々を震わせ、小鳥たちが一斉に飛び立つほどの凄まじい声量だった。そして次の瞬間、その巨大な赤い体が、まるで弾丸のようにクワット目掛けて突進してきた!

 

「――ッ!」

 

 速い! そして重い!

 クワットは迫りくる赤狼の巨体を紙一重でかわし、即座に体勢を立て直して剣を振るう。キィン! と甲高い金属音が響き、赤狼の鋭い爪とクワットの剣が火花を散らした。

 拮抗する隙を見て追撃と言わんばかりに他の騎士たちが剣を振るう。赤狼は爪をクワットの斬撃の勢いを活かし地面へ当てると、その衝撃を利用して飛び跳ねた。追撃してきた騎士は反れたクワットの斬撃に当たらぬように急停止をする。

 弓を番えた騎士が上空へ跳んだ赤狼に矢を射るも、赤狼は空中で木々に掴まり、枝のしなりを利用しさらに別の木々へと跳ぶ。そうして木々の合間を縫い、時に地上で、時に空中から咆哮と爪撃の合わせ技を使い騎士たちを翻弄する。

 前線指揮を執るクワットのおかげで被害こそ軽傷で済んでいるものの、このまま持久戦ともなれば地形を活かした行動を取る魔獣の思うつぼだ。

 

 馬車の中では、アルテイシアがミリシアをきつく抱きしめ、神殿で授かったお守りを握りしめながら、息を詰めて外の戦況を見守っていた。激しい剣戟の音、獣の咆哮、そしてクワットの荒い息遣いが、薄い木の壁を通して伝わってくる。

 ミリシアは、先ほどの騒音と揺れで完全に目が覚めていた。しかし、何が起こっているのか全く理解できていない様子で、少しだけ怯えたような、それでいてどこか遠い出来事を見ているかのような不思議な表情で、アルテイシアの腕の中からそっと外を窺っている。

 

「あるていしあ……クワットさんたち、なにとはしってるのですか? あそんでるのですか?」

「ミ、ミリシア様、静かに! 今はとても危険な状況なのですから!」

「きけんなのですか……? でも、あのわんわん、おっきいですね! しっぽがあったら、ぶんぶんふってそうです! すごくげんきいっぱいです!」

 

 ミリシアのあまりにもズレた現状認識に、アルテイシアは眩暈を覚えた。これが聖女の大物っぷりというものなのだろうか、いや、単に危機感が欠如しているだけなのでは……?

 

 戦闘は膠着状態に陥りつつあった。クワットは着実に赤狼にダメージを与えているはずだが、決定打には至らない。逆に、赤狼の攻撃は徐々に激しさを増し、クワットの肩を浅くではあるが、鋭い爪が切り裂いた。

 

「くっ……!」

 

 クワットの顔に苦痛の色が浮かぶ。その一瞬の隙を、赤狼は見逃さなかった。クワットを力任せに押し退けると、その巨体を馬車へと向け、鋭い爪を立ててギリギリと威嚇の音を立てたのだ!

 

「きゃあ!」

 

 アルテイシアが思わず小さな悲鳴を上げる。赤狼の眼は血走って赤く染まっており、馬車の窓越しにミリシアの姿を捉えたように見えた。騎士たちが背後から矢を射るも致命傷には至らない! 剣を構えた騎士が後方から追撃をかけようとした、その時だった。

 

「クワットさんたち、そんなにおこったら、わんわんがびっくりしちゃいますよ?」

 

 ひょっこり、と馬車の窓からミリシアが顔を出した。その手には、なぜか先ほどまでアルテイシアが大事にしまっていたはずの、ミリシア特製おやつポシェットが握られている。

 

「ミリシア様!? いけません、お下がりください!」

 

 アルテイシアの悲痛な叫びも、今のミリシアには届いていない。彼女は、目の前で牙を剥く巨大な赤狼を、まるで少しやんちゃな大型犬でも見るかのような目で見つめている。

 

「あのね、わんわん。おなかすいてるのですか? だから、そんなにおこってるのですね? しょうがないですねぇ、ミリシアのとくせいほしがたクッキー、ちょっとだけあげますです!」

 

 そう言うと、ミリシアはポシェットから、キラキラと砂糖がまぶされた星形のクッキーを一枚取り出した。

 

「聖女ミリシアッ!? 何を……!?」

 

 クワットが驚愕の声を上げるが、もう遅い。

 ミリシアは、「はい、どうぞです!」と、その小さな手を馬車から乗り出し、恐ろしい魔獣の鼻先に、無邪気にクッキーを差し出したのだ。

 その瞬間、ミリシアの体からキラキラと煌めいたオーラが立ち昇った。夜空の星々を思わせる輝きが、ミリシアの手を通じクッキー、そして目の前の魔獣へと流れていく。

 

 ピタリ。あれほど猛り狂っていた赤狼の動きが、まるで時間を止められたかのように、完全に静止した。血のように赤く燃えていた瞳の凶暴な光が、一瞬、大きく揺らぎ、ミリシアの小さな手のひらにある星形クッキーと、ミリシアの顔を交互に見比べ、それから、ふんふん、と鼻を動かしてクッキーの匂いを嗅ぎ始めた。ミリシアから発せられる不思議なオーラが、まるで心地よい毛布のように彼を包み込んでいるのを感じているのかもしれない。

 

 クワットとアルテイシアは、息を呑んでその光景を見守っていた。騎士たちもまた、その神秘的な光景に魅入っており、追撃の手を止めている。騎士として、ここは追撃すべきところなのだろう。しかし、ミリシアから発せられるそのオーラが、この先は安全だと、魂に訴えかけてくるのだ。

 

「あれ? たべないのですか? このクッキー、とってもおいしいですよ? アルテイシアが、わたしのために、おほしさまのかたちにしてくれたのです」

 

 ミリシアは、不思議そうに小首を傾げ、もう一度クッキーを赤狼の鼻先に近づけた。

 

 クワットは剣を構えたまま、いつでも割り込めるように神経を研ぎ澄ませる。ミリシアのオーラが安全だと訴えかけてくるものの、それに完全に呑まれまいと、舌を噛んで耐え凌ぐ。

 

 やがて、赤狼はおそるおそる、といった風情で、その大きな鼻先をミリシアの小さな手のひらに近づけた。クンクンと匂いを嗅ぎ、ミリシアの指先が微かに震えているのを感じ取ったのか、ほんの一瞬だけ動きを止める。そして、次の瞬間、まるで貴重な宝物でも扱うかのように、そっと、ミリシアの指を傷つけないように注意深く、星形のクッキーをその大きな口で優しく咥えた。

 クワットはそれを危険だと捉え、遂に剣を振り下ろした。しかし、剣は魔獣を切り裂くことなく、ミリシアから発せられるオーラにより妨害され、弾かれてしまう。

 

 サクリ、という小さな音が響く。

 

「おいしかったですか? よかったです!」

 

 ミリシアは目の前の赤狼がクッキーを食べたのを見て、にぱーっと満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、どんな聖なる光よりも眩しく、まるで魔獣の心の奥深くにまで届いたかのようだ。

 

「ミリシアのクッキーは、せかいいちおいしいのです! アルテイシアが、おほしさまのかたちにしてくれるんですよ! もっといりますか?」

 

 そう言うと、ミリシアは自分の顔よりも大きなポシェットから、今度は三日月形のバタークッキー、お魚の形をしたジンジャークッキー、キラキラした砂糖がまぶされた花の形のメレンゲ菓子などを次々と取り出し、赤狼の前に並べるように差し出した。

 

「これはバターのあじ、これはちょっとだけからいけどあったまるあじ、これはあまくてふわふわのあじです! どれがいいですか?」

 

 クワットが何度か切り殺そうと斬撃を浴びせるも、そのすべてが無効化される。それを見て他の騎士たちはこれ以上の警戒は無意味だと、完全に武器を降ろしてしまった。しかし、クワットはそれでも構うものかと何度も、何度も弾かれた剣を拾ってはもう一度斬撃を浴びせようとする。

 

「――炎神残波ッ! 彗星剣ッ! レッドスラッシュ! バーニングブラスト!! クッ――!! 雷鳴電光瞬さ」

「隊長! それはまずいっス!」

 

 どこぞのイケメン神主が考案したという雷のエネルギーを纏う技を使おうとして部下に止められたクワットは、これ以上は無意味かとようやく諦めた。

 

「わんわん、いいこですね! もうおこってないですか? よしよし、なでなでしてあげますです!」

 

 ミリシアはそう言うと、アルテイシアが「ミ、ミリシア様、まだ危険かもしれませ――」と制止の声を上げるのも聞かず、ひょいと馬車から降り、おそるおそる後ずさろうとする魔獣の巨大な頭に、小さな手を伸ばしてそっと撫で始めた。

 

 赤狼は最初こそ驚いて全身を硬直させたが、ミリシアの小さな手の温かさと、彼女から絶え間なく流れ込んでくる、まるで春の陽だまりのような心地よい星のオーラに、徐々に体の力が抜けていくのを感じた。

 

 クワットとアルテイシアは、目の前で繰り広げられる信じられない光景に、ただただ唖然として言葉も出なかった。

 あの、森の獣道を縄張りとし、騎士であるクワットですら苦戦を強いられた狂犬が、今やミリシアの足元で、まるで忠実な番犬のように喉を鳴らしているのだ。

 

「ホウ……よもや手懐けるとは。まさか聖女ミリシアは全ての魔物を手懐ける力を持っているというのか? それとも、この魔物が特別なだけか? 検証の必要がありそうだな……」

 

 クワットは、もはや剣を握る力も抜けてしまったかのように、遠い目をしていた。

 

 「ミリシア様……本当に、本当に恐ろしいお方……! あの魔獣を、お菓子と撫でるだけで……! 今日の出来事も、しっかりと日記に記録しておかなくては!」

 

 アルテイシアが感動の入り混じった表情で、せっせと記憶を整理していた。

 

 そんな大人たちの混乱などどこ吹く風、ミリシアは魔獣のふかふかの毛皮に顔をうずめていた。

 

「わーい! このわんわんのけがわ、いままでであったどんなクッションよりも、きもちいいです! ここでおひるねしたら、きっとてんごくにいけますです! きめた! きょうから、ここがミリシアのとくとうせきです!」

 

 そう宣言すると、ミリシアは魔獣の背中にごろりと横になる。

 

「ミリシア様、汚れてしまいます!」

 

 アルテイシアが小さく叫んだが、ミリシアはまるでそこが長年愛用してきた自分専用のベッドであるかのように、あっという間にすーすーと幸せそうな寝息を立て始めたのだ。

 

 

ごろりと横になり、まるでそこが長年愛用してきた自分専用のベッドであるかのように、あっという間にすーすーと幸せそうな寝息を立て始めたのだ。

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