残響は水底より   作:くにゅたろ

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Episode 17 「耳鳴り地帯」

 

 昼休みのサイレンが鳴る頃、学園の外縁区――市営高層住宅の谷間で異変は始まった。最初の通報は「上空を飛ぶドローンが金切り声を出している」という曖昧なものだったが、十分も経たぬうちに「頭の中で水が弾ける音が止まらない」「誰かが名前を呼び続ける」など症状は多彩に拡散した。救急車のサイレンさえ耳鳴りに紛れ、現場は無音の蜂の巣のようにざわめいている。

 

 フィノが到着したとき、路上には座り込んだ学生と住民が寄り添い合っていた。耳を塞ぎ、目を見開き、ひたすら同じリズムで首を振る。鼓動と揺れが一致し、街全体が巨大な心臓になったみたいだ。空気は湿った金属の臭いを帯び、遠くの建設クレーンがチューニングのずれたメトロノームのように軋む。

 

 「深淵病の前駆症状だ」セルゲの声がイヤホン越しに届く。「脳が残響の周波数に噛まれている。速やかに被害者を影響圏外へ移せ」

 

 影響圏外――けれど音は空気ではなく意識を伝う。フィノは背筋を冷やしながら、倒れている少女の肩を抱き起こした。瞳孔は開き、唇がわずかに動く。聞き取れたのは、震えた二音だけ。

 

 「ミ……リ……」

 

 少女の声に呼応するように、周囲の人々が一斉に同じ名を呟いた。マスゲームの掛け声のように。フィノの鼓動が高鳴り、喉に鉄の味が広がる。残響は器を求める――昨夜、文献で読んだ一節が脳裏に釘を打った。

 

 「搬送を急げ!」フィノは救護班に児童を託し、奥へ進む。水路に近いほど症状は強いはずだ。耳を澄ますと、低い潮騒がコンクリ壁の下から漏れている。地下水道が共鳴管となり、ミリ――器の鼓動を増幅しているのだ。

 

     *

 

 換気口の格子を外し、鉄梯子を滑り降りると、湿気を孕んだ熱風が頬を叩いた。下水とは思えない甘い匂い。膝までの水に足を浸け進むと、闇の奥で青白い光が脈を打つ。鼓動と同期し、揺れる光の中心に、一人の少年が立っていた。制服のままの彼は耳を押さえながら狂った独唱を続けている。

 

 「ミリ、ミリ、ミリ……」

 

 フィノは詠唱で周囲の水を氷結させ、少年までの通路を作った。靴が氷を軋ませる音で自分の不安を測りながら近づき、肩を掴む。直後、少年の目から光が漏れた。虹彩が割れ、複数の瞳孔が開く。器を求めた残響が宿主を誤っている。フィノは短く息を呑み、鎮静呪の第一節を放った。

 

 凍った水面が割れ、冷気が逆流して少年の口から霧となる。同時に耳鳴りが一段下がり、遠くのサイレンが現実音へ戻った。少年は糸が切れたように崩れ落ち、光は地下水へ吸い込まれていく。だが安堵する間もなく、新たな呼び声が水面下で渦を巻いた。

 

 〈来タレ、器〉

 

 聞こえたのは確かに古語だった。昨日解読した封印呪と同じ語族。それを発したのは残響か、あるいは器自身か。フィノは心を固め、無線を取る。

 

 「セルゲ、被害の中心はミリだ。隔離が必要だ」

 

 「収容か?」声の向こうで書類が乱れる音。「彼女を手放す覚悟はあるのか、フィノ」

 

 覚悟。紙より薄い言葉だが、刃より鋭い重さがある。フィノは氷の裂け目から流れ込む黒い水を見た。そこには、ミリの影が揺れていた。

 

 「僕が、閉じ込める」

 

     *

 

 夕刻。校内の非常ベルが三度短く鳴り、学生たちを寮へ待避させる。塔副塔――かつて貯水タンクだった石造の小塔。その地下に急ごしらえの結界が張られた。フィノは自ら呪文陣を描き、膝で擦り、血で罅を繋いだ。守りたい思いが檻になる瞬間を、唇が拒む。

 

 ミリはまだ来ない。耳鳴りは止み、街は嘘のように静かだ。嵐の目に入っただけ、とフィノは悟る。やがて階段を下りる足音。ミリが姿を現す。群青色の瞳は疲れを帯び、けれど微笑みだけは変わらない。

 

 「私を閉じ込めるの?」

 

 「安全になるまで、ここで休むんだ」

 

 「本当に安全なのは、あなたの隣よ」

 

 言葉が刃に変わる前に、フィノは扉を閉ざした。結界が光を軋ませ、鍵が熱を帯びる。背を向けると同時に胸の内で何かが壊れ、乾いた音を立てた。

 

 隔離。それは守りでも裏切りでもない。まだ名を持たない罪だ。

 

     *

 

 塔を出たフィノを迎えたのは、雲のない夕焼けだった。だが遠景で、百合の温室のガラスが不気味に赤く反射する。風が変わる。守りと攻めの境界が、息を呑むほど薄くなっていく。

 夜が落ちる。遠い稲妻が雲もない空を裂き、まだ始まっていない悲鳴の輪郭を光で彫った。

 

 

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