フィノは研究棟の薄暗い廊下を音もなく歩み、ミリはその足音を背後で感じながら歩調を合わせた。壁に並ぶ古びた棚には、セルゲをはじめとする先人たちの研究記録が眠っている。二人の足元に散らばる埃が、かすかな風で舞い上がり、揺れる光の粒が空間に浮遊した。
「セルゲはこの中にいるはずよ」
フィノの声は低く、しかし揺るぎない確信を帯びていた。ミリは髪飾りの白百合に視線を落とす。黒ずんだ縁がさらに濃くなり、白と黒の対比が胸に鈍い痛みを走らせる。
棚の隙間から一冊の厚いファイルを取り出すと、フィノはそれを開き、埃を払い落とした。中には手書きの文字と図表、写真が混在し、どのページにも同じ紋様――黒い花粉をまとった白百合が描かれていた。ミリは息を飲み、指先で紋様をなぞった。
「これが……『器』の実験記録なのね」
フィノは慎重にファイルを持ち、隣の部屋に視線を向けた。そちらには古い映写機とスクリーンが設置されており、フィルム缶が五つほど並んでいる。
承
二人は真っ先にフィルム缶を手に取り、埃まみれの映写機にセットした。機械がかすかな金属音を立てて回転を始めると、廊下の静寂が一変し、心臓の鼓動までが機械音に混じるようだった。スクリーンに最初のカットが浮かび上がる。
映像には、薄暗い実験室の内部が映っていた。中央のテーブルには黒い花粉を散らした皿と、モニターに映る研究者の顔があった。研究者は手袋をはめ、慎重に粒子を手に取っては顕微鏡にかざす。その瞳に赤い残響のような光が瞬き、ミリは無意識に目を背けそうになる。
「ナイアルラトテップの残響……」
フィノがささやく。ミリはフィルムを凝視したまま、群衆の賞賛の声を思い出す。あのとき彼女は「救世主」と呼ばれた。だが今、この映像を前にすると、拍手は遠い幻に思えた。
転
映像は次のシーンへ移り、試験管に注がれた青い液体がゆっくりと淡い光を放つ。だが数秒後、色は暗紅へと移り変わり、黒い花粉が弾けるように浮遊した。粒子はまるで意志を持つかのように蠢き、研究者の周囲に濃い瘴気を漂わせる。
スクリーンの奥で、ミリは背筋を伸ばした。白百合の縁がささやかな振動を帯び、その黒ずみはくっきりと浮かんでいた。フィノも驚きの面持ちでフィルムを一時停止し、画面を指差す。
「見て、この粒子――患者を媒介に深淵を呼び覚ます装置よ」
フィノの声は震えていないが、その瞳には恐怖と好奇が混ざった光が宿っている。ミリは声を震わせながら、懐から取り出したメモ帳を手に取った。指先が震え、文字がかすれて見えた。
「救護のたびに白百合が黒くなるのは、私がこの儀式の一部だったから……?」
問いは闇に消え、廊下の蛍光灯が一瞬明滅した。二人の呼吸が重なり、緊張感が空気を固める。
結
警告音が作動装置から鳴り響き、分析機器のランプが赤く点滅を始めた。書庫の自動ドアが勢いよく閉まり、二人を薄暗い部屋に閉じ込める。フィノは端末を取り出し、映像のデータをすべて取得すると、肩越しにミリを見やった。
「真実は掴んだ。これをどう使うかが、次の戦いになるわ」
ミリは白百合の黒ずみをそっと撫で、静かに息を整えた。背後の扉にまだ警告ランプが残響のように赤く光る中、彼女は小さく頷いた。
「覚悟はできている。次は深淵そのものと向き合う」
その言葉は、暗闇にこだまする鐘のように重く、そして確かな響きを放った。学園都市の未来を賭けた戦いは、今まさにその扉の向こうで幕を開けようとしていた。