残響は水底より   作:くにゅたろ

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Episode 30 「幻想の楽園」

 

階段を上り切った先に広がっていたのは、鮮やかな緑と青が混ざり合う、理想郷のような学園風景だった。透き通るような空気の中、陽光は柔らかく降り注ぎ、校庭の大樹の葉擦れが軽やかな音を立てている。ミリは思わず息を呑み、目の前の光景が本物か幻かを確かめるように視線を泳がせた。フィノも隣で小さく笑い、涙を浮かべながら手を翳して光を遮るようにしていた。

 

「信じられない……まるで何もかもが晴れ渡った世界みたい」

ミリの声は震えていたが、その言葉には安堵と幸福が混じっていた。彼女たちは無言で手を取り合い、学園の中心へと歩みを進めた。石畳の通路には見覚えのある同級生が並び、満面の笑みで手を振る。ミリは懐かしさに胸が熱くなり、忘れかけていた日常の温かさを一気に取り戻すように心が躍った。

 

教室に足を踏み入れると、白い机と椅子が整然と並び、黒板には「おかえりミリ!」とチョークで大きく書かれている。壁には色とりどりの掲示物が貼られ、窓際には鉢植えの花が咲き誇っている。授業のチャイムが鳴り響き、教師が笑顔で迎えに来る。「今日は特別な日だから、好きなことをしていいよ」と優しく声をかけられ、ミリは頬を紅潮させた。

 

廊下を抜けると、談話室では彼女の親友たちが輪になり、笑い声をあげながらカードゲームを楽しんでいた。フィノも誘われ、二人はその輪に加わる。目の前に置かれたカードを手に取ると、柔らかな紙の手触りが実在を確かめさせる。誰も深淵病のことなど思い出させない、無邪気で幸せなひとときだった。

 

昼休みの校庭では、噴水の水が太陽光を受けてキラキラと輝き、小鳥たちがそれを見つめて囀っている。ミリとフィノはベンチに腰掛け、笑いながらサンドイッチを頬張った。風に揺れる髪と制服の裾が心地よく、その感触が永遠に続いて欲しいと願うほどだった。

 

だが、徐々に世界の輪郭が揺らぎ始めた。校舎の壁から染み出すような赤い残響が噴水の縁に付き始め、水しぶきがほんのり赤く染まる。ミリは視線を落とし、噴水の底に浮かぶ赤い花粉を見つけて凍りついた。友人たちの声が遠のき、笑顔が切り取られたスチール写真のように静止していく。フィノの顔がぼやけ、言葉はこだまのように残響を繰り返していた。

 

気ままに駆け回るはずの生徒たちがゆっくり動きを失い、顔は無表情に固まる。陽光は薄れて赤黒い影を落とし、空の青がくすんでいった。遠くで鐘が鳴り、だが鐘の音は逆回転するかのように跳ね返り、異様な余韻を残す。ミリの胸の奥で、深淵の囁きがざわめき声となって蠢いた。

 

フィノは手を伸ばし、必死にミリの腕を掴んだ。「ミリ、待って!」

だが声は届かず、二人を包むのは不気味に歪む風景だけだった。廊下の先で黒い影がうねり、友人たちの笑い声は悲鳴へと変わる。石畳に散ったカードや花びらが赤い湿気を帯び、まるで深淵の誘いを示すかのように辺りを這った。

 

ミリは一歩を踏み出し、真実を確かめようとした。その瞬間、世界は断ち切られた。

 

――楽園は、不意に終わる。

 

 

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