残響は水底より   作:くにゅたろ

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第一部「残響の誘い」
Episode 01 「水面にささやく声」


 

 転校初日。水平線を隠した乳白色の霧が、外縁区駅のホームを静かに撫でていた。ミリは改札を出る前に深呼吸を三回――三でも四でもなく、きっちり三回――繰り返した。自分の肺に溜まった空気が海の匂いで塩辛く変質する感覚。それを確認してから、一歩だけ未来へ踏み出す。

 

 キャリーバッグの車輪が鳴る。ガラゴロ。たったそれだけの音が、この街では鐘のように響く。遠くの塔――霧の向こうで影絵のように聳える尖塔――から、本物の鐘の音が応答する。「ゴォン」。胸の中心が小さく疼いた。ミリは眉を寄せ、「まただ」と呟く。鐘のたびに心臓が間違えてドラムを叩く癖は、いつから始まった?

 

 登校時間には早すぎるが、寮に寄って荷解きする余裕を捨て、制服姿のまま学校まで歩くことにする。霧の粒が髪に水滴を咲かせ、首筋を冷やす。だけど寒くはない。不安と高揚が入れ替わり立ち替わり、発熱と冷却を内部で同時進行させていた。

 

 道端のポスト。赤い箱の金属肌に、波打つような残響の縞が走った――ような気がした。見間違い? いや、音が見えるなんてファンタジイ、そんなものは小説の中だけ。ミリは苦笑し、視線を前へ戻す。けれど耳は、霧の深さと比例するように鋭敏になる。鐘の余韻がまだ骨を震わせていた。

 

 丘を一つ越えると、海を背にした巨大な塔が突如として現れる。学校の敷地よりも高く、雲よりも近い――とまで言うと嘘になるが、少なくとも心には手が届きそうだ。転校案内の資料に塔のことは書いていなかった。だからこそ、あらかじめ知っていた気がする。この既視感は誰の記憶?

 

 気づけば足は、校門ではなく塔へ向かっていた。あらゆる看板や立入禁止を無視して、まるで潮に引かれる砂粒のように。理屈はないが、目的はある。「声」が塔へ行けと囁く。いつもの幻聴――専門医にかかるほど日常化した相棒――が、今日はひどく饒舌だ。「おいで」「開けて」「思い出して」。重なる声はまるで輪唱。鼓膜ではなく心膜を叩く。

 

 石畳の先端、錆びた門扉。手をかけると、鍵はかかっていない。親切か無用心か放置か、答えは霧の中。扉が重い唸りを上げた瞬間、後ろで誰かの足音が跳ねた。振り返ると、霧さえ拒むほど白い肌、銀糸の髪、そして月光の欠片を封じ込めたような瞳。本来なら出会うはずのない配色が、ここでだけ有効な組み合わせとして成立している。

 

「――立入禁止だって、見えなかった?」

 

 声は冷たい氷菓、しかし角砂糖一個分の甘さで縁取られていた。ミリは反射的に笑う。自分と同じだ、と思ったからだ。怖れと優しさを同時に纏う、奇妙な生態。

 

「見えなかったわけではありません。見なかったことにしただけです」

 

 返答しながら、自分の舌が悪癖――余計な修飾を並べ立てる早口――を真似ていると気付く。けれど止められない。だって対話は音、音は残響、残響は塔へ至る鍵だから。

 

 少女は溜息を一つ。霧に混ざって形のない飴になる。「研究対象が自ら歩いてくるとは、これも塔の磁力かしら」と独り言。研究対象? ミリはそこでようやく気づく。相手の胸元、ペンダント型の水晶に小さな文字列――ID? 研修官見習いフィノ・エステラ。

 

「あなた、私のことを知っているの?」

 

「知りたいと思っているだけ。まだ何も分からない。例えば――」

 

 鐘が、再び鳴った。会話の継続は許可されない。鼓動が同期を失い、時間が刹那で断線する。ミリの視界が青白く滲む。霧ではない。これは光? 音? 視覚と聴覚の境界が逆流して、塔の頂から降る残像が万華鏡のように砕け散る。

 

 フィノが手を伸ばす。触れた瞬間、残像は収束し、世界は再び乳白色の霧に戻った。ミリは息をつく。そう、呼吸を忘れていた。

 

「――例えば、今あなたの瞳に映った青白い残像の正体、とか」

 

 フィノの言葉は霧の外へ漏れず、塔へ向けて真直ぐ落ちる。ミリは頷く。彼女の手の温度が、塔の呼び声よりも強い磁力になりつつあると気付かないふりをして。

 

 鐘は遠ざかる。呼ぶのをやめたわけではない。ただ、聞こえなくなっただけ。ミリは門扉の向こうへ視線を滑らせ、やがて独りごちた。

 

「また、夜に」

 

 誰にともなく、でも確かに約束として。霧がその呟きを孕み、塔へ向かう風に託す。水面のさざ波のように、街のどこかで応える声が揺れた。

 

 そして霧が晴れる頃、まだ誰も知らない物語が、微かな残響とともに静かに動き始めていた。

 

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