残響は水底より   作:くにゅたろ

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Episode 02 「塔の階段、月の匂い」

 

 夜が昼に嘘をついた。塔の鐘は十九時を過ぎても沈黙し、代わりに月が無音のベルを鳴らすかのように煌めいていた。寮の門限は二十時だが、ミリは既に校舎を抜け、塔の下へ来ていた。待ち人はいる。銀糸の髪の研修官見習い、フィノ。

 

 合流の挨拶は目線だけで完結した。言葉は重い荷物、階段を上るには不要な負荷。二人は並び、螺旋階段の一段目を踏む。乾いた踵音が石を叩くたび、階段そのものが呼吸しているようにわずかに膨張する――そんな錯覚をミリは得た。

 

 螺旋。渦。旋律。似た言葉を脳内で転がしながら、彼女は壁面に掌を添える。冷たい。けれど震えるほどではない。それよりも、石の内側で微かに震動する何かが伝わってくる。ド、ド、ド。心拍とも鼓動ともつかない周期。

 

 ミリは小声で「聴こえる?」と尋ねかけたが、唇が開くより前にフィノが首を横に振った。無言だが的確な回答。彼女のペンダント――水晶球の中で赤い光点が瞬く。それは残響を可視化する装置だと先ほど説明された。光点は、今は沈黙。同意と否定が同じ動作に封じられている。

 

 高度が増すほど空気は薄く清廉になり、代わりに月の匂いが濃くなる。月には匂いなどないと理性が反旗を翻すが、感覚は従わない。鉄を削ったような金属臭と、窓ガラスを磨いたあとの無機質な甘さ。その両方が鼻腔を擽り、頭蓋の奥で化学反応を起こす。ミリは己の呼吸が知らない薬品に変換される未来を想像し、頬を上気させた。

 

 一方フィノは無表情。けれど靴音のテンポがわずかに早い。研究者としての理性が、未知を愛する好奇心の手綱を引き千切ろうとしているのだろう。螺旋は終わらない。終わらないこと自体が構造上の終点なのだと悟った頃、ようやく踊り場が現れた。

 

 そこには扉が一つ。木製。鍵穴は無い。把手も無い。あるのは中央に刻まれた波形の溝――音紋。

 

 ミリが近づくと、壁に耳を当てた時の震動が明確な旋律として立ち上がった。低く長い、海底で響く鯨歌のような音。ペンダントの光点が跳ね起き、狂ったメトロノームのように瞬きを繰り返す。

 

「——録る」とフィノが囁く。初めての言葉。ミリは頷く。

 

 フィノが胸のペンダントを指先で二度弾く。カチ、カチ。赤い光が塔の壁をスキャンし、音は視覚へ変換される。月光に混ざり、青白い線が宙を走り、やがて扉の音紋と重なった。

 

 図形は呼吸した。ミリは自分の肺を喪失したかのような息苦しさに襲われる。反射的に扉へ手を伸ばす。触れた瞬間、図形は弾け、音は雲散する。

 

 沈黙。

 

 ペンダントの光点が伏せる。フィノは眉を寄せた。「記録は途切れた。でも確かに他の残響とは位相が違うわ」

 

「あなたには聴こえなかったの?」ミリが問う。

 

「私には見えただけ。聴こえるのはあなたの専売特許でしょ」

 

 階段を吹き抜ける風が二人の間の会話を奪う。もとより多くを語る必要はない。ミリは扉を押す。手応えは石膏像の無口さ。開かない。そこへ乾いた笑い声が落ちてきた。

 

 上階の闇に、人影が一つ。手摺にもたれてこちらを見下ろす男。白衣、長身、頬に古傷。セルゲ。フィノの師であり、禁書管理官。

 

「開け方が違うんだよ、転入生。」

 

 声は穏やかだが、その背後で螺旋階段が一段、勝手に軋んだ。塔そのものが彼の声に従属している錯覚。

 

「方法を教えて」ミリが頼むより早く、男は指を立てて制した。

 

「頼むなら研究官の卵じゃなく、まず自分に頼れ。鍵は耳にあるだろう?」

 

 彼の言に合わせるように、扉の音紋が再度揺らめく。ミリの鼓膜が震え、胸骨に音が集まる。歌えば開く、そう直感した瞬間、セルゲは踵を返し闇へ溶けた。

 

 沈黙。再び。だけど今回は意味がある。ミリは自分の喉に触れた。歌を知らないわけではない。けれど歌えば世界が変わる予感がした。良い方向へとは限らない。

 

 フィノが肩を並べ、「怖い?」と問う。ミリは「怖いわけない」と即答する。嘘だが真実。螺旋階段を下りる彼女たちの背後で、扉の音紋は月光を吸い込みながら鼓動を止めた。

 

 遠くで夜鳥が囀った。鳴き声は歌とも悲鳴とも区別できず、塔の内部で反響した。聞こえたのか聞こえたと感じただけか、それすら判別できない曖昧を抱きながら、二人は足音を重ねて地上へ還る。

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