振動はかすかながら、確実に二人の心臓を揺さぶった。ミリとフィノは研究棟の暗い通路を抜け、旧塔へと続く石段を登っている。塔の基部に差し掛かると、廃れた壁から木製の扉が半開きになり、錆びた蝶番がきしんで音を立てた。風も雨もないのに、古い空気が吐くように吐き出されるような感覚があり、ミリは思わず息を呑んだ。
「あの音……振動の主はここね」
フィノは微かに光る携帯端末を片手に暗証コードの痕跡を探し、もう片方の手でミリの腕をそっと支えた。ミリは黒ずんだ白百合の髪飾りに視線を落とし、胸の内で揺れる疑念を抑え込もうとした。
承
扉を押し開くと、内側の石壁に幾何学的な赤い印章が浮かび上がっていた。印章は鼓動のように脈打ち、見る者を引き込むように揺れている。フィノは端末のカメラをかざし、印章の周囲に刻まれた古語を読み上げた。
「ナイアルラトテップの遺構……セルゲが関与した可能性が高いわ」
ミリは息を詰め、赤い印章に触れそうな指先を引き戻した。鼓動する光は不気味さを増し、色彩の対比が緊張を誘う。群衆の賛美と自己の背徳が胸中を交互に打ち、ミリの呼吸は浅く速くなる。
転
そのとき、暗闇の奥から低い囁きが響いた。ミリの背後を通り過ぎる風の音と重なり、まるで意味のある言葉が漏れ聞こえるようだった。次の瞬間、彼女の前にセルゲの幻影が浮かび上がった。姿は薄く霞み、視線は冷たい笑みをたたえている。
「フィノ、お前は変わらないな」
幻影の声は馴染み深く、しかし遠い記憶のように歪んでいた。ミリは足を止め、心拍が喉元まで跳ね上がるのを感じた。フィノは咄嗟にミリの背を庇いながら、幻影に向かって言葉を返した。
「セルゲ……あなたがここにいるはずはない」
幻影は薄笑いを深め、フィノの肩越しにミリを見やった。
「お前たちはまだ分かっていない――深淵はお前たちの手で目覚めるのだと」
言い終えると同時に幻影は揺らめき、闇に飲み込まれるように消え去った。空間には虚空だけが残り、遠くから金属音が静かに響いた。
結
フィノは震える手でミリの腕を取り、静かな声で告げた。
「セルゲの囁きは警告か、誘いか。どちらにせよ私たちへの試練よ」
ミリは深く息を吸い込み、赤い印章を見据えた。黒ずんだ白百合が胸元でわずかに揺れ、その花びらの対比が胸に痛みを走らせる。
「私は……逃げない」
短い言葉に決意が込められ、ミリの瞳は揺らがなかった。扉の先には、さらなる深淵が待ち受けている。だが彼女の内側には、恐怖を超える覚悟と、セルゲへの想いが混ざり合い、力強く燃えていた。
深淵覚醒の鍵は目の前にある。二人は互いに頷き、赤い印章の脈動に呼応するように一歩を踏み出した。廃塔の闇に、救済か破滅かを見極める新たな戦いが幕を開けようとしていた。