残響は水底より   作:くにゅたろ

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Episode 13 「水鏡の径」

 

 真夜中の塔は、心臓の裏側のように静かだった。石壁に埋め込まれた導光管は月白のひかりを滲ませ、まばたきのたびに廊下の影を伸ばしては縮めた。フィノとミリはその影のなかを、手をつないで滑るように歩いた。靴音はしない。空気が深すぎて、響く前に飲み込まれてしまうのだ。

 

 水路への扉は、塔の中心軸をぐるりと半周した場所にあった。重い鋼鉄製のはずなのに、フィノが押すと拍子抜けするほど軽く開いた。内側から誘われている――そう思わせる、湿った暖気が顔を撫でる。匂いは潮と錆を溶かした甘さ。ミリの喉が細く鳴った。

 

 階段は短い。十段ほど降りると、足下が水面に変わった。地下水路の幅は四メートル、天井は低く、漆黒の鏡面が遠近を奪う。そこへ、黒檀の小舟が一隻、何者かの手で用意されたように浮かんでいる。櫂は一本、舟底に横たえてあった。

 

 「逆流するらしいわ」とミリが囁く。声は水に吸われ、羽音ほどの震えで耳殻を揺らした。

 「流れの向きなんて、僕らには関係ないさ」フィノはそう言い、ミリを抱きかかえるように舟へ導いた。彼女が座ると、舟はわずかに沈み、底板を通して鼓動のような水音が伝わる。

 

 櫂を漕がなくても、舟は動いた。ゆっくりと、しかし抵抗なく、闇の中心へ滑走する。両側の壁面に現れた淡い光が、ぱっと咲いては散る焰の花のように揺れる。映像だ。旧世界の都市が崩れていく。ビルが砂の塔のように崩落し、雲と瓦礫が混じった棘の嵐が空を切り裂く。

 

 「これは……過去?」ミリが身を乗り出す。映像の粉塵が実体を持ち、水面へ灰を降らせた。

 「残響が記憶を映す。ここでは、それが普通らしい」フィノの声も低い。彼自身も初めて見る光景だったが、恐怖より先にあるのは理解への渇きだった。

 

 次の瞬間、映像の瓦礫の隙間から、少女が立ち上がった。ミリに似ている。否、鏡像のように同じ。破れた白衣、すすで汚れた頰、だが瞳だけが透明に澄んでいる。少女はゆっくりとこちらを向き、無音で口を開いた。声はない。だがミリの身体が震え、胸元で指輪が熱を帯びた。

 

 「待って――!」ミリが伸ばした右手が宙を掴む。映像の少女もまた、同じ動きで手を伸ばす。二つの影が重なり、波紋が壁面から水面へ落ちた。次の鼓動で、水流が逆巻く。舟は引き戻されるように回転し、加速した。

 

 闇が風になる。水路の温度が一気に下がり、息が白い糸を引く。フィノは櫂を掴んだが、漕ぐより先に目的地が姿を現した。半円形の石の桟橋、翡翠色の燐光で縁取られた扉。その中心に刻まれた文様は、鍵と指輪が共有する渦巻き紋だった。

 

 舟が桟橋へ衝突する直前、目に見えない手がふたりを押し上げた。靴底が石を捉え、波がしぶきを上げて収まる。扉はひとりでに開いた。無音。だが確かな呼吸を感じる。それは洞窟が吐く潮騒にも似た、深く湿った鼓動。

 

 ミリが立ちすくむ。指輪が光を明滅させ、まるで心拍を可視化しているようだった。フィノは彼女の手を握り、胸元にそっと触れた。脈は速い。しかし乱れてはいない。恐怖と興奮は表裏で、いまは後者が勝っているらしい。

 

 「戻る?」フィノの問いは形式だけのものだった。ミリは首を振り、唇を引き結んだ。

 「行こう」その声は掠れてなお、決意の輪郭を保っている。

 

 ふたりが一歩踏み出すと、背後で舟が砕けた。水面に散った破片が光の輪となり、ゆっくり沈む。その音を最後に、世界は扉の向こうへと収束した。

 

 足音が星屑を踏むたび、小さな破裂音が生まれ、鼓膜の奥で鈴のように転がった。室の中央には鏡面の水盤。その直径は教室三つ分もあるのに、水面は一片の揺らぎも見せない。黒い絹のように滑らかで、天井のない夜空をそのまま溶かし込んだ景色だった。

 

 ミリがそっと膝をつき、水面へ指先を浸した。凍てつく冷たさ。だが痛みはない。かわりに幼い頃の笑い声が、泡のように浮かんでは弾けた。フィノはその残響の中に、かつて聞いた自分の泣き声を混ぜて聴く。時系列が絡まり合い、一本の縄のように強度を増すのがわかった。

 

 突然、桟橋側で水音。振り向くと、水路からもう一隻の舟が滑り込んでくる。誰も漕いでいない。だが舟には影があった。ミリの形をした影。輪郭だけが濃く、不自然なほど静止している。頭部が僅かに傾き、表情のない顔がこちらを見た。

 

 「残響?」フィノは問い、同時に悟る。これは記憶の幽霊ではない。未来からの、あるいは可能性の枝からの観測者。影は立ち上がり、桟橋に足を下ろした。足音はしない。だが水面が波打ち、星屑が散る。

 

 ミリが立ち上がり、影と向き合う。指輪の光が二人の間に橋を架けた。空気が張り詰め、弦楽器のA音のように高い緊張が骨を震わせる。影のミリがゆっくりと右手を差し出した。指先には同じ指輪。だがそこに刻まれた文字は〈S〉だった。

 

 「進もう」フィノは声を絞り出す。恐怖に舌が絡む前に。影と本体の間で、空間が裂け目を作る気配がした。進めば、後戻りはない。それでも彼らは歩いた。星屑は足下で砕け散り、音にならない歌を歌っている。

 

 こうして、二人の旅は不可逆に突入した。水面に映った未来が、現在を追い越していく。その走査線が胸を貫き、温かい痛みを残す。誰もが一度は見る夢――出口のない螺旋階段を、彼らは確かに降りはじめたのだった。

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