翌朝、外縁区の霧は晴れ、代わりに紙屑のような薄雲が空の高みに浮かんでいた。フィノは研究局の簡素な端末に向かい、昨夜の調査ログを淡々と整理している。指先でタイプするたび、ペンダントの水晶が記憶した残響映像がホログラムとして浮かび、塔の音紋が静止画となって机上に並ぶ——青白い心電図の遺影。
師であるセルゲへ提出する報告書は「被験体A、聴覚共感性特異個体」と簡潔にミリを記述して終わるはずだった。しかしフィノは最後の段落で指を止め、三行分の空白を見つめた。研究対象への感情を書いてはいけない。けれど書かずに済ませるほど、昨夜の鼓動は小さくなかった。
通学鐘が鳴る。フィノは未送信のまま端末を閉じ、外套をはおった。今日から転入生は正式に授業を受ける。観察は続く。
◆
「それじゃあ転校生——ええと、ミリ・ハーモットさん、自己紹介をお願い」
午前二限目、歴史総合。教師は教壇で頁をめくる手を止め、ミリへ視線を向けた。教室中の椅子が軋み、三十余の注目が一点に収束する。ミリは笑った。愛想笑いのプロトタイプ。
「海が好きです。よろしくお願いします」
短い。波打際の引き潮より遠慮がち。だがそれで充分だった。クラスメイトたちは安心と失望の混ざった空気を一斉に吐き、次の興味へ漂流する。孤立は決定した。ミリはそれを選択肢の一つとして胸に納め、窓の外——まだ見ぬ塔の尖端——へ視線を投げた。
その瞬間、教卓のチョークが「キィン」と甲高く泣いた。誰も触れていないはずの黒板に白い線が一本、自傷のように走る。次に来たのは沈黙だ。教師も生徒も声帯の在処を忘れ、空調の鳴動さえ停止する。
音がない。いや、音が多すぎて総和が零に達したのだ。ミリはそう理解する暇もなく、耳と心臓を同時に掴まれる感覚に膝を折った。視界が水底へ沈む。
——エオリア。
誰の声でもない声が、口蓋から漏れた。名前か呪文か、意味不明の二拍子。
机が倒れる音すら聞こえず、ミリは教室の床に倒れ込んだ。
教室は凍結から解凍へ向かう。椅子が一斉に擦れ、誰かの悲鳴が縫い目のように空間を裂く。教師は遅れて駆け寄り、フィノを呼びに走る生徒も現れた。その間にもミリの耳にだけ、深い海鳴りの残響が残っていた。
◆
保健室。薄荷油の匂いと午睡の光。白衣の養護教諭は席を外し、ベッド脇にはフィノだけがいた。彼女はミリの額へ冷却シートを貼り替え、それからペンダントを耳元で鳴らす。シン、と澄んだ音が空気を研磨し、残響の残滓を探る。
「脈は安定。でも鼓膜の振幅が常人の二倍」
独り言めいた報告を、フィノは誰に向けるでもなく呟いた。ミリの睫が震える。半透明の瞼の向こうで夢を見ている。
研究心が疼く。だがその直後、胸に小さな痛みが走った。庇護欲。聞き慣れない鼓動。
ベッドの柵に手を置き、フィノは視線を落とす。「器」——昨夜の譜面の末尾に刻まれていた語が脳裏で点滅する。もし彼女が器なら、この眠りは一時的な凪にすぎない。
ミリの唇が震えた。フィノは反射的に身を乗り出す。
「……フィノ?」
微熱混じりの声が自身を呼ぶ不思議。フィノは小さく笑った。「起こしてごめん。でも質問があるの。エオリアって、何?」
ミリの瞳が僅かに揺れ、次の瞬間には焦点を失った。不可視の波が天井を走り、蛍光灯が一瞬だけ明滅する。ペンダントの光点が跳ね上がり、警報のように赤を点滅させた。
フィノはベッドの縁を握りしめる。「大丈夫、残響は微弱。すぐ鎮める」
彼女は詠唱を始めた。声にならない子音を連ね、音階にも文法にも属さない呪的な発声。空気が波紋を広げる。ミリの呼吸がゆっくり整った。
沈黙。安全。けれど疑問は残る。
フィノは思う——研究対象と友情は両立するか? 師へ提出していない三行分の空白が、紙上で脈打つ。
午後のチャイムが鳴る頃、ミリはまだ浅い眠りの底。フィノは報告書の空白に、初めて個人名ではなく祈りに近い言葉を記す。「必ず安全を保証する」と。送信ボタンは押さず、保存もしない——ただ胸の内に写し取るためだけに。
窓の外、校舎の影が真昼なのに揺らいだ。遠く塔の鐘が鳴った気がしたが、時計はまだ一三時前だった。
授業に戻るべきだと理解しつつ、フィノは椅子を引いて腰を下ろした。報告よりもこの傍らを選ぶことに、科学的な正当性はない。
だが螺旋階段が封じ込めた秘密は、もう教室にも保健室にも浸透している。逃げ場はどこにもない。
だからこそ守る——その非論理的な決意を、フィノは静かに胸に刻んだ。