残響は水底より   作:くにゅたろ

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Episode 18 「仮封印」

 

 夕暮れの塔副塔は、街灯より早く影を濃くした。地下へ続く螺旋階段を降り切ると、石壁に沿う魔法陣が淡く灯る。フィノは呼気で灯を揺らしながら、鉄扉の前で足を止めた。

 

 結界は彼が描いた。その中心にミリがいる。安堵より罪悪感が勝ち、胸の鼓動が呪文の拍を乱す。扉越しの気配は静かだ。だが静けさは、夜明け前の火薬庫にも似ている。

 

 「中は寒くないか」問いを投げると、数拍置いて柔らかな声が返る。「大丈夫。星の音が聞こえるだけ」星の音――昨夜の残響を思い出し、フィノは喉を鳴らした。

 

 「少しの間だけだ。安全になれば、ここを出よう」自分でも薄い言い訳と解る。ミリは笑いを含む息で応じた。「安全って、誰のこと? あなた? みんな? それとも私?」

 

 言葉が刃に化ける前に、フィノは扉を叩いて終わらせた。「必ず守る」短い誓いは鉄と共鳴し、すぐ沈黙に溶けた。返事はなかった。足取りだけが階段を上がり、背後で錠前が熱を帯びる。

 

     *

 

 深夜、塔副塔を囲む霧が濃くなる。魔法陣の光が歪み、まるで外から内へ吸い込まれるようだ。セルゲの結界検知器が赤を示し、警報が短く鳴った。フィノは研究棟を飛び出し、走りながら呪文の修復式を反復する。

 

 地下回廊の曲がり角で冷気が頬を裂く。結界が破れる瞬間の逆流。階段を跳び降りると、鉄扉が開いていた。砕けた錠前、熱線で切ったように滑らかな断面。灯りはすべて消え、内壁に残るのは闇に浮かぶ白い指跡だけ。

 

 床に落ちていたのは、血でも灰でもない。百合の花びらが一枚。薄紅の端が焦げ、香りだけが甘く残る。フィノは指跡をなぞる。そこに温度はなく、あるのは抜け殻の静けさ。

 

 扉の外、霧が渦を巻く。遠くで鐘がひとつ鳴り、風が温室の方角へ流れた。呼ばれている。フィノは花びらを握り締め、走り出す。守ると誓った言葉は檻になり、檻を破った少女をなお追わせる鎖になる。

 

     *

 

 その頃、ミリは温室の中央に立っていた。夜花が閉じる匂い、湿った土の温度。黒百合の群生がざわめき、残響の低い鼓動で応える。「もう逃げない」ミリは呟き、指輪を撫でる。群青の瞳が花に映り、星屑が萌えるように明滅する。

 

 封印は仮に過ぎない。本当の鍵はいつも、自分の意思に隠されていた。だからこそ怖い。けれど恐怖は種火でしかない。髪を撫でる風に古語が混じる。〈目覚めよ〉その命に、ミリは静かに頷いた。

 

 百合の根に沿って火が走る。薄紅の舌が闇を裂き、温室は一瞬で炎の揺り籠に変わる。ガラスが軋み、夜空へ破片を撒き散らす。遠くで鐘が二度、三度と重なり、学園中の眠りを引き裂いた。

 

 炎は舞台装置。本当の変化は胸の奥で鼓動する黒い光。ミリの影が二重にぶれ、輪郭が少しだけずれる。世界が寄る辺を探す前に、彼女は歩き出した。行き先は塔の心臓、水面の記憶――そしてフィノの誓いがまだ届く場所。

 

     *

 

 火の天幕の下、温室の鉄骨が悲鳴を上げ、硝子の雨が花弁を切り刻む。だが切り口からは血ではなく、淡い光が滲み出た。それは残響の幼生、声になる前の音の卵。ミリは光の粒を掌で受け止め、胸元に抱え込む。肌下の封印紋が浮かび、黒百合の花粉が磁石のように吸い寄せられる。

 

 「恐れてなどいないわ」彼女は自分に言い聞かせる。「私は器。でも同時に私自身」古語が口内で転がり、甘い毒の味を伴って発声される。言葉は炎を分け、道を示す。温室の背後、塔の尖塔が空を裂く矢印となり、行くべき高みを指す。

 

 一方、フィノは燃える温室の外壁に手を掛けた。熱で皮膚が焼け、煙が視界を奪う。だが退く理由はどこにもない。足場となる縦梁をよじ登り、砕けた硝子の縁を踏む。内側へ身を滑り込ませた瞬間、熱気が肺を殴った。それでも彼は叫ぶ。「ミリ!」

 

 炎の中央、影が振り返る。群青の瞳が獣のように光り、けれど涙の跡が頬を濡らしていた。ミリは一歩近づき、しかし足を止める。足元に走る炎が二人を分け、音も嗅覚も歪めてしまう。フィノは手を伸ばす。間にあるのは百ルクスほどの距離、それでも埋められない溝。

 

 「私を恐れてる?」ミリの声が風に折れる。「違う、守りたい」その返答が届く前に、温室の天井が崩れた。鋼の梁が二人を隔てる壁となり、炎がそこへ新たな舌を伸ばす。

 

 フィノは瓦礫を越え、腕を伸ばし続けた。火傷の痛みが誓いを焼き固める。だがミリは首を振る。封印紋が再び発光し、黒百合の灰が渦を巻く。「私自身で選ぶ。あなたが選んだように」その宣告を最後に、彼女は炎の裏へ姿を消した。

 

 残されたフィノの掌に、花弁が一枚落ちた。焦げ跡の中心に薄紅が残り、まるで心臓の奥の痛みを可視化したようだ。彼は拳を握り、決意を飲み下す。救うために封じた檻が、救いを遠ざけた。罪はひとつ増え、夜はさらに深くなる。

 

     *

 

 温室の炎は塔の灯を奪い、学園全域を非常灯の赤で染めた。サイレンが幾度も重なり、空を飛ぶドローンが避難経路を示す。だが遠くから聞こえるのは別の歌だ。昨夜、街が聴いた耳鳴りのコーラス。そのテンポが速まり、まるでフィノの焦りを映すようだった。

 

 「器が動いた。残響が群れている」セルゲの通信がノイズ混じりに届く。「止められるのはおまえだけだ」その言葉は重いが、逃げ道はない。瓦礫を踏み越え、フィノは塔へと駆けた。影は二重に揺れ、まるで誰かが肩越しに未来を覗いているようだ。

 

 

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