薄曇りの午後、学園中央の渡り廊下は人影がまばらだった。ミリは欄干に肘を置いたまま、右手の薬指を何度も捻っていた。銀の指輪が指の根元に張り付き、皮膚よりも意志を持つ生き物のように動かなかった。金属が発する鈍い脈動が、彼女の心拍と同期している。呼吸を整えてから指先に力を込めても、痛みとは別の「拒絶」が跳ね返ってくるだけだ。
──外れて。
無声の願いは、リングの内側へ吸い取られて霧散した。むしろ締め付けは強まり、骨の輪郭が曖昧になるほど血色が奪われていく。孤独に焦点が合い始めた瞳の前に、僕――フィノ――が立ち止まった。白衣の袖口にわずかな墨汚れ。研究室帰りらしい。
「痛むのか」
問いは風より軽かった。ミリは小さく頷く。僕は彼女の手をそっと包んだ。指輪は抵抗を見せず、皮膚から滑り落ちた。拍子抜けするほど容易く。掌に載せると金属は低音で震えており、その振幅が言語に変換される前の感情のようだった。
裏面に刻まれた一文字の〈N〉。筆記体ともルーンともつかない、曲線と角度のバランスが嫌に洗練されている。僕の脳裏で辞書が無作為に開かれ、ナイアルラトテップ――旧支配者に捧げる呪音――という遠い伝承が頁の間から零れた。
説明しかけたとき、ミリの瞳が泳いだ。虹彩がわずかに薄れ、内側に存在しない海を映す。湿った風が廊下を撫で抜けるのと同期し、彼女の唇が微かに開いた。
〈来タレ。水鏡室ヘ〉
男の声が、しかし女声の艶も含んだ奇妙な倍音で、僕の耳にではなく脳幹に直接触れた。ミリが発したわけではない。けれど声の源は彼女の口腔の奥、さらに過去へと潜っていく感触がした。僕は指輪を握り込み、掌に生じた震えを自分のものであると錯覚させた。
「聞こえたのか?」と問うと、ミリは首を振るでも頷くでもなく、遠くの鐘楼の方角を見つめた。「呼ばれてしまった」とつぶやき、次の瞬間、僕の白衣を掴む。爪は短く整えられているのに、布越しに肌が切れそうな鋭さを纏っていた。
囁きは続く。〈水面ヲ渡レ〉〈鍵ハ開イテイル〉。僕は少し息を吸い込み、言葉の温度を測った。冷たい。意味の輪郭だけが融点を持たない金属のように残り、感情は凍結して砕け散る。ミリは震える肩を押さえようともせず、むしろ震えの周期を測定する科学者の眼差しで自分自身を内部から観察している。
「恐いの?」と僕は訊いたつもりだったが、口から出たのは「行きたいのか」だった。ミリは数秒遅れて瞬きをし、そのまま肯定とも否定とも取れぬ笑みを浮かべた。僕は彼女の手を再び取る。指輪を戻すかどうか、一瞬迷った。だが金属は掌の上で温度を失い、ただの物質へ回帰しかけている。
その刹那、僕の脈拍が指輪へ吸い寄せられた。硬質な円周が血流を帯び、再び疼き始める。僕は衝動的にポケットへ滑り込ませた。ミリが細い声で「逃げられない」と言った。僕も同意した。逃げる場所など最初から指定されていない。
遠くで講義の終わりを告げるチャイムが鳴り、渡り廊下に学生たちの話し声が流れ込む。その白いノイズの中で、僕らは同時に振り返った。会話は泡のように浮かび、破裂し、残響だけが足下に残る。
〈水鏡室ヘ〉
今度は複数の声で。男と女、老いも若きも区別なく混線し、和音ではなく倍音の層となって鼓膜を叩く。ミリは耳を塞がなかった。代わりに僕の背に額を押し当て、呼吸を合わせる。恐怖の密度が高まり、重さとなって体温を圧縮する。僕の骨が軋む音を、彼女は安堵のリズムとして受け取っているようだった。
「行こう」と僕は言った。声が震えたのは、決意ではなく過度の静けさによる寒気のせいだと自分に説明する。ミリは離れ際に指輪を求めた。差し出すと、彼女はためらわず再び薬指へ通した。まるで帰巣本能を持つ鉱石。金属は脈を取り戻し、その律動が彼女の肌に模様を描く。
微笑みとも苦悶ともつかない歪みがミリの唇を引いた。所有される自我。その矛盾は、まだ彼女の輪郭を保たせている最後の錨なのかもしれない。
塔の天窓から薄日が差し、渡り廊下の床に二人分の影を並べた。影の上に、指輪由来のものなのか、第三の輪郭が重なった気がして、僕は目を凝らす。しかし次の瞬間には消え、代わりに水のしずくが落ちた音だけが残る。乾いた廊下で、水はどこにも見当たらない。
無関係の学生たちが通り過ぎるたび、囁きは遠慮深く音量を下げ、しかし文字通りに決して途切れないBGMとなって脳内で演奏を続ける。楽譜のないフーガ。主題を忘れるほど長い終奏。
僕らは歩き出す。水鏡室へ向かう水路の入口は、学園の地図には記されていない。だが声が方角を指示し、足取りは迷わない。恐怖と依存は化学反応を起こし、透明な硝子を溶かす酸となる。戻れなくなることを想像し、むしろ安堵する。行き先が限定されるほど、人は自由になるのだろう。
夕刻の鐘がまた鳴る頃、渡り廊下の端に辿り着く。扉の向こうは薄暗い螺旋階段。下り始めると、足音が水面を叩くように柔らかく変質した。階段は途中で途切れ、黒い水路へ接続している。舟はない。だが声が言う。〈飛ビ込メ〉と。
ミリが躊躇した。僕は彼女の手を強く握り、同時に息を吸った。肺が水を呼び込む前に、選択は終わる。僕らは静かに身を投げた。水面は思いのほか温かく、胎内の記憶を模した甘い匂いがした。
指輪が光る。水中なのに、火を灯したように。ミリは目を開け、光の中心で何かを見た。その像は彼女自身の輪郭をしていたが、笑ってはいなかった。
呼び声は消えた。代わりに深い静寂が生まれ、僕らの鼓動を増幅させる残響室となった。水鏡室への径は開いた。後戻りの余白は、とうに水の底へ沈んでいる。