残響は水底より   作:くにゅたろ

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Episode 10 「失われた記譜官」

 

 IDタグを収めた封筒を開くと、折り畳まれた報告書の写しが現れた。日付は十年前、深淵病終息宣言の翌週。署名欄には〈記譜官カオリ〉の名前と、破線で消された何行もの追記。その上に赤インクで「未承認」と記されている。フィノは蛍光灯の青白さを避け、スタンドライトに切り替えた。光量を絞れば文字が浮かぶ。

 内容は単純だった。塔地下第三層の観測室で採取した残響サンプルに、未知の反転位相が混入。被験者は軽度の聴覚幻覚を訴え、翌日から発熱。三日で意識消失、七日目に心停止──ただし脳波は沈黙せず、微小な振動が継続したとある。報告書は結論を示さず、検体と記譜官の双方が行方不明になった時点で凍結していた。

 「カオリは生きたまま封じられた」

 独り言のように呟くと、紙面が自分の声を吸った気がした。報告書は情報より空白で訴える。深淵病の原因は器と巫女の接触過程にある──そう仮定するなら、カオリは巫女か、それを代行する何者かなのだろう。

 ミリはベッドに座り、封印具の小瓶を両手で包む。銀の液面は静かだ。彼女は医療用の薄いマスクをかけ、声の漏出を防ぐ努力をしている。けれど声という概念が音波に制限される保証はなく、フィノにはその沈黙がかえって危うく思えた。

 「これ以上、セルゲを避けるわけにはいかない」

 フィノは端末で局内ネットにアクセスし、師の現在地を検索した。研究局アカウントには在席表示、しかし位置情報は非公開。代わりに〈塔内調査〉のタスクが稼働中と出る。塔は局の管轄外のはず──苦笑が漏れた。師は常に例外措置の代名詞だった。

 メッセージを送るか迷うより早く、端末が振動した。セルゲからの直通回線。「話すなら塔へ」。それだけのテキスト。不在着信でもなく通話でもない、命令文だ。

 ミリが視線で問いかける。行くのか、と。フィノは頷き、自分でも驚くほど迷わなかった。信頼は揺らいでいるが、好奇心は揺るがない。

 塔への通路は校舎裏の支線トンネルを使う。夜間は封鎖されるが、セルゲの認証があれば無効だ。早朝の空気は薄く、地表に近い湿気がスーツの裾を重くする。ミリは数歩遅れて付いて来る。二人の足音の位相がずれるたび、遠くの鐘楼が幻聴を返す。

 鉄扉の前で立ち止まった。手のひらほどの読み取り面にIDタグをかざす。錆びた金属色がわずかに発光し、扉が開く。カオリの残滓が道案内を担っている。

 内部は螺旋階段ではなく垂直の昇降機。照明は切れていたが、軌道上には微細な蛍光塵が浮遊し、遠い昔の会話の残滓みたいにきらめく。

 「戻る可能性は?」ミリが低く尋ねた。

 「ゼロじゃないが、限りなく微小」

 「なら、行こう」

 返答は計算済みのように早かった。フィノは昇降機のレバーを倒す。抵抗は少なく、衝撃もなく、重力だけが徐々に後退した。

 途中でセルゲの声がインターホンから落ちる。「記譜官は死んでいない。この塔そのものが彼女の譜面だ」

 解析を省いた詩的表現。だが内容は事実に近い。塔が記憶を封じ、残響を楽譜化する装置だとすれば、カオリの脳波は今もどこかで周波数を刻んでいる。

 「器を開けるか」セルゲは続ける。「選択はお前たちに委ねる。ただし、開いた瞬間から世界は音楽ではなく雑音になる」

 沈黙。昇降機は最後の着床音を立てた。扉が左右に割れ、冷気が胸骨を浸す。そこは塔の心臓部──数え切れない制御パネルが暗闇に浮き、中央に一台の古い録音機が鎮座する。

 録音ロールは挿されていない。だがスプールは回転を続け、空回りの摩擦が擦過音を生む。

 セルゲは姿を現さない。代わりに天井のスピーカーが低く鳴った。「記譜官の続きを録れ。器へのアクセス権を譲渡する」

 譲渡というより放棄だ。フィノはステージに押し出された気分で録音機へ近づく。ミリは一歩後ろで呼吸を整えている。沈黙はまだ音楽だろうか。

 金属スイッチに触れた瞬間、タグが震えた。冷たいはずの金属が体温を帯び、記憶のフラッシュバックを送り込む。カオリの視界、カオリの声帯、カオリの失敗。

 「やめてもいい」フィノは小声で言うが、誰に向けたか自分でも曖昧だった。

 答えは行動で返る。ミリが小瓶を録音機の上に置く。封印液が銀を増し、スプールの回転と同期する。音の吸引が始まったのだ。

 遠くで鐘が鳴った。実際の音か幻聴か判断できない。だが確かに塔は目覚めた。次に目を開ける時、世界は同じ配列を保っていないかもしれない——そんな予感が階段を逆流し、耳の奥で環を描いた。

 

 

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