残響は水底より   作:くにゅたろ

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第二部「水面に映る二人」
Episode 11 「師の足跡」


 

 塔の控え室に降り積もった紙埃は、長い時間の層をそのまま可視化していた。セルゲは古い鍵束の中から一つを選び、人差し指で磨きながら僕――フィノ――に視線を投げる。金属は冷たいのに、掌の中心だけが熱を帯びている気がした。

 

 「器は二度と目覚めさせるな」──年代不詳の議事録には朱い線が引かれていた。活版の滲みと朱の濃淡が重なり、あたかも血痕の上に別の血を重ねたようだった。セルゲの声は震えていない。けれど僕の鼓膜は小さく戦慄く。

 

 禁忌という言葉が好きではない。線を引くこと自体が、人を線の外側へ誘う装置に思えるからだ。僕は頁を閉じ、静かに告げる。

 

 「破ろうと思う、師の言葉さえ」

 

 沈黙。砂時計の粒子が落ちきった音を初めて知った。塞がれた過去が、ここでは時間として存在し続けるらしい。セルゲは再び鍵を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。

 

 「数年後、おまえは私を憎むかもしれんぞ」

 

 「憎しみは未来形では語れない。必要があれば、その場で完結する感情だから」

 

 死んだ論理ではなく、生きている熱が僕の頰を叩く。鍵は僕の掌へ渡された。金属の輪郭が皮膚の内側へ写り込むような錯覚。鍵頭の文様──渦巻く双環──は、ミリが嵌めた銀の指輪と等しく呼吸している。

 

 「師は、塔最奥の封印を見たのか」

 

 問いは刃の角度を持っていた。それを自覚しながら、研ぎ澄ますことを止められない。セルゲは頷かず、否定もせず、ただ椅子へ重力を預ける。

 

 「見たと言えば嘘になる。聴いたと言えば陳腐すぎる。あれは……触れれば記憶の方が変質する」

 

 掌の温度がさらに上がる。僕の心臓が余分な鼓動を打ち、熱を供給していた。恐怖か? 違う。守りたいという衝動が、血液を沸かせている。

 

 「ミリを――」

 

 言いかけて、口蓋で言葉を噛み潰す。守る、救う、連れ出す。動詞はいくつもあるが、どれも正確ではない。僕はただ、ミリと同じ未来を欲している。そのために過去を毀損するなら、きっと手加減はしない。

 

 部屋の窓から見える天空塔の外壁は、夕陽を鏡のように返し、朱に染めた雲の断片を切り取っている。塔はいつも無感情だ。そこに閉ざされた“水鏡室”もまた、誰の善悪も測らないだろう。

 

 セルゲが立ち上がる気配を作り、背を向けたまま最後の言葉を落とす。

 

 「覚悟とは、選択の名前にすぎん。進め。しかし戻る足音は聞こえなくなる」

 

 ドアが閉じた瞬間、埃の匂いが急に濃くなった。僕は鍵を握り直し、胸骨の奥で音を測る。畏怖は残滓として沈み、輪郭のない決意だけが脈を刻む。

 

 壁の時計が指す時刻は十九時。ミリは南棟で実習を終える頃だ。指輪はまだ、彼女の指を締めつけているだろうか。潮の匂いを帯びた風が、廊下の隙間から忍び込み、紙束の頁を一枚だけめくった。そこには別の朱線、そして潰れた文字でこう書かれている。

 

 〈鍵を渡すな。器を恐れよ。器は愛を学び、そして愛を解体する〉

 

 僕は頁を閉じなかった。閉じれば予言になる気がしたからだ。代わりに鍵を頁の上へ置き、熱を冷ますように指で輪郭をなぞる。熱は消えない。むしろ文様が脈打つように浮き上がり、掌の内側で呼吸している。

 

 夜が始まる。塔の内部では、昼と夜は色ではなく音で判別される。遠くで始まった鐘の連打が、細い金糸のように廊下を走り、僕の耳へ届いたとき、決意は確固たる形に凝固する。

 

 ──水鏡室へ行こう。

 

 簡単な命令だ。だがそれは、過去の決議を踏みにじり、未来を無窮へ放り投げる暴挙でもある。鍵は軽い。それでも掌より重い。「師を憎む未来」があるとしても、そこに僕の時間が連続しているなら、選ぶ価値はある。

 

 埃の匂いはもう気にならなかった。代わりに、潮のような、あるいは血のような微かな金属臭が立ち昇る。塔が呼吸する匂いだ。僕はドアを開け、赤銅色の夕闇へ足を踏み出す。

 

 足音は思いのほか静かだった。戻る足音が消える前に、前へ進む鼓動が塔そのものを脈動させる。鍵は熱を宿したまま、未来形の扉を示している。

 

 廊下の照明は感圧式で、歩みに合わせて淡い光が点き、背後で静かに消える。その連鎖を眺めながら、僕はふと幼い頃の記憶を思い出す。夜の砂浜で、波が足跡を攫うたび、自分の存在が薄れていく感覚に怯えた。けれど今は違う。消えていく足跡こそが、次の一歩を保証する。だから恐れない。恐れを原料にして、未来を鍛造する。

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