ミリは薄暗い研究棟の片隅で、救護手順書を前に腕組みをしていた。手元の紋様は複雑に絡み合い、指先でなぞっても意味を捉えきれない。淡いランプの光が、革装丁のページを凹凸だけ際立たせ、古びた匂いが胸の奥に染み込む。解析不能の壁に、彼女の眉間は深く寄せられた。
「これだけでは……わからない」
小声で呟き、ミリはノートと手順書を並べて比較した。どちらにも白百合の文様が刻まれているが、似て非なる図形の連続だった。書き込みの文字はかすれ、欠落した部分は筆致の乱れで補われている箇所もある。まるで、だれかが途中で筆を折り、別の意思を持って再開したかのようだ。
助力を求める決意とともに、彼女は研究員用の通信端末を取り出した。画面をタップすると、フィノの顔が浮かぶ。表情にはいつになく緊張が宿り、ミリの心臓がひとつ弾んだ。
「フィノ、助けて。紋様の解読が……限界みたい」
「了解。すぐに向かう」
画面越しのフィノは頷き、端末を閉じると歩みを速めた。ミリは胸の高鳴りを押さえ、再びページに視線を戻す。
──十数分後──
旧資料庫は重厚な鉄扉の向こうにあった。フィノの手で扉が開くと、埃が舞い、金属の匂いと古文書の紙の匂いが混ざった。無数の棚に並ぶ書籍と巻物の間、紋様の断片を探しながら二人は進む。
「ここに、同じ文様が……」
フィノが指差したのは、巻物の端に描かれた白百合の絵だった。しかし白いはずの花びらは墨色に染まり、中心部から黒い粒がこぼれ落ちているかのようだ。彼女は慎重に巻物を広げ、紋様の周囲を照らすランプの光が揺れる。
「ナイアルラトテップの残響……この文様は、覚醒儀式の構造図だ」
フィノの声は落ち着いているが、その瞳は燃えるように鋭い。ミリは息を呑み、指先で紋様をなぞると、胸の奥に冷たい沈黙が広がった。
「つまり、私たちは知らずに呪縛を……」
ミリの声は震え、頭の中で救済の祝福と深淵の呪縛が交錯する。希望を胸に救護したはずが、いつのまにか自身が解放の鍵と化していたことを突きつけられる。
すると巻物が突然、淡い光を放ち始めた。模様の線が浮かび上がり、壁に映し出された。それは無垢な学園の庭園だった。白い校舎と緑の芝生、子どもたちが笑い、風に揺れる白百合が踊る風景。ミリとフィノは息を合わせるように視線を交わし、目の前の幻視に圧倒された。
「こんな──平穏な日常が、私たちにもあったの?」
ミリは胸が熱くなるのを感じ、足元がフラットな床から浮き上がるような錯覚に襲われた。掌に触れる空気までもが柔らかく、鮮やかな色彩が眼前に広がる。
しかしその甘美は長く続かなかった。幻視がぼやけ、色彩が赤黒く滲み始める。庭園の噴水は血のように赤く染まり、子どもの笑い声は呻き声へ変わる。無垢の幻影が、瘴気を呼び寄せる罠であることを二人は悟った。
視界を揺さぶる赤い瘴気の中で、ミリはフィノの手を強く握り締めた。希望の残像と恐怖の輪郭が交差し、心拍が耳元で激しく跳ねる。遠く、資料庫の扉が軋む音が聞こえ、セルゲの横顔が一瞬、赤い影の中に映り込んだ。
ミリは深く息を吐き、決意を込めて呟いた。「祝福は、毒にもなるのね……」
光が消えると同時に幻視は砕け散り、資料庫にはただ、二人の荒い息遣いだけが残った。空気は冷え切り、赤い瘴気の匂いがかすかに残る。扉の向こう、次なる試練の気配が重く垂れ込めていた。